エピローグ(第一部) 三日天下の影
鐘が一つ、間をおいて一つ、一つ、一つ。京の夏はもう真ん中に差し掛かっているのに、耳の奥に落ちてくる鐘の高さは、なぜか六分ほど冷たい。舟の二と四は、ここにはない。それでも、坂本で覚えた韻は、骨の内側で勝手に鳴る。鳴るたび、町の空気の薄皮が指で剥がれるようにめくれ、その下から「三日天下」という言葉が顔を出す。
「三日だとよ」
「三日も持ったのが不思議だ」
「いや、三日も要らなかった」
笑いは風で、風は板の下だと、誰かから伝え聞いた理の文句は、いまは嘲りに押し流されて表に出られない。笑いの風がゆく筋を、ひとりの少年が目で追う。彼は桶屋の子で、父は火事のあった夜に、井戸端で水を汲みながら「太鼓の二はな、夜にゃ打たねえほうがよい」と意味もわからず繰り返していた。少年の耳には、その「二」という音が、まだ「ふたつ」の数えの形でしか入らない。けれど、数えの形にも理は寝ている。寝ているから、起きる日がある。
京の角には、貼り紙が重なって新しい白を奪い合う。新しい主の印、新しい税の名、新しい人の顔。剥いだ紙の下に、薄墨の文が一度だけのぞくのを、紙屑拾いの老人が見つけた。老人は字が読めない。だが、文は文の匂いを持つ。「目は灯へ/手は釘へ/耳は鐘へ」——匂いは、油と灰と、人の汗が混ざっていた。老人はそれを、懐に入れて持ち帰った。家に灯はない。灯がないところで読むものは、いつだって長く残る。
「三日天下」という嘲笑に音階がつくのに、そう時間はかからなかった。魚屋の声、子らの手毬歌、祭礼の囃子の端。人は、覚えやすい韻へ歴を乗せる。乗せた歴は、軽くなる。軽くなった歴は、遠くへ飛ぶ。飛ぶ間に余白を失い、余白を失った語は、刃だ。刃は、紙より長く持つ。
それでも町のどこかには、紙の側に立つ者がいる。医の館の裏庭で、若い医師が灰汁と酒の混ぜる割合を、古い板に刻んだ小さな目盛りで測っていた。前線で灰と酒が役立つと記した手は、もうここにはない。だが、灰汁と酒は、今も痛みの匂いを薄める。薄められた痛みの上に、赤子の泣き声が落ちてくる。泣き声は、誰の天下にも属さない。泣き声の高さに札を合わせる——そう書いてあったかもしれない文を、若い医師は自分で書いて壁に貼った。『息』の欄に点を置く所作も、彼は覚えた。覚えは、伝わる。
市場の端で、布を売る女が、手のひらほどの継ぎ当てを十枚束ねている。繕った外套を配る役目は、冬の指先の中で終わった。春を待たずして、別の火が町を舐めたからだ。女の指は、あの冬の端のざらつきを今も覚えている。「継げば着られる」という言葉は、彼女の手の皮の下に沈んでいる。客は笑う。「三日で破れちまう継ぎだろ」。女は笑わない。笑いは風で、風は板の下だ。板は撓めてある。撓めれば、三日より長く持つ。
城下の寺で、書役の青年が一枚の文に目を落としている。古い墨が半ば滲み、折り目が硬い。文字の間に、小さな白が残っている。白は春の兆しではない。紙の呼吸だ。青年は紙を乾いた布で拭き、綴じ直し、背に薄い糸をあてる。糸の結び目を外側へ出す。外に出した結び目は、恥ではない。結びの緩みは、すぐに直せる。直せるものほど、歴の底で働く。
「三日天下」という言が、人の口から口へ渡る一方で、その三日の、いや、一日の間にまかれた小さな種のいくつかが、土の下で息をした。兵が略奪を禁じられたという噂は、噂のまま消えたが、町の母親は一度だけ、路地の角で見た。鉄の口を背にして歩いた若い男が、腹の鳴る音を押さえながら、子に粥を先に渡すのを。母親は名前を知らない。知らないままで良い。名は刃だ。刃は、紙より長持ちする。けれど名のない所作のほうが、後から人を動かす。
坂本。湖の面は新しい主の舟を受け入れ、鐘楼の紐の高さは、別の僧が握るようになった。了俊はそこで鐘を鳴らさない。胸の中で高さを測る癖だけが残り、新しい僧の手首の角度を見て、心の内でわずかに頷いた。鐘が一つ、間をおいて一つ、一つ——舟の二と四は、湖の面に残った皺の形でしか鳴らない。皺は、風が作る。風は板の下。板の釘穴には、金粉のようなものが薄く光っていた。誰が置いたのか、誰も知らない。
利三に似た男が、京の外れで短い息を続けているという話が、夏の間に二度ほど浮かび、秋が来る前に消えた。噂は、朝顔の蔓のように早く伸び、日が傾くといっせいにしぼむ。噂の陰で、帳面の『息』の欄に小さな点を置く癖だけが、どこかの家で続いていた。市松に似た少年が、白紙に透明な行を引く。引いた行は、誰にも見えない。見えない行ほど、のちに真実を支える。
お初は、金継ぎの茶碗を棚から降ろして、布で拭った。拭えば拭うほど、継ぎ目の金が薄い灯を返す。金は冷たい。冷たいまま、光を返す。返った光の温度が、胸の真へ届く。届いた温度は、涙の高さを少しだけ下げる。下がった涙は、こぼれない。こぼれない涙ほど、長く残る。
源九郎は釘袋の口をまた結び直し、外へ結び目を出した。外に出した結び目は、笑われるかもしれない。笑いは風だ。風は板の下。釘の一本を壁に打ち、薄い札を掛ける。「家の札」。墨は新しい。『目は灯へ/手は釘へ/耳は鐘へ』。札の角は丸い。丸い角は、子の手にやさしい。子はここにいない。いない者のために合わせる癖は、賢さでも愚かさでもない。ただの技だ。技のあるところに、明日は少しだけ長く居座る。
稲冨は、板がなくても空中に文字をなぞる癖をやめない。「撓め」。撓めるとは、折れないための工夫だ。折れぬことは、勝つことではない。続くことだ。続くことは、笑われやすい。笑いは風。風は板の下。空中の板は、紙でしか描けない。紙は破れる。破れた紙を、誰かが拾い上げ、金の線で継ぐ。それが誰かは、歴は書かない。
定吉はもう走らない。走らないで、立っている。立っている者のところへ、ニュースはやって来る。立っている姿は、旗に似る。旗に名が書かれる前に、彼は胸の前で紐を握らない。握らないでいることが、鐘の高さを保つ。「二は、夜に打たぬ」。ぼそりと呟くと、横の子が笑った。「三日天下」。笑いは風。風は板の下。板は撓めてある。撓められた板は、長く人を渡す。
権六は、槍を壁に吊った。穂先を下にして。下げた穂先の影は、夏の夕刻に伸び、秋の朝に短くなる。影の長さは、罪の長さではない。季節の長さだ。彼は顎を引いて、目の高さに札を合わせる癖をやめない。合わせた目の高さで見る世界は、誰の天下にも属さない。誰のものでもない高さに、理の札は立つ。
町の役所の隅には、誰の署名か分からぬまま残った起案書の断片が束ねられている。米価の上限ではなく、配給の上限を人ごとに設けるという案。冬借の返済不能分を春の公共工事の労役で振り替えるという案。紙は黄ばみ、角は柔らかく、虫の歯が少し食い込んだ跡がある。読んだ役人は顔をしかめ、「三日で何ができる」と笑い、次の紙をめくる。めくった指先に、薄い墨の匂いが残る。残った匂いは、昼を越えて夕へ、夕を越えて夜へ、夜を越えて朝へ移る。移る匂いに、季節の気配が少し混ざる。混ざった気配は、記録に残らない。
紅月を名乗る男たちの囁きは、夏の終わりに一度だけ町の角を濡らした。濡らしただけで、乾いた。乾いた痕を、誰も見ない。見ないところで、配給札の偽造の見本が一枚、密偵の机の引き出しの底から出てきた。微細な誤差の網の目が、光にかざすと白の中に薄く見える。不意に灯を消すと、網の目だけが残る。網の目は、魚を捕るためでなく、言を捕るために作られていたのかもしれない。捕らえられた言は、もう解けない。
寺の老僧が、筆の先でゆっくりと書きつける。「天正十年六月二日未明、本能寺炎上」。その下の行は短い。「六月十三日、山崎合戦」。さらに短い行が続く。「同月十六日、小栗栖」。筆は止まる。止まったところで、老僧は小さく息を足す。足す息の高さが、鐘の一つの高さと重なり、舟の二と四はここにはない。ない音の空白に、老僧は薄い墨で小さな点を打つ。「息」。行の端に置かれた点は、やがて誰かが読み飛ばす。しかし読み飛ばされた点のほうが、のちに読まれる。
「三日天下」と言ったのは誰か。最初に笑った口の形は、誰も覚えていない。覚えていないまま、文だけが歩く。歩く文の影に、別の足跡がある。坂本の家の棚の隅に残った茶碗——欠けを金で継いだ器。煕子の線が、灯の白にわずかに返る。器の返りは、刃の返りではない。器が返す光のほうが、長く人を温める。温められた指が、いつか別の器の欠けを継ぐ。継ぎは、技だ。技のあるところに、理は住む。
秋、北風が町の端で鳴るころ、ひとりの子が寺子屋で筆を握った。師は言う。「『家の札』と書いてみせよ」。子は、札の字を知らない。師は、ゆっくりと教える。「家は、屋根の下に人。札は、木の字の横に反る」。子は笑って、「三日で覚えられるかな」と言い、横の子が「三日天下」と囁いて、二人で笑った。師は笑わなかった。師の背後の棚には、目立たぬ文が立てかけてある。『家の札』『撓め』『灯』『沈黙』『孤』『息』。いずれも、目の高さにしか立たない札だ。目の高さは、子の背丈で変わる。変わるものだけが、残る。
冬のはじめ、北の村で、灰汁と酒の割合を記した板が、囲炉裏の上に掛けられた。祖母は孫に言う。「これは、戦の年のやり方だよ」。孫は頷く。「戦は、もう終わったんだろ」。祖母は灰をふるいにかけながら、「終わるものは、いつでもすぐに始まる」と答えた。孫は、意味がわからない。わからないことは、長く残る。残った「わからない」を、いつか誰かの理がそっとなぞる。なぞられた後で、札は立つ。
春先、坂本の湖面に小さな舟が出る。舟の鐘は、二と四を鳴らさない。鳴らさない鐘ほど、よく鳴る。岸辺の柳の下で、年老いた男が懐紙を取り出す。文字は薄く、半ば滲んでいる。「殿の理は必ず春を呼ぶ」。春は誰の季節でもない。呼べば来るというものでもない。来ぬこともある。来ぬとしても、札は立つ。札が立つかぎり、春は遅れても来る。男は、懐紙に指をあて、金継ぎの茶碗の線を思い出し、線の冷たさの上に新しい灯の白をひとつ置いた。置いた白は、紙の上で春の兆しのように淡い。
——歴は、勝者が記す。記された歴は、刃の側に立つ。刃は、紙より長く持つ。けれど、紙の側に立ち続けた者たちの所作は、別の書かれない歴の底で、息をする。息のある限り、影は消えない。影は、光といつも対で、生まれたり、薄れたり、形を変えたりする。坂本の鐘の高さで落ちる影、本能寺の炎で一度は消えた影、山崎の夕焼けに重なった影、小栗栖の竹の白に細く立った影——それらは、どれも同じ影ではない。だが、どれも理の影だ。
町の角の板に、また新しい札が上書きされる。新しい主の文、別の色の印。上から押されても、下にある薄い黒は消えない。上塗りが剥がれる季節がくれば、薄い黒は呼吸を取り戻す。呼吸の音を、誰かが耳の中で聞く——一つ、間をおいて一つ、一つ。舟の二と四は、そこにはない。ない音の空白があるかぎり、札を差し入れる余地がある。余地があるかぎり、人は目の高さで選べる。
「三日天下」という嘲笑は、やがて諺の棚に並べられ、埃をかぶる。埃の下から、紙の端が一度だけ顔を出す。誰かがそれを取り、金の線で継ぎ、棚の別の段に置く。置かれた紙を、別の子が読む。子は、読みながら首を傾げる。「どうして、札は目の高さにしか立たないんだろう」。師は答えない。答えないことが、答えの半分だ。半分の答えが、半尺の撓めになる。半尺の撓めが、器を折らずに渡す。
歴史は勝者が記す。だが、敗者が遺した「理」の影は、記録の余白に、斜めの光の筋のように射す。斜めの光は、まっすぐな刃に触れると反って、別の方向へ広がる。広がった先に、まだ名を持たない人の顔がある。名のない顔が札を読み、札に手を置き、一礼し、去る。その行き来の足音は、鐘の高さで落ちる。落ちた音の上に、また新しい札の角が置かれる。角は丸い。丸い角は、子の手にやさしい。
京の町のどこかで、夜明け前の薄い白が、障子の紙の上に乗る。「三日天下」という語は、まだどこかで小さく笑われている。その笑いの風の下で、板は撓められている。撓められた板の上を、人が渡る。渡る先に、灯が一つ、二つ、三つ——舟の二と四は、ここにはない。ない音の空白のぶんだけ、札の黒は長持ちする。長持ちする黒の列が、歴の底で静かに息をし、次の季節へ、次の子の目の高さへ、微かに射してゆく。
金継ぎの器は、今夜も棚にある。欠けを隠さず、継ぎ目を灯に返す。冷たいまま、光を返す。その線の前を、誰かが通り、手を置き、一礼し、去る。去る足音が、静かに確かに、時代の底へ沈む。沈むものほど、よく息をする。息のある限り、理は折れない。折れないように、撓む。撓み続ける技が、やがて別の名の下で、別の札となって立つ。
そして、記す手は変わっても、読む目の高さは、いつだって人の背丈に従う。従うものは、裏切らない。裏切らない影は、薄くとも、確かに射す。六月の風が止んだあとに、竹の葉裏の滴が一滴落ちる。誰も気づかないほど小さな音で、しかし確かに、地面の上で跳ねる。その跳ね返りの白さが、ほんの一秒、春の兆しに似る。似ているだけで、同じではない。けれど、その一秒を覚えている者がいるかぎり、敗者の理の影は消えない。消えずに、次の時代の紙の側で、静かに息をしている。




