第3話「義昭流転、橋の上の会話」
春は近い、と誰かが言った。
だがその「近さ」は、足の下を濁らせる泥の厚みのように曖昧で、指を差せば離れ、眼で追えば滲んだ。義昭の一行は、川沿いの細道を北へと遷り、また東へと逸れ、やがて西に向けて戻り、翌朝には南へ脚を返す。朝は東を望み、昼は北を案じ、夜は洛中の灯を夢見る。春の川面が、風ひとつで流れの筋を変えるように。
将軍とは名であり、器であり、人でもある——それを光秀は、腰の紐の締まり具合のように何度も確かめ直していた。名は前に立ち、風を切る旗のように見える。器は側にあって、水を受け止める木桶のように重い。人は、その間に挟まれて息をする。だがこの数年、その三つは一つに結ばれなかった。義輝の血の記憶が都の石の隙間に染みこんだまま乾ききらず、義昭の行く先は地図の余白の上でいつまでも踊っている。
護衛の列に加わった光秀の足袋は、雑兵と変わらぬ泥を舐めた。列の端で荷を担ぐ若い者が、肩の縄の擦り傷を気にして歩幅を乱し、その乱れが後ろへ伝わっていく。前へ、右へ、左へと、迷いは波だ。波は目に見えぬが、脛の筋がそれを覚える。
踏みしめるたび、凍てた土が靴の底を鳴らす。坂を下ると、陽だまりの泥が靴の底を奪う。凍り、溶け、また凍る。春が「近い」と呼ばれるのは、冷えの上に薄い温みが乗ってしまって、どちらの衣を着ればよいのか迷うからだ。
義昭の轎は、列の中ほどで風から守られるように揺れた。簾の奥の影は浅く、時折、誰かの小さな咳が漏れる。将軍家の御用の文箱は別に据えられ、二人の僧形が交代で手を添える。箱の中身は重い。内容の重みではなく、中身が意味している年月の重みが、木の皮を通して掌を冷やした。
途中の渡し場で、一行は足を止めた。川は春の前触れの濁りを増し、流れの速さだけが陽光を受けて白く光る。舟は一本の綱で両岸の杭に結ばれ、渡守の男が長い棹で川面を見つめている。
行列の先頭が順に舟に移る。荷を積み、馬を引き、最後に轎を運ぶ。轎が舟の板に載る刹那、手に汗が滲むのはいつも同じだった。板のきしみは、たいてい無事の兆しだ。音もせずに落ちるときは、もう遅い。
老いた女が、渡し場のため所の隅に立っていた。白い頭巾が川風をはらみ、頬には細い皺が重ね書きのように刻まれている。女は轎に向かって、小さく手を合わせた。
「世を明るく」
ほんのひとこと。願いは軽く、重い。
軽いのは、口にするのがたやすいからだ。重いのは、口にした者の一生を、知らぬうちに傾けてしまうことがあるからだ。
光秀は女の前に立ち、軽く頭を下げた。
「明るさは、灯の数ではございませぬ。灯を囲う器の数にて、明るくも暗くもなります」
「器」
「風があらぬ方から吹いても、灯が消えぬようにする囲いです。灯は人が持つ。器も人が持つ。持てるだけを、持つ」
女は笑った。「持てるだけ、な」
笑いは短く、川風にすぐ切られた。それでも、切れた音の残りが耳の奥に温かく張りつく。
舟は揺れ、渡は短い祈りのように終わる。対岸に上がると、沼地のようにやわらかな土が靴の底に吸いつく。若い侍が舌打ちをし、荷を担ぐ男が小さく鼻を鳴らした。列は再び延び、義昭の轎は杉木立の影に消えた。
昼、浅い沢で一息入れた。
簡素な卓が拵えられ、義昭は轎から降りて座についた。御簾の内側は薄暗く、だが、顔の輪郭を確かめるには足りる明るさがあった。
光秀は御前に進み、礼を崩さぬまま現実を述べた。
「兵糧、残り五日分。地の者の手配にて、あと三日は賄えましょうが、値は上がります。盟約は関東・北陸ともに弱く、言はいただけますが、兵は出ませぬ。寺社勢力はおおむね中立。——中立とは、親でも敵でもござらぬ。風向き次第で、幟はどちらにも翻りましょう」
義昭は唇を噛み、顎の筋がかすかに動いた。
「ならば、わしは誰に寄るべきか。寄る柱の太きところに寄らねば、風で折れる」
沈黙が、橋の上に落ちたようだった。
御簾の向こうに、川の白がちらつく。轎の中から見た朝の水面は、優しく、呼べば寄るように思える。だが、橋の上で水を見つめれば、流れはただ流れる。人の声など持たぬ。
「理を守る者に」
光秀の答えは、口をついて出た。自分の声とは思えぬほど、音が澄んでいる。
「理、か。理は、わしを守るか」
「殿を守る理は、殿の外側にございます。殿がそれに寄れば、理は殿の内側で骨になります」
「骨」
「皮膚は春風でやわらかく、秋風で乾きまする。骨は季節で変わりませぬ。折れぬ骨を、今は要します」
義昭は御簾の陰でわずかに身じろぎした。
「名を言え。理を守る者の名を」
名。
光秀は一瞬、迷った。口の中に幾つもの音が浮かんでは消えた。北陸の名、畿内の名、山陰の名——。だが、舌はひとつの音を選んだ。
「尾張」
御簾の内の影が、ほんのわずかに揺れた。
「うつけ、と呼ばれたかの者か」
「奇矯と革新、両刃。——ですが、両刃は抜き方で使えます。柄を握る手が滑らなければ」
「わしの手は、滑るか」
「滑らぬよう、布を巻く者が要ります。布は文。布は器。布は、恥を覚える皮膚と同じ働きをいたします」
義昭はしばらく黙し、やがて浅く息を吐いた。息の音は老いたわけではなく、疲れの音でもなく、ただ長い旅の間に身についた癖のようだった。
「尾張の名を、わしの口で言う日が来るか」
「殿の口で言う前に、殿の耳で確かにお受け取りくださいませ。言は、耳に入らねば舌が裏返ります」
御簾の向こうで、わずかに笑いに似た音がした。笑いと、悔しさと、乾いた春の風が混じった音。
「よい。……渡れ」
義昭の声が、橋の先を指した。
列は午後、再び川をいくつか渡り、橋を多く踏んだ。木の橋は、渡る者の数だけ鳴る。鳴る音には、その日の疲れが混ざる。疲れは人の足音を重くし、重くなった足音が橋を沈ませる。沈む橋は、人の心をわずかに怖がらせる。怖れの小さな粒が、行列の中を走る。——そのすべてを、光秀の足裏は数えた。
夕刻、町はずれの小さな旅籠で一行は休んだ。旅籠の主は口数が少なく、奥の囲炉裏から魚の干物の匂いがわずかに流れ出ている。
夜。火袋の弱い灯の下で、光秀は煕子宛の文をしたためた。
——春は近いと人は言うが、それは雪の上に薄い雨が落ちるような近さで、指ですくえば冷たさだけが残る。
——義昭公は水の上に身を置く人である。名と器と人。その三つがまだ一つにならない。
——老いた女が「世を明るく」と言った。願いは軽く、重い。重さに耐えるための器は、まだ足りぬ。
——我は御前で「理を守る者に寄るべし」と申した。名を問われ、尾張と答えた。反射のような確信であった。
——理はまだ言葉でしかない。だが、言葉を運ぶ足音を、己が鳴らさねばならぬ。
筆は迷わなかった。迷いは、昼のうちに橋の上に置いてきたのかもしれない。紙の端に、余白を少し多く残した。余白は空ではない。そこに煕子の返事が、いつものように見えない文字で書き込まれる気がした。
文を畳み、火袋の灯を手で囲いながら吹き消す。闇はすぐに戻るが、灯の残像が目の奥に小さく浮かぶ。眠りに落ちる直前、橋の板がきしむ音が、夢の入口でひとつ鳴った。
翌朝、細川藤孝からの伝令が来た。馬の蹄は湿り、男の息は白い。
「信長公、義昭公を迎える準備を進められている」
言葉は短く、しかし、十分に長かった。短い音の列に、長い先行きが巻きついてくる。
水面下で綱が結ばれる。綱は目に見えぬ。見えぬからこそ、引けば確かな重みが手に伝わる。光秀は胸の底で、氷がひび割れる音を聞いた。
それは春の兆しか。
それとも、洪水の前触れか。
列は都へ背を向け、また都へ顔を向け、進んだ。道の両側では、冬を越す野菜の葉が、冷たい朝に縮んでいる。村の子らが川原で石を跳ね、犬が尻尾で砂を払う。日が上れば温みが差し、日が落ちればまた冷える。その繰り返しの帯に、義昭の名は短く、しかし重い結び目を作った。
昼前、山腹の寺で休息を取ることになった。寺の門は古く、柱の下部は幾度も水に洗われたように色が薄い。庫裏には湯気が上がり、粥の匂いがわずかに香った。
光秀は僧に伴われて本堂の奥に入った。そこには古い衾に包まれた書巻と、欠けた香炉が並んでいた。僧は香を焚き、欠けの部分に指を触れた。
「欠けは恥です。ですが、恥があるから、これは粗略にされません。人の手は恥を避けようとして、気をつけて置きます」
「封と同じだ」
「封?」
「寺に置かれた封は、破られぬように重しを置く。重しは銭より人の眼がよい。眼があれば、背が冷える。背が冷えれば、焚き火を寄こし合う」
僧は笑った。「理を語る人は、たいてい焚き火の話をします」
「火は理の形をよく示す。囲いがなければ家を焼き、囲いがよければ食を温める。囲いの材は季節で変えねばならぬ」
「尾張にて、その囲いをこしらえる男に会うのでしょう」
「会うことになる。速度が早いという。息が切れるかもしれぬ。だが、息を切らせぬ余白も自分で持って行く」
「余白」
「文の余白が読み手を入れる場所ならば、行軍の余白は息を入れる場所だ。速度で隙間がつぶれぬよう、間を刻む者が要る」
僧は「よいことを聞いた」と言って、茶を注いだ。茶は薄く、だが、湯呑の縁に春の味がわずかに引っかかった。
寺を出たあと、義昭の一行は狭い橋を渡った。橋は谷に渡されており、下の水は雪解けを受けて速い。風が上へ吹き上がり、袂を広げる。
橋の中央で、義昭の轎がひととき止まった。御簾の裾から、白い指がわずかに覗く。
「そこな、明智」
御簾越しの声は、いつもより乾いていた。
「理の話はよい。わしはそれを聞いて、骨の場所がわかった気がした。だが、骨を包む皮膚は、誰のものにすべきか。尾張の皮膚は、まだわしの体温を知るまい」
「皮膚は触れ合えば温みます。距離を縮める者が要ります。距離は命令では縮まりませぬ。出来事で縮まる。……たとえば、上洛の道の一部を、尾張の者に掃かせる」
「掃く?」
「道を掃くことは、道を作ること。道を作る者は、道の所有を少しばかり、心で感じます。所有の錯覚は、忠誠の種になります」
御簾の内で、微かな笑いが漏れた。
「錯覚を種と呼ぶのか。明智、そちは冷たいようでいて、よく人の火の点け方を知っておる」
「寒い国で育ちましたゆえ」
風が強くなり、橋板が低く鳴った。義昭の轎は再び動き、列は橋を渡り切った。
午後、町での逗留の手筈が変わった。宿の主が急病で寝込み、裏の戸が鍵のないままだという。兵の一人が「鍵など縄で代わる」と言い、別の者が「恥を知らぬ家だ」と鼻を鳴らした。
光秀は、主の妻に会いに行った。女は痩せていたが、眼は濁っていない。
「裏の戸は、鍵がなくとも、紙一枚で重くできます」
「紙で?」
「紙に、裏の戸に関わる名を全部書いて貼るのです。裏を通る者の名、夜の見廻りの名、客の名、米屋の名。名のある紙は、人の背を冷やします」
女は頷き、紙と筆を持ってきた。光秀は「裏戸の恥」と題して、名を列にして書いていく。名は骨だ。名の列は、見えぬ柵になる。
夜、裏の戸は紙一枚で締まった。兵が試みに押しても、誰も通ろうとしなかった。通れば、自分の名がそこで鳴るのを知っているからだ。
その夜更け、光秀はまた煕子に文を書いた。
——橋の上で、御前の問に答えた。骨と皮膚の話。皮膚は出来事で温まる。道を掃くこと、名を書くこと。
——紙一枚が、戸の重みになった。紙は軽いが、名は重い。
——藤孝殿の伝令にて、信長公の準備の報。綱は水面下で結ばれる。引けば重みがある。
——胸の底で、氷がひび割れた。春の兆しか、洪水の前触れか。
筆を置くと、胸の内の氷は、細かな筋に沿って静かに割れ広がった。音は小さい。だが、小さい音の連なりが、朝になると大きい景色へ形を変えることを、光秀は知っていた。
翌々日、義昭の一行は小さな城下町の外れに差しかかった。町の入口には、雪に濡れた幟がいくつも立っている。文字は滲み、色は褪せ、それでも「八幡」の二文字は芯を通して立っていた。
町の者たちが道の両側に並び、頭を下げる者、様子を窺う者、目を光らせる者、手を合わせる者。混ざり合う視線の中に、またあの老女のような眼が一つ、光秀を見上げた。
「世を明るく」
声は出なかった。口の形だけが、その言葉になっていた。光秀は軽く会釈し、馬を進めた。
日が昇ると風が変わった。白いものの上を滑るだけの風から、土の匂いを含んだ風へ。鼻の奥にわずかに草の青い気配が差す。それは春の兆しに間違いない。だが同じ匂いは、雪解けの水が一気に谷を下る洪水の前にもある。
義昭の轎の上に掛かった白い布が、陽の加減で薄く透け、内側の影がやわらかく揺れた。影はまだ、名と器と人の三つを結ぶ形を取らない。だが、結び目を作る指は、見えないところで少しずつ動いていた。
夕方、細川家からもう一度伝令が届いた。
「尾張の織田信長、使者を京に走らせ、将軍家再興の道筋を整えつつあり。坂本にも近く参る由」
光秀は文を受け取り、指で紙の端を押した。紙は冷たく、しかし、押し返してくる弾力がある。
夜、火の前で、光秀は隊の若者に地図を広げて見せた。
「ここが坂本。ここから京へ。——道を掃く役を決める。掃くは、ただの掃除ではない。道を作ること。作る者は、その道を丁寧に踏む。丁寧に踏まれた道は、裏切りにくい」
若者は頷き、地図の端に指を添えた。指は冷たく、爪の色は薄い。だが、その薄い色の下に流れる血は、春の前の川のように早くなる準備をしている。
眠る前、光秀は胸の奥の氷に耳を寄せた。
ひびは広がり、しかし、まだ音は静かだ。
灯を囲う手の形を思い出す。囲いは小さくてよい。小さい囲いは、持って走れる。持って走れば、遠くへ行ける。遠くへ行けば、春の匂いは濃くなる。
眠りは浅く、夢は短い。夢の中で、橋は何度も現れた。渡るたびに、板は違い、音は違い、風は違う。だが、向こう岸はいつでも、誰かの名で呼べた。
——尾張。
その名は、風の中で一度だけ、はっきりした輪郭を持った。
朝。列が動き出す前、光秀は馬の鞍に手を置き、掌の皮膚の感覚を確かめた。粗い。だが、紙のささくれを受け止めるにはちょうどよい。剣の柄ではなく、筆の柄で硬くなった掌。
「殿」
背後から声がして振り向くと、煕子からの返文を預かった小者が、息を弾ませて立っていた。
紙は薄く、しかし、墨の香が新しい。
——殿が足を運ぶところに、言葉が先に行き、灯が後から追うように——
短い一行。余白が広い。余白は空ではない。読む者の息を整える場所。
光秀はその紙を懐に戻し、列の先へ馬を進めた。
空は薄い青。風は土の匂いを増し、川は音を増し、道は人の足音を増した。
行列の前で、渡し場の渡守が棹を握り直す。川は、春の兆しと洪水の前触れを、同じ音で流した。
光秀は、轎の傍らで歩を合わせながら、胸の奥で言葉をひとつ、小さく結んだ。
——理は骨。義は血。名は舌。器は皮膚。恥は背の温度。封は眼。速度は風。余白は息。
結びは固く、だが、締めすぎではない。
渡るべき橋は、まだいくつも残っている。
灯は小さいが、消さずに持って行ける。
そして、尾張の名が、風の向こうでひときわ大きく、しかし均整のとれた影を落とし始めている。
春は近い、と誰かが言った。
その言は、今日に限って、少しだけ、重みを持って聞こえた。




