第三十三話 炎の本能寺
鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。京都の夜はまだ音の薄皮をまとっていた。鐘の音はどこか遠い寺から遅れて届いたはずなのに、耳には坂本の印と同じ高さで落ちる。舟の鐘は、ここにはない。ないはずの二と四を、骨のなかの記憶が勝手に鳴らす。記憶の鐘は、誰のものでもない。誰のものでもない音ほど、今夜は重い。
東からの列は、息を一つに折りたたみ、足音の高さだけで京の地を揺らした。太鼓の二は禁じられ、三と一の間に挟まれた沈黙が、集団の心拍を律する。油の匂い、湿った土の匂い、眠りきらぬ町の甘い粥の匂い——それらが混ざり合って、まだ名を持たない朝の匂いを作っている。
「殿」
利三が、馬腹を寄せて低く言った。「山門まで、あと三町」
「息は」
「整っております」
「よい」
光秀の馬は汗に濡れ、鞍の革が暗い火のように光る。鼻息は白くはならないが、夜気を切り裂く音が、鞍橋に小さく伝わってくる。佩刀の柄にそっと指を置く。骨がひとつ鳴る。鳴りは節の音。節は止まり、そして伸びる。伸びる先を、今夜は名で呼ばない。
町は眠りの底にある。格子戸の奥に灯がひとつ、ふたつ。狐火のように細く、低く、揺れている。足音に気づいて戸口へ出た女の影が、すぐに引っ込む。眼だけが、闇の圧力に耐えようとするようにこちらを見た。見た目の高さに、家中の札の文が勝手に浮かぶ——『家の札/目は灯へ/手は釘へ/耳は鐘へ』。今夜は掲げない。札は、ここでは声に変わる。声は、切られるべきものだ。
曲がり角に、小さな祠。塗りが剥げ、鈴は鳴らない。鳴らない鈴ほど、骨の奥でよく鳴る。弥七が、掌の内で自分の鈴を確かめただけで振らない。振らないことが、おのずと合図になるほど、列はよく撓められていた。
やがて甍が闇の上に浮き上がった。瓦の角の黒さが、一段と濃い。木々の梢が風のない空気に沈み、山門の影が地に溶ける。そこが、本能寺。墨のような闇に、寺の輪郭だけが硬い。
「殿」
権六が顎を引いた。「位置、取れます」
「弓、左へ。鉄、右へ。槍は中」
利三の声が鳴らない太鼓のかわりに走り、若い兵の喉が乾いている気配が馬の背を通じて伝わる。乾いた喉のざらつきは、迷いの音ではない。決まった後の怖れだ。怖れは、札の角を丸くする。丸い角ほど、手に取られやすい。
「焔打つは、後だ」
光秀は短く言った。火を先にするな。まず声だ。声が切れた後に、火を。
敷石に馬の蹄が一度だけ高く鳴った。それが合図だったかのように、寺の内から鳥の気配がばさばさと立ち、そして止む。止むと同時に、権六が息を吸い、胸の奥で太鼓の皮を張った気配がする。打たない太鼓ほど、よく張られている。
「臆するな」
誰かが、列の後ろで低く言った。誰だか分からない。言は、刃ではない。ただ、息を繋ぐための短い縄のように、二、三の背を結んだ。
最初の火蓋は、夜の皮膚を破った。鉄の口から吐かれた火は細く速く、空気のなかに残る煙の線だけが、後に現実であったと示す。次の火が間を置かず走り、三度目には、もはや夜は夜のままではなくなる。光が、闇の形を変える。形を変えられたものほど、後から語りに残る。
「押す」
権六の声は乾いていない。湿りを含んだ声のほうが、よく刺さる。槍の列が、すり足で前へ。鉄の息が、ひとつ、ふたつ、間をつめて吐かれるたび、寺の木が薄く鳴く。木が鳴るのは、生きているからだ。生きている音は、刃より長く残る。
山門の影が揺れ、内より短い叫び。叫びの背後で、刀の鞘が石にあたる「からん」という乾いた音。眠りの最も深い場所に、重い石を落としたような気配。——その人は、刀を抜いた。
「殿」
利三が目で問う。押すのか、囲むのか、燃やすのか。選びの札は、今夜は地図の上でなく、風の上に浮かんでいる。風は掴めない。掴めないものへ印を打つには、音が要る。
「鬨」
声は鋼でなく、布で出した。布は裂けない限り強い。利三の声が、槍の先の金具で一瞬だけ冷たくなり、権六の喉で太くなり、列に渡る。渡った声が、寺の中で反響し、天井の絵の金の箔と紙障子の紙繊維をわずかに震わせる。——それでも、鳥の声よりは早かった。
鬨の尾を追うように、火が走る。初めは薄く、屋根の端を舐めるだけ。次に、檜皮の重なりの間へ指を差し込むように細く入り、やがて息を吸い込むように一度だけ弱まり、そして、吹き上がる。火はよく学ぶ。人よりも早く。
「焔、右手から」
「承知」
鉄の列の後ろで、油の壺を担いだ兵が足を止めずに、手の高さをいつもより低く保ちながら動く。低い手は、弱さではない。目の高さに貼る札の裏側を支える高さだ。
本堂の縁で、白い影が一度だけ翻った。陽のない夜なのに、影が光を持っているように見えた。薄い衣ではない。白は、布の白ではなく、眼の内側の白。あの眼を知っている。短い言葉で人を動かす眼。笑わぬ笑いの眼。
刀が、灯のように一閃した。距離があるのに、刃の冷たさが頬の皮膚の上をかすかに走った錯覚があった。錯覚ほど、骨に残るものはない。
「信長公」
喉の奥で名前が零れかけ、光秀は唇を噛んだ。名は刃だ。今夜、刃に名を与えたくはない。名は、後から歴の上で貼られるもの。貼る役目は、今はわたしではない。
寺の内から、短い命の命令がいくつか飛び、同時に、短い命の絶たれる音がいくつか返ってきた。音は、どちらも同じ高さで落ちる。高さが同じものは、後から混ざる。混ざったものに、名を与えるのは、いつも他人だ。
光が強くなった。炎の赤は、未来の赤ではない。破滅の兆しのように揺らめく赤だ。煙は墨のように広がり、京の夜をゆっくり書き換える。墨は水で滲む。涙で、もっと滲む。——涙は、まだ落とさない。
「殿!」
稲冨が、息を切らしながら駆け寄る。「寺の北の塀、抜け道。人影、二、三」
「追うな」
光秀は即座に言った。「囲いを狭め、火の回りを見よ。町へ出すな。——町を焼くな」
「は」
坂本の札——『殿の兵は略奪せぬ』——は、京でも変わらない。変えてしまえば、今夜の刃はただの刃になる。札で裏打ちされた刃でなければ、理の側に立てぬ。
火が梁を伝い、欄間の彩色をいっきに飲み込んだ。朱が黒へ、青が灰へ、金が煤へ。燃えるものは、色を持っているほどよく燃える。色のないもの——例えば沈黙——は燃えない。燃えないものは、残る。
弥七が掌の内で鈴を一度だけ強く握った。鳴らない鈴の音が、光秀の骨の内で、坂本の鐘の「一——一——一」と同じ間で鳴った。舟の二と四は、ここにはない。ない音が、空白を作る。空白があるから、火の音が太る。
「殿」
利三が目で、寺内の一点を示す。そこから、肉の焼ける匂いが一度だけ強くなり、すぐに煙へ紛れた。嗅いだ匂いを心から追い出す術はない。ないので、札で囲う。『沈黙』の札。『撓め』の札。目の高さへ、『家の札』。
「押さえろ」
短く言う。短い言は、刃よりも早い。槍の列が、火の舌の影を跨いで進む。鉄の口が、ひとつふたつ、短く噛む。噛んだ音に、町の犬が遠くで一度だけ吠えた。
寺の奥から、鋼の擦れる乾いた音がした。刀の背が柱にあたり、次の瞬間、木の破裂する小さな豆のような音。破裂の直後に、人の息がひとつ切れ、残った息がすぐに火に吸い込まれた気配。気配は、目では見えない。見えないものほど、長く残る。
「光秀!」
名を呼ぶ声が、火の裂け目から一度だけ突き抜けた。誰の声にも似て、誰の声でもない。歴が、今、名前を欲しがっている。名は刃だ。刃は、名を得ると重くなる。重くなったものは、落ちる。
拳が、見えないところで震えた。震えは、撓みの前触れであれ、と何度も言い聞かせてきたのに、今夜はひどく切っ先に近い震えだ。震えの熱が指先から腕へ、肩へ、胸へ移る。胸の奥の灰の底の真が、一瞬だけ強く呼吸をした。
——これは理か。それとも、裏切りか。
喉に絡んだ字は、火の色を持たない。持たないから、炎の中で沈む。沈むから、長く残る。残ったものは、朝の鐘の高さを決める。朝は、まだ来ない。
「殿! ここは、天下を!」
兵のひとりが、火の光を背にして叫ぶ。彼の顔は若く、目はまっすぐで、熱に濡れている。彼だけではない。誰かが続け、さらに誰かが続き、小さな波が列の中で立ち上がる。『天下を取られよ』——声は軽くない。軽くないから、刃だ。刃は、誰かの肩を押し下げも、持ち上げもする。
「天下は、札でしか支えられぬ」
光秀は低く言った。聞こえたのは、利三と権六、お初、稲冨くらいかもしれない。聞こえなかった者の胸で、言は違う形に変わる。変わった言が、やがて誰かの口から出る。その時には、別の刃になっているだろう。
火が、屋根を舐め切った。瓦が滑り落ち、梁が崩れ、柱が一度だけ立ち止まり、そして折れた。折れた音が、空へ向かって放たれ、雲の薄皮を破ったかと思えば、そのまま落ちてきて、人の骨に触れた。
「……」
声が、途絶えた。誰の声か、みな知っているのに、誰も言わない。言わないから、音は長く残る。残ったものの上に、後から名が貼られるだろう。歴の名。名は刃だ。刃は、今朝、沈黙で研がれた。
拳が、握られた。光秀は自分の手の甲に乗る汗の重さを、はっきり感じた。重さが、今の現を教える。夢ではない。夢であれば、火は温度を持たない。温度がある。火の粉が頬をかすめ、小さな痛みのあとに、わずかな冷たさが残った。冷たさは、火の輪郭を教える。輪郭があれば、燃やしすぎない。——もう遅い、と誰かが胸の内で言う。
寺の背後から、風が一度だけ吹いた。風は炎の舌を右へ曲げ、火の筋の一つが天に走り、夜の上に赤い銀のような帯を一瞬だけ作った。帯はすぐ消え、煤の黒がそれを飲み込み、煙が墨のように広がる。墨は、書くためのものだ。書かれてしまうと、消えにくい。
「殿」
利三が、いつもの承知の形で目を伏せた。「……終わりました」
「まだだ」
光秀が答える声は、乾いていない。湿りを含んでいた。湿りのある言は、刃でない。札に近い。札は、声で読まれ、手で触れられ、目の高さに掲げられる。掲げる場所は、これから探す。
「略奪、固く禁ず。負傷者、敵味方を問わず、医へ。火はこれ以上、町へ出すな。『家の札』を杭に括り、路の曲がり角ごとに立てよ。『目は灯へ/手は釘へ/耳は鐘へ』。——結び目は外に」
利三が頷き、稲冨が走り、市松が帳面の『息』の欄に今夜の印を置く。お初は湯を足し、弥七が鈴を掌で包み、権六が顎を引き、源九郎が釘袋を打ち鳴らし、若旦那が『少し』の札に薄明りを与え、定吉が走る。了俊は、鐘のない空に向かって、胸の前で紐を握らずに立った。——握らない練習の末に、ひとは鐘の高さを骨で覚える。
火はまだゼエゼエと呼吸をしている。呼吸の合間に、寺の内側の何かが崩れる音が一度、二度。夜は濃く、しかしもう夜ではない。東のほうの空が、わずかに薄い肌色のような匂いを帯びた。夜が終わる前の匂いは、いつだって乳の匂いに似ている。生まれるものの匂いか、それとも何かが終わった後の匂いか——どちらとも取れる匂いだ。
列の後ろで、また小さな波が立とうとした——『天下を』という言の波。利三が、言う前に目だけでそれを押さえた。押さえる形は、札に似ている。札は、波を止めるのではなく、波の高さを量る。量った高さで、撓めの角度を決める。角度が決まれば、板が渡る。板は、誰も見ない下で、誰かを運ぶ。
光秀は、懐から文を取り出すのではなく、指だけで折り目の場所を撫でた。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。今夜の火は、春の色ではない。春の赤は、芽の内側にある肉の色で、夜の赤は、皮膚の外側で裂ける血の色だ。——どちらも赤だ。赤に罪はない。罪は、置きどころにある。
「殿」
お初が、そっと湯の椀を差し出した。碗は金継ぎ。煕子の線が、炎の赤を受けながら、灯の白にだけ薄く返る。返りは刃ではない。器の返りだ。指で継ぎ目をなぞる。冷たい。冷たさが、胸の真へ届く。届いた冷たさが、さっきの火の粉の熱と重なって、体のなかに薄い紫を作る。紫は、朝の端の色だ。
「殿」
権六が顎を引き、短く言う。「京の町、目覚めます」
そうだ。町は目覚める。目覚めた町の目の高さに、何を見せるか。札か、刃か。見せるものを間違えれば、今夜の火は、明日の風を全て敵に回す。風は、板の下で支えねばならない。
「札を」
光秀は言った。「目より半尺下げよ。子の目の高さに。——今日は、子はここにいない。それでも、子の高さに」
利三が承知の形で去り、稲冨が新しい板を抱えて戻り、市松が字の線を薄く長く引き、若旦那が結び目を外に出し、源九郎が杭を打ち、定吉が走る。お初は湯を足し、弥七は鈴を、やはり鳴らさない。了俊は胸の前で紐を握らない。鐘は鳴らない。鳴らない鐘ほど、よく鳴る。
夜の最後の皮が、空からゆっくり剥がれ始めた。遠くの屋根瓦が、炎の朱とは別の、灰色の光を受け取る。灰のなかで、鳥がやっと鳴いた。鳥の声は、鬨の声より遅く、鉄の口の火より遅く、火の粉よりも遅い。遅いものは、長く残る。
「殿……」
利三が、珍しく言葉を選ばずに言った。「今、この刹那、理の国の扉が——」
「扉は札だ」
光秀は遮った。声は静かだった。「札の蝶番でしか、扉は持たない。刃で開ければ、閉じられぬ」
利三は深く頷き、目を伏せた。頷きの角度は浅く、長く残る角度だった。
兵の誰かが、空を見上げて小さく息を呑んだ。東の端に、薄い赤が落ちている。炎の赤ではない。朝の赤でもなく、ただの空の赤。赤に罪はない。罪は、置きどころにある。——置きどころを、これから決める。
光秀は、馬の頸を撫でた。汗の塩のざらつきが、手のひらに移る。移ったざらつきが、現を教える。夢ではない。夢であってほしいと願うことも、いまは違いの札でしかない。
「略奪を禁ず。火は境内に止めよ。逃げた者、追うな。——町へ『家の札』、『息』、『沈黙』を」
命は、短い刃のように冴える。冴えるほど、人の目は低くなる。低くなった目の高さに、札を置く。置かれた札の黒は薄い。薄い黒ほど、長持ちする。長持ちする黒の列が、炎の赤の下で、静かに立ち上がっていく。
煙は西へ流れ、屋根の上の瓦が二枚、遅れて落ちた。落ちる音に、町のどこかで子が泣く。子は、ここにはいないはずだった。いないはずの子の泣き声が、風に運ばれて届く。届いた声の高さを、胸の中の鐘が受け取る。一つ——間をおいて——一つ、一つ。舟の二と四は、ここにはない。ない音の空白が、今日という日の真ん中に穴を開ける。その穴へ、板を渡す。渡せるだけ渡す。渡す板は、撓める。撓んだ板の上を、兵も町も、歴の名も渡る。
——主君を討った刹那、理の国の扉が開くはずだった。
胸の奥で、言が一度だけ形を持ったが、すぐに灰に沈んだ。沈めたのは、火のせいではない。自分だ。沈黙の刃は、今朝、まだ鞘に入っている。入ったまま、切っている。切るのは、声だ。声を切った後に残るものが、理の札だ。
風が頬を打った。火の粉が一つ、遅れて顔に触れ、今度ははっきりと熱の輪を残した。輪が消える前に、光秀は佩刀の柄から指を離した。骨は鳴らない。鳴らない骨ほど、よく覚える。覚えたことが、明日の鐘の高さを決める。鐘は、誰のものでもない。
隊列が、ゆっくりと形を変えた。押し、囲み、引き、また押し、火を見守る者と、水を引く者、札を立てる者、息の行を増やす者——それぞれが、自分の位置で短い言を置き、長い沈黙で支える。支え合う沈黙は、共謀に似る。似ているだけだ。違いを分けるのは、結び目を外に出すかどうか。今朝、結び目は外に出ている。誰でもほどけ、誰でも結べる。ほどけるのを恥としない。
空は色を増やし、鳥の声が重なり、遠くの寺の鐘が改めて鳴った——一つ、間をおいて、一つ、一つ。舟の二と四は、ここにはない。ないまま、背中で確かに鳴る。鳴る音の上で、光秀は馬を少しだけ進めた。炎の赤は、未来の赤ではない。破滅の兆しのように揺らめく赤でも、それでも、札の黒の列は立てることができる。立てた札の前を、誰かが通り、手を置き、一礼し、去る。その行き来の音が、今朝の返事だ。返事は、声ではない。足音と、鳴らない鈴と、胸の中で鳴る鐘の高さ。——それだけを頼りに、理の側へ、半尺ずつ。




