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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 妙原奇天
第一部 明智光秀編

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第三十二話 決断前夜

  ⸺


 鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。陸の印が、亀山の城下にわずかな揺れを落とした。続けて、舟の鐘が二つ、そして四つ——と、ここには舟はないのに、耳の覚えが勝手に湖のおもてを呼び寄せる。坂本の朝夕を骨に刻んでしまった身体は、土地を離れても、印の順だけは忘れない。忘れないものは、心を支える。支えは、時に刃に変わる。


 亀山城の本丸奥、政の間からさらに奥へ入った小座敷に、薄い灯がひとつ。灯は、油を惜しんで心持ち低くされ、その低さがかえって周囲の闇を濃くした。濃い闇の上に、地図が広げられている。京へ伸びる街道、山科の野、東西の寺社の名、橋の位置、川の浅瀬。薄墨の線はひどく静かで、静かすぎて、見ていると耳鳴りがする。


 床几しょうぎに腰を掛けた光秀は、その地図の上に、骨の鳴らない手を置いていた。指先で紙の繊維を確かめる。繊維の向きが道の流れと合う場所では、指が滑る。合わぬ場所では、指が止まる。止まるところが、今夜の淵だ。


 「殿」


 利三が襖の外で声を置く。承知の形に組まれた顔が、薄灯の縁を切って現れた。その背に、弥七の鳴らない鈴がついてくる。稲冨は板と筆を抱え、市松は帳面の『息』の欄にあらかじめ点を打つ角度を計っている。お初は火床の灰を撫で、源九郎は釘袋の口を結び直し、若旦那は『少し』の絵の札を冷えの少ない柱へ移し、定吉は走る。了俊は——鐘のない城で、それでも紐の高さを子の目の高さに合わせる練習を、指先だけで繰り返していた。子はここにいない。いない者のために合わせることに、場所は関わらない。


 「山科の口、見張りゆるく。——京の寺に殿、今夜も本能寺」


 利三の言は短く、乾いている。乾きは、火に近い。近い火は、手の皮を厚くする。厚くした皮で、冷たさに触れる準備をする。


 光秀は、地図の上の一点に指を置いた。寺の名が墨で小さく、しかし確かな筆致で記されている。そこに人が眠っている。その人の言は、刃のように短く、寒さよりも鋭く、自らの影を愛していた。影は長いほど笑いを呼び、笑いは風となって功を運ぶ。——その風の上に、板を渡してきた。渡した板の釘は、鳴らなかった。鳴らない釘ほど、長く持つ。


 「殿」


 稲冨が声箱の紙を差し入れた。「城下の角、『坂本の札、亀山に』と走り書きが三。紅月の囁きは薄く、『本能寺』の名が、口の端に」


 名は刃だ。刃は、持てば誰かを傷つける。誰かが——自分か、他人か。指先が、紙の繊維の流れに逆らって止まった。止まることでしか、見えてこない線がある。


 「『たわめ』を上げよ」


 光秀は言った。利三が軽く頷く。「半尺——否、一尺上げろ。目より高く」


 「承知」


 「『沈黙』は柱の影へ。『家の札』は柱の目。『孤』はその下。『灯』の囲いをひとつ増やせ」


 「承知」


 利三が下がり、お初が音のない足取りで現れ、湯を置いた。碗は、いつもの金継ぎ。煕子の線が薄灯にひっそり返る。返りは刃ではない。器の返りだ。指で、継ぎ目をなぞる。冷たい金が、皮膚から胸へ温度を移す。移った冷たさは、火の輪郭をくっきりさせる。輪郭があれば、燃やしすぎない。——燃やしすぎない火は、長く持つ。


 「殿」


 お初が、細い声で。「今夜は肌寒うございます」


 「火を浅く」


 「はい」


 浅い火は、じっと見ないとすぐに消える。消えそうなものを見続けることは、決断の稽古になる。消すか、守るか。守るなら、灰を増やす。灰は深いほど火を柔らげる。柔らげた火は、言葉を短くする。短い言葉は、刃の友だ。


 城の上段では、兵の動きが昼より半拍遅くなり、廊を行き交う影がひとつひとつ、灯の前で止まる。止まって、札を見上げ、短い息を吐く。吐く息は、音にはならない。音のない呼吸ほど、遠くへ届く。


 「殿」


 権六が踏み鳴らしもせず現れた。顎を引き、低く言う。「太鼓、夜は打たぬ。明け方の合図、二でなく三一にて——」


 「二は禁ず」


 「承知」


 太鼓の二。坂本で夜に禁じた韻の形が、いまも骨の裏で固く光る。人を起こすリズムと、人を眠らせるリズム。どちらも力だ。力は刃と同じで、置きどころで善にも悪にもなる。置きどころ——それを測るのが、今夜だ。


 光秀は、床几から立ち上がった。足の裏が板の目を確かめる。目の流れは地図の道の流れと違い、木は山のように時間を抱える。時間の抱え方は、地図に描けない。描けないものが、いちばん大事なときがある。


 「利三」


 「は」


 「家中をひとつに折りたたむ。——言葉でなく、所作で」


 「承知」


 利三が指示を散らす。稲冨は板と筆を小座敷の出入り口に据え、市松は帳面の『息』の欄に今夜分の点の位置を決め、お初は湯の椀をもうひとつ増やして火の脇へ、弥七は鳴らない鈴を掌で確かめ、源九郎は槍の柄巻を外へ結び直し、若旦那は『少し』の絵の札の白に薄墨で、絵ではなく「道」という細字をひとつ書いた。定吉は走る。了俊は、鐘のない紐を握らず、ただ手を胸の高さに置く練習を重ねる。——握らぬ練習が、世の中でいちばん難しい。


 外から、湿った風が一度だけ障子を撫でていった。遠い雷が、雲の裏で鈍く鳴る。梅雨の腹の中は、胎の音に似ている。生まれるものの音か、堕ちるものの音か。——どちらも、まだ名がない。


 「殿」


 利三が、音を落として言う。「兵の列、明けのときには揃います。坂本からの者、京からの者、丹波からの者、皆、足音を揃えました」


 「足音を、声の代わりにする」


 「は」


 「『家の札』を兵の列でも掲げろ。『目は灯へ/手は釘へ/耳は鐘へ』。——結び目は外に」


 「承知」


 兵の列に札が立つ。札は紙だ。紙は雨で濡れ、風で破れる。破れやすいものほど、よく置けば長く持つ。長持ちするものは、功に換わらない。換わらないものばかりを置いてきた。置くことに飽いてはいない。飽きたのは、笑いの風に乗る功の速さだ。速さは、希望の単位であるはずなのに、今は刃の速度だ。


 夜半、光秀は懐に指を入れた。薄い紙の冷たさが、皮膚の温度を奪う。取り出した文の折り目が、灯の下で金の線のように見えた。煕子の字。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。何度指でなぞっても、字の高さは変わらない。変わらないのは、紙だけだ。読む人の肩は、読むたびに変わる。変わる肩で、同じ文を読んでいる。


 「……春は、今ではない」


 呟きが、灯の縁でほどけた。ほどけた声は、戻ってこない。戻らない声の代わりに、涙がひと粒、文の上に落ちた。落ちた水が、墨の縁をわずかに滲ませる。滲むのは、字の形ではない。記憶の輪郭だ。輪郭が揺れると、火の輪郭が増す。増した輪郭で、燃やしすぎない。燃やさなすぎない。——撓める。


 襖の向こうで、お初の足音が一度止まり、すぐに離れていった。気配は、慰めを持っていない。慰めがないことが、慰めになる夜がある。今がそれだ。


 利三が戻ってきた。言葉は短く、数えるための形をしている。


 「山科の口、見張り変わらず。堺筋、静か。——本能寺、周囲、夜見の火、まばら」


 「兵は」


 「息、整う」


 「息を乱させるな」


 「承知」


 「太鼓の二は禁ず。——合図は三一。二を打つな」


 「は」


 言の列が、札の列のように積み重なる。積まれたものの間に、沈黙が入る。沈黙は、共謀の合図に似ている。似ているが、今夜は違う。違うとわかるのは、皆が同じ高さで同じ場所を見ているからだ。見ているものが、刃であることを、誰も言わないだけだ。


 光秀は、文を折りたたみ、懐に戻した。折り目の固さが、胸の骨の固さに重なる。骨に残った言葉——臆病者。役に立たぬ。最後の役目。——短い言が、刃の背のように並んでいる。背がある刃は、手のひらで測れる。測る手が震える。震えは、折れる前触れではない。撓みの前触れだ。撓むことでしか、折れぬ刃を持てない。


 「殿」


 稲冨が、声箱の紙を二枚差し入れた。「『坂本の札、亀山に』『紅月、今夜は沈黙』」


 「笑わせよ」


 「はい」


 「笑いは風。風は板の下だ」


 「承知」


 外では、権六が太鼓の皮を張り直している。張って、打たない。打たないために張る。矛盾の形に、意味がある。打たない太鼓ほど、よく張られている。いつでも打てるものほど、打たないでいられる。——心も同じだ。


 夜の底。亀山の空は、湿りを含んでいるのに、星のいくつかが薄く透けた。星の位置は変わらない。見る者の目の高さが変わるだけだ。半尺上げたり、半尺下げたり。札の位置のように。


 「殿」


 利三が、薄い声で。「もう一問」


 「申せ」


 「——裏切り、という字は、札にできますか」


 灯がひとつ、息をした。火は浅いが、灰は深い。深い灰が、言葉の熱を眠らせる。


 「できぬ」


 光秀は、ゆっくり首を振った。「裏切りは札にせぬ。札は、目の高さに置くものだ。裏切りは、目の高さを壊す」


 「では」


 「理の札を置く。息の札を置く。家の札を置く。——その上で、板を渡す。渡した板の行き先が、どこか」


 利三は頷いた。頷きの角度は浅い。浅い頷きほど、長く残る。彼はそれ以上問わず、ただ火床の灰をひとすくい増やした。灰が深くなった。真が、息をする。


 やがて、薄い東の気配が、障子の紙を冷たくした。まだ色を持たない光が、部屋の角をひとつ増やし、地図の墨線の一部をわずかに浮かせる。浮いた線の上で、指が止まる。止まった先に、京の寺。その周りの家。その周りの道。——道は、いつでも複数ある。複数の道のうち、今、自分が札を持って歩ける道は一本しかない。その一本に、名を貼らない。ただ、行く。


 「整列」


 低い声が、石の間を滑る。利三が繰り返し、権六が顎を引き、弥七が鈴を内で鳴らし、お初が湯を配り、稲冨が板の角を押さえ、市松が帳面の『息』の行に朝の点を置き、源九郎が釘袋を打ち鳴らし、若旦那が『少し』の札に朝の白を加え、定吉が走り、了俊が胸の前で握らぬ紐の高さをもう一度確かめる。——鐘は鳴らない。鳴らない鐘ほど、よく鳴る。


 兵の列が、城門の外まで一息に伸びる。誰も声を上げぬ。沈黙は、昨夜よりも強い。強い沈黙は、陰謀に似て、理にも似る。似ているだけだ。違いは、足の向き。——向きは、太鼓が決める。


 権六が太鼓の前に立った。皮は張られている。二は打たぬ。三、一。間合いを測るの動きが、夏の空気を少しだけ震わせる。震えの先で、城の石垣に鳥が二羽だけ飛び立った。飛ぶ影の下で、兵の足が地をつかむ。


 「太鼓——三、一」


 初打ちが、城の腹を低く鳴らした。乾いていない音。湿りを含んだ音。湿りのある音ほど、人の胸に長く残る。二打目の前に置かれた間に、集団の息がひとつに折りたたまれ、三打目でほどけ、最後の一で前へと押し出される。押し出された足音が、石の目をつぶさず、ただ地面の皺に沿って進む。進む音は、れきの音だ。歴は、過去の列。列の前に立つのは、名ではない。板だ。


 光秀は、佩刀の柄に指を置いた。骨が小さく鳴る。鳴りは節の音。節は止まり、そして伸びる。伸びるために、止まる。止まりを経て、今、伸びる。伸びる先に何があるかの名は、口にしない。口にしないことが、礼だ。


 馬に跨がると、鞍橋くらぼねがひやりとした。冷たさは、火の輪郭を教える。輪郭があれば、燃やしすぎない。燃やしすぎない火は、刃を曇らせない。曇らぬ刃は、声を切る。——今朝切るべき声は、ひとつだけだ。ためらいの声。ためらいは昨夜のうちに灰に埋めた。灰は深い。


 列の先頭に、白い札が見える。『家の札』。『目は灯へ/手は釘へ/耳は鐘へ』。結び目は外に出ている。誰でもほどけ、誰でも結べる。ほどけることを恥としない札が、今朝の列の支えだ。『撓め』の札は目より高く、『孤』は少し低く、『沈黙』は柱の影の位置に紙の影を持ち、『灯』の囲いは見えないが、皆の胸の内にある。見えないものほど、強い。鐘の音も、今は、胸の内だ。


 光秀は、振り返って、一瞬だけ城の高みを見た。誰のものでもない石と木と瓦。そのどれもが、今朝の太鼓の三と一を腹の中で反芻しているように見えた。見えた、だけだ。見えたものを信じる。信じることと、裏切ることが、同じ形をしている朝がある。——その朝に、名を貼らない。それが、最後の礼だ。


 「行く」


 利三が「は」と答え、権六が顎を引き、弥七が鳴らない鈴を掌に包み、稲冨が板と筆を持ち、市松が帳面を抱え、お初が腹帯の結びを確かめ、源九郎が釘袋を叩き、若旦那が『少し』の札を掲げ、定吉が走り、了俊が胸の前で紐を握らない。——握らないことで、鳴らさぬ鐘は、耳に届く。


 列が動いた。最初の一歩。二の韻を避けた太鼓の間に、踏み出す足が地を覚える。石の目、土の皺、草の匂い。匂いは、言葉より先に頭に入る。入った匂いの上に、のちに歴の名が乗る。名は刃だ。刃は、今朝、声を切るためにある。声を切ったあとに残るものが、理だ。理の札を、目の高さに置いたまま、列は亀山を出る。


 ——この機を逃せば、理は二度と立たぬ。


 胸の奥で、夜の途中で紙に置いた言が、別の言へ姿を変える。——立たせるのは、札ではない。足だ。足音の列を、太鼓の三と一がそっと押す。押された列の中に、沈黙の刃が隠されていることを、誰も口にしない。口にしないまま、風が頬を打ち、目の高さが半尺だけ上がる。上がった目の先に、京の空が薄く広がる。


 坂本の耳の覚えが、遠い。舟の鐘が二つ、そして四つ。陸の鐘が一つ、一つ、一つ。ここでは鳴らない。鳴らない鐘の音だけが、背中で重なる。重なった音の高さで、光秀は自分の火の輪郭をもう一度確かめた。輪郭がある。あるものは、折れない。折れないように、撓む。撓みの角度を、今朝はこれまででいちばん大きく——一尺、いや、二尺——取る。大きく撓めば、板はしなり、折れずに人を渡す。渡した先に、名のある場所がある。名を、口にしない。口にしないまま、列は京へ向かって、静かに、確かに、踏み出した。


 太鼓の音が、遅れて城の石に返る。返りは、刃ではない。器の返りだ。煕子の金の線と同じ。欠けを隠さず示す線。示すことで、器が使われ続ける。——使われ続ける理であれ。名に折れぬ理であれ。呼吸の続く理であれ。そう胸の内で言い、光秀は馬の腹を軽く蹴った。夏の風が、頬を打つ。風の匂いは——血の匂いではない。まだ、ない。ないうちに、札を前へ。前へ、前へ。札の黒は薄い。薄い黒ほど、長持ちする。長持ちする黒の列が、今朝、歴の上に細く延びてゆく。延びてゆく音は、誰のものでもない鐘と、誰のものでもない太鼓と、人の骨の中で鳴る鳴らない鈴が、静かに重ねた韻である。

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