第二十八話 忠興との対話
鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。陸の印が、坂本の昼の端を折る。続けて、舟の鐘が二つ、そして四つ。湖の気はまだ冬の硬さを残しているが、日向だけは少し柔らいだ。城下の露店が布を広げ、継ぎ外套の袖を比べる指先が、昨日よりいくらか速い。速さは、希望の単位だ。希望は数えられないが、速さは数えられる。
利三が、廊の端で足を止めた。承知の形で組まれた顔が、いつもより硬い。「殿。細川忠興殿、お越しに」
「通せ」
言った声が、胸の骨にわずかに返った。返りの小ささで、身構えが過ぎていないか測る。過ぎてはいない。過ぎない緊張は、理の柄に似る。柄の太さは、今の手に合っている。
襖が開いた。若い影が、灯の手前で一度止まり、礼を置く。細川忠興、婿。聡く、速く、目の高さが定まっている。定まった目は、誰の言葉より先に相手の呼吸の粗密を拾う。
「義父上」
呼び方に、少しだけ硬さが混じっていた。坂本の空気の温度に合わせるのに、若い者には一息分の時間が要るのだろう。
「よく来た」
光秀は座を勧めた。座布の縁を指で押し、縫い目を確かめる。お初が火床に炭を寄せ、弥七が鈴を内で鳴らす仕草だけして、気配を薄くした。稲冨は声箱の紙を抱え、市松は帳面の『息』の行に小さな点を足す。源九郎は釘袋の口を結び、若旦那は『少し』の絵の札を風の当たらぬ柱へ移し、定吉は走る。了俊は寺の鐘の紐の高さを、子のいない昼にも子の高さに合わせた。合わせる作法が、場を落ち着かせる。
「城下の噂は耳に入っておいでのことと存じます」
忠興は、開口一番に言葉を置いた。置き方が速い。速いのは、迷いが小さいからだ。迷いが小さい言葉は、よく刺さる。
「『安土で役に立たぬと叱られた』『羽柴の影が長い』。……坂本まで届く頃には形を変えましょうが、火の芯は同じです」
光秀は頷いた。うなずきの角度で、余計な同意を渡しすぎぬようにする。礼は、言葉より先に形に出る。形が過ぎると、言葉の居場所が狭くなる。
「義父上」
忠興は、眼差しを真っ直ぐこちらに置いた。「理は、尊い。わたしもそれを疑いません。ですが、主に逆らえば、家は滅びます」
よく磨いた刃を、鞘ごと差し出す声だった。刃を見せずに質を示す若さ。光秀は、沈黙を選んだ。沈黙は、理を守るための壁だ。壁は、外と内を分け、風向きを遅らせる。遅れた風は、言葉の熱を冷ます。冷めた言葉は、遠くへ届く。
忠興は続けた。
「坂本の札、わたしは好きです。『息』の順、『目の高さ』『手の高さ』『耳の高さ』。誠に行き届いている。だが——」
「だが?」
「札は、剣にはならない」
利三がわずかに目を伏せた。弥七が鈴を内で鳴らす仕草を、いつもより遅くした。お初は火床の灰を寄せ、炭の真を覆う。覆いには、守りと隠れの二つの意味がある。
「剣は、札にはならぬ」
光秀は、やっと口を開いた。「だが、札の上で剣を置ける」
忠興の目の中で、微かな笑いが灯った。短い。短い笑いは、相手を馬鹿にするためではなく、距離を測るための道具だ。
「義父上。安土の広間でのこと、わたしの耳にも入っています。『役に立たぬ』。あの御方の言は、時に残酷なほど短い。短い言葉は、長い刃に勝る。——勝るからこそ、わたしたちは刃を抜かずに済むのです」
「勝る刃に、札で答える」
「札は、笑いの風でめくれる」
「だから、札の高さを半尺下げる」
忠興は、ひと呼吸置いた。「義父上。わたしは、義父上の理を疑わない。だが、理が主へ折り返すとき——」
その先を言わなかった。言わないことで、言葉の形が濃くなるのを彼自身が承知している気配があった。若さに似合わぬ間の取り方だ。聡い者は、黙りの重さを早くから知る。
「折り返す日は来ぬかもしれぬ」
光秀は、静かに言った。「来るかもしれぬ。どちらであっても、札の角は鈍らせぬ」
忠興の目がすこし揺れた。揺れは、恐れではない。敬意に似た何か。彼は、膝をわずかに進めた。座の間合いが半刻ぶんだけ詰まる。
「義父上。わたしは、家を護りたい。妻を、家中を。護るとは、折れぬことです。折れぬために撓み、撓んだまま折れねばよい。——けれど、撓みは、時に隙に見える」
「隙は、誘いであることもある」
「誘えば、咎を問われます」
「問われる前に、板を渡す」
忠興は、短く笑った。笑いに熱はない。熱のない笑いは、若さの防壁だ。
「さきほど、城下の辻で『太鼓の二、禁ず』の札を見ました。眠れる夜は、兵の足を速くします。……その上で、羽柴殿が笑いで半歩早める」
羽柴の名を出すとき、彼は視線をわずかに落とした。尊敬と警戒のまじった、若い者の眼差しだ。
「半歩の差が、やがて里ひとつぶんの差になる」
光秀が言うと、忠興は頷いた。「だからこそ、わたしは義父上に申し上げるのです。義父上の札は正しい。けれど、札は功にはならない。功に換えるには、笑いの輪の真ん中へ乗るしかない」
「輪の真ん中は、わたしの柄ではない」
「ならば、輪に寄り沿うしかない。寄り沿って、倒れぬことを証にする」
寄り沿う——その言葉が胸のどこかを過ぎた。寄り沿うのは、屈することではない。けれど、寄り沿うために削る角がある。それを、今は削りたくない。削らないと決めること自体が、誰かを傷つけることも、わかっている。
お初が、薄い湯を二つ、器に分けた。碗の一つは金継ぎの線が見える。もう一つは、まだ欠けのない白い器だ。光秀の前には金継ぎ、忠興の前には白。
忠興は、ふと器を見た。「母上の碗ですね」
「そうだ」
「継ぎ目が、美しい」
「欠けを見せるための美だ」
忠興は白い碗に口をつけ、熱のなさを確かめるように一度だけ目を閉じた。「欠けを継ぐのは、誰のためか」
問われるはずの問いが、先に出た。光秀は、短く息を止める。
「残る者のためだ」
「残る者——家、城下、兵、……それとも、理のため?」
「理は、残らぬ」
「では」
「息のためだ」
ふと、室の空気が柔らかくなった。言葉の結びが、誰のでもないところに落ちたからだ。忠興の眉が、わずかにほどけた。
「義父上。——わたしは、義父上に忠言を尽くしたくて来ました。安土の影は長い。影の下で灯を囲わねば、家の内も冷える。灯を囲う間、外では笑いが功を集める。功の名に、義父上の字が薄くなる」
「薄くなる字ほど、長持ちする」
「長持ちする間に、滅ぶこともあります」
「滅ばせぬために、札を目の高さに」
「目は、笑いのほうを見る」
「だから、半尺下げる」
忠興は、負けたように笑って肩を落とした。「義父上は、いつも同じところへ戻られる」
「戻る場所がなければ、出られぬ」
戻る、という言葉に、広間で投げられた「退くのか」という冷笑が重なる。重なる音を、火床の炭が吸った。吸う音はしない。しないのに、胸の骨でわかる。
「……義父上」
忠興が座を正し、声の温度を下げた。「ひとつ、お願いがございます」
「申せ」
「我が妻——お嬢のこと。噂に心を乱されぬよう、時々、お言葉を」
「承知」
承知とだけ答えるのが、今は正しい。忠興の野心は若さの温度で燃えている。その火が、妻の枕元では弱くなることを、彼はまだ完全には知らぬ。知らぬことを、責めるには早い。早いものは、折れる。
忠興は、座を立った。「義父上。——わたしは、義父上の理を信じています。信じていますが、主の影をも恐れています。恐れは、悪くない。恐れが、家を護る」
「恐れが、札の角を丸くする」
「はい」
彼は深く礼をして、襖の向こうへ消えた。足音は軽いが、速くはない。速くないことに、ほっとする。速い足音は、戦の気になる。今は、家の気のほうを選びたい。
利三が戻り、何も問わずに座の端に膝をついた。弥七は鈴を内で鳴らし、お初は火床の灰をならし、稲冨は声箱の紙を二枚だけ置いて下がった。市松は帳面の『息』をひとつ増やし、源九郎は釘袋の口を固く結び、若旦那は『少し』の絵の札を子の目の高さに合わせ、定吉は走る。了俊は、寺の鐘の紐に手を触れ、鳴らさずに確かめた。
「殿」
利三が、静かに言う。「忠興殿は、正しゅうございます」
「知っている」
「生き延びるための正しさ」
「未来を拓く正しさと、同じとは限らぬ」
「同じに見せる術も、ございます」
「見せれば、折れる」
利三は、それ以上言わなかった。言わぬ者は、便利であると同時に、怖い。怖い者を、今は最も近くに置く。近くに置くことで、怖さは役に立つ。
夕餉の香りが薄く室へ漂い、娘の咳が襖の向こうで一度だけ鳴った。忠興の足音が、門を出てゆく方向へ遠ざかる。遠ざかる音が消えるころ、坂本の鐘が一つ、間をおいて一つ、一つ、一つと鳴った。舟の鐘が二つ、そして四つ。耳の覚えが、胸の順になる。
⸺
夜。風は乾いた。乾いた風は、言葉を短くする。短い言葉は、刃になる。刃を出さぬために、灯を囲う。灯の周りに『灯』の札をもう一枚、利三が立てた。黒い字は細く、白の余白は広い。読みやすさは礼だ。礼のない理は、長持ちしない。
光秀は、座を離れ、奥の小さな箱を開いた。煕子の遺した茶碗。金で継がれた縁が、灯に薄く返る。返りは刃ではない。器の返りだ。
指で、継ぎ目をなぞる。金は冷たい。冷たさが指の腹から胸の奥へ移る。移る冷たさが、火の輪郭を鮮明にする。輪郭があれば、燃やし過ぎない。
——欠けを継ぐのは、誰のためか。
忠興が置いた問いが、夜の上に薄く浮かぶ。浮かぶだけで、落ちてこない。落ちると割れる。割れぬように、空に留める。留めている間に、意味が増える。意味が増えるほど、答えは遅れる。遅れを罪にする声が、安土の白い壁のほうから微かに聞こえた気がした。気がしただけで、実際には聞こえない。聞こえない音ほど、長く残る。
「殿」
襖の外で、了俊が控え目に声を置いた。「鐘は打ちませぬ。が、紐は握っておきます」
「握れ」
「『家の札』、もう一枚ととのえました。『目は灯へ/手は釘へ/耳は鐘へ』。——忠興殿への返事に」
「返事は坂本へ。向こうへは送らぬ」
「承知」
了俊の足音が遠ざかった。遠ざかる音と入れ替わるように、襖の向こうで娘が小さく笑う気配がした。お初の囁き声が、芋の甘さの話に変わる。甘さは、功にならない。功にならないものを、札にしてよいのか。よい。札は、功のためでなく、息のためだ。
稲冨が、声箱の紙を一枚だけ差し入れた。「『紅月の囁き、薄く』『坂本の札、安土の下働きが写し取っている』」
「写し取らせよ」
「安土で、笑われまする」
「笑わせよ」
稲冨は、驚いたように目を瞬いた。笑いが札を広めることもある。笑いは、火の上を渡る。渡るものの下に板があれば、笑いは人を運ぶ。
利三が、火の陰から現れた。「殿。今夜、『沈黙』の札の位置を半尺下げます」
「下げよ」
「『撓め』の札は」
「上げよ。——忠興の目に入る高さに」
「承知」
弥七が鈴を内で鳴らし、権六が見張り櫓で顎を引き、太鼓の皮に触れてから、打たないことを確かめた。打たぬことを確かめる所作が、守りの一部だ。
光秀は、茶碗の縁をもう一度なぞった。金の線は、欠けを隠さぬ。示す。示すことで、器が使われ続ける。理もまた、欠けを示すことで、撓みの角度を学ぶ。学んだ角度が、折れを防ぐ。防いだ跡は、功にならない。功にならぬ跡が、いつか誰かの息になる。
——誰のために継ぐのか。
答えは、ひとつではない。娘のため、婿のため、家中のため、城下のため。遠い春のため。まだ生まれていない子のため。——そして、理のためには継がない。理そのものは、継ぎでは繋がらない。理は、示されることでしか続かない。示す場所は、目の高さ、手の高さ、耳の高さ。札と灯と鐘。釘の音は、聞こえぬほどに小さい。小さい音ほど、長く残る。
夜半。外で風が変わった。乾いた風に、わずかに湿りの匂いが混じる。雪の気だ。雪は、音を吸う。吸われた音のぶん、胸の内側で火の音がよく聞こえる。ぱちり。小さな音だ。小さな音が、忠興の言の角を丸くし、安土の白の冷たさの縁を和らげる。和らげるだけ。変えはしない。変えないまま、朝を迎える術を増やす。
「義父上、理は尊い。しかし主に逆らえば家は滅びます」
忠興の言が、骨に残る。骨に残った言葉は、動きを整える。整えられた動きは、声を要しない。声を要しない動きが、札の位置を半尺下げ、灯を囲い、釘を二本増やし、太鼓を打たせず、鐘を一と三に、舟を二と四にする。——それが、返事だ。返事は言葉より長持ちする。
茶碗を箱へ戻し、文机へ向かった。筆をとり、墨の重さを指先で確かめる。重い黒は、白を汚さない。汚さぬよう、細く置く。
——煕子へ。婿が来ました。聡く、正しく、速い。『理は尊い。しかし主に逆らえば家は滅びる』。正しい。生き延びるための正しさです。わたしの胸の火は、小さく燃えました。燃えた火を、札で囲います。『撓め』を上げ、『沈黙』を下げ、『灯』を増やし、『家の札』を彼の目に入る高さに。——欠けを継ぐのは、誰のためか。答えは、明日ごとに変わります。変わらぬのは、目と手と耳の高さだけ。そこへ置く札だけ。あなたの金の線は、今夜も冷たい。冷たさが、火の輪郭を教えます。
筆を置くと、肩に夜がそっと乗った。重くはない。息を深くする程度の重さだ。外で、舟の鐘が二つ、そして四つ。陸の鐘が、一つ、一つ、一つ。耳の印は、胸の順へ、胸の順は、家の順へ。家の順が、城下へ滲む。滲む間に、笑いは風の上へ流れ、功を連れていく。連れていかせておけばいい。板の下で、釘は鳴らず、札は黒く立ち、灯は白く息をする。
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明け方。雪は降らなかった。降らなかった雪の気だけが残り、屋根瓦が冷えた音を持っている。坂本の朝は、鐘に従って起き上がる。お初が火床を起こし、稲冨が板の角を押さえ、市松が帳面の『息』をひとつ増やし、弥七が鈴を内で鳴らし、権六が顎を引き、源九郎が釘袋を打ち鳴らし、若旦那が『少し』の絵を掲げ、定吉が走り、了俊が鐘の紐の高さをまた子の目に合わせる。子はここにいない。いない者のために合わせることが、今の理だ。
利三が、新しい札を持って来た。白い板、細い黒。「撓め」を少し上へ、「沈黙」を少し下へ。「家の札」は柱の目の高さに揃えられ、結び目が外に出ている。誰でも結び直せるように。
「殿」
利三が言った。「忠興殿へは、何も言伝を」
「要らぬ。——昨日、わたしは彼の前で金継ぎの碗を出した。それで足りる」
利三の目が、薄く笑った。笑いは音を持たない。持たない笑いは、長持ちする。
「行こう」
光秀は、佩刀の柄に軽く手を置き、骨の鳴りを確かめた。鳴りは、節の音。節は、止まり、そして伸びる。伸びるために、止まる。止まる場所を間違えぬために、昨夜の問いを胸の上に浮かべたまま歩く。
——欠けを継ぐのは、誰のためか。
答えは、今日の途中でまた変わる。変わるごとに、札の位置が半尺動き、灯の囲いがひとつ増え、釘が一本増えるだろう。増えるたび、笑いは前へ流れ、功は名前を連れていく。名前が薄くなるほど、黒い字は長持ちする。長持ちする字は、息を助ける。息が増える。息が増えれば、春は近づく。近づかなくても、鐘は鳴る。鳴った鐘は、誰のものでもない。——誰のものでもない印が、もっとも強い。強い印の下で、忠興の正しさと、わたしの遅さは、今朝、同じ雪の気を吸っている。吸った気が、胸の火に変わるまで、札を目の高さに。手を釘へ。耳を鐘へ。
坂本の門を出ると、湖のほうから、舟の鐘が二つ、そして四つ。陸の鐘が、一つ、一つ、一つ。耳の覚えが、足の順に変わった。足の順が、答えのかわりになる朝は、よい朝だ。よいと思えるうちは、まだ撓める。撓めるうちは、折れない。折れないうちは、対話は続く。婿と、城と、影と、未来と。続く限り、欠けは継がれる。継いだ線が、灯の下で薄く返る。返りは刃ではない。器の返りだ。器は、使われ続ける。理も、そうでありたい。




