第二十六話 信長の叱責
鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。陸の印が、夜と朝の境に小さく杭を打つ。続けて、舟の鐘が二つ、そして四つ。耳が覚えているものが、足の向きを決める。鳴りが終わる前に、坂本の門前に馬の鈴が来た。鈴は鳴らなかった。弥七が縄の根で結んでいるからだ。鳴らないのに、胸の奥でわずかに鳴った。鳴らしたのは、人の息である。
「安土より急報!」
利三の声が、朝の印の下へ滑り込む。封は朱の一筆、角の起筆が刃のように硬い。信長の字は、遠目にも冷える。
——即刻上洛。毛利戦の遅滞、罪。坂本を離れ、来れ。
短い。短いほど、余白が冷たい。余白の冷たさが先に胸に入ってくる。紙の上の墨は乾いているのに、読み終えた指先が、黒く濡れた気がした。
「利三、板は稲冨へ。鈴は内で鳴らせ。『坂本の印、変えず』の札を一枚、門に」
「承知」
弥七が、鳴らない鈴を掌に隠して頷く。稲冨は声箱の紙を抱え、市松は帳面の『息』の行に小さく点を打った。お初が腹帯の結びを確かめ、源九郎が釘袋を打ち鳴らす。若旦那は『少し』の絵の札を新しく刷り、定吉が走る。了俊は寺の鐘の紐を握り、子の目の高さをたしかめてから、低く言った。
「殿。鐘は一と三。舟は二と四。夜は打たず。……お気を」
光秀は頷くと、佩刀を取って帯に差した。懐の文に指をやる。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。煕子の細い字は、何度触れても、指の腹に冷たさを残すだけで、紙は破れない。破れない紙ほど、重い。
湖を渡る風は乾いていた。乾いた風は、言葉を短くする。坂の見える辻で、町の者が道の端に避けた。目が、ひとつ、またひとつ落ちる。落ちる目が増えるほど、印は白くなる。白い印ほど、読まれない。読まれない印ほど、残る。残るものに、今は賭けるしかない。
安土へ。道程の先に、白い壁と彩りの高い舞台が静かに立っている。安土は舞台であり、幻だ、と以前に自ら書き付けた言のとおり、昼の光は壁の白さをさらに薄くして、縁の朱だけが目に刺さる。刺さる赤は、血の赤と似ているが、匂いがない。
城門で馬を下り、石段を上る。足裏の石は冷たく、ちいさな霜の粒が音もなく砕けた。砕ける音がないのに、胸の中では何かが小さく砕けた気がした。砕けたものの名を、今は付けない。
広間。薄金の布、漆の床、南蛮の器。視線が集められる場所が、いくつも用意されていた。用意された視線の先に、信長がいた。冴えた装束、冴えた目、薄い唇。笑ってはいない。笑っていないのに、冷笑はそこにある。声ではなく、空気が笑う。
「坂本」
呼び捨て。場が傾く。膝を進め、扇を伏せる。
「遅い」
ひとこと。短い音が床を走る。音は、板の隙間で止まらず、壁の彩に吸い込まれた。
「役に立たぬ」
吐き捨てるような言い方で、その後に何も続かない。続かないところが、刃の先のように鋭い。
広間の空気がわずかに揺れた。揺れの源は一つではない。端で羽柴が扇をひと折り鳴らし、笑いを薄く立てて、場を軽くしようとした気配。柴田勝家は動かない。滝川は目を伏せ、丹羽は札のように視線を固定する。法務卿・玄檀は、唇の端だけを持ち上げ、目を笑わせない。笑わない目ほど、よく見ている。
光秀は深く頭を垂れた。頸の後ろで、筋が一本だけ強く張る。張る場所があるというのは、まだ折れていない証しだ。折れぬことは、良いとも悪いとも言えない。ただ、続けるための条件である。
「毛利は、動く。羽柴は押す。——坂本、お主は支えると言って、いつまでも板に釘を打っている」
信長の指が盃の縁を撫で、指についた水を衣の端で拭った。拭う仕草は雑で、雑さが似合う。雑の強さ。強さの雑。
「橋は渡るためにある。渡ってしまえば、外す」
「は」
「外した板を抱えて、いつまで座す」
「……補給の順と札の高さを整え、笑いは火に寄せ、太鼓の二は禁じております。遅れは順でほどいております」
「順でほどく間に、時は行く」
信長は、盃を卓へ小さく置いた。底が鳴る。鳴りが、先刻坂本で盃を置いたときの鳴りと同じ高さであることに気づく。音は、目に見えぬ尺度だ。
「坂本」
もう一度、呼び捨て。「お主の理は、働く。しかし、堅い。堅いものは、口に合わぬ者が多い。口に合わぬものは、いずれ吐かれる」
羽柴が、扇の陰で目を細め、一歩引いた。勝家が、鼻を鳴らし、滝川が扇の骨で膝を打つ。丹羽は、動かない。玄檀は、舌を湿らせ、見せしめという言葉を喉の奥で転がしている。
「……申し開きはございませぬ」
言葉は短いほど、壁になる。壁は、内と外を分ける。分けたまま、内に火を置く。
「下がれ」
信長の目は、光っていた。冷たい光だ。冷たい光は、刺す。刺さるが、燃やさない。
膝を退く。退く途中で、羽柴と視線がかすかに交わった。彼は笑い、笑いの高さを落とした。「坂本殿」と唇だけで言って、扇を閉じた。閉じた扇の先で、彼自身の影が短くなった。影が短くなる者は、次に伸びる。伸びる影は、誰かの足元を冷やす。
広間を辞し、廊を渡る。廊の柱は、昼は光を返し、夜は火を吸う。今は昼で、光のほうが強い。強い光は、影を細くする。細い影は、足元にまとわりつく。
「坂本殿」
丹羽が、廊の曲がりで立ち止まり、低く言った。「板は、必要です」
「承る」
丹羽は、それ以上は言わなかった。言葉の無駄を嫌う人だ。無駄を嫌う者は、笑いと遠い。笑いと遠い者が、すべて理に近いわけでもない。距離の妙。それを、いま測る余裕はない。
「殿」
利三が、控えの間で待っていた。彼の顔は、承知の形でできている。「坂本へ、お戻りに」
「戻る」
「札を増やしますか」
「増やす。……『灯』と『沈黙』を一枚ずつ。目の高さを半尺下げよ」
「承知」
利三は迷いなく返し、弥七は鈴を内で鳴らす仕草だけをして、頷いた。稲冨が板を抱え、市松が帳面の罫に細い線を一本足す。お初は布包みを差し出した。中には、小さく継がれた指袋。源九郎が釘袋を叩いた。鉄の乾いた音が、廊の白に吸われた。
坂本への道は、安土の幻の背中を見送る形になる。背中を見送るとき、人はよく背中を嫌う。嫌いながら、礼をしたくなる。矛盾に、名は要らない。
湖を越える風が少し湿った。湿りは雪の匂いを連れてきた。雪は、音を吸う。吸われた音の分だけ、胸の内側の音がよく聞こえる。
「役に立たぬ」
信長の言葉が、耳ではなく骨に残る。骨に残った言葉は、動きを整える。整えながら、別の言が胸に立ち上がった。
——理を否定する者に、理を示す術はあるのか。
声にはしない。声にした瞬間、理が薄くなる。薄くなった理は、笑いに溶けやすい。溶けやすいものは、冷えやすい。冷えたら、次に温めるのに、火が要る。
坂本に戻ると、門の札が一枚増えていた。『坂本の印、変えず』。文字は太すぎない。太すぎる字は、寒い。寒い字は、読み手の息を奪う。
政務の間に入ると、三枚の大札——『兵糧』『避寒』『治療』——の下に、黒い線が増えている。稲冨が指で数える。「薄粥の鍋、三。芋の欠片、二。布切手、十。灰と酒、五。……『灯』は、二つ増やしました」
「よい」
座にはつかない。立ったまま、札の高さを半尺下げる。目の高さが低くなると、読む人が増える。増えた目の分だけ、文字は薄くてよい。薄い黒は、長持ちする。
「殿」
お初が、火床の炭を寄せながら言う。「城下の声、『王の粥で、夜が短くなった』と」
「短くなる夜は、朝を重くする。……重い朝に、板を一本」
源九郎が頷く。「釘は二本増やしやす」
利三は、安土での言葉を持ち込まなかった。持ち込まれないものは、持ち込まれたものより強い。強い沈黙は、乱れぬ鎧と同じだ。乱れぬ鎧の下で、人は息をする。
夜。坂本の灯は少ないが、見慣れている。見慣れた灯は、怖くない。怖くない灯の下で、札をもう一枚出した。『灯』の隣に『沈黙』。——『沈黙は屈せず。聞くための形』。この札は、安土の広間には似合わぬ。似合わぬ札ほど、坂本には似合う。
当直の兵が、太鼓の皮に指を置いた。「今夜、二つ鳴らしても、誰も眠れますまい」
「なら、なお鳴らすな」
「は」
弥七が鈴を内で鳴らす。鳴らない音が、胸の内で鳴る。内で鳴る音は、言葉の影を増やす。影は、灯の数で薄くなる。灯を数えるのは、利三だ。彼は数え、増やし、減らし、札に書く。書かれた字が、人の血肉に変わるまで、何度も。
夜半。庭の竹が、風に揺れた。節が鳴る。節は止まり、そして伸びる。伸びるために、止まる。止まる場所を、今は胸の内に決める。胸の内の火床は小さいが、灰の中に真がある。真は、手で触れられる。触れると、指の腹が黒くなる。黒は、落ちる。落ちても、指は残る。
懐の文を確かめ、文机に置いてある金継ぎの茶碗を手に取った。金の線は、灯の下で薄く返る。返りは刃ではない。器の返りだ。器は、欠けを見せることで、使われ続ける。理も、欠けを見せるべきなのだろうか。見せた欠けを笑う世は、ある。笑われながら、継いで使う術があるなら、それが道。
「殿」
利三が、襖の外で足を止め、待つ沈黙を置いた。「明朝の段取り、『兵糧』の札の下へ『冬借』『配給』を戻し、城下の倉の鍵は二人役に」
「戻せ。……『冬借は鎖なら、生かす鎖』と小さく、札の端へ」
「承知」
利三が下がったあと、稲冨が声箱の紙を持ってきた。紙は、昨日より重い。「『紅月の男、声を沈めた』『坂本の札、安土でも読まれたい』。……『役に立たぬ』という噂も、入っております」
光秀は紙を一枚、指で折った。折った角は柔らかくなり、紙の硬さが手に馴染む。「役に立たぬ、か」
「役に立つのは、今日の腹。役に立たぬのは、明日の理。……誰かがそう言うのは、わかります」
「わかるが、わたしは逆をする。今日の腹のために、明日の理を削らない」
稲冨は黙って頷いた。頷きの陰で、目だけが濡れた。濡れは、涙ではない。濡れた目は、字が太く見える。
外で、風が少し強くなった。屋根の木口が鳴る。鳴るたび、煕子の指のぬくもりが金継ぎの線に残っているように思う。残像は、器の側に宿る。人の側には、残像は宿らない。宿らないものを、札にするしかない。
「理を否定する者に、理を示す術はあるのか」
胸で、もう一度言った。言葉は、闇の中で形になる。形になったものは、折れるか、撓むか、いずれにせよ次の朝を迎える。
⸺
翌朝。鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。舟の鐘が二つ、そして四つ。耳の印は、足の順になる。順どおりに、坂本の朝は動く。
「殿」
権六が見張りの櫓から声を落とした。「城下の角。黒衣、影が薄い。……噂の風向きが変わりました」
「札の高さを半尺下げたからだ」
「なるほど」
弥七が鈴を内で鳴らし、「『灯』の札、よう利く」と言った。お初は鍋の蓋を開けて湯気を吸い、「息」と小さく呟いた。市松が帳面の『息』の列に点を置く。若旦那は『少し』の絵を刷って、源九郎は釘袋を鳴らす。定吉が走り、了俊が鐘の紐の高さを、また子の目の高さに合わせる。子はここにいない。いないもののために合わせることが、いま理である。
昼近く、安土からの使者が再び来た。封は短く、乾いている。「進捗、送れ」。乾いた言葉は、湿りを嫌う。湿りを嫌う言葉に、湿りを添えずに返すのは難しい。
返状は、利三が筆の腹を薄くして速く書く。「油一樽繰り上げ/板二枚増/舟鐘二四/夜不打/太鼓二禁」。稲冨が端に『冬借/配給』と添え、市松が『息』の文字を小さく書き足す。墨の重さが、紙の重さを変える。
夕刻。坂本の寺で臨時評。灯がひとつ、またひとつ増える。灯の増え方で、夜の長さがわかる。長い夜ほど、灯が多い。灯が多いほど、影が薄い。影が薄くなると、噂も薄くなる。
「玄檀よりの触れ、『偽王』の口、見せしめを」
利三が短く伝える。藍珠はそこにいないが、彼女の言葉は胸のどこかに常にある。「見せしめは剣より粥で」。了俊は「剣を鞘の高さに」と添え、権六は顎を引いた。剣が鞘にある音は、夜に利く。
評の後、光秀は一人、坂本の竹へ出た。竹の節は、夜の冷えで硬い音を持っている。節を指で弾けば、短い音が返る。短い音が、胸に残る。
「役に立たぬ」
あの広間の声を思い出し、唇を結ぶ。唇は、言葉を止める器だ。器は、欠けてこそ使い途がある。欠けた唇から漏れる言は、刃になる。刃は、今は要らない。
星は冷たい。冷たいものは、理の側にある。理は冷たいから、温度を持つものと並べて言うしかない。温度は、粥と灯と布と灰と酒と、札と釘と、そして人の息に宿る。
「理を否定する者に、理を示す術はあるのか」
もう一度。ただの問いで終わらせない。術を、地に置く。置くべき場所は、いつも同じ——目の高さ、手の高さ、耳の高さ。鐘は一と三。舟は二と四。夜は打たぬ。太鼓の二、禁ず。袋の口は少し。『沈黙は屈せず』。『灯』。その一つひとつが、答えの断片になる。断片の横で、笑いが流れる。流れる笑いは、悪くない。笑いの上を、人が渡る。その下で、板は撓み、釘は鳴らず、札は黒く立つ。
⸺
数日後。安土から三度目の急使が来た。封はさらに短く、余白が広い。「来れ」。広間の白、壁の白、紙の白。白は好きではない。白は、罪を見せない。
再び、安土へ。舞台の灯は増え、色は濃く、音は薄い。広間に満ちるのは、冷たい光だ。信長は、盃を指で転がしていた。転がる音は、皿の上の骨の音に似る。
「坂本」
呼び捨て。場が傾く。膝を進める。
「遅い。——役に立たぬ」
前と同じ言。同じ言葉ほど、刃の角が鈍る。鈍る刃は、重くなる。重い刃のほうが、骨に響く。
「は」
沈黙は、壁。壁は動かない。動かない壁に、今夜は灯をひとつ吊るす。吊るした灯は、小さい。小さい灯ほど、影の形が正確に出る。
羽柴の扇が、ひっそり鳴った。「坂本殿、橋板は撓めておいでか」
「撓めた」
「よろしい」
勝家が鼻を鳴らし、滝川が扇の骨で膝を打つ。丹羽は、札に目を落としたまま。「坂本殿の字は、細くて長い」と言った。玄檀は、舌の先で言葉を数え、「見せしめは——」と出しかけて、信長の指の動きに口を閉じた。
信長の目は、冷たい光のまま、わずかに笑った。笑っていないのに、笑いがある。冷笑。広間の空気が、また薄く波を立てる。
「下がれ」
同じ言。同じ身振り。違うのは、胸の中で、火が少し強くなっていることだ。強くなった火は、炭の中で真を持つ。真は、外から見えない。見えないままでよい。見えないものが、長持ちする。
廊に出ると、昼の光が白から黄に変わり初めていた。黄は、弱さの色ではない。黄は、次の赤の手前の色だ。
「殿」
利三が、待っていた。「お戻りのとき、坂本の『灯』は三つ増やしまするか」
「増やせ。……『理を否定する者に、理を示す術』についての札を、一枚」
利三の目が、はじめてわずかに揺れた。「どのように」
「『目の高さ/手の高さ/耳の高さ』と三行で書け。——言葉は三行で足りる。足りぬ分は、灯と粥と釘が補う」
「承知」
坂本へ戻る途上、湖の面に安土の影が落ちた。影は歪む。歪むものほど、真実の形に近いときがある。歪みは、幻の形をほどく。ほどけた先に、板の端が見える。
夜。坂本の灯の下で、札が一枚増えた。白い板に黒い三行。目の高さ。手の高さ。耳の高さ。——それ以上、書かない。しかし、読む者は、続きの行を自分の中に書き足す。書き足された行は、札の外に、見えない柱を立てる。
お初が鍋の蓋を開け、芋の甘さに目を細める。弥七が鈴を内で鳴らす。権六が顎を引き、太鼓の皮を打たない。稲冨が板の角を押さえ、市松が帳面に『灯』の数を増やす。源九郎が釘袋を抑え、若旦那が『少し』の絵を乾かす。定吉が走り、了俊が鐘の紐の高さを子の目に合わせる。利三が、札の文字の太さを半分にした。半分の太さが、今夜にはちょうどよい。
——理を否定する者に、理を示す術はあるのか。
ある。と、今夜は小さく答えてみる。術はいつも、派手ではない。声ではない。札と、灯と、粥と、釘と、鈴と、鐘と、腹帯と、灰と、酒と、息。これらを、目の高さに。手の高さに。耳の高さに。目に見え、触れられ、聞こえる場所に置く。その置き場を、毎朝確かめる。確かめ続ける。——それだけが、術だ。
広間の「役に立たぬ」は、骨に残っている。骨に残ったものは、動きを整える。整えられた動きは、声を要しない。声を要しない動きが、夜の長さを短くする。短くなった夜の底で、胸の小さな火が、炭の中で呼吸を変える。息が一つ増えるたび、火床の灰が深くなる。深い灰は、火を守る。
「殿」
利三が、灯の陰で言った。「坂本の札、『理の術』、読みやすいと評が」
「評は、紙に残すな。口の中で消せ。札だけ残せ」
「承知」
利三は黙った。黙ることが、今夜は礼だ。
遠くで、舟の鐘が二つ、そして四つ。陸の鐘が、一つ、一つ、一つ。耳の印は、胸の印に変わる。胸の印は、火の印になる。火の印は、言葉の印に勝る時がある。勝ったからといって、声を殺すわけではない。声は、灯の中で低く息をする。息をする声がある限り、理は折れない。折れないように、撓む。撓みの角度を、今夜も覚える。
煕子の文に指をやった。「殿の理は必ず春を呼ぶ」。紙の冷たさが、指の腹に移る。移った冷たさが、内側の火を逆に鮮明にする。冷たさは、火の輪郭だ。輪郭があれば、燃やし過ぎない。
安土の広間で浴びせられた言葉は、まだ重い。重いものを肩に載せたまま、坂本の札の前に立つ。札の角を押さえ、灯の高さを半尺下げ、釘の数を二本増やし、太鼓を打たせず、鈴を内で鳴らす。ひとつひとつ。ひとつひとつが、術であり、返事である。広間への返事は、広間に向けてではなく、坂本へ向けて出す。坂本で返す。返されたものが、いつか向こうへ届くことがある。届かずとも、ここに残る。残るものが、春を呼ぶ。
「理を否定する者に、理を示す術はあるのか」
ある。と、もう一度、胸で言う。言った先で、何かが静かに芽吹いた。芽は、熱くない。冷たい芽だ。冷たさのまま、土の下で根を降ろす。降りた根が、板を下から押し上げる日が来るかもしれない。来ないかもしれない。来る日を待って札を増やすのではない。来なくても、札を増やすのだ。
夜が更けた。灯が細くなり、火床の炭が赤くなり、闇が濃くなり、音が吸われる。吸われた音のかわりに、胸の内で火の音がする。ぱちり。小さい音だ。小さい音ほど、長く残る。残る音がある限り、叱責は刃にならない。刃でないものは、手で持てる。手で持てるものだけが、朝を迎える。朝が来れば、また鐘が鳴る。鐘は、誰のものでもない。——誰のものでもない印が、もっとも強い。強い印の下で、静かな炎は、今夜も、くすぶりつづけている。




