第二十五話 秀吉の影
鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。薄靄の裾を押し広げるように、陸の印が鳴った。つづけて、舟の鐘が二つ、そして四つ。湖は遠い。けれど、耳は距離を持たない。耳の覚えが、足の順を整える。順に従って、陣は起き上がる。火は灰の中で呼吸を変え、兵は手袋の縫い目を押さえる。押さえた縫い目は、昨夜お初が継いだばかりだ。
毛利攻めの列は、山裾に沿って、まるで長い蛇が陽を探すようにうねっていた。先頭は軽く、末尾は重い。軽いものは、笑いとともに風に乗る。重いものは、黙って土を噛む。先頭には、羽柴秀吉がいる。肩の力を抜いた笑い、冗談のような号令、手のひらで太陽を撫でるみたいな目配せ。冗談に乗った兵の足は、いつも半歩だけ早くなる。半歩だけ——それが積もると、里ひとつぶんの差になる。
光秀の居る場所は、その差を埋めるための板を並べるところだ。補給の列は、細くなれば断たれ、太くなればもつれる。太さを測る札は、今日も目の高さに並んだ。『袋の口は少し』『夜は打たぬ』『太鼓の二、禁ず』『迷いは節』『息』。札の黒い線が、冷えた朝に立っている。その一枚一枚が、見えぬ綱の張り具合を教えてくれる。
「殿。湖西の渡し、板をもう一枚借りてきました」
稲冨が、肩で息をしながら駆け寄る。額の汗は、寒さのなかで薄い光沢に変わっている。
「堺の油、一樽繰り上げ。淡路の舟、鐘は二と四。夜は打たせず。——札に」
「承知」
板の端に、稲冨は素早く『油一/鐘二四/夜×』と書き込み、角を押さえて立つ。立つ人の影が札にかかり、文字がわずかに揺れる。揺れは、行き先を間違えないための余白だ。
「弥七」
「は」
「鈴は縄の根で結べ。鳴らすな。ただし、内では鳴らせ」
弥七は、いつものように鈴を掌に包む。鳴らない仕草が、持つ者の骨へだけ小さく響く。「内で鳴る音は、外では要らぬ」と、彼はいつも言う。外へ出る音は、必要なときだけでよい。
権六は見張り櫓で顎を引き、太鼓の皮に指先でふれた。皮の張りは夜の冷えを映し、打たぬ太鼓の気配が、陣の端を締める。太鼓が鳴らない夜は眠れる。眠れる夜は、朝の足が折れない。
秀吉の陣から、笑いがこちらへ流れてきた。笑いは軽く、風の表面を滑る。滑っている間は、どんな石の角にもぶつからない。笑いの流れの先で、秀吉は扇をひと折り鳴らし、「わしの顔が米に見えるか」と兵に言っていた。見える、と答えた若い兵を肩で抱き、握り飯を半分渡す。半分でも、笑いの輪は膨らむ。膨らんだ輪の真ん中に、功の芽が置かれる。芽は、日当たりのいい方へ伸びる。
軍議の刻。幕の中、地図の上に、石がいくつも置かれた。石は、橋の脚であり、兵の腹であり、舟の鐘の数でもある。光秀は、石を一つ持ち、川の蛇行の先に静かに置いた。
「ここで補給の列が細る。細る手前に板を渡す。板は二枚。舟を増やすのではなく、渡しの刻をずらす。鐘は二と四。夜は鳴らさぬ。敵は音を追う。音を与えなければ、腹を追えぬ」
「腹は追えぬが、笑いは追える」
秀吉は、扇を口もとに当て、目だけで笑った。「坂本殿、あんたの理はよう働く。が、固い。固いものは、口に合わぬ者も多い」
「口に合わぬものが必要な時もあります」
「要るとも。じゃが、兵は笑う方へ足を出す」
秀吉が扇を軽く振ると、幕の端で控えていた若い兵たちの口元が緩む。緩んだ口元は、言葉を軽くする。軽い言葉は、遠くへ行き、戻るのも早い。戻ってきた言葉は、功を抱えている。誰の功か——答えは、輪の中心に立つ者の笑いの高さに合わせて、半ば自動で決まっていく。
柴田勝家は、笑わぬ。笑わぬまま、石を二つ、南の丘の背に置いた。
「わしは直ぎ進む。ここは刀の理よ。坂本の板は、わしの脚を沈ませぬ」
滝川一益は、川筋を扇でなぞり、「浅瀬は人の目に浅い。深瀬は人の目に深い。どちらも、渡るのは同じ刻」とだけ言った。丹羽は、札の束に目を落とし、「坂本殿の字は、太さが一定でよい」と低く笑った。
軍議の輪の空気は、秀吉の冗談で片側に傾き、光秀の理で反対へ戻り、勝家の太い声で真ん中へ落ち着く。落ち着いたと思うと、また秀吉の扇がひと折り鳴り、笑いが薄く立つ。薄い笑いは、音の形をして幕を透る。透った笑いの後ろで、理は木霊になる。木霊は、布に吸われ、火に飲まれる。
「坂本殿」
軍議が解ける前、秀吉がすり寄るようにしてきた。扇の先で地図の端を押さえ、声を落とす。「功の割り前に、坂本殿の名はちゃんと入る。わしはそういう計りは嫌いじゃない」
「功の先に、札が残れば、それでよい」
「そう言うところが、固いのよ」
扇の陰で、笑いの目が細くなる。細くなった目の中に、測り石のような固いものが一瞬走る。固いものは、笑いの裏で、ひっそり音を立てる。
昼は進む。進むたびに、後ろで板を増やす。増やした板の上を、米と塩と油と薪と灰と布切手が渡る。渡るたびに、名が増える。名を数えるのは市松だ。彼の手は小さいが、指は速い。帳面の罫には『祝/印/税/息/油/灰』の列があり、今は『息』が一つ多い。
お初は、破けた指袋を継いで、若い兵の指に嵌め直した。「笑いは指を温めてはくれない」と、彼女はいつも言う。源九郎は、釘袋を腰で鳴らし、橋の板に釘を打つ。釘の音は、人には聞こえぬほどに小さい。小さい音ほど、長く陣に残る。若旦那は『少し』の絵の札を新しく刷り、定吉は走る。了俊は、陣の小寺で灯を一つ増やし、鐘の紐の高さを、子のいない夜にも子の高さに合わせる。合わせる行為そのものが、理の名だと、光秀は思う。
夕方、先陣が丘を越えた。丘の向こうで、秀吉の旗が高く揺れ、冗談めいた合図が太陽の色を真似る。太陽の色の下で、兵の声が高くなり、その高さが勝ちの色に塗り替えられていく。補給の列が息を押し殺して丘を回る間に、「羽柴が押した」「羽柴が抜いた」という言葉が、もう市の口に乗っていた。言葉は早い。早い言葉は、理の板に足を置かない。置かぬまま、遠くへ運ばれる。
夜、陣に戻ると、酒の匂いが薄く広がっていた。薄い酒で、冷えをほんの少しだけ丸くする。丸くするほどには足りぬが、足りないなら足りないなりの笑いが立つ。笑いが立つ場所へ、秀吉は自然に現れる。現れた途端に、輪の中心がずれる。ずれることで、座は崩れない。崩れないように座す術を、秀吉はよく知っている。
「坂本殿」
秀吉は、盃を片手に、もう片の手を光秀の肩へ軽くかけた。肩へ乗った手は、軽い。軽いのに、重さがある。重さは、肩にではなく、言葉の後ろにある。
「理は、堅すぎると折れる」
囁きの高さは、冗談の高さと違っていた。低い。低さは、親しさに似る。だが、今夜は違う。低い声の底に、薄い皮肉の影が揺れた。揺れは、小さい。小さい揺れほど、長く胸に残る。
光秀は盃を置いた。置いた盃の底が、板に一度鳴った。鳴りは刀の柄の鳴りに似る。似ているが、刃は出ない。出さない。出せば、今夜の笑いは刃の反りで裂ける。
「坂本殿」
秀吉は、肩から手を外さなかった。「堅いものは役に立つ。橋の脚は堅い方がよい。けど、橋板は、少し撓むほうが、人の足が怖がらぬ」
「橋板は、釘で持つ」
「釘を打つ音は、人に聞こえぬ」
「聞こえぬ音の上で、笑ってくれれば、それで」
秀吉は、盃を一度口に運び、視線だけで笑った。「坂本殿。わしはあんたが嫌いではない。嫌いではない、というのは、好きではない、ということでもない」
光秀は、沈黙を選んだ。沈黙は、理を守るための壁だ。壁は、人の目には時に屈服に見える。見えることは知っている。知っているが、今夜は壁の内側にしか置けない言葉がある。
利三が、少し離れた火の輪の外からこちらを見た。問いはない。承知と同じ顔で、彼は盃を置いた。権六は、太鼓の皮の張りを指で確かめ、お初は火床の炭を寄せた。弥七は、鈴を内で鳴らし、市松は帳面に『功/名』の欄を開きかけ、そっと閉じた。若旦那は『少し』の絵の札を火の陰で乾かし、源九郎は釘袋を握り直した。了俊は、小寺の灯の芯を短く切った。切るという行為が、今夜は祈りに近い。
酒宴の輪は、秀吉の冗談で揺れ、揺れながら崩れず、崩れないまま光秀の方へは寄らない。寄らない距離が、今夜の温度だ。温度を測るのに、言葉はいらない。指先と、札の厚みと、盃の底の鳴りだけで足りる。
やがて、秀吉は別の輪へ移った。移るのは自然で、誰の肩も押さない。押さないのに、中心は向こうにある。向こうで笑いが大きくなり、こちらで火の音が聞こえるようになる。火の音は、笑いよりゆっくりだ。ゆっくりな音は、長持ちする。
利三が、ささやくとも言えぬほどの低さで言う。「殿。『理が届かぬ世』と、胸で言っておられますか」
「言っている」
「届かぬものは、届かせるための板がいる」
「板は、笑いの下に隠れている」
「隠れている板ほど、よく人を渡す」
光秀は、盃に手を伸ばさなかった。盃の口は冷たく、今夜は舌よりも胸を冷やす。胸の冷えは、理の形を保つ。形があるものは、折れにくい。秀吉の囁きが言う「堅すぎると折れる」という言葉を、光秀は胸の裏で何度も裏返してみた。堅いものは折れる。折れないために、撓む。撓むために、釘の間隔を変える。釘の間隔を変えるのは、理の仕事である。
幕の外に出ると、星が冷たかった。昼間の笑いは、夜の星に用がない。星は、誰の理にも従わない。従わないから、誰の功にも加わらない。加わらないものの前で、人はよく黙る。黙ったまま、札の角を撫でる。撫でれば、角は冷たい。冷たいものは、熱い言葉を沈める。
「殿」
了俊が、背後で軽く頭を下げた。「鐘は、打ちませぬ」
「打つな」
「ただ、紐は握っておきまする」
「握れ。——明朝、札を一枚足す。『橋板、撓め』」
「撓め」
了俊は短く復唱し、灯へ戻った。灯が遠ざかると、星の数が増えたように見えた。増えたように、というのは、見ている側の心の位置の問題だ。
翌朝。鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。舟の鐘が二つ、そして四つ。札の下に、黒い線がまた増える。『油一』『灰/酒』『布切手/継ぎ外套』『橋板/撓め』。新しい札の字を見て、弥七が小さく笑った。「撓む板は、音がよい」と。源九郎は頷き、「釘の打ちどころが難しゅうなる」と言った。難しいほど、人の手がそこへ集まる。集まれば、息が通う。
軍議。地図の上で石が動く。秀吉は、「押す」と言い、勝家は「突く」と言い、滝川は「回す」と言い、丹羽は「留める」と言う。光秀は、「支える」と言った。支えは、言葉になりにくい。支えがあることは、崩れないことでしか知られない。崩れなかった後、笑いが功を呼ぶ。呼ばれた功の上で、札は黙って立っている。
「坂本殿」
秀吉が、軍議の最後に、扇を鳴らして言った。「理は、堅さだけではない。温度もある」
「温度は、粥の湯気で測る」
「湯気は、風で消える」
「だから、札で囲う」
「札は、火の匂いがせぬ」
「匂いは、人の掌でつくる」
秀吉は、少しだけ目を細め、「掌は、わしのほうが多い」と笑った。笑いの真上で、功の芽がまた一つ、日を浴びる。日が当たる芽は、強い。強い芽は、陰をつくる。陰は、誰かの上に落ちる。落ちた陰の冷たさを、光秀は肩で受ける。受けながら、肩の上で札の角を立て続ける。
昼の進軍は、板の枚数と同じだけ軽く、釘の数と同じだけ重かった。軽重の中間に、坂がある。坂の途中で、笑いは上を向き、理は足元を見る。足元の泥の色を覚える者が、板の位置を一寸ずらす。ずらした一寸が、夜の命を変えることがある。
夕方、丘の向こうで、また「羽柴が押した」という声が起きた。起きた声は、陣の中を駆け、紙より早く坂本へもどり、やがて安土の壁で薄く鳴るだろう。鳴らないもののほうが多い。釘の音、札の影、火床の灰の匂い、薄い湯気の温かさ——それらは、功とは呼ばれない。
夜、酒宴。昨夜と同じ、火の高さに笑いが揺れた。盃は薄い。薄い盃の底の鳴りは、堅い言葉の角を削る。削られた角は、明朝の板の端に小さく残る。残った欠けは、金継ぎの線を呼ぶ。懐の茶碗のひんやりした金の線を、光秀はふと思い出した。欠けは、見える。見えるから、直せる。理の欠けは、見えにくい。見えにくいものを直すには、長い夜が要る。
秀吉は、今夜は抱き寄せなかった。遠くから盃を掲げ、目だけで笑った。笑いは礼だ。礼は、距離の形だ。距離が形になったとき、人は安心する。安心は、油断と違う。違いが分からぬ者は、笑いに酔う。分かる者は、笑いの下の板の音を聴く。聴く者は少ない。少ないが、いないわけではない。利三は、火の陰で盃を置いた。置いた音が、板の下で短く返った。
「殿」
利三が、今夜は言葉を選ばずに言った。「功は、羽柴殿の影に集まっています。影が濃いほど、板の上を見つけにくい」
「影が濃いなら、灯を増やす」
「灯は、風で消えます」
「札で囲う。——『灯』の札を一枚」
「承知」
弥七が頷き、稲冨が板の角に『灯』と太く置いた。字は黒い。黒で囲われた白の中に、灯が立つ。立った灯に、虫が寄る。寄った虫は、小さくはあるが、夜の形を教えてくれる。
深更、幕の外へ出る。星は冷たく、風は乾いている。乾いた風は、紙の端をめくる。めくられた紙に、言葉はまだない。言葉がない間に、胸の奥で何かが固まる。固まるものが、堅すぎれば折れるのだろう。折れないために、撓む。撓みの角度を、今夜は覚えておく。
——理が届かぬ世。
胸に置いた言葉は、今夜、少しだけ重さを持った。重さは、嫌悪ではない。重さは、責めでもない。重さは、板の重さに似ている。板は、重い方が渡れる。渡るための重さだ。渡りきったのち、板は外される。外された板の跡が、道の幅になる。
「殿」
背後で、お初が小さく呼んだ。「腹帯の結びを見ておりました。若い兵の。——笑いは結び目を解きます。解けたら、結び直せばよい」
「結び直せるように、外へ出した縫い目を、消さない」
「はい」
お初は、短く頷き、「粥の湯気、今夜は甘うございます」と笑った。芋が一欠片、鍋に入ったのだ。芋の甘さは、功にはならない。けれど、人の舌はそれを覚える。覚えた舌は、明朝、足を前へ出す。
「殿」
了俊が、灯の芯を短くして近づいた。「鐘は、明け方に一度。舟は二と四」
「承知。太鼓の二は、禁ず」
星は多い。多さの前で、人はよく祈る。祈りは中心を詠み、理は端に座す。端に座ったまま、板の角を撫で、札の高さを半尺下げ、灯を囲い、釘を増やす。増やす作業のひとつひとつの陰で、秀吉の笑いがやさしく響く。やさしい笑いの裏に、固い目が一瞬、走る。走った目の線が、冷たく胸に刺さる。刺さる痛みは、今夜の酒よりも長持ちする。
——理は堅すぎると折れる。
彼の囁きが、耳ではなく骨に残る。骨に残った言葉は、動きを整える。整う動きは、声を要しない。声を要しない動きの先で、鐘が鳴る。鐘は、誰のものでもない。誰のものでもない印が、もっとも強い。強いものに寄りかからず、並んで歩く。そのために、今夜も、理の板を撓める。撓めた板の上を、笑いが先に渡り、人があとから渡る。それでよい。よいが、忘れない。板の下に、釘の数がいくつあるかを。
夜明け。鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。舟の鐘が二つ、そして四つ。秀吉の陣からは、もう冗談が聞こえる。冗談は、今日の風を軽くする。軽くなった風の下で、光秀は札の角を押さえ、盃の底の鳴りを胸で消し、佩刀の柄に軽く手を置いた。骨が小さく鳴る。鳴りは、節の音。節は、止まり、そして伸びる。伸びるために、止まる。止まる場所を間違えぬよう、昨夜の囁きと、懐の金の線の冷たさを、同じ場所に置く。
「行こう」
利三が「は」と応え、稲冨が板と筆を抱え、弥七が鈴を内で鳴らし、権六が顎を引き、市松が帳面を抱え直した。お初は腹帯を確かめ、源九郎は釘袋を打ち鳴らし、若旦那は『少し』の絵を掲げ、定吉が走る。了俊は、寺の鐘の紐を握り、子の目の高さをもう一度確かめる。
秀吉の影は、今日も長い。長い影は、冷たくはない。笑いの温度を帯びている。温い影は、人を寄せる。寄せられた人の肩の上で、札の角が立つ。角は、冷たい。冷たいものだけが、温かいものと並べて言える。並べて言える場所が、理の居場所だ。理が届かぬ世であっても、届くように撓める板がある。板を渡す手がある。手に残る釘の匂いがある。その匂いの上で、今日も進む。功は笑いに集まり、影は長くなる。長くなった影の縁で、板の音は、相変わらず小さい。小さい音ほど、長く残る。残った音が、いつか誰かの耳に届くまで、札を目の高さに。火を、息の高さに。剣を、鞘の高さに。
理は、折れない。折れないように、撓む。撓む角度は、笑いには見えない。見えなくていい。見えないものの上で、今日も、人は渡る。渡りながら、遠くの冗談に笑い、近くの札を読み、足の裏で板の厚みを確かめる。確かめられる限り、遅れは罪ではない。ただの距離だ。距離は、板で縮む。その板を並べることが、今の自分の功であり、影の中でしか働かぬ理である。
影は、長い。だが、影があるから、光は見える。光が見えるから、札が読める。札が読めるから、足が前へ出る。足が前へ出るから、鐘が次を呼ぶ。——それで、よい。いいと、今は、言い切る。盃の底の鳴りを胸の奥へ沈めたまま。




