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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 妙原奇天
第一部 明智光秀編

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第三十四話 山崎の敗走

 鐘が一つ、間をおいて一つ、一つ、一つ。陸の印が、六月の京の端で薄く鳴った。舟の二と四は、ここにはない。けれど骨のなかの記憶がかってに鳴らす。耳の奥に坂本の朝夕が重なってくると、今いる場所がたちまち遠くなる。遠くなることでしか、踏んばれる夜がある。


 本能寺の炎が灰に変わって、まだ指先に煤のざらつきが残っているうちに、京の町は音を取り戻した。瓦の上を猫が渡り、井戸端の桶に水が落ち、魚屋のかけ声が、昨日までと寸分違わぬ高さでひらかれた。違うのは、人の目の高さだった。目は、半尺ぶん低い。低い目は、疑いの色を帯びる。帯びた色は、言葉を腐らせる。腐った言葉が、兵の耳を内側から食いはじめていた。


 「殿」


 利三が、承知の形に組まれた顔で廊の端に現れた。背後に弥七の鳴らない鈴、稲冨は板と筆、市松は帳面の『息』、お初は火床の灰、源九郎は釘袋、若旦那は『少し』の絵の札、定吉は走り、了俊は鐘のない紐を、胸の前で握らぬ練習をしている。子はここにいない。いない者のために合わせることに、戦も季節も関わらない。


 「羽柴殿、備中より引き返し。——驚くほど早く」


 早いものは、人の息を奪う。奪われた息は、戻りづらい。戻すのは札で、札は紙だ。紙は雨で濡れ、風で破れる。それでも紙でしか、目の高さは揃えられない。


 「山崎へ」


 光秀は短く言った。地図の上に指を置く。天王山——名前の軽さの裏に、山の重さが沈んでいる。重さは、味方をする側を選ばない。そこに立つ者の足の重さに従うだけだ。


 京の西の空はまだ白く、雲の腹に湿りが溜まる前だった。西国からの急ぎ足の影が、遠くで砂煙になり、それが風の中で千成瓢箪の黄色へ変わってゆく。色は合図だ。合図は太鼓だ。太鼓の二は禁ず——坂本の夜ののりは、今は昼の喧騒にかき消される。


 「殿」


 稲冨が声箱の紙を差し入れる。「『裏切り者』『逆臣』『仇』——町の角の言葉、日に日に濃く」


 「札を増やせ」


 「『家の札』『沈黙』『たわめ』『孤』の四。子の目の高さに」


 「結び目は外に」


 「承知」


 札は立つ。だが、風の向きが変わるのは、札のせいではない。風の下に板を渡してきた。この十日、その板がどれほど撓み、どれほど音を立てずに釘を受けたか。釘の音を立てぬ者ほど、後から責められる。


 六月十三日の朝。山崎へ向かう道すがら、田は麦の刈口の色がいたるところにあらわで、川の浅瀬は陽に白く光った。川の名を兵たちは多く知らぬ。名を知らぬと、渡る足の高さが乱れる。乱れを押さえるのが、太鼓だ。太鼓は二を禁じ、三と一で呼吸を揃える。揃えることでしか、理は列を保てない。


 「殿」


 権六が顎を引いた。「天王山の尾根、羽柴の旗。側面に長秀、奥に黒田、蜂須賀。大手に池田。——数、劣りまする」


 数はいつだって理に勝ちやすい。勝ちやすいものが好きな時代は、札を笑う。笑いは風だ。風は板の下。板が折れたら、風のせいではない。釘を打った手のせいでもない。ただ、重さが過ぎたのだ。


 「構えを『弓/槍/鉄』で」


 光秀は、坂本で毎朝の順のように言った。「弓は右の丘、槍は水際、鉄は左の林。——太鼓の二は禁ず。ときは短く。声より所作」


 利三がうなずき、兵が散ってゆく。散るときの足音に、決意の重さは宿らない。宿るのは、ためらいの薄い膜だ。薄膜は破れやすく、破れても音にならない。音にならない破れほど、集団を一息に冷やす。


 先に、羽柴の太鼓が鳴った。二。迷いのない二。二は昼のためにある。人を走らせる韻は、昼の光で増幅される。坂本で夜に禁じた二の韻が、今、昼の山肌にまじろぎもなく刻まれてゆく。


 「はやい」


 弓手ゆんでにいた権六が、短く吐いた。「押し出し、はやい」


 はやいものに、遅いものは巻き取られる。巻き取られぬために、板を撓める。撓める札を、どこに掲げたか——目の高さか、手の高さか、耳の高さか。見失うと、足は水にすべる。


 敵の先陣が、川を蹴散らすように浅瀬を渡り、湿りを含んだ甲冑が陽を濁らせた。こちらの弓の線が二度、三度、薄く走り、鉄の口が息を吐いた。吐くごとに煙が細く立ち上がり、すぐに夏の空へほどける。ほどける煙の速さに、胸の中の火の輪郭がずれる。ずれた輪郭は、刃の曇りだ。


 「殿!」


 稲冨が駆けてきた。「物見より。小寺、赤井、朽木——旗、反る」


 「反る」


 利三が復唱し、唇の内側で噛み殺すようにして黙った。反る旗は、風のせいではない。風はいつでも同じだ。人が手を離したのだ。離れる手を責めるより、結び目の位置を悔やむべきなのだと知りながら、今は悔やむ暇がない。


 右手の丘で、羽柴の旗がひとつ跳ね、太鼓が二で押し込んできた。こちらの槍が水に根を張るように踏ん張ったが、根は浅く、土の中の石にひっかかって斜めに折れた。折れる音は、木の破裂に似て、体の内側のどこかに小さな穴を残す。穴が増えると、息が抜ける。


 「殿」


 権六が低くいった。「羽柴の合図旗、瓢箪。列のうえ、笑う」


 笑う旗ほど、兵を歩かせる。笑いは風、風は板の下。上で笑っているあいだに、下で釘が抜ける。抜けた釘を、音もなく拾い続けてきた指が、いまはしびれてうまく曲がらない。


 鉄の口が続けざまに火を吐き、弓の弦が湿りで音を狂わせ、槍の林が薄く開いてしまう。その開いた狭間へ、赤い陣羽織の影が二つ、三つ、音もなく鋭く差し込んだ。差し込んだ影が戻ると、そこに列の欠けが残る。欠けの縁に、札をはりたい。だが、紙は剥がれる。


 「坂本の『家の札』を——」


 口にしかけて、光秀は自分の舌の裏を噛んだ。戦場の風は札を笑う。笑いの風が札をちぎる。けれど札がなければ、列は列でなくなる。


 「家の札、ここでも掲げよ」


 利三が「承知」と答える前に、太鼓が敵陣で二度続けざまに鳴り、長秀が前へ、蜂須賀が側面へ、黒田は少し引いて全体を見渡し——その引きの位置が、まるで碁の達人の打ち筋のように美しかった。美しい配置ほど、残酷だ。美しさは、理の側の味方をしない。


 昼前、天王山の影が濃くなったころ、こちらの左の林で短い悲鳴が三つ続けて上がった。聞き覚えのある喉の高さ。源九郎の釘袋の音が遠くで一度だけ鳴り、それきり止んだ。釘を打つ者の音が止むと、板は撓まず折れる。


 「殿!」


 市松が、濁った目で駆け寄る。「帳面……手から落ちました」


 「落とすな」


 言葉が鋭く出た。言葉の刃が、自分に向かって戻ってくるのがわかる。帳面は札の親だ。親を落とすと、札は孤児になる。孤児は、風に弱い。


 「拾え。書け。『息』に点を、今ここで打て」


 市松がしゃくりあげるのを抑え、膝をついて筆を取った。筆は湿りを含み、紙は汗を吸う。汗の塩で墨は薄れ、薄い字は長持ちする。長持ちする字ほど、あとで読む者の肩を軽くする。


 右手の丘が破れた。破れ口から走り込んできた羽柴の小勢に、こちらの若い兵の一群が乱れて後ろを見た。その目の高さは、坂本で子の目に合わせた札の高さではない。まだ名を持たない恐怖の高さだ。名を与える前に、列のうしろで何かが崩れた音がした。


 「寝返り」


 利三の声は淡々としていた。「細川の客将、二。……もう一」


 忠興。婿の名が、唇の裏で一瞬、赤く光り、すぐ灰になって消えた。消えたものは、残る。残った灰の温度が、胸の真をわずかに狂わせる。狂った真は、火を燃やしすぎる。


 「殿」


 お初が、戦の末端にいるはずのない細い声で、どこからか届いた。「水」


 水を誰に。敵か味方か。そんな別け方の前に、いまは喉の高さだけで配らねばならない。喉の高さは、札の高さと同じだ。目の高さで見て、手の高さで渡す。


 昼の半ば、空に雲が一枚だけ流れ、陽の角度が変わった。変わった光の中で、羽柴の旗の瓢箪が一段と黄色く見え、太鼓が二を重ねて列を波のように押し出した。波は美しい。美しい波ほど、人の足をさらう。さらわれぬようにと権六が槍の列を斜めに入れたが、足元の土が縦に裂け、そこへ水が集まって泥になった。泥は、槍の腹を吸う。吸われた槍は、背で折れる。


 「殿!」


 稲冨が、いつもの声の高さでなく、少し裏返った声で言った。「『撓め』の札、敵の槍に裂かれ……」


 「裂けた札を、結び直せ」


 「結び目は外に」


 「外に」


 外に出した結び目は、恥ではない。誇りだ。誇りは、風に弱い。弱いものは、長く残る。残るものは、のちに働く。のちに働くものを、今は信じるしかない。


 午後、山の影が地へ落ちる角度が鋭くなったころ、こちらの中央がついにへこみ、凹みに向けて羽柴の列が犬牙のように噛み込んできた。光秀は馬を進め、佩刀の柄に指をかける。柄の下で骨がひとつ鳴る。鳴りは節の音。節は止まり、そして伸びる。伸びた先が、もう地でないこともある。空か、穴か。


 「鬨!」


 短く叫ぶ。叫ぶより、両手を上げ下げする所作で示す。所作のほうが、言より早く広がる。広がった所作の背中に、羽柴の鉄の息が重なり、こちらの弓の線が二度、三度、空へ逃げた。空へ逃げた矢ほど、あとで人に語られる。語られるほど、心は冷える。


 「殿!」


 権六が大きく首を振った。「退かねば、包まれまする」


 退くと、兵は解ける。解けぬよう、札が要る。札は紙だ。紙は風に破れる。破れる札を掲げるのは、笑われる。笑いは風、風は板の下——何度この文を胸で繰り返しただろう。繰り返す文の自動機械と、現の土の湿りがずれてゆく。


 「……退く」


 光秀は言った。言葉は短く、乾いていた。乾いた言は、刃に似る。刃は抜けば収めねばならない。収める場所は、坂本の『灯』の囲いの中にしかない。そこへは、もう戻れぬかもしれない。


 退きはじめる列の背へ、羽柴の追い太鼓が二で打ち込まれる。二は、退く者を速くし、同時に崩す。崩れる前に速く。速くするほど、崩れは見えなくなる。見えぬ崩れは、たいてい大きい。


 川べりに達したところで、左の林から人影が風の色のように流れ、こちらの後ろを切ろうとした。黒田の配し方。美しい。美しい者ほど、敵に回すと恐ろしい。恐ろしさに、兵の喉が一斉に鳴り、馬の鼻が泡を吹いた。泡の白が、午後の光で冷たく輝く。


 「殿……」


 利三が、初めて迷いの色で光秀を見た。迷いは責められない。責めるのは、名を持つときだ。今は名がない。名を与えるのは、後だ。後があるなら。


 「山の裾を南へ。天王山を斜めに見て、道を外れろ。——太鼓の二は禁ず。鐘は鳴らさぬ。鈴は内で鳴らす」


 「承知」


 利三が走り、権六が槍の残りを斜めに立て、稲冨が板を抱え、市松が帳面を胸に押しつけ、お初が水を、源九郎が釘袋を打ち鳴らし、若旦那が『少し』の札を抱え、定吉が走り、了俊は胸の前で紐を握らず、ただ手を合わせた。——祈りではない。握らない練習の延長だ。


 夕刻。山の影が長く伸び、川面かわもが赤を抱く。赤は炎の赤ではない。夕焼けの赤だ。安土の幻の天守が、いちどだけ目の裏で揺れ、すぐに消えた。消えるものは、残る。残った揺れが、馬の背で増幅された。


 「殿!」


 背で誰かが叫んだ。「総崩れ——!」


 言葉は現実を速くする。速くしすぎる。速さに、理は追いつけない。追いつけない理は、札に逃げる。逃げ場は、紙だ。紙は水に弱い。六月の水は、たやすく紙を破る。


 列は崩れた。崩れは音を立てない。音を立てるのは、倒れた槍と、人が落とした鉄の小片と、馬の鉄の蹄だけだ。音にならない崩れのなかで、光秀は馬の首を引き、坂へ取って返す。坂は、坂の名のとおり、足の裏に斜めの事実を教える。


 「殿!」


 利三が、血の気の引いた顔で寄る。「この先で、道は二つに割れます。右は広く、左は狭い。——右に羽柴の旗、奥に黒田の影」


 「左」


 「は」


 狭い道は、札の道だ。札は目の高さ、手の高さ、耳の高さ。狭いほど、人は高さを揃える。揃った高さは、崩れにくい。崩れぬまま、速くなれる。


 狭い道に入ると、草の匂いが馬の腹を撫で、枝が肩を叩いた。枝の叩き方は、坂本の竹とは違う。竹は節の音で叩き、ここは葉の裏で叩く。裏の白が目にちらつき、裏返った札の白を思い出させた。裏返る札ほど、読むのに時間がかかる。時間は、今、ない。


 背で、太鼓の二が重ねられ、羽柴の犬牙がこちらの尻を噛む気配がした。噛まれる前に、光秀はふり返った。夕焼けに煙が重なり、世界の端がゆっくり崩れ落ちてゆくのが見えた。安土の幻のようだ、と思った。幻は舞台を必要とし、舞台は人を必要とし、人は名前を必要とする。——名は刃だ。刃は、今、鞘の内にある。それでも、切る。


 「殿」


 利三が、声を落として言った。「——理は」


 問うてはならないことを、彼は問わない。問わないことで、いちばん深い問いを出す。理は、札にしかいない。札は紙だ。紙は破れる。破れを継ぐのは、金の線だ。金は冷たい。冷たいまま、光を返す。返った光の温度が、胸の真へ届く。


 「……理は、息にある」


 光秀は言った。自分の声が、自分の声でないように聞こえた。「息が続くところに、札を立てる。札のあるところに、理は立つ。理を示す国は——」


 言い切らぬうちに、風が頬を打った。火の粉ではない。砂だ。砂の小さな粒が皮膚をかすめ、痛みの代わりに冷たさを残した。冷たさが、火の輪郭を思い出させる。輪郭があれば、燃やしすぎない。——もう遅い。


 坂を下り、藪を抜け、細い橋を渡る。渡す板は撓めてある。撓めの角度が、今まででいちばん大きい。大きく撓めば、板はしなって折れにくい。折れにくくとも、渡る者が多すぎると折れる。折れる音は、木の破裂に似て、胸の中の穴を広げる。


 「殿!」


 市松が、泥に足を取られて転び、帳面を落とした。落とした帳面をお初が拾い、稲冨が抱え、字の上に手を置いて泥をふいた。ふく手の白さに、金継ぎの茶碗の線が重なった。線は途切れている。途切れているから、継げる。継げるところに、人の手の役目がある。


 日が、山の端に触れた。赤は炎の赤でも、朝の赤でもない。終いの赤だ。終いの赤は、ものを美しく見せる。美しいものほど、別れの痛みを増す。増えた痛みは、札の角で受ける。角は丸い。丸い角ほど、痛みを逃がす。


 背で、鬨の声が一度だけ高く上がった。追う声だ。追う声は、背の皮膚を薄くする。薄くなった皮膚の内側で、骨が鳴る。鳴りは節の音。節は止まり、そして伸びる。伸びる先は、闇だ。


 「殿、こちら!」


 権六が、藪の切れ目から細い道を指した。その先に、低い橋。橋の下を水が音なく渡っている。音のない水ほど、長く旅をする。長く旅をするものに、札を持たせたい。『家の札』『息』『沈黙』『撓め』『孤』——五つの薄い黒が、夕闇の中でかろうじて読める高さで揺れた幻を、光秀は見た。


 「行く」


 声は短く、乾いていた。乾いた声の背で、誰かがすすり泣くのが聞こえた。泣く音は、闇で大きくなる。大きくなった音を、胸の灰で少し埋める。灰は深い。


 橋を渡り終えたところで、光秀は一度だけふり返った。夕焼けに煙が重なり、山崎のあたり一帯が、まるで安土の幻の天守のように崩れ落ちてゆく。崩れは音を立てない。音の代わりに、鳥が、遅れて一羽だけ鳴いた。遅いものほど、長く残る。長く残る音が、胸の中の鐘の高さを決める。一つ、間をおいて、一つ、一つ。舟の二と四は、ここにはない。ない音の空白に、理の札を差し込む。差し込む指が、震えた。


 ——理を示す国は、火の粉のように消えるのか。


 問いが、胸の内側で丸くなり、硬くなり、重くなった。重さは、持てる。持って、今はただ運ぶ。答えは、紙でしか書けない。紙は水で破れる。六月の水は、たやすく紙を破る。それでも紙でしか、明日の目の高さは揃えられない。


 「坂を越え、野を抜け、闇へ」


 利三の声が、いつもの承知の形で並ぶ。権六が顎を引き、弥七が鳴らない鈴を掌に包み、稲冨が板と筆を抱え、市松が帳面の『息』に小さな点を足し、お初が水を配り、源九郎が釘袋を軽く叩き、若旦那が『少し』の札を胸に当て、定吉が走り、了俊が胸の前で紐を握らない。——握らないことが、鐘の高さを保つ。


 光秀は、佩刀の柄に指を置いた。骨が鳴らない。鳴らない骨ほど、よく覚える。覚えたものが、明日の札の位置を決める。半尺上げるか、半尺下げるか。子はここにいない。いない者のために合わせることが、いまの理だ。


 背で、羽柴の太鼓が遠く二で鳴り、追いの声が薄く重なった。薄い音の重なりは、闇の中で厚くなる。厚くなる前に、藪の影が光秀たちを包んだ。包む影の縁に、金継ぎの線がほんの一瞬だけ見えた気がした。継いだ線は冷たく、冷たさは火の輪郭を教える。輪郭があれば、燃やしすぎない。——もう、遅いとしても。


 闇の中で、光秀は懐の文を確かめなかった。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。春の字は、六月の闇では読めない。読めない字ほど、長く残る。残る字の上に、いつか薄い涙の跡が増える。涙は、墨を滲ませる。滲んだ形は、札の角よりもやわらかい。やわらかいものだけが、夜を越す。


 足音は、もう一列でもはや列ではなかった。列でなくなった音のなかで、なお、誰かが『家の札』の文を低く唱えた。「目は灯へ/手は釘へ/耳は鐘へ」。唱える声は一人で、すぐに途切れた。途切れた声の高さが、闇の中で鐘に変わって一度だけ鳴り、すぐに止んだ。止んだ音ほど、長く残る。


 山の裏の空気は冷たく、草の匂いは濃い。濃い匂いは、うつつを教える。夢ではない。夢であれば、火の粉は頬で冷たく、砂は目に入らず、太鼓は二でなく三——そんなことを考えながら、光秀はただ前へ進んだ。理は、背で崩れてゆく世界の音に負けないほど強くはない。強くないから、札に逃げる。札は、紙だ。紙は破れる。破れを継ぐのは、金の線だ。線は冷たい。冷たいまま、光を返す。返る光を頼りに、闇へ。


 その夜、鐘は鳴らなかった。鳴らない鐘ほど、よく鳴る。胸の中で、一つ、一つ、一つ——舟の二と四は、ここにはない。ない音の空白を、半尺ずつ撓めながら、山崎の敗走は、ただ静かに、確かに、夜の底へ沈んでいった。

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