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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 妙原奇天
第一部 明智光秀編

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第三十話 孤独の淵

 鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。陸の印が、坂本の午後の端を折る。続けて、舟の鐘が二つ、そして四つ。湖のおもてに小さな風が走り、短いしわが斜めに並んだ。六月の湿りはまだ重く、屋根瓦の間で熱が溜まっている。門前の石に影が落ち、影の縁は午と酉の間の鋭い角度を保っていた。


 安土から戻る道、馬の蹄は土を軽く叩き、耳の奥ではまだ広間の短い刃が鳴っている。臆病者。役に立たぬ。言葉は短いほど、骨に残る。骨に残った言葉は、動きの順を変える。変わった順が、戻りの坂道をいつもより長くした。


 坂本の門をくぐると、まず弥七が鳴らない鈴をに包み、深く頭を下げた。鳴らないのに、骨の中では確かに鳴る。「殿」と一言だけ置いて、彼は肩を引いた。続いて利三が、承知の形に組まれた顔で現れた。問いを置かない沈黙が、今の礼であることを彼は知っている。


 中庭を横切る間、目に入る人の動きが、いつもの半拍遅れているのが分かった。遅れは、疲れではない。ためらいだ。ためらいは、恐れの薄い膜を重ねて、人の手先を鈍くする。お初が縁側で手拭を絞る手つきが、いつもより力が要っていた。源九郎は釘袋の口を結ぶ結び目をひとつやり直し、若旦那は『少し』の絵の札を掛ける位置を決めあぐねている。稲冨は声箱の紙を抱え、市松は帳面のけいをにらんだまま筆の先が止まりがちだ。定吉は、走る足のひびきをひとつ落とした。


 「殿」


 利三が、廊の端で足を止める。「城下から、噂が上がっています。『安土の広間で、坂本殿は臆病者と』。……それから、『四国は笑う海、押せば折れる山』という声を、紅月の黒衣が拾わせている様子」


 「拾わせよ」


 短く答えた声が、自分の喉で少し擦れた。擦れは、火の縁のざらつきだ。火床の灰が深いほど、ざらつきは薄れる。深さを増やすために、今夜は灰を一枚増やすだろう。


 政の間に入ると、三枚の大札——『兵糧』『避暑』『治療』——の下へ黒い線が増えていた。稲冨が指でなぞる。「薄粥、鍋三。芋の欠片、二。布切手、十。灰と酒、五。『波借なみがし』の試し札、浦に二。……『灯』は半尺下げました」


 「よい。『たわめ』は」


 「柱の目より一尺上に掲げました」


 「今夜は、さらに半尺上げよ。——見られたくない者にも、見せる」


 利三が短く「承知」と言い、板の角を押さえた。弥七は鈴を内で鳴らす仕草を一度だけして、「太鼓の二は」と訊く。「禁ず」。権六が見張りやぐらから顎を引き、「西の空、厚い」とだけ告げた。厚い空は、声を鈍くする。鈍くなった声は、札を必要とする。


 夕餉の前、城下の一角で、配給の列に小さな騒ぎが起こった。継ぎ外套の袖が押され、布切手の袋が地に落ち、切手が二枚、風で転がった。拾ったのが誰か、すぐには分からない。分からないこと自体が、人の心をざわつかせる。


 「殿」


 稲冨が息を切らして報を持ってくる。「布切手、二紛失。列の中、若い者がひとり、走り去り……」


 「追うな」


 光秀は即座に言った。「札を足せ。『息』の下に『恥は袋の内へ』。列の前で、声は落として読み上げる。——布切手は、今夜だけ二枚足し、明日、また一枚に戻す」


 「は」


 お初が、静かに湯を運び入れた。碗は金継ぎ。煕子の線が灯に薄く返る。返りは刃ではない。器の返りだ。欠けを見せるための美しさを、いまは器だけが持っている。人の欠けは、笑いにされる。器の欠けは、称えられる。理の欠けは——紙にするしか、ない。


 配給はほどなく落ち着いたが、廊の角に残ったざわめきが、屋敷のはりに鈍い音を残した。利三は、その音を聞き分ける。鳴らない太鼓の皮に指を置くように。「士気が、落ちています」


 士気。言葉にすると軽くなる。軽くなった言葉の代わりに、目の高さと手の高さ、耳の高さを揃えること。それが、いま、できるすべてだ。


 「『家の札』を増やせ」


 「どの文言で」


 「『目は灯へ/手は釘へ/耳は鐘へ』。——結び目を外へ出す」


 「承知」


 市松が走り、若旦那が墨の黒を薄く、字の線を長く引いた。外へ出た結び目は、誰でもほどけ、誰でも結べる。ほどけることを恥としない札が、いま必要だ。


 それでも、家中の空気は重い。廊を歩く足音の高さが半音下がり、道具の受け渡しに一拍の「気まずさ」が混じる。気まずさは、音にはならない。音にならない分、長く残る。残るものは、夜に効く。夜が来る前に、灯の囲いをひとつ増やした。


 「殿」


 利三が、遠慮の薄い声で言う。「家中の中にも、『広間の言が正しいなら、坂本のやり方は古い』と囁く者が……」


 「囁く口を、粥で塞げ」


 「はい」


 「粥は薄くてよい。湯気を見せる。湯気は、功ではないが、力になる」


 「承知」


 湯気を見せる。見せるために火を増やす。火を増やせば、薪が要る。薪は山から。山は泣く。泣く山へ礼をし、木口こぐちを撫で、太鼓の二を禁じ、鈴を内で鳴らし、鐘の紐を握る。——小さな所作の連なりでしか、いまを支えられない。


 夕餉のあと、光秀は座敷の囲炉裏に火を入れさせた。六月の火は、冬のそれより浅い。浅い火は、じっと見ていないとすぐに薄くなる。灰の底に小さなしんが残るよう、炭の置き方を変える。お初が黙って手伝い、炭の角度を指で示した。角度の違いを、火は覚える。人もまた、覚える。


 囲炉裏の火を見ていると、奥の座敷の広さが、ふいに大きくなる時がある。煕子のいない座敷は、広い。広さは、寂しさを増幅する。増幅は、悪ではない。増幅された寂しさの輪郭を見ておけば、いざというとき、そこに言葉を置ける。置く言葉が、いまは見当たらない。


 ——忠義とは、主を守ることか、家を守ることか。


 火の赤の上に、問いを置いてみる。置いた問いは、温度を得て、やがて黒く沈む。沈む問いは、消えない。消えないものは、朝に持ち越される。


 障子の外を、かすかな風が渡っていった。弥七が鈴を内で鳴らし、遠くで権六が「太鼓は打たぬ」と見張りに短く言う。利三は廊で「灯は半尺下げる」と命じ、稲冨は声箱の紙を一枚、火のそばに差し入れた。


 「城下の角。黒衣、『紅月へ移れば腹は膨れる』と、今夜も」


 紅月。薄くかれた香の匂いが、文の端にまとわりつくように思えた。香は罪ではない。罪の匂いは、香に紛れる。紛れるものの行方を探るには、札がいる。


 「囮を続けよ」


 「『配給札』に微細な偽造誤差を混ぜます。『波借』にも同じ」


 「よい。にせは追跡の印になる」


 利三が下がり、了俊が入れ替わる。「寺の鐘は、明朝、一つ、一つ、一つ。舟は二と四。——紐は握っておきます」


 「握れ」


 「殿」


 了俊が、火の赤に目を細めた。「広間の言に、心ががれまする。けれど、鐘は同じ高さで鳴ります」


 「鐘は、誰のものでもない」


 「はい」


 了俊が去ると、室はまた火の音だけになった。ぱちり、と小さく弾ける音。音は、心の内に同じ高さで落ちる。落ちた音が、胸の奥の真へ向かってゆっくり沈む。


 ——主を守ることか、家を守ることか。


 問いが、形を変えずに再び浮き上がる。浮き上がったその面に、忠興の言が薄く映る。「理は尊い。しかし主に逆らえば家は滅びます」。正しい。生き延びるための正しさだ。生き延びること。それは、理と矛盾しない。矛盾しないが、しばしば道を分ける。分かれ道では、札が要る。札は、道に名前を与える。『家』『主』『理』『息』——そのどれかひとつだけを選ぶためではなく、どれをいま半尺下げ、どれを半尺上げるかを示すために。


 ふと、襖の向こうから小さな咳が聞こえた。娘の声だ。お初の囁きが続いて、やがて静かになる。静けさの音が、火の音に重なった。忠興の足音が遠ざかってゆく昼の記憶が、音の重なりの中に薄く差し込んだ。若さの正しさは、夜に弱い。夜に弱いものを守るのは、家の札の仕事だ。


 火のそばに金継ぎの茶碗が置いてある。手に取る。縁の金の線は、灯に薄く返る。指でなぞると、金は冷たい。冷たさが指の腹から胸へ移る。移った冷たさが、火の輪郭を鮮明にする。輪郭があれば、燃やし過ぎない。燃やし過ぎない火は、長持ちする。長持ちする火は、冬に効く。六月の夜に冬のことを考えるのは、臆病か。臆病でよい。臆病が、息を守る。


 ——欠けを継ぐのは、誰のためか。


 忠興の問いが、金の線に浮かんでは消える。残る者のため、息のため。理のためではない。それでも理は、示されなければ続かない。示す場所は、目の高さ、手の高さ、耳の高さ。札と灯と鐘。釘の音は、聞こえぬほどに小さい。小さい音ほど、長く残る。


 火の前で、もう一つの札を思いついた。『』。字は細く、白を広く。「孤は弱さにあらず。孤は形」。形があれば、扱える。扱えるものは、落ちない。孤独は、落ちる形ではない。立ち続けるための形だ。——札にする。明朝、柱の目の高さに。


 「殿」


 利三が、火の音と同じ高さで声を置いた。「家中の者、誰も口にしませんが、目に怯えが出ております」


 「見えぬ怯えのほうが怖い。見えるなら、札に寄せろ」


 「『孤』の札を」


 「明朝、半尺下げて掲げる。結び目を外に出す。——わたしの結び目も、外に出す」


 利三は、わずかに目を瞬いた。「殿の、結び目」


 「わたしの理の結び目だ」


 利三はそれ以上訊かず、承知の形で退いた。訊かぬ者は、近くに置く。近くに置くことで、訊かぬことが役に立つ。


 夜が深くなるほど、屋敷の広さは増す。増した広さの端に、煕子の気配が薄く立った。寝所の襖の角、柱の木口こぐち、茶碗の金の線。気配は、匂いではない。温度でもない。言葉より先にある何か。そこに、今夜は言葉を置けなかった。ただ、火を見ていた。


 風が一度、障子を撫でていった。舟の鐘が二つ、そして四つ。遠い。陸の鐘が、一つ、一つ、一つ。耳の印が、胸の順に変わる。胸の順は、家の順に。家の順は、城下へ滲む。滲ませるために、札を半尺動かす。


 ——理を守るための決断。


 言葉にしてみると、重さが増した。増した重さは、手で持てる。持って、火のそばに置く。置いたまま、今夜は眠らない。眠らない夜は、決して良くない。良くないが、必要な夜だ。


  ⸺


 明け方。鐘が一つ、間をおいて一つ、一つ。一度止まり、舟の鐘が二つ、そして四つ。坂本の朝は、湿りを吸いながら起き上がる。お初が火床を起こし、稲冨が板の角を押さえ、市松が帳面の『息』をひとつ増やし、弥七が鈴を内で鳴らし、権六が顎を引き、源九郎が釘袋を打ち鳴らし、若旦那が『少し』の絵を涼しい柱へ移し、定吉が走り、了俊が鐘の紐の高さを子の目に合わせる。子はここにいない。いない者のために合わせることに、季節の差はない。


 利三が、新しい札を二枚持ってきた。『孤』と『波借』。白い板に細い黒。『孤』の下には小さく、「弱さにあらず、形」と置いてある。『波借』の端には、「笑いは風/風は板の下」と、昨夜の言のまま。若旦那の字は、薄い。薄い字ほど、長持ちする。


「殿」


利三が言う。「家中の者、札を見て息をひとつ吐きました」


「吐かせよ。——吸えぬよりましだ」


「はい」



 朝の配給は静かに進み、布切手の列で昨日の若い影の代わりに、今日は老女の背が前へ出た。お初が腰を支え、稲冨が切手を一枚多く渡し、市松が『息』の欄に小さな印を足す。印は、子の目の高さにある。


 午前の政は、細かい穴をふさぐように続いた。『波借』の試し札を浦へ増やし、油のたるを一つ繰り上げ、舟板を二枚追加し、返せぬぶんは秋の浜の労へ振り替える文言を端に添える。医の館へ灰と酒を五、痛み止めの煎じ方を札の裏に。太鼓の二は禁じ、夜の見張りの交代をさらに短く、足を凍らせぬための薪を各所へ。『家の札』を半尺下げ、『沈黙』は柱の影へ、『撓め』は目より高く、『灯』は囲いを増やす。


 昼過ぎ、忠興からの使いが来た。封は小さく、筆致は整っている。「妻は落ち着き候。坂本の札を、我が家にも写し置き候。——理はたっとし、されど家を護りたし。義父上の札、目の高さにて読み候」。短い文面に、若さの真面目さがにじんだ。返状は簡素にした。「灯は半尺下げよ。結び目は外に。太鼓の二、禁ず」。それ以上は書かない。言葉が多いと、相手の迷いを増やす。


 午後、屋敷の中庭で小さな騒ぎがあった。槍の柄が一つ、古い。柄巻つかまきがほどけかけ、若い兵が困った顔で立っている。源九郎が釘袋を鳴らして駆け寄った。「ほどけた結び目は外じゃ」と、彼は笑って見せて、外へ結び直した。見せるための結びは、羞恥ではない。誇りだ。兵の顔が、少し明るくなった。光秀は、遠くからその光り方を見ていた。光は、火ではない。灯だ。灯は、囲う。


 夕刻。湖の面が赤を抱く。舟の鐘が二つ、そして四つ。陸の鐘が一つ、一つ、一つ。赤は炎に似て、炎でない。似ているだけのものが、人を惑わす。惑わされぬよう、札を見上げる。『孤』。『家の札』。『撓め』。『灯』。『沈黙』。——黒い線の列が、夏の湿りに負けずに立っている。それだけで、足の裏が少し軽くなる。


 夜。囲炉裏の火は浅く、灰は深い。深い灰の底で、真がゆっくり呼吸をしている。呼吸の音は、ぱちり、と小さい。小さい音が、胸の中の問いと同じ高さで鳴る。


 ——忠義とは、主を守ることか、家を守ることか。


 火の上で、問いの形が少し変わった。『守る』の位置が、半尺動いた。守るために、折れることがある。折れぬために、撓むことがある。撓みの角度は、札で決める。札の位置は、朝ごとに半尺動く。動かす手は、細く震える。震えは、折れの前ではなく、撓みの前触れであるように。


 稲冨が、声箱の紙を二枚差し入れた。「『紅月の囁き、薄く』『坂本の札、安土の下働きが写し取り』」。——笑わせよ、と昨夜言ったとおり、笑いが札を運んでいる。笑いは風だ。風は板の下で支える。支える板は、釘の音を立てない。


 利三が、火の陰から現れた。「殿。家中の者を、今夜、囲炉裏の前にひとたび集めますか」


 光秀は、短く考えた。集める言葉が、まだ見つからない。見つからぬときは、札で代えるしかない。「一人ずつ、札の前を通させよ。『孤』の前で止まり、『家の札』の前で手を載せ、『撓め』の前で一礼。——声は要らぬ」


 「承知」


 夜更けまで、人の影が静かに札の前を通った。止まる足音、手の置かれる気配、一礼の微かな衣擦れ。どれも音にならず、けれど確かな重さで室に積もった。積もった重さが、火の赤の上に薄く影を落とす。影は、冷たくない。冷たくない影は、灯の仲間だ。


 最後に、利三がひとりで札の前に立ち、深く礼をした。礼の後で、彼は振り向かずに言う。「殿。……孤は、弱さにあらず」


 「形だ」


 「はい」


 皆が去ったあと、光秀は囲炉裏の前にひとり残った。煕子のいない座敷は広い。広さは、寂しさを増幅する。増幅は、悪ではない。増幅された寂しさの輪郭の上に、言葉をひとつ置いた。


 ——理を守るための決断。


 言葉はまだ、声ではない。声にすれば、刃になる。刃は抜けば収めねばならない。収める場所を、まだ決められない。決められないから、札を動かす。『孤』を半尺下げ、『撓め』を半尺上げ、『灯』の囲いを増やし、『沈黙』を柱の影へ。太鼓の二は禁じ、鐘の紐は握り、鈴は内で鳴らす。——動かせるものを、動かせるだけ動かす。


 ふと、庭の竹が鳴った。節の音。節は止まり、そして伸びる。伸びるために、止まる。いまが、その止まりだとしたら、次に伸びる角度を、火の上で指で測る。角度が決まれば、釘の打ちどころも決まる。釘は鳴らない。鳴らない音だけが、長く残る。


 煕子の文を懐から出し、指でなぞった。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。六月の夜に春を呼ぶ、と書かれた文字は、少し滑稽でもある。滑稽さは、救いだ。笑いと違って、誰かの肩を押し下げない。自分の肩から力を抜くだけだ。力が抜けた肩で、もう一度、札の高さを見渡す。


 ——主を守ることか、家を守ることか。どちらでもなく、息を守る。


 答えが、今夜だけは、火の赤に浮かび上がった。息。息が途切れないように。息を繋ぐもののために、札を置き、灯を囲い、太鼓を打たず、鐘を鳴らす。息が続けば、春は遅れても来る。来ぬとしても、息の続く限り、理は折れない。——それが、理を守るための決断の骨だ。


 胸の奥で、別の音が、また芽の形をした。名を与えれば刃になる。与えずに、火の輪郭の中で冷やしておく。冷やしたまま、朝まで持ってゆく。朝になれば、鐘が鳴る。鳴る鐘は、誰のものでもない。


  ⸺


 明け方。舟の鐘が二つ、そして四つ。陸の鐘が、一つ、一つ、一つ。坂本の朝は、順に従って起き上がる。お初が火床を起こし、稲冨が板の角を押さえ、市松が帳面の『息』をひとつ増やし、弥七が鈴を内で鳴らし、権六が顎を引き、源九郎が釘袋を打ち鳴らし、若旦那が『少し』の絵を柱へ掛け、定吉が走り、了俊が鐘の紐の高さを子の目に合わせる。子はここにいない。いない者のために合わせることが、今日の理だ。


 利三が、昨夜の札を微調整した。「『孤』、半尺下げました。『撓め』、半尺上げました。『家の札』は柱の目。『灯』の囲いは一つ増やし、『沈黙』は柱の影へ」。——見た目に大きな変化はない。ないが、息は変わる。息が増える。息が増えると、足が前に出る。足が出ると、噂は薄くなる。


 門前で、布切手の列に並ぶ老女がひとり、札の前で足を止め、手をそっと置いた。若い母が、子を抱きかかえながら『息』の下の行を指でなぞった。兵の若者が『撓め』の前で、一礼した。礼の角度は浅い。浅い礼ほど、長く続く。


 利三が、廊の端で言う。「殿。……士気は、今朝、半歩戻りました」


 「半歩でよい。半歩ずつで、里になる」


 「はい」


 坂本の門を出る頃、湖の面はまだ赤を抱く前だった。空は薄く、雲は軽い。軽いものは、遠くへ行く。遠くへ行く間に、近くの札の黒が目に入る。黒は薄い。薄い黒ほど、長持ちする。


 ——孤独の淵。


 屋敷の中よりも、外の風のほうが、その言葉を正確に伝える時がある。淵は、落ちるためにあるのではない。向こう岸との距離を知るためにある。距離を知れば、板を渡せる。板は、釘の音を立てない。鳴らない音の上で、人は渡る。渡っている間、太鼓は打たず、鈴は内で鳴り、鐘は一定の高さで鳴る。鳴る鐘は、誰のものでもない。——誰のものでもない印が、もっとも強い。


 光秀は、佩刀の柄に軽く手を置いた。骨が小さく鳴る。鳴りは、節の音。節は、止まり、そして伸びる。伸びるために、止まる。止まる間に、札を動かす。半尺ずつ。半尺ずつが、決断になる。声にせぬ決断。声にしたとき、それは刃になる。刃は抜けば収めねばならぬ。——その刻が、いつか来るのか来ぬのか。今は、知らぬ。知らずに、札を置く。置いた札の前を、ひとりまたひとりが通り、手を置き、一礼して去る。去る足音が、火の赤に溶けていく。その音の高さで、光秀は胸の奥の火の輪郭を確かめた。


 理を守るための決断は、まだ言葉にならない。——ならないうちが、いちばん強い。強いうちに、灯を囲い、札を立て、太鼓を打たず、鐘を鳴らす。胸の奥の芽は、まだ名を持たない。名を持たぬ芽が、土の下で小さく立っている。その上を、今日も人が渡る。渡らせるために、板を撓め、釘を増やし、結び目を外に出す。孤独の淵は、広い。広いから、渡り甲斐がある。渡り甲斐のある淵の上に、細い板を一本。——それが、いまのわたしの理である。

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