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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 妙原奇天
第一部 明智光秀編

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第三十一話 沈黙の刃

  ⸺


 鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。陸の印が、坂本の朝を立ち上がらせた。続けて、舟の鐘が二つ、そして四つ。六月の湿りはまだ抜けず、湖のおもてに薄い靄が残っている。屋根の瓦は夜の汗をおさえ、庇に溜まった水滴が、子がいない縁側に一筋ずつ落ちた。落ちるたび、板の木口こぐちが吸い、音を外へ出さない。


 「殿」


 利三が、承知の形に組まれた顔で廊の端に現れた。背後で弥七が鳴らない鈴をの内に包み、稲冨は板と筆を抱えている。市松は帳面の『息』の行に細い点を置く角度を測り、お初は火床の灰を薄く撫で、源九郎は釘袋の口を固く結んだ。若旦那は『少し』の絵の札を陰へ移し、定吉は走る。了俊は寺の鐘の紐の高さを、今日も子の目の高さに合わせて確かめた。子はここにいない。いない者のために合わせることに、季節は干渉しない。


 「安土の宿陣より急使。『京へ上る。坂本、兵を率いよ』」


 利三の声は淡々としていたが、その淡さの奥に、刃の背の硬さがあった。急使の足音は、すでに門の外に遠ざかっている。残ったのは、短い言葉の重さだけ。


 「支度」


 短く言って、佩刀の柄に指をかけた。柄の下で、骨がひとつ鳴る。鳴りは節の音。節は止まり、そして伸びる。伸びるために止まる。止まる場所を選ぶのが、今は難しい。


 「殿」


 急使が広間を通される前に、遠慮なく膝を進めた。衣のひだが夏の湿りで少し重い。「御上意。『お主に最後の役目を与える』と」


 最後の。言は乾いていた。乾いた言葉ほど、骨へよく入る。骨の裏に薄いいばらが這い、そこへ水を吸わせないように胸を固める。唇が、ほんのわずかに乾いた。


 「坂本光秀、仰せ、しかと承りました」


 声は静かに出た。静かに出すために、内側の火床から、いくばくかの熱を灰へ移した。灰は深い。深い灰の底で、しんが呼吸している。


 急使は一礼して去る。足音は速いが、軽くはない。軽さを失った足音を聞き分けられるのは、坂本の朝の順が、耳のどこかに印を持っているからだ。


 政の間に入ると、三枚の大札——『兵糧』『避暑』『治療』——の下へ黒い線がいくつか増えている。稲冨が指でなぞる。「薄粥、鍋三。芋の欠片、二。灰と酒、五。布切手、十。——『波借なみがし』、浦に三。『家の札』、半尺下げました。『たわめ』は柱の目より半尺上。『孤』はその下。『灯』は囲いをひとつ増やし、『沈黙』は柱の影へ」


 「よい」


 利三が小さく頷いた。「兵の編成、今日は『弓/槍/鉄』の割合を一つずつ詰めます。道は逢坂の関を越え、大津より京へ。途中の太鼓は打たせず、舟の鐘は二と四、陸は一と三。夜は——」


 「打たぬ」


 弥七が鈴を内で鳴らす仕草だけをして、目だけを上げた。鳴らない音が、胸の内で鳴る。鳴る音のほうが、長く残る。


 出立の支度は、坂本の順に従い、無駄な音を立てない。槍の柄巻つかまきを源九郎が外へ結び直し、外へ出した結び目を兵たちに見せる。ほどけても、結べる。結べるなら、怖れは少し減る。お初が湯を持ってくる。碗は金継ぎ。煕子の線は、灯に薄く返る。返りは刃ではない。器の返りだ。


 「殿」


 稲冨が声箱の紙を差し入れる。「城下の角。紅月の囁きは薄く、『坂本が京へ』の噂に替わりつつあります」


 「噂は風。風は板の下。——板を撓める」


 利三が目だけで承知を示す。『撓め』の札を半尺上げることを、彼は言わない。言わないことで、札は先に動く。


 「行く」


 佩刀を帯び直し、懐に文を納めた。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。紙の冷たさは六月でも変わらない。変わらないものの確かさだけを、胸に置いて、門をくぐる。


 門前に整列した兵たちの顔に、薄く影が差していた。行軍の影ではない。言葉にならない影だ。影があることを、誰も口にしない。口にしない沈黙は、ときにはかりごとの合図に似る。似ているだけで、違う。違いを見誤らぬために、わたしは半歩だけ兵の前に出て、視線の高さを自分の目の高さより半尺下げた。低い目は、弱さではない。合わせるための高さだ。


 「太鼓の二、禁ず」


 権六が見張りのやぐらから顎を引いて応える。弥七は鈴を内で鳴らす。鳴らない。だが鳴る。鳴らぬ音が、槍の列の背骨のところを静かに通っていく。通り過ぎるとき、誰かの喉が鳴った気配がした。鳴らない音へ、鳴る喉。——それは、共に息を合わせた証でもあり、別の息を隠す証にもなり得る。


 逢坂を越え、大津へ。道の両側に梅雨の草が伸び、道は細くなったり広くなったりした。広がる時は軽く、狭まる時は固い。重さの勾配が、馬の腹でわかる。京へ向かう道は、人の言葉を速くする。速くなった言葉は刃に似る。刃は抜けば収めねばならぬ。——抜かずに済む言葉が欲しい。


 途中の宿陣で、信長が待っていた。空は薄く晴れ、日差しの角度がじわりと上がる。輿の影は短く、陰の縁が硬い。近づくと、彼は視線だけをこちらへ寄越し、唇の端をかすかに動かした。


 「来たか」


 「は」


 「兵を率い、先に行け」


 「は」


 「——お主に、最後の役目を与える」


 それだけだった。言葉は短いほど、余白が冷たい。余白の冷たさが先に骨へ入り、あとから意味が追いかけてくる。追いつかれたときには、もう返すべき言は胸の灰の中に沈んでいる。


 頭を下げる。額の皮膚に、夏の光の白さが乗る。乗った白さが、薄い痛みになって残った。


 退き際、羽柴が扇を軽く鳴らした。「坂本殿。——最後という言は、いつでも最初に似ておりますな」


 「最初は、板が要る」


 「板は、笑いの下に」


 「笑いは風」


 「承知」


 羽柴は笑い、笑いの奥の目は測り石の色をしていた。一瞬だけ、その目が、何かの形を確かめるようにわたしの肩のあたりで止まった。止まった視線は、刃ではない。重さだ。重さは、長く残る。


 行軍は続く。京の手前で一度、馬を止めた。道路の脇に竹林があり、風が葉をかすかに返していた。返る音は、冬の節の鳴りとは違う。稀薄きはくで、乾いている。夏の音だ。耳に、坂本の鐘が勝手に重なった。一つ、一つ、一つ。舟の鐘が二つ、そして四つ。遠い音を重ねて、近い風の匂いを嗅ぐ。匂いのない風は、危うい。


 胸の奥が、静かに縮んだ。縮むのは、折れる前か、刃を収める前か。境は薄い。薄いものほど、よく切れる。切れるのは言か、息か。息を切らせてはいけない。息を繋ぐもののために、札を思い出す。『家の札』『撓め』『灯』『沈黙』『孤』。——札の黒は、どの季節でも同じ黒だ。


 「殿」


 利三が馬腹を寄せた。声を低く落とす。「この先、京の入り口、山科の辺りで宿陣を張るのが順当にございましょう」


「順で行く」


「は」



 利三は、それ以上を言わなかった。言わぬ者を、近くに置く。近くに置くことで、言わぬことが働く。兵たちの列は、太鼓を打たず、鈴を内で鳴らし、鐘は鳴らさずに、ただ足音だけを揃えて進んでいく。揃えられた足音は、夜には眠りを近くし、昼には思考を静かにする。


 京の外れに入ると、町の匂いが風に混ざった。油の匂い、焼けた瓦の匂い、湿った土の匂い。匂いは、言葉より先に頭に入る。入ったものは、出しにくい。出しにくさが、胸の内側に薄く膜を作る。


 宿陣。旗の影が動かないように、権六が顎を引く。市松が帳面の『息』に小さな点を加え、お初が湯を配り、稲冨が板の角を押さえ、若旦那が『少し』の絵の札を目より低く掲げ、源九郎が釘袋を打ち鳴らし、定吉が走る。了俊は寺の鐘の紐の高さを、今夜も子の目の高さに合わせた。子はここにいない。いない者のために合わせることに、戦の距離は関係がない。


 日が落ちかける頃、赤い矢羽が一本、闇の端をかすめた。柱の影に突き刺さる。矢柄に細い紙。『臆病者の札は、京で剥がれる』。文の墨は紅月の配合の匂い。利三が鼻で嗅ぎ、「矢の飛びは近い」と言った。内から撃つ者の手。内からの手は、外の刃より冷たい。


 「札は剥がれぬ」


 低く言う。言葉は短いほど、骨に残る。残したいものを、短くする。長くしたいものは、札にする。


 夜。山科の風は乾き、夜見の火が点々と並ぶ。火は浅く、灰は深い。太鼓は打たぬ。舟の鐘は遠い。陸の鐘は、頭の中でだけ鳴っている。一つ、間をおいて、一つ、一つ。一度止まり、二と四。——耳の覚えが、足の順に変わる。順は、言のかわりだ。


 囲炉裏の火がない宿の一隅で、光秀は自分の火を小さく作った。実際の火ではない。骨の中で鳴る音の高さを、胸の中の灰の底へ降ろす所作だ。降ろした音が、真の周りで輪を描く。輪郭ができれば、燃えすぎない。燃えすぎない火は、長持ちする。


 兵たちに命を伝えるとき、誰も声を上げなかった。声を上げないことが、最も多くを語っていた。沈黙は、共に頷く形にも、共に背を向ける形にも似る。似ているだけだ。似ているものほど、よく誤解される。誤解を恐れて、言を重ねるのは、今ではない。今は、音を少なくする。少なさが、刃になる。


 「これが理か」


 馬の鼻面を撫でながら、夜空に声を投げた。星は薄い。薄い星は、風で動く。動かない星よりも、現実に近い。現実は、動くから、刃だ。


 「それとも、裏切りか」


 言葉が、舌の裏で凍った。凍ったものは、名を持たない。名を持たないうちは、刃ではない。刃でないうちに、札を立てる。『撓め』を高く、『孤』を低く、『家の札』を目の高さに、『沈黙』を柱の影へ、『灯』を囲う。——それだけで、夜が少し短くなる。


 利三が近づき、低く言う。「殿。……坂本へもたらした札の順と同じく、この地にも札を」


 「立てよ」


 「文言は」


 「『目は灯へ/手は釘へ/耳は鐘へ』。結び目は外に」


 「承知」


 利三が去り、弥七が鈴を内で鳴らす仕草だけして頷き、お初が静かに布を掛け直していく。源九郎が釘袋を軽く叩き、若旦那が絵の札の白を確かめ、稲冨が薄い紙に『波借』の端文を写し、市松が『息』の欄に点を打つ。定吉が走り、了俊は鐘の紐を握って鳴らさない練習をする。——鳴らさない練習が、いちばん難しい。


 深更。竹の影が、灯の外で薄く揺れた。揺れる影の縁を、風が舐める。舐める風に匂いはない。匂いのない風は、刃を連れてくる。刃は、音を立てない。音を立てない刃のかわりに、胸の中で音を作る。ぱちり。小さい音。小さい音ほど、長く残る。残る音が、朝の鐘の高さを決める。


 懐の文に指をやった。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。六月の夜に春の字をなぞるのは、すこし滑稽だ。滑稽は救いだ。自分の肩の力を抜くための隙になる。その隙に、刃が入り込むこともある。入り込ませぬよう、札の角を撫でる。


 ——沈黙の刃。


 言葉にすると、重くなった。重くなったものは、手で持てる。持ったまま、胸の灰の上に置く。置かれた刃は、今は研がない。研がない刃でも、切れる時がある。切るものは、声だ。今夜は、声を切る。言わないことが、共謀の合図に似ることを知りながら、言わない。似ているものほど、扱いが難しい。難しさの角度を、今は半尺だけ撓める。


 「殿」


 利三が再び現れ、息を潜めて言う。「京の寺に宿られた殿の所在、いまは少人数と。……明け方、動きがあるやもしれませぬ」


 「鐘は」


 「一と三。舟は二と四」


 「太鼓は」


「打たせませぬ」



 短い応答が、札の列のように並ぶ。並んだ列の間を、沈黙が埋める。埋まったところが、今夜の道だ。


 光秀は、鞍橋くらぼねに肘を置き、夜の風に頬を打たせた。風は冷たくない。夏の風は、頬に塩を残さない。残さない風は、記憶を薄くする。薄くなった記憶のかわりに、骨に残った言葉が繰り返し鳴る。


 ——最後の役目。


 ——臆病者。


 ——役に立たぬ。


 短い言葉の列は、刃の列でもある。刃の列の間に、札の列を挟む。札は紙で、紙は水で破れる。破れやすいものほど、うまく置けば長持ちする。置く高さ。目。手。耳。——印の高さを間違えない。


 空は浅い。東に気配はまだない。兵の列は静かで、誰も声を上げない。声を上げぬ集団ほど、強いときがある。強い沈黙は、陰謀に似て、理にも似る。似ているだけで、同じではない。どちらへ似せてゆくかを決めるのは、指先の角度でしかない。角度を、火の上で測る。測り終えたら、釘を打つ。釘は鳴らない。


 夜がわずかに後退しはじめる。色が増える前の灰色の時間。馬の耳が動き、鼻が小さく鳴る。人の息がゆっくりそろい、空気が薄く温度を帯びる。温度は刃よりも先に、決断の輪郭を出す。


 ——これが理か。それとも、裏切りか。


 問いは、形を変えない。変えないまま、胸の奥で冷たく立つ。冷たいものは、理の側にある。裏切りの側にも、冷たさはある。両方の冷たさを、同じ指で触れ分けることはできない。できないなら、札を置く。置いた札の前を、今、ひとりまたひとりが通り、手を置き、一礼し、去っていく。その行き来の音が、わたしの返事だ。


 朝の端。遠い寺から、鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ。舟の鐘が、まだ靄の中で、二つ、そして四つ。耳の覚えが、足の順に変わる。順は、刃ではない。刃の上に渡す板だ。板の下で、風は笑う。笑いは、風。風は、板の下。——板は撓める。撓めた板の上を、人が渡る。渡る先に、名のある場所がある。名を口にしない。口にしないことが、今朝の礼だ。


 佩刀の柄に指を置き、鞍に身を起こした。骨が小さく鳴る。鳴りは節の音。節は止まり、そして伸びる。伸びるために、止まる。止まっているあいだに、刃は沈黙で研がれる。研がれた刃は、言葉を切る。言葉の切れ端が、朝の薄い風に散る。散った言葉の、どれかが、いつか札の端に小さく貼り付く。貼り付いたものが、誰かの目の高さで読まれる。読む目の数だけ、理は呼吸を持つ。呼吸がある限り——たとえ今朝、刃が沈黙のまま立っていようとも——理は折れぬ。折れぬように、撓む。撓みの角度を、今、半尺だけ増やす。


 「行く」


 利三が「は」と応え、稲冨が板と筆を抱え、弥七が鈴を内で鳴らし、権六が顎を引き、市松が帳面を抱え直した。お初は腹帯の結びを確かめ、源九郎は釘袋を打ち鳴らし、若旦那は『少し』の絵を朝の白へ掲げ、定吉が走る。了俊は鐘の紐を握り、子の目の高さをまた確かめる。子はここにいない。いない者のために合わせることが、今の理だ。


 馬を進める。宿陣の外れで、竹の葉が一度だけ裏を見せた。裏は白い。白いものは、刃の色に似ている。似ているだけで、同じではない。——似ているものたちの間を、沈黙で渡る。渡りきるまで、声を切り、息を繋ぐ。繋いだ息の数だけ、札の黒は長持ちする。長持ちする黒の列が、今朝、京へ向かって静かに伸びていく。


 誰のものでもない鐘の音が、背中で小さく重なっていた。

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