第二十七話 娘の涙
鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。陸の印は、坂本の夕の端をそっと折った。つづけて、舟の鐘が二つ、そして四つ。湖の面でほどけた音が、城下の屋根瓦の間に細く残り、瓦と瓦の隙間を風が渡る。渡った風は、庭の竹の節で一度止まり、また薄く鳴った。
安土から戻る馬の背で、光秀は、その鳴りの高さだけを頼りに息を整えた。胸の内側では、昼の広間の言がまだ骨のところで重たく居座っている。役に立たぬ、と吐き捨てられた音は、刃ではなかった。刃でないぶん、手で持てた。持ったまま、坂本の門をくぐる。
弥七が門柱の陰から出て、鳴らない鈴を掌に包んで深く頭を下げた。「殿。安土の風、冷たうござったでしょう」
「坂本の風で、熱を戻す」
「は」
鈴は鳴らない。鳴らないのに、持つ者の骨には鳴る。鳴る音のほうが、長く残る。
敷石の上を通ると、奥の廊に灯が入った。灯はまだ細い。細い灯ほど、影の形が正確だ。影は、今夜は長い。長い影が、廊の端で折れて、室の襖へ吸い込まれていく。
利三が一歩下がって待っていた。承知の形に組まれた顔で、「お戻りなされました、殿」と低く言う。その目の奥に「今は言葉よりも先にお通し申すべきもの」があるのを見て、光秀はうなずいた。言葉の順は、今夜は自分では決めない。
襖が静かに開いた。灯の輪の中に、細い背が見えた。肩から落ちる髪は、かつて子どものころにお初が結い上げたときと変わらぬ黒さなのに、その黒の下で細い肩が揺れている。揺れの理由は、寒さではなかった。
「父上」
声は、乾いた紙のように薄かった。細川忠興に嫁いだ娘——幼名で呼ぶことを思わず今も胸の中でしてしまう——は、膝を折ると同時に、片手で袖を押さえ、もう片方の手で目の端を隠した。隠した指の隙間から、光が小さく漏れる。漏れた光を、涙が薄く折る。
「殿」
お初が座の端で、一度だけ頭を下げ、すぐに下がった。下がるときに火床へ炭をひとつ寄せる。その小さな音が、室の空気の底で確かな場所をつくる。
「……帰ったぞ」
光秀は、座に腰を落とす前に、懐の文に指をやり、指先に冷たさを移した。冷たさは、声の震えを抑える。抑えられるだけ抑えた声で、娘の前に膝を落とす。膝の骨の鳴りは、聞こえない程度に、小さい。
娘は顔を上げた。濡れた目が灯を拾い、濁らない。濁らない目は、怖い。怖さは、正しさと同じ高さにある。
「父上の理は、笑われていると、申す者が……」
言葉の端で、娘の唇が小さく震えた。震える唇は、欠けのある器の縁に似ている。欠けの見える器は、使われ続ける。理もまた、欠けを見せるべきかどうか——その答えが、今夜は娘の目の中にあるように思えた。
「誰が、申した」
光秀の声は、いつもの低さよりもさらに低く出た。低い声は、灯の下に伏して動かない。
「城下の角で。……黒衣の男たちとは限りませぬ。女の井戸端でも、下働きの口でも。『安土の広間で、役に立たぬと叱られた』と」
安土の白と朱が、室の壁の影に薄く重なった気がした。広間の音は、遠くまで行く。遠くまで行った音は、途中で形を変え、噂のほうが早く坂本へ着く。坂本に着いた噂は、灯の高さを半尺ほど上へ引き上げてしまう。上がりすぎた灯は、目に入らない。
「……理は、笑う者のためにあるのではない」
光秀は、娘の手を取った。指は冷たく、細い。細い指は、握れば簡単に折れそうで、しかし実際は折れない。折れないのは、日々何かを結び、ほどき、また結んできたからだ。腹帯、袂の紐、髪の根元。結ぶ手は、折れない。
「理は、未来のためにある。今日の笑いではなく、明日の息のために」
言いながら、喉の奥で、安土の冷笑の形がひっかかった。ひっかかったものは、声を少し震わせる。震えは、娘の掌の上に伝わる。伝わってしまうなら、隠さずに伝えるしかない。
娘は、光秀の手の上で、指先だけで確かめるように一度握り返した。「父上。わたしは、父上の字を読みました。『灯』の札。『沈黙』の札。『目の高さ/手の高さ/耳の高さ』の札も。殿の札は、わたしには読めます。でも——」
「でも?」
「読める者より、笑える者のほうが多い世は、怖いです」
「……そうだ」
光秀は、正直にうなずいた。否定は、今日の娘には要らない。否定は、壁になる。今夜は、壁ではなく、手の高さに置くものがいる。
稲冨が、襖の外で足音を止め、沈黙を置いた。市松は廊の角で帳面を抱え、お初は火床の脇に膝をついていた。誰も言わない。言葉を置かないことで、室の空気に余白が生まれる。余白は、涙の行き先になる。
娘が袖で目を押さえ、息を整えた。「細川の家でも、同じ噂が回りました。夫は、静かに聞いておりました。『理は、折れぬために撓めばよい』と、父上の言葉のように言いました。けれど、人の輪の真ん中で笑いが立つと、理は木霊になってしまう。木霊は、いつか消えるのではないかと」
忠興の名を出さない。夫とだけ言う。その距離感は、家庭の礼だ。礼のなかに、怯えは入り込む。怯えは、礼を崩さないまま居続ける術を知っている。
光秀は、懐の文をゆっくり取り出した。煕子の字。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。指先が冷たさを吸い、心の中の火床の灰の底に真があるのを確かめる。真があれば、火は消えない。
「春は、遠い」
光秀は、娘を見た。「遠いが、途切れない。途切れぬように、札を目の高さに置き、灯を半尺下げる。粥を増やし、釘を二本加え、太鼓の二を禁じ、鐘は一と三、舟は二と四。——笑いの上を人が渡るなら、その下に板を並べ続ける」
娘は、弱く笑った。涙で濡れた笑いは、刃にならない。「父上の言葉は、いつも板の匂いがします」
「木の匂いがせぬ理は、空だ」
「空の言葉は、風で飛びます」
「飛ぶ前に、札にする」
「札にする手が、震えています」
娘の目が、きちんとこちらを見ていた。見られることは、時に救いになる。救いは、屈服とは違う。違いを分かる者が、家の中にいることが、今夜はどれほどの火であるか。
「震えは、折れぬための撓みだ」
「……はい」
お初が、お茶を運んだ。碗は、煕子が生前に継いだ金の線のあるものだ。娘は、その碗を見て、小さく息を呑んだ。指で縁の金をなぞり、灯の下で返る光を眺める。返りは、刃ではない。器の返りだ。器は、欠けを見せることで、使われ続ける。
「この金は、母上の指の温かさを残しています」
「残っているのは、温かさではなく、温かさの形だ」
「形は、温かさに勝てますか」
「勝たぬ。ただ、並べて言える」
娘は、碗の中の茶をひとすすりし、薄い熱の行方を喉の奥で確かめた。「父上。……安土のことを、もっと聞かせてください」
聞くという行為が、今夜の娘の支えになるのだろうと、光秀は思った。支えは、人に見えないところで多く働く。言葉は、その一部にすぎない。
広間での冷笑、羽柴の扇の音、柴田の鼻の鳴り、滝川の骨の打つ小さな音、丹羽の視線の止まり、玄檀の舌の湿り、白い壁の冷たさ、盃の底の鳴り、——それらを、順を追って短く置いた。置くたびに、娘の目の揺れが少しずつ収まっていくのが、灯の下でわかった。揺れが止まったところに、言葉はもう要らない。
稲冨が、声箱の紙を持ってきた。弥七の合図で、廊の角から静かに差し入れられる。「城下の声、『灯の札、読みやすい』『沈黙の札、よい』『太鼓の二、禁ずで眠れる』。……『殿の理は笑われた』も、まだあります」
娘が、自分の膝の上で手を組んだ。「笑われた先に、灯が増えるのなら、笑いの分だけ灯が必要なのですね」
「笑いの数だけ灯を増やすのは、負けのように見えるかもしれぬ」
「負けですか」
「負けではない。仕事だ」
「仕事」
「灯は、誰のものでもない。——誰のものでもないものは、もっとも強い」
娘は、目を伏せ、またひと筋、涙を落とした。落ちた涙は、畳の目に吸い込まれ、跡を残さない。跡を残さない涙は、見えないところで長く残る。
「父上。……夫は、怖れております。『殿の理が、やがて主に逆う形になるのではないか』と」
室の灯が、わずかに揺れた。火床の炭が、ぱち、と小さく鳴った。
「怖れは、悪いものではない」
光秀は、言葉を選んだ。「怖れる心が、札の角を丸くする。角が丸いほうが、手に取りやすい」
「取りやすい札で、逆えるのですか」
「逆えるための札ではない。守るための札だ」
娘は、頷いた。頷きが細かな震えを携えている。震えは、撓みである、と今夜何度も言い聞かせているのに、胸が痛むのを止められない。痛みは、白紙の上に広がるように、ゆっくり広がる。広がりは、悪ではない。悪ではないが、広がりの外側を囲っておかなければ、字が立たない。
「父上。わたしは、城下の『息』の札が好きです」
娘の声が、ふと明るくなった。「『息』の札の下に、子や老や病や妊の順を書いた字。わたしにも読める。読むだけで、胸が温かくなります」
「順は、人を温める」
「はい」
「順は、笑いの温かさと違って、風で消えない」
娘は、ほっと息を吐いた。その息が、灯のところまで届いて、灯がわずかに揺れた。揺れで火は消えない。揺れは、火に呼吸を教える。
「父上。あの……」
娘が言い淀んだ。言い淀みが、夜の端のように細く長い。
「忠興殿は、父上の理を、信じておいでです。けれど、家中の者の中には、安土の影のほうを信じたがる者がいます。影は、形が大きいから」
「影は、光の形だ」
「光は、痛い」
「目を細めて、見る」
娘は、笑いながら、涙を拭った。「父上の理は、痛いでしょうか」
「痛い」
「痛い理は、嫌われます」
「嫌われる理は、正しいこともある」
「正しくて、嫌われる」
「嫌われても、残る」
娘は、静かに頷いた。頷きの終わりに、また一筋、涙が落ちた。その涙は、さっきよりも澄んでいた。澄んだものは、冷たい。冷たいものは、理の側にある。
廊から小さな足音がした。市松が、控えめに顔を出し、「殿、『灯』の札、もう一枚刷りました」と囁いた。小さな札の白の上に、黒い字がしっかり立っている。娘は、それを見て、目を細めた。
「きれい」
「字は、薄いほうが長持ちする」
「はい」
お初が湯を足し、碗の金の線がまた薄く返った。返りを見ながら、光秀は、娘の目の中の恐れが、家の中にまで伸びてきた信長の影の影であることを、はっきりと知った。影の影——影に重なる影は、光を二度折る。折られた光は、小さくなる。小さくなっても、消えはしない。消えない光を、目の高さへ降ろすこと。今夜は、それしかできない。
「父上」
娘が、もう一度だけ、子どもの頃の呼び方で言った。光秀は、小さく息を止めた。
「わたしは、父上の理を、好きです。笑われても。怖れても。好きというのは、頼るということではありません。わたしは、夫の家で、わたしの手でできる札を置きます。腹帯の結びを見て、継ぎの縫い目を外に出し、『少し』の絵を袋に描き、息の順を口にします。——それで、よいですか」
「よい」
光秀は、娘の手をもう一度握った。握る手の力は、さっきよりも確かだった。「よい。……それが、わたしの理の術だ」
娘は、涙のあとを袖で押さえ、深く礼をした。礼は、灯の影を半歩だけ短くした。短くなった影は、足元でまとわりつかない。
稲冨が、「城下の避寒、布切手が十配れました」と小声で報せた。「『継ぎ外套』の列は静かで、息が白く並びました」
「よい」
「『冬借』の札に、文句も三つ、褒めも五つ」
「褒めは紙にするな。文句だけ紙に残せ」
「承知」
弥七が、鈴を内で鳴らし、「殿、今夜は太鼓の皮が堅うござる」と言った。「打たぬ太鼓ほど、よく張れまする」
「よく張れ」
権六は、見張りの櫓で顎を引き、「西の空、雪の気」と短く告げた。雪は、音を吸う。吸われた音のかわりに、胸の内で火の音がする。それでいい。
夜が深くなった。娘は、お初に付き添われて、奥へ下がっていった。襖の閉まる音が、いつもより軽い。軽さは、すぐに消えるだろう。消える前に、灯をもう一つ囲う。
光秀は、文机に向かい、筆をとった。墨は濃い。濃い黒は、白を汚さない。汚さないよう、細く置く。
——煕子へ。娘が泣きました。噂の風は、家の奥へも入ります。泣いた目は、濁りませんでした。濁らない目は怖い。怖れは、理の隣に置けます。私は『理は笑う者のためではなく、未来のためにある』と言いました。声が震えました。震えは、撓みです。折れぬための撓みを、札に書いて置きます。『目の高さ』『手の高さ』『耳の高さ』。娘は、夫の家で札を置くと言いました。私は、それを許しました。許すというより、頼みました。影は、二重になっています。安土の影、その影。その中で、灯を半尺下げます。粥を増やし、釘を二本打ち、太鼓を打たせず、鈴を内で鳴らし、鐘は一と三、舟は二と四。——それだけで、夜を短くすることができます。
筆を止めると、肩に夜が落ちてきた。落ちてきた夜は、重くない。重くない夜の重さを、火床の炭が引き受ける。炭の赤が、薄い輪をつくる。輪の外に、沈黙が広がる。沈黙は、屈しない。屈しない沈黙は、今夜の礼だ。
利三が、襖の外で足音を止め、「殿」と低く呼んだ。返事を待たず、いつもの沈黙を挟み、「明朝、札を一枚増やします」とだけ告げる。「『家の札』。——『目は灯へ/手は釘へ/耳は鐘へ』」
「よい」
「目の高さ、半尺下げます」
「下げよ」
「承知」
利三の足音が遠ざかると、遠い舟の鐘が二つ、そして四つ、薄く鳴った。陸の鐘は、一つ、一つ、一つ。耳の印は、胸の印になり、胸の印は、家の印になる。家の印——それは、娘の涙の跡がもう見えない畳の目と、金継ぎの線と、札の黒と、灯の白と、鈴の鳴らない音の間に、確かに立っている。
夜半、外に雪が降り始めた。最初の雪は、音を持たない。音を持たないものは、よく記憶に残る。庭の竹の節が、雪の重みでわずかに音を立てた。節は止まり、そして伸びる。伸びるために、止まる。止まったところへ、娘の涙がしみて、朝には見えなくなるだろう。見えなくなっても、残るものがある。残るもの——それが、理の居場所だ。
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明け方。鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。舟の鐘が二つ、そして四つ。坂本の朝は、順に従って起き上がる。お初が火床を起こし、稲冨が板の角を押さえ、市松が帳面の『息』をひとつ増やし、弥七が鈴を内で鳴らし、権六が顎を引き、源九郎が釘袋を打ち鳴らし、若旦那が『少し』の絵を掲げ、定吉が走り、了俊が鐘の紐の高さを、また子の目の高さへ合わせる。子はここにいない。いない者のために合わせることが、今の理だ。
「殿」
利三が、滑るように現れ、新しい札を差し出した。白い板、黒い字。『家の札』。目は灯へ。手は釘へ。耳は鐘へ。三行が、朝の白に確かに立っている。
光秀は、札の高さを半尺下げ、自ら柱に結んだ。結び目を外へ出す。外へ出す縫い目は、誰でもほどけて、誰でも結べる。娘は、奥の襖の向こうで、ささやくような咳をひとつしただけで、すぐに静かになった。静けさは、休息の音だ。
「行こう」
光秀は、いつもの声で言った。声は、昨夜よりまっすぐだった。利三が「は」と応え、稲冨が板と筆を抱え、弥七が鈴を内で鳴らし、権六が顎を引き、市松が帳面を抱え直した。お初は腹帯の結びを確かめ、源九郎は釘袋を打ち鳴らし、若旦那は『少し』の絵を掲げ、定吉が走る。了俊は、寺の鐘の紐を握り、子の目の高さをもう一度確かめる。
家の内と外——その境に札があり、灯があり、鈴があり、鐘がある。娘の涙の跡は、もう見えない。それでよい。見えないもののほうが、長く残る。残るものに、今日も板を渡し、釘を打ち、粥を配る。笑いは火に寄せ、理は札に寄せ、怖れは手の高さに置く。置いたものが、やがて言葉になる日が来る。来ぬ日もある。どちらにせよ、鐘は鳴る。鳴った鐘は、誰のものでもない。——誰のものでもない印が、もっとも強い。強い印の下で、娘の涙は、今朝、静かに乾いている。乾いた跡は、家の印のひとつとなる。家の印は、理の印と、同じ高さに立つ。




