第23話「裏切りの種」
昼の白さが、城下の瓦を一枚ずつ薄く照らしていた。坂本の湖風はまだ冷たく、葦の穂は逆立ち、すこし遅れて吹き抜けた風が、旗指物の布の隅をからかうように捲った。城の台所口では粥が黙々と煮えている。炊き場の火はいつも通りだが、火のそばに立つ女たちの囁きは、いつもとわずかに違った方向へ流れていく。耳を澄まさずとも、それは聞こえる。名を呼ぶ声の高さ。返事の間。杓文字が鍋の縁を叩くたびに、生じる拍のずれ。
光秀は叱責しなかった。叱責の場所に沈黙を置いた。沈黙は椅子のように、その場の誰かを座らせ、誰かを立たせる。立たされた者は、足裏と床の摩擦を確かめるように視線を落とす。その眼の艶の変化と、肩のわずかな上げ下げが、表の言葉よりよほど正直だと、光秀は戦の前にも、後にも、幾度も知っていた。
遠州からの使いが来て、尾張風のことばで「ご直参衆の扶持高の改めにつき、領内より直接に差上げられよ」とやわらかく記す書付を置いていったのは、雪がやむより少し前のことだった。書付の紙は厚く、墨は薄い。にもかかわらず、紙の上に冷たい重みが漂っていた。それは紙の厚みからではなく、書き慣れた手の、癖から生じる重みだった。信長の直臣に取り込まれた者どもは、まず紙から家中へ入ってくる。彼らは挨拶より先に、紙屑籠の位置を確かめる。書かれた文の行末に、命令の余韻をわざと残し、読む者の心に二つの扉を開かせる。一つは、従う扉。もう一つは、様子を見る扉。
「様子を見る、は、裏切りではございませぬ」と、斎藤利三が静かに言った日のことを、光秀は忘れない。利三は抑えた声音で、椀に注がせた茶の表面を、筆先のように細い視線でなぞり、「ただ、根のない風は、土を削るだけにて候」と続けた。
「根が抜かれていく」と、光秀は心の底で言い当てながら、口には出さなかった。根は土中にあり、目には見えぬ。見えぬものを守るには、見えるものを動かすような速さや強さより、遅さと粘りが要る。遅さは敵を苛立たせ、味方を不安にさせる。粘りは、鋭い刃よりも、温い手のひらの方が持っている。だが温い手のひらで、抜かれつつある根を包もうとすれば、かえって土は崩れる。光秀はその矛盾を、囲炉裏の灰の温度の差のように、日々の景色のなかに感じ、そこから目をそらせなかった。
夜、囲炉裏の前にひとりで座す。歌う者も、酔う者もいない夜の火は、小さく正確に燃える。木の中心にわずかに残った湿りが、じり、と鳴る。火の赤は、煕子の筆跡の黒を温め、紙面の「春」の字だけを、他の字よりも少し太く見せた。
「春を呼ぶ理」
煕子の手から離れて久しい文を、光秀は何度目かもわからぬほど手繰った。紙は古く、それでも折目は破れぬ。煕子の文字には、筆圧の軽いところと重いところが、はっきりとした節目のように現れていて、それは人の心が春を呼ぶとき、どこに力を入れ、どこで手を抜くかの地図にも見えた。
——春は呼ぶものにあらず。来るもの。されど、呼ぶ声がなければ、来る春も迷うことがある。人の理もおなじ。理は植えるべき種なり。土を耕し、水を引き、手を添え、風の日は覆いをし、陽の強き日は影を作るべし。種は自ら芽吹く。人はそれを急がせてはならぬ。
煕子は、そう書いた。あのひとの文字は少し右に傾き、払いに淡い湿り気がある。光秀は、その湿りを指の腹で撫でて、何度も何度も、春の理を確かめた。
理の芽は、他人の刃によって土を削がれていた。利三が言う「根のない風」は、利にさとい者の背を押し、迷う者の足場を崩し、忠義を口にする者の声にわずかな震えを混ぜる。溝尾庄兵衛が戻って来て、報告の紙を置く前に、一拍置いた。その一拍は、言いにくい話の前置きではなく、言いやすい嘘を捨てるための間だった。
「庄兵衛」
光秀が短く名を呼ぶと、庄兵衛は膝をつき、頭を下げて言った。
「城の外れにて、藤田伝吾の若党が、安土方の者と密談。捕らえれば、口を割りましょう。いかがいたしまする」
密談、という音は寒い。密やかであることの寒さではなく、外気に晒された水で手を洗うときの、骨の奥まで沁みる寒さだ。光秀は目を閉じて、囲炉裏の火の音を数えた。五つ。六つ。七つ。音は増えもしないし、減りもしない。火は任務を忘れない。
「捕らえるな」
光秀は言った。庄兵衛の襟がわずかに鳴った。
「目こぼしを?」
「こぼすのではない。流れを見たい。流れは、掬えば形を失う。器に移した水は、川ではない」
利三は黙って頷いた。あの男は、人の話の背骨を指で探り当てるように聞く。それから、その背骨の一本一本を、必要なときにだけ鳴らす。
「伝吾には、同じ時刻に同じ場所で、同じ話を、もう一度させよ。相手を換えさせて。こちらの者を遣わそう。耳こそが、土の中に延びる根でござる」
利三の言葉は、夜の井戸の水の温度に似ていた。冷たいが、底が深い。
城内の動きは、静かに、しかし確実に変わっていった。台所で塩の量が一つまみ増え、弓の弦の張りが半昼のうちに二度改められ、稽古場で足袋の継ぎが増えた。些細な差は、累なると、樽の外側の雫のように落ち続け、いずれ板を濡らしていく。濡れた板は滑る。滑れば、誰かが転ぶ。転べば、怒声が生じる。怒声は、よく響く。響けば、山の向こうへ伝わる。
山の向こう、安土には、竹を割ったような声の男がいた。その男は、分けることを喜び、割ることをためらわず、いつでも「天下」を口にした。天下は口にすると大きいが、手に取ろうとすると、驚くほど小さく、軽い。軽さは人を軽くする。軽くなった歩みは、時に深い泥を見落とす。
「信長公は軽くはなりませぬ」
そう口にしたのは、明智左馬助秀満であった。血の濃い甥であり、馬上では炎のように短く燃える男。秀満は、その燃え方を知っており、燃え切った後の灰の色を、幼いころから見ていた。
「公は、重いものを軽々と持ち上げて見せる。だから、軽いように見えるだけです。軽いのは、持ち上げられる側でありましょう」
「持ち上げられたものは、置きどころを忘れる」
光秀は、煕子の文を巻きながら、呟いた。春を呼ぶ理は、持ち上げる理ではない。持ち上げぬ理だ。芽は、土に手を入れ過ぎれば折れる。芽は、自ら土を押し開いて出てくる。その押し開く手応えを芽から奪ってはならぬ。奪えば、芽はあとで倒れる。倒れた芽を責める者は、人の芽を信じていない。
丹波の土もまた、人の理を試す土だった。氷解する前の川の上に立つ薄氷のように、人々の暮らしは張り詰め、そこへ検地の竿が下ろされ、城割の槌が降る。竿は数字を刻み、槌は石の形を変える。数字は人を平らにし、石は人を囲う。平らにされた者は、遠くであげられる声に敏感になる。囲われた者は、近くの視線に怯える。そのあわいを歩くのが、大将の役目であると、光秀は知っていた。だが、そのあわいに、別の足音が入ってくる。尾張の靴音は、乾いていた。湿った土に踏み跡を残さぬ靴音は、連れてきた風の方角だけを人に知らせる。
ある夜更け、利三は一通の書付を持ってきた。薄い紙に、濃い墨。「上意」という二字だけが、他の字よりも一歩前に出ている。上意は、高くもあり、重くもある。高いものは見えやすく、重いものは持ち上げにくい。だが、紙に書かれた上意は、軽い。封を切る手つきが、ためらいがちになるほどに。
「上様より、備中の羽柴殿へ御加勢仕るべく、速やかに兵を出すべし、と。期日重ねて」
利三は言って、光秀の目を正面から受け止めた。目を逸らす者は、責めを避ける。目を逸らさぬ者は、責めを引き取る。
「期日は」
「明日には立つべし、と」
光秀は息を止めた。息は止まる。止まった息の先に、呼吸がある。その先に、言葉がある。言葉が戻るまでの間、火が囲炉裏の底で転がり、灰が少し動いた。その灰の動きが、海辺の遠い潮の満ち引きに似ていた。たぶん、どこかで月が満ちるのだろう。月は、潮だけでなく、人の胸も引く。
「明日」
「はい」
「兵は」
「半数は出せます。が、米と矢の備えが、数日遅れます。尾張よりの直の指図に従って動きたがる者は、いま、速さを手柄に換えることに夢中でござる」
速さは、剣の切れ味ではない。速さは、恐れの形を変えたものだと、光秀は思う。恐れは、遅さを嫌う。遅さは、恐れを見せる。恐れを見せた者を、人は弱いと呼ぶ。弱いと呼ばれた者は、そんな呼び声の中で、強がりの旗を立てる。旗は、風に立つほど美しい。だが、旗は土を持たない。
「兵は出す」
光秀は静かに言った。「ただし、出す前に、戻る道を確かめる。戻る道のない軍は、勝っても負ける」
利三は頷いた。目が、さらに深く沈んだ。沈む目は、井戸の水位のように、そこにある深さを知らせる。それは怖れではなく、覚悟だった。
明けて、城下の小さな社の前で、兵が整列した。背の高い者、背の低い者、鯖の骨のような肩甲の者、厚い腹の者。布の衣が犬の毛のように風に逆立ち、草鞋の緒が湿って縮む。秀満は列の前を歩き、腰の刀の鞘尻で地面を軽く打った。打つ音が拍となり、拍が呼吸を揃え、呼吸が恐れを分かち合う。恐れを分かち合えたとき、人の足は前へ出る。
「利は、支度の早きに非ず」
秀満が言うと、兵の数人が首を傾けた。
「利は、戻り口の広さにあり。狭き口には、誉れも入らぬ」
兵たちは、意味を半分しか掴めなかった。掴めなかった半分を、拍の整いが埋めた。
出立のあと、城の空気は、驚くほど軽くなった。一部の者の顔から、明るさの影がさっと消え、別の者の眉間に、薄い影が差した。影は、誰かの不在が置く影であり、誰かの不在は、誰かの存在を浮かび上がらせる。浮かび上がったのは、紙で命令を運ぶ者どもではなく、井戸端の縄を結び直す女たちの手であり、夜番をひとつ増やすだけの小さな決定を気づかれぬように伝える老兵の息であった。
その夜、光秀はまた囲炉裏の前に座った。煕子の文を膝にのせ、今度は声を出さずに読むのではなく、文の余白に、声にならぬ声を置いた。煕子に話しかけるのではない。煕子がこの場に座っていると仮定して、煕子の沈黙を囲炉裏の火のように扱う。火は、言葉を焼かない。火は、言葉の端を炙って、香りを立たせる。
——種は、自ら芽吹く。
光秀は、その一句を、指でなぞり、目を閉じた。種は土にある。裏切りの種も、忠義の種も、同じ土にあり、同じ水を吸い、同じ陽に照らされる。違うのは、芽吹いた時に、伸びる方角だけだ。誰がその方角を決めるのか。土か、水か、陽か。あるいは、芽自身か。
廊下の先で、足音が止まった。利三だった。戸口で一礼し、近づくと、火の光の中に、利三の目の底の疲れが見えた。疲れは、誇りに似る。誇りは、疲れより軽く見えるが、重さがあるのは、いつも疲れのほうだ。
「何か」
「城中の諸口に、見慣れぬ顔が増え申した。尾張風の髷、京言葉に似せた尾張訛り。酒屋の裏手より、出入り」
「数は」
「四、五。数えるたびに、少しずつ違う」
数が違うのは、姿が同じだからだ。同じ型の顔が、別の心を持って、同じ言葉をくり返す。彼らは、風の使いだ。風は形を持たないが、襟を払えばわかる。襟の塵が、いつもより早く落ちる。落ちた塵の量で、風の強さは測れる。
「任せる」
光秀が言うと、利三は頭を下げた。その頭の下げ方が、いつもより深かった。深さは、決意の深さではなく、見えぬ井戸の深さであった。井戸は、覗く者に冷ややかな顔を見せるが、底の水は、春の予感をいつも抱えている。冬の水が、春の色を知っているのだ。
日が改まり、安土より、さらに急の書状が来た。上意ではなく、上意に準ずる、と、書き出しでわざわざ一段落下げてある。落とされた一段は、読む者の心を持ち上げるための段差だ。段差を跳び越えられぬ者のために、手すりのようにひとつ余白が作られている。
「上様、明日早暁、京へ御出立。御供、十手二十騎にて足るとの仰せ。坂本よりも、見目のよい若き者を少し出すべし、とのこと」
見目のよい若き者。言葉は、どこまでもやさしい顔をしていた。やさしさは、時に、刃よりも鋭い。刃は、触れれば痛い。やさしさは、触れてから痛い。
光秀は、秀満を呼び、若い者の名を三つ、四つ、挙げさせた。名は、音になり、音は、面になる。呼ばれた者は、顔を洗い、髷を整え、草鞋の縄を締め直す。彼らの足音は軽い。軽い足音は、遠くまで届かない。だが、軽い足音のあとには、必ず、重い沈黙が残る。
「御供の列に、利のない者を混ぜよ」
光秀は言った。秀満は瞬きもせず聞いた。
「利のない、とは」
「手柄にならぬ者、ということだ。手柄は、噛めば甘い。甘いものは、集まる。集まれば、蟻の道ができる。蟻の道は、踏まれやすい」
秀満は、にやりともせず頷いた。頷きの中に、薄い火花が散った。彼は自分が、甘さに弱いことを知っている。知りながら、甘さを遠ざける術も、持っている。
若き者どもが安土に上がっていき、城はさらに静かになった。静けさは、音の欠乏ではなく、音の整列だ。鳥の鳴き声が一定の間合いで並び、鍋の沸く音がいつもより一拍遅れてひろがる。遅れは、嘘を嫌う。遅れは、嘘の前に立つ。嘘は、遅れを追い越そうとして、足をもつらせる。
光秀は、庭に出て、小さな畝に手を入れた。煕子が生前、子に教えるように、季節を植え分けた場所だ。畝の端には、煕子が貼った薄い木札があり、「春豆」「薄紅菜」「忍草」と、幼い字で書いてある。忍草は、煕子の造語に近い。夏の日照りに耐え、冬の霜に耐え、いつでも青い葉をひそやかに保つ雑草に、煕子は勝手に名を与えた。それは、名を与えられることの幸福を知る女の遊びであり、同時に、名の重さを知る女の祈りでもあった。
土は、冷たい。指を入れると、皮膚が土の濡れを吸って、指紋の谷が濡れ、指先の血の温度が奪われる。土は、言葉を知らない。だが、理を知っている。春を呼ぶ理は、土のほうが人よりも先に知っている。光秀は、指先で小さな塊を崩し、崩した塊の中から、乾いた種をひとつ拾った。拾い上げて、掌に乗せ、囲炉裏の火にかざすような癖で、陽を透かした。
種は、裏切らない、と思った。裏切るのは、人である。だが、種を土に戻すとき、掌の温度が一瞬だけ、種を迷わせる。暖かさは、早い春に似ている。早い春は、遅い霜を呼ぶ。遅い霜は、若芽を殺す。
戻らぬ兵はまだ少ない。戻るべき者の帰りが遅れ、戻らぬべき者の帰りが早い。遅い帰りは、憂いを伴い、早い帰りは、軽口を連れてくる。軽口は、火消しの水のように、表面を冷やすが、炭の芯は、より赤くなる。芯の赤は、誰にも見えない。見えぬ赤が、いつか炎になるとき、人は、驚いたふりをする。
信長の直参に取り込まれた家臣は、最初のうち、誇らしげに、しかし隠しようのない不安を抱えていた。その不安は、言葉の末に小さな疑問符をつける。不安は、料理の塩を一つまみ増やす。増えた塩は、舌に遅れて残る。遅れて残る塩辛さを、女たちは「今年は塩の癖が違う」と囁いた。癖は伝わる。癖が伝わるとき、人は技や志よりも速く、似通っていく。
利三はある晩、珍しく酒を少しだけ飲んで、ぽつりとこぼした。「殿、裏切りと申すは、裏に切ると書きますが、誰の裏なのでしょう?」
光秀は、煕子の文の「理」という字を見つめながら答えた。「裏は、見えぬところ。見えているうちは、まだ表。裏切りは、切られた側の裏に生じる。切る者が、裏を持たぬことはない。だが、切られる者の裏に、切れ目が刻まれたとき、人は初めて、それを裏切りと呼ぶ」
「では、裏切りの種は」
「切られる者の裏に、宿る」
利三は、静かに息をついた。その息は諦めではなかった。息は、覚悟と後悔のあいだにある薄い橋の上を渡る音だ。
夜更け、廊の外で、若い足音が走った。止まって、戻って、また止まる。戸を叩く音は、礼をわきまえているが、礼には収まらない焦りがあった。秀満である。
「殿」
戸が開くと、火の赤が秀満の頬の片側を染め、反対側は湖の闇を含んでいた。
「京より急報。上様、御前にて舞の支度。明朝、本能寺ご逗留との由」
光秀の胸のなかで、古い太鼓の皮が鳴った。鳴ったのは一度だけだ。もう一度鳴らそうとしても、鳴らない。皮は乾いて、裂ける寸前だった。
「舞は、春を呼ぶものでもある」
光秀は独り言のように言った。秀満は、頷きもしなかった。頷く代わりに、足の指に力を入れて、草履の緒を強く踏んだ。踏んだ足の裏が、土の感触を確かめる。
「殿」
「何だ」
「殿の胸のうちに、何が宿っていましょう」
光秀は、煕子の文を手で包み、囲炉裏の火に背を向けた。火は、背を照らす。背を照らされると、人は前に影をつくる。影は、背丈そのものだ。背丈は、嘘をつかない。
「種が宿る」
「種」
「裏切りの種が」
秀満の目に、火の赤が小さく跳ねた。利三は、目を下ろした。庄兵衛は、息を殺した。誰も声を発しなかった。声は、種を怖がらせる。怖がった種は、芽吹く方向を誤る。
光秀は、囲炉裏から一片の炭を取り出し、畳の上に小さな丸を描いた。丸は、閉じる。閉じた丸の内側に、さらに小さな点を打った。点は、始まりでもあり、終わりでもある。
「春を呼ぶ理は、芽を急がせぬ理。だが、土を削がれていく理は、芽を守らぬ理でもある。理が守られぬとき、人は、理の代わりに、決断を置く。決断は、理よりも速い。速いものは、風になる。風は、旗を立てる」
「旗は」
「旗は、見せものだ。見せものは、人の目を引く。目を引かれた人は、足元を見ない。足元を見ない人の踏む土は、崩れる」
光秀は、描いた丸を袖でそっと拭って消し、指先の黒を、掌に擦りつけて隠した。黒は、掌の皺に入って、見えなくなった。見えなくなった黒ほど、肌に残る。
夜の終わり、光秀は庭の畝にもう一度立った。空は薄く白み、山の端が紙の切り抜きのように滑らかに浮かび上がる。鳥の声が一度だけ鳴り、それに応えるように、別の方向からもう一度、鳴いた。二度の鳴き声のあいだに、世界の呼吸があった。呼吸は、誰のものでもない。誰のものでもない呼吸に、光秀は自分の呼吸を合わせた。
畝の端に、煕子の木札の裏をそっと撫でてみる。裏には何も書かれていない。だが、木の繊維の方向が指に伝わり、それが、沈黙の文字のように読めた。裏に書かれた文字は、外からは読めない。読めぬ文字を読むのは、指先であり、呼吸である。
「煕子」
声にはならない呼びかけが、喉の奥で止まり、胸の奥で広がった。春を呼ぶ理を記した女は、春を急がせなかった。夫の春も、急がせなかった。夫の春を、夫自身に委ねた。その委ねが、いま、裏切りの種のための土になっていることを、煕子は、どこかで知っているだろうか。
小さな音がした。畝の土の表面に、薄いひびが入った。凍っていたわけではない。乾いていたわけでもない。ただ、土が呼吸したのだ。その呼吸は、芽の手入れの音だった。光秀は、ひびの上に、掌をかざした。掌は、覆いではない。掌は、合図だ。芽に、陽の方角を教える手の影だ。
——種は、自ら芽吹く。
煕子の文の一句が、再び、胸の奥でほどけた。ほどけて、結び直された。ほどけ直す手つきは、戦の手つきとは違う。鈍い。だが、温い。
城に戻ると、利三が待っていた。顔はこわばっていない。こわばりのかわりに、柔らかな硬さがあった。柔らかな硬さは、柳ではない。雪の重みを背負った竹のようだ。
「殿。すべて、用意がございます」
光秀は頷いた。頷きは一度だけ。一度の頷きは、言葉を百ほど省く。省いた百の言葉の分だけ、静けさが広がる。広がった静けさに、人の足音がひとつずつ落ち、落ちて、沈む。
「信じぬのではない」
光秀は言った。誰に向かってというわけでもない。声は、自分の内側に向かって出た。
「信じる場所を、取り戻す」
信じるは、置くことだ。置く場所がなければ、信じることはできない。信長の直参に取り込まれていく者どもが、信じる場所を外に置いてしまったとき、城の内側に残されたのは、空の座だけであった。空の座に、春の理は座れない。空は風が通る。風が通れば、土は削れる。
裏切りの種は、音を立てて芽吹かない。音を立てるのは、刃だ。刃は、音で自分の存在を確かめる。種は、音で自分の存在を確かめはしない。種の確かめは、土の暗さと、水の冷たさと、陽の遠さでなされる。遠いものが近づく速さを、種は測れない。測れないから、待つ。待つのは、勇気だ。
光秀は、煕子の文を巻き直し、文箱に納めた。箱の蓋に手を置き、指先で、蓋の端を一度だけ撫でた。蓋は鳴らない。鳴らないものを撫でるのは、人の癖だ。癖は、理の影でもある。
「行こう」
誰に向けたともなく、光秀がそう言うと、利三が立ち、秀満が腰の刀の位置を直し、庄兵衛が戸口を開けた。戸口の向こうの廊は、薄い朝の白に満ちていた。白は、何者も拒まない。そのかわり、何者にも味方しない。
光秀は、朝の白に足を踏み入れた。踏み入れて、振り返らなかった。振り返らぬ背中に、煕子の文字が載っているように感じた。感じは、嘘ではないが、証でもない。証のない感覚が、人を動かすとき、その動きは、理の外に出る。理の外に出た歩みは、いつもより静かだ。静けさのなかに、鳥の二度目の鳴き声が落ちた。
裏切りの種は、光を求めて伸びる。求めるものが光であるかぎり、その伸びは、正しい。何が正しいかは、芽にはわからない。芽は、ただ伸びる。伸びる先に刃があるなら、刃の影もまた、陽を教える影だ。煕子の「春を呼ぶ理」は、芽を責めなかった。責めるのは、いつも、人である。人は、芽の伸びた先に自分の影を見つけて、影を斬ろうとする。斬るのは、影ではない。斬られるのは、裏だ。
光秀は、足の裏に土の感触を探しながら、薄い白のなかを歩いた。歩みは遅かった。遅い歩みは、旗を立てない。旗のない歩みは、風に見えない。見えない歩みが、城の石段をひとつひとつ降りていった。その降りる拍のあいだに、理と決断のあいだの細い橋が、いつのまにか渡されていた。橋は、揺れなかった。揺れない橋の上で、裏切りの種は、静かに、しかし確実に、芽を伸ばしつつあった。




