第二十四話 沈黙の夜
鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。陸の印が、宵の境を薄く刻んだ。続けて、舟の鐘が二つ、そして四つ。湖の気は遠いが、耳は覚えを失わない。陣の端の見張り櫓で、権六が顎を引き、手の甲で風を測る。乾いた風だ。乾いた風は、紙の角を早くめくる。紙の角が早くめくられる夜は、心の角もまた、早く露わになる。
毛利攻めの列は、山裾を這う蛇のように長かった。昼は土の匂い、夜は鉄の匂い。火の粉は、湿った藁束の上でくすぶり、くすぶる火のそばで、兵の息が白く立った。坂本から遠く離れても、陣中の札は目の高さにある。『袋の口は少し』『夜は打たぬ』『太鼓の二、禁ず』。札は、知らぬ場所でも、見慣れた顔をしている。見慣れた顔は、人の脈を整える。
その日の暮れ、砂走りの早駆けが陣の中央を横切り、火の輪を崩しながら、使番の列の先に膝をついた。封には朱の一筆。角の起筆は、冷えた刃のように硬い。信長の書の印である。
利三が封を切り、膝を進めて差し出す。光秀は、一歩だけ火から遠のき、灯の影で文を開いた。紙の繊維が、乾いた風に鳴って、夜の最初の音になる。
——急げ。遅れは罪。
簡潔で、余白が冷たかった。余白の冷たさは、言葉の温度よりも、先に胸へ入ってくる。先に入ってきた冷えが、腹の奥で丸くなる。
「承知」
声に出す必要のない返答を、光秀は低く口の中で言った。利三は、頷いて下がる。弥七が、鈴を縄の根で結び直す仕草をして、内で鳴らした。鳴らない音が、火の陰に沈む。
光秀は、文机として板を置かせ、膝を折った。筆を取る。墨は、冬の夜ほど黒い。黒いほど、白が薄くなる。薄くなった白の上に、短く置く。
——兵糧、繰り上げ一樽。湖西・堺の渡し、板二枚。夜は打たず。太鼓の二、禁ず。遅れは返す。印は変えず。
筆の先が紙の端へ走り、止まったところで、右手の力が、ほんのわずか遅れて抜けた。抜けた力の跡をたどるように、墨が一滴、滲んだ。滲みは、小さな涙の形をして、紙の繊維の中へほどけていった。誰の涙でもない。紙の涙である。紙が泣いてくれるなら、人は泣かずに済む。
稲冨が、返状を受け取って走り去る。風は、背へ冷たく刺さるが、足は止まらない。止められない。止めると、内側で何かが崩れるのを、人は知っている。
「殿」
利三が、火から半歩の距離を保ち、静かに座した。「坂本よりさらに遠く。印の声が薄れます。札を増やしますか」
「増やせ」
光秀は、板を指先で叩いた。叩いた音が、骨の鳴りに似る。「『迷いは節』を一枚。『袋の口は少し』を一枚。『夜は打たぬ』は、見張りの交代の柱の下へ」
「承知」
弥七が、札の角に指を添えて立ち上がり、市松が帳面を抱え直した。権六は櫓に戻り、太鼓の皮に寒気を通す。了俊は、陣の小寺で灯を一つ増やし、鐘の紐の高さを、子の目の高さに合わせた。子はここにいない。いないのに、紐は子の高さだ。人は、いない者の高さでものを合わせる。合わせることが、今は理である。
夜が、早く降りた。山の向こうで、毛利の陣の灯が、点の列になっている。点と点が、多いようで少ない。少ないようで多い。遠いものは、数えにくい。
夕餉の湯気が薄く立ち、塩気の少なさに舌の動きが遅れる。遅れる舌は、言葉を生まない。言葉が生まれない輪の中で、笑いが一つ、火に吸われた。吸われた笑いは、悪くない。今夜は、笑いが火の継ぎ木になる。
秀吉の陣からは、冗談が二、三度、風にのって届く。届く冗談は、軽い。軽いものは、遠くへ行く。軽いものが遠くへ行っている間に、重いものは足元に残る。足元の重さを、光秀は指で確かめるように、佩刀の柄の下で骨を鳴らした。鳴りは、節の音。節は、止まり、そして伸びる。
「殿」
利三が、声を落として言う。「『遅れは罪』。罪には、罰がいると、誰かが考える」
「罰は、印の外に置く」
光秀は、火を見た。火は、誰のものでもない。「遅れは、笑いで埋まらない。印で埋める」
「承知」
言葉を二つだけ交わし、利三は去った。短い言葉は、互いの中の手のひらに印を押す。押された印は、翌朝、指に残る。
夜、陣幕の外に出る。空気は、冷たく澄みすぎて、声の行き先がなくなる。行き先のない声は、生まれない。生まれない代わりに、耳だけがよく働く。遠い太鼓、近い火のぱちり、弦の音。馬が鼻を鳴らし、兵が寝返りの草を擦る。
頭上の空は、星を持ち上げている。星は、多い。多さは、人の数よりずっと多い。星々は冷たく、誰の理にも従わない。従わないから、強い。強いから、怖い。怖さを、理で包もうとするのは、人の癖である。癖を癖と知り、それでも、包もうとする。
陣幕の縁から少し離れ、影の薄い竹が数本立っているところで、光秀は立ち止まった。竹の節は、闇の中で輪を立て、輪の中に空気が鳴っている。鳴りは、人の声ではない。鳴りのない夜を、耳が拾う。
――理を守るためならば、主をも疑う日が来るかもしれぬ。
声にはならなかった。ならないからこそ、胸の内側で、冷たい芽が小さく立った。芽は、土の下で立つ。立ったことは、土の上からは見えない。見えないが、ある。あるものに、印を付ける術を、人はまだ持たない。持たないから、指先で土を押さえる。押さえた指の腹に、冷たさが移る。
煕子の文を、懐で確かめる。紙の角は、夜の中でも白い。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。春は遠い。遠い春は、星に似る。似ているが、違う。春は、理の先にある。星は、理の外にある。外を見上げ、内を撫で、間に立つのが、今の自分の立ち位置だ。
「殿」
権六が、櫓から降りてきて、短く礼をした。「西の灯、数が減りました。移ろう前の黙りです」
「黙りを破るのは、あちらか、こちらか」
「どちらでも、夜は同じ長さ」
権六の言は石だ。石は、寒さで割れない。「見張りの交代を短く。太鼓の二は打たせるな」
「承知」
権六が去ると、弥七が近づいた。鈴を内で鳴らす仕草。鳴らない音は、持つ者の骨にだけ届く。
「殿。星は、理を笑いますか」
「笑わぬ」
「なら、わしらが、笑うかわりに、印を押す」
「押せ」
弥七は、満足げに頷いた。鈴の中の空洞が、今夜は広い。広い空洞は、音を深くする。深い音は、外へ出ない。
光秀は、唇に触れる冷気の薄さと、胸の内側で立ち上がった芽の冷たさが、同じ温度であることに気づいた。気づいて、怖さは減らない。減らないが、形になる。形があるものは、扱える。扱えるものは、落ちない。
陣幕に戻る前、空をもう一度見た。星は、数えられない。数えられないものの前で、人はよく祈る。祈りは、中心を詠む。理は、端に座す。祈りと理は、同じ文に入らない。入らないが、同じ夜にある。
火の輪に戻ると、利三が、紙を二枚、板の上に置いた。一枚は明日の進軍の図、一枚は兵糧の配り。稲冨が、端に『破れ/継ぎ』の字を小さく書いた。市松が、帳面に『星』の一字を添えた。『星』は、夜の印である。印は、目の高さにある方がいい。夜の印は、目の高さにない。ないものに印を押すなら、人の胸の内側しかない。
「殿」
了俊が、陣の小寺から穏やかに姿を見せた。「鐘は打ちませぬ。が、紐は握っておきます」
「握れ。握って、鳴らさぬ」
了俊は頷き、目を閉じた。目を閉じると、夜の形が変わる。変わった形の夜に、灯が一つ、増える。
秀吉の陣の方角から、笑いがまたひとつ、遅れて飛んできた。笑いは、軽くて、寒さの上をよく滑る。滑る間、足は止まらない。止めない。止めることを、今夜は許さない。
「殿」
利三が、静かな声で言った。「『遅れは罪』。——『急げ』の要は、数ではなく、順でございましょう」
「順だ」
「順は、誰の目の高さに」
「子の目と、兵の目。上ではなく、前に」
利三は、わずかに口角をあげ、「承知」と短く言って、板の上の札の高さを半尺下げた。札の影が伸び、火の影と交わる。影と影が交わるところに、人は座る。
夜の半ばを過ぎたころ、風が変わった。乾いた風が、湿りの匂いを少しだけ含んだ。湿りは、雪の匂いを連れてくる。雪は、音を吸う。吸われる音の前に、命じる。
「交代、短く切れ。足を凍らせるな。笑いは火に寄せ、理は札に寄せろ」
「は」
答える声が、低くそろった。揃った声は、祈りに似る。祈りでない祈りは、理の隣に座ることを許される。
遠い太鼓が、二度、間をおいて二度――と鳴った気がして、光秀は目を閉じた。開いたとき、音はなかった。ないはずの音は、よく胸で鳴る。鳴ると、札の角を押さえたくなる。押さえた札の角は、冷たい。冷たい方が、落ちない。
夜明け前、空はわずかに白み、星は残りの少なさを露わにした。露わになった残りは、美しい。美しさは、人を甘やかさない。甘やかさないものに、背を向けない。
「行こう」
利三が「は」と応え、稲冨が板と筆を抱え、弥七が鈴を内で鳴らし、権六が顎を引き、市松が帳面を抱え直した。お初は、夜の間に裂けた足袋の継ぎを済ませ、源九郎は釘袋を打ち鳴らし、若旦那は『少し』の絵の札を新しい袋に結び、定吉が走る。了俊は、鐘の紐をもう一度握り、子の目の高さを確かめる。
陣が動き出す前、光秀は、懐の文に指を触れた。紙の涙は乾いている。乾いた跡は、消えない。消えないものが、今夜、胸に芽を持った。芽は、小さい。小さいが、確かだ。確かさは、言葉にしない方が長持ちする。言葉にせず、印を増やし、順を整え、火を守る。守る間に、芽は根を降ろす。降ろした根が、いつか板を押し上げることがある。押し上げる日が来るかもしれない。その時、理が、主を疑う形をとるならば——。
鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。陸の印が、夜と朝の境目に立った。続けて、舟の鐘が二つ、四つ。耳の覚えが、足の速さに変わる。『急げ』は、今、命令ではなく、順の名である。順に従い、印を守り、笑いを火にあて、足を冷えから守る。その一つひとつの小さな行いが、遅れをほどく。ほどかれた遅れの先に、罪の代わりに、春があるなら——それが、わたしの願いであり、理である。
光秀は、佩刀の柄に軽く手を置き、骨の小さな鳴りを確かめた。鳴りは、節の音。節は、止まり、そして伸びる。伸びるために、止まる。止まる場所を間違えぬために、今夜、胸に生まれた芽の冷たさを忘れない。忘れなければ、言葉にしなくても、形になる。
沈黙の夜は、終わりに近づいていた。終わりに近づくほど、沈黙は強くなる。強くなった沈黙は、声では破れない。破らずに、持ち運ぶ。持ち運ぶ者の背が、やや重くなる。その重さが、朝の速さの厚みになる。厚みのある速さは、遅れを罪ではなく、穴に変える。穴を板で渡すことができる。板の上を、人が渡る。渡りきった先で、また鐘が鳴る。鳴った鐘は、誰のものでもない。——誰のものでもない印が、もっとも強い。
星は、もうほとんど見えなかった。見えないものの代わりに、札があり、足音があり、火がある。火の上に鍋が吊られ、薄い湯気が朝の空に溶けていく。湯気の白さは、夜の白さと違い、温度を持っていた。温度は、理の味方である。理は、温度が好きだ。温度があるから、冷たさと並べて言える。
「行こう」
もう一度、同じ言葉。昨夜の沈黙が、背の中で形になっているのを感じながら、光秀は一歩、板の前へ足を置いた。春は遠い。遠いが、途切れない。印を変えぬ限り。理を捨てぬ限り。疑いを、祈りのとなりに座らせることを、怖れぬ限り。
行軍の列が動き出す。土の匂いが群れ、鉄の匂いが細く重なり、火の匂いが後ろに残る。残る匂いに、夜の名残を嗅ぎ当てる者がいる。名残は、悪くない。名残の上に、朝を重ねる。重ねた朝は、重さを持つ。重さは、遅れを割らない。割れない遅れは、理の手でほどく。ほどくことが、今の戦の形だ。
沈黙の夜は、去った。去ったあとに、言葉が残らないのが、良かった。残らぬ代わりに、芽が残った。芽は、土の下で冷たい。冷たさのままでよい。冷たい芽は、春の名を知っている。名前を口にしなくても、知っているものは、裏切らない。裏切らぬものだけが、戦の中でも、人を生かす。今夜、紙に落ちた小さな涙と同じように。
陣は、動いた。鐘は、鳴った。太鼓は、鳴らさなかった。札は、目の高さにあった。笑いは、火の高さにあった。理は、胸の高さにあった。胸の奥の芽は、まだ言葉にならず、ただ、静かに、そこにあった。




