表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 妙原奇天
第一部 明智光秀編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/45

第二十二話 信長の冷笑

 鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。陸の印は、まだ春の浅い朝靄をやわらかく裂いた。つづけて、舟の鐘が二つ、そして四つ。湖の水気を含んだ音が、安土の白壁に丸く当たり、見えない継ぎ目でほどけて消える。音は消える。消えるから、人は印を覚える。


 その日の安土は、饗応の支度に忙しかった。諸国の客、南蛮風の装束、珍しい器の並び。天守の広間には、いつもより一枚多く、薄金の布が張られた。布は、光をやわらげるが、言葉の角はやわらげない。角は、むしろ、布の下でよく立つ。


 「殿」


 利三が、襖の外から気配を細くして告げた。「饗の席、殿しんがりよりお呼びあり。お支度は」


 「いつも通りでよい」


 「承知」


 坂本から持ち込ませた札も、今朝は一枚増やしてあった。『盃は縁に置き、柱を背にするな』。あまりにも当然のことほど、札に直して目の高さに掲げる。目の高さにあるものだけが、人の混乱を留める。


 安土の饗は、舞台である。舞台の上では、礼が速く、声が浅く、目がよく動く。浅い声の縁で、深いことが起きる。深いことは、たいてい、笑いの裏に置かれる。


 席が整い、先触れがひびき、信長が現れた。装束は冴え、目は冴え、唇の色が、いつもより薄い。薄い色は、冷えを示す。冷えは、火の傍にも生まれる。


 「坂本」


 名は、呼び捨てだった。呼び捨ては、親しみではない。場の重心を鋭く傾けるための合図だ。光秀は席を外れ、膝を進め、扇を伏せた。伏せたままの扇は、まだ言葉を持たない。


 「近う寄れ」


 信長の指が、白い盃の縁をなぞり、それから、広間の空気を薄く切った。切られた空気は、音を失う。音を失ったところへ、言葉が置かれた。


 「お主の理、いかほどの価値か」


 広間の周囲に、ほとんど聞き取れぬほどの笑いの毛羽が立った。毛羽立つ笑いは、風に弱い。だが、今は風がない。毛羽はそこに留まり、目に見えぬ埃のように、光を曇らせる。


 「……」


 光秀は、扇をさらに低くした。沈黙は、理を守るための壁だ。壁は、声を跳ね返す。跳ね返った声は、いったん己の胸に届いて、そこで冷える。冷えた声は、刃に似る。柄を持たぬ刃は、誰のものにもならない。


 「坂本」


 信長は、笑わなかった。笑わずに、唇の片端だけをわずかに持ち上げた。それを人は、冷笑と言う。冷笑は、声よりも遠くまで届く。


 「印を札にし、鐘の数を数え、袋の口を『少し』と描き、太鼓の二を禁ず。……その理、金に換えればいかほどか」


 盃が、信長の指の下で、かすかに鳴った。鳴りは、器の底に残る水の音に似ている。その音を合図にしたように、輪の端で羽柴が扇をひと折り鳴らし、柴田が鼻を鳴らし、滝川は目を伏せて扇の骨で膝を叩いた。丹羽は、目の動きを止め、呼吸だけで座を支えた。


 「坂本殿」


 羽柴が、軽く笑いを添える。「理にあたいを付けようとするは、殿のお戯れ。値は、あとから付くもので」


 信長の目が、羽柴の方へ一度も動かぬまま、広間の空気が薄く軋んだ。軋みは、舞台の床の音だ。音は、今は誰の耳にも届かぬ。届かぬ音の上で、笑いは薄く延びる。


 「答えよ」


 乾いた声が、光秀だけを刺した。刺して、抜かない。沈黙は、刃を素手で掴む行いに似る。理の壁は、握った手のひらの皮を薄く傷つける。


 「……理の値は、まず、値ではございません」


 やっと出した言が、自分の声であるのに、少し遠くから聞こえた。「理は、秩序の印であり、人が戻る場所の名でござる。戻る場所に、値は付けませぬ」


 「戻る場所」


 信長の声の温度が、一瞬さらに下がった。「戻るというのは、退くことか」


 「退くのではございませぬ。戻って、また出る。戻る場所がなければ、出られませぬ」


 「坂本」


 呼び捨ての音が、二度、同じ高さで落ちた。「お主は、いつでも言葉が固い」


 広間のどこかで、小さな笑いが二つ、続けて立った。太鼓の二のようだ、と光秀は思い、同時に、その連想を心の中で叱った。今は、鳴らすときではない。


 「固いは、扱いづらい」


 信長は、盃の底のわずかな金を、爪で弾いた。「扱いづらいものは、捨てる」


 盃の金が、灯に一度だけ薄く返った。返りは、金継ぎの線の返りに似ていた。似ているが、意味は逆だ。器の金は、捨てぬために置く。今の金は、捨てるために鳴る。


 「殿」


 柴田が、酒気の太い声で合いの手を入れ、場の呼吸をひとつ繋いだ。「坂本の理は働いておりまする。働かぬ理は、誰の口にも合わぬ。……働くなら、固さは残してよい」


 「勝家」


 信長が、短く名を呼び、視線を投げた。その一瞬の隙に、滝川が扇の骨で卓をこつ、と打った。「川の蛇行は、固い石に沿って生まれまする。固さは、流れを作りまする」


 羽柴が笑い、「流れが止まれば、水はみまする」と薄く添えた。笑いは、場を繋ぐ薬味だ。薬味は、味を殺さない範囲で効く。


 信長は、笑わない。笑わぬまま、唇の片端を少しだけ上げ、盃の水を指で弾いた。弾かれた水が、盃の縁でこぼれずに戻り、浅く揺れた。


 「坂本」


 もう一度、呼び捨て。「理を継ぐと申したな」


 「申しました」


 「器の欠けを金で継ぐがごとく」


 「はい」


 信長は、盃の縁を指で撫で、指についた水を衣の端で雑に払った。「器は、継いで使える。誰も笑わぬ。……理を継ぐというのは、器と違う。器は物。理は人。人は、笑う」


 「……」


 「笑いは、場を繋ぐ」


 信長は、羽柴へ目をやらずに、羽柴の背で笑いが小さく立つように配置した。「坂本。お主の理は、笑いに勝てるか」


 広間の端で、南蛮の楽がひと節、風に乗った。知らぬ音が、知った言の間を滑る。滑る音は、理の板の上でよく転ぶ。


 「勝負ではございませぬ」


 光秀は、やっと言った。「笑いは、理の上を渡るもの。渡るものと支えるもの、勝ち負けにございません」


 「ならば、理は価値なきものか」


 「価値を口にした途端、理は薄くなりまする」


 信長の冷笑は、今度は声にならなかった。なりはしないが、広間の空気の中に薄い氷の皮だけが広がった。皮は割れない。割れないほど薄く、広い。


 「……下がれ」


 そう言われたとき、光秀の膝は、自分のものではないように、静かに後ろへ退いた。退きながら、利三の気配と一瞬、交わる。利三は、伴う沈黙を持っていた。伴う沈黙は、鎧の内側で温い。温さが、今は、刃の柄よりも頼もしかった。


 饗は続いた。笑いが、香の煙と同じ高さで薄く漂い、盃の音が、足の裏で小さく鳴った。鳴る音の一つひとつが、どこかで遠い鐘の一つに繋がる。繋がりは、今日は細い。


  ⸺


 夜更けて、屋敷へ戻った。安土の灯が背に遠のき、坂本の灯が胸の内に近づく。灯の数は違えど、鐘は同じ。陸は一と三。舟は二と四。夜は打たぬ。太鼓の二は、禁ず。印は、生きている。


 文机の上に、金継ぎの茶碗があった。今朝と同じ位置。利三が机の脚に紙を一枚噛ませ、揺れを止めている。紙は、白。白は、何にでもなる。白を見ると、胸の奥の黒が見える。


 茶碗を、両手で包む。欠けの線をなぞる。金の冷たさは、いつもと同じだ。いつもと同じなのに、今夜だけ、その冷たさが指の腹から胸へ、早く伝わった。


 「欠けを継ぐことを笑う者はいない」


 声は、器に吸われた。器は、人の声を吸い、あとで返す。返すときには、少し丸い。


 「だが、理を継ぐことを笑う世はある」


 今夜の広間の冷笑は、器の縁に映って、細く、長く歪んだ。歪みの美しさを、今夜は見誤れない。美しさに酔うのは、戒の外だ。


 「殿」


 利三が、襖の外で音を立てずに立ち、短く言った。「市松が、声箱の紙を持って参りました」


 「通せ」


 少年の足音は、まだ軽い。軽さが、夜の板の上で危ういほどに跳ねる。市松は、申し訳なげに膝をつき、紙を差し出した。紙の端に、子の手の癖で『印』とある。


 『鐘が二と四のとき父が戻る』『太鼓が二つ鳴っても、鐘が鳴らないから眠れた』『袋の口の絵、嫁入りの荷にも役に立つ』『城の壁は白い。札の字は黒い。黒い方が読みやすい』『坂本の札、安土にも同じにしてほしい』


 「よい」


 光秀は、紙を懐に収めた。「同じにする。……印は、笑わぬ」


 市松は、頷き、息をひとつ吸って言った。「殿の理は、価値でござんせん。うちのおっ母が、そう申してました。『価値なら、値切れる』と」


 利三が、喉の奥で短く笑った。笑いというより、石の上に落ちた一滴の水の音だ。固いところの音は、よく響く。


 市松が下がると、弥七が鈴を内で鳴らす仕草だけして出て行った。鳴らない音が、廊下の木目の奥で、遅れて返る。返る音は、持つ者だけが知る。


 「殿」


 稲冨が、帳面を抱えて入った。「『祝/印/税』の行、今夜は『税』が増えました。安土からの客の数に比例して」


 「板を一本、増やす」


 「承知」


 板を増やすことは、笑いを増やすことではない。笑いは、板の上を渡る。渡るための板がなければ、笑いは落ちる。落ちた笑いは、冷笑に変わり、刃の柄を濡らす。


 お初は、産屋から戻って、戸口に浅く礼を置いた。「赤子が生まれました。鈴の鳴らない夜は、母が眠れます」


 「よい」


 「それと……」


 お初は、躊躇いのない目で言った。「殿の理は、うちには『息』でござんす。息には値がつきませぬ」


 光秀は、笑わなかった。笑うべきではない。笑えば、今夜の冷笑と混ざる。混ざれば、息が苦しくなる。


 「源九郎に釘を増やせ。若旦那には『少し』の絵を濃く描かせろ。了俊には、寺の掲に『安土/坂本 札同じ』と添えよ。権六には、見張りの交代を短く。太鼓の二、惑うな」


 命じながら、胸の中で別の声が小さく告げる。——沈黙は、理を守るための壁だ。だが、周囲には屈服と映る。今夜の広間では、確かに、そう映った。壁の外にいる者に、壁の内を見せる術は、ないのか。


 「利三」


 「は」


 「明朝、『沈黙』の札を一枚。『沈黙は屈せず。聞くための形』。目の高さに」


 利三は、意外そうに目を上げ、それから深く頭を垂れた。「承知」


  ⸺


 夜半、灯をひとつだけ残し、光秀は、煕子の文箱をひらいた。紙は、いつもより軽い。軽い紙ほど、重いことを書く。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。一行は、今夜は刃でも鞘でもなく、息に見えた。息は、音を持たない。持たないから、確かだ。


 筆をとる。墨は濃い。濃い黒は、白を汚さない。汚さぬよう、細く置く。


 『煕子へ。広間で、冷笑を浴びました。理の値を問われ、「値でない」と申しました。沈黙は、壁になりました。壁は、外から見れば屈服に見えるとのこと。……器の欠けを継ぐ者は笑われません。理の欠けを継ぐ者は、笑われます。人は、物を許し、人を許さぬ。人は、笑いに集まり、理に戻る。戻る場所が無ければ、笑いは落ちます。落ちぬよう、札を増やすほか、術を知りませぬ』


 筆を置き、金継ぎの線を指でなぞる。指先の皮の薄いところで、冷たさが和らぐ。和らぐ冷たさは、温かさではない。だが、刃の冷えと違って、胸を裂かない。


 襖の外で、利三の足音が止まる。止まりの沈黙は、伴う沈黙だ。


 「利三」


 「は」


 「わたしの沈黙は、屈したか」


 利三は、少しだけ間を置いて言った。「殿の沈黙は、壁にございました。壁は、立っておりました。……けれど、外からは、高すぎます」


 「低くする」


「低くすれば、よじ登られます」



 「登る者には、手を貸す」


 「承知」


 利三の声に、硬いところがひとつあった。硬いところが、今夜は頼もしい。


  ⸺


 明け方。鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。つづけて、二つ、そして四つ。耳の印は、胸の奥の壁に、穴をひとつずつ穿つ。穿たれた穴から、冷えた夜気が抜ける。


 札は、増えていた。『沈黙は屈せず』『礼の次第は階に従う』『城と坂本、札同じ』『太鼓の二、禁ず』『袋の口は少し』。黒い字が、白い板の上に立っている。立つ字は、人の目の高さにある。


 「殿」


 稲冨が、朝一番の声箱を抱えて来た。紙は、昨夜より多い。『鐘が同じ』『札が読みやすい』『税は重い』『城は美しい』『笑いは軽い』『理は戻る』。最後の一枚に、『沈黙の札、よい』とある。誰の手かは、知らない。


 「利三」


 「は」


 「今日は湖西の渡しを見て、それから堺へ。羽柴の陣へは文でよい。『印は変えず』『油一樽、繰り上げ』『太鼓の二、禁ず』。坂本は、寺と辻と宿の札の位置を半尺下げよ。低くする」


 「承知」


 弥七が、鈴を内で鳴らし、権六が見張りの交代を短く切り、市松が帳面に『沈黙』の行を足し、お初が産屋へ出立し、源九郎が釘を打ち、若旦那が『少し』の絵を擦り直し、定吉が走り、了俊が鐘の紐の高さを、子の目の高さにあわせた。


 門を出る前、光秀は、もう一度だけ茶碗の金継ぎを見た。欠け目は、金によって隠されず、示されている。示されることで、器は、使われ続ける。人の理も、欠けを示すことで、継ぎの時間を得るのだろう。示した欠けを笑う者がいても、器は器である。笑いが器の底を削ることはない。


 「行こう」


 利三が「は」と応え、稲冨が板と筆を抱え、弥七が鈴を内で鳴らし、権六が顎を引き、市松が帳面を抱き直し、お初は腹帯を確かめ、源九郎が釘袋を打ち鳴らし、若旦那が『少し』の絵を掲げ、定吉が走る。了俊は、寺の鐘の紐を握り、子の目の高さをもう一度確かめる。


 坂本の辻で、鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。つづけて、二つ、そして四つ。耳が覚えるべきものは、今日もここにある。耳が覚え続ける限り、冷笑は、印の外へ流れていく。


 安土の舞台は、今日も光る。幻は、今日も美しい。美しいものを、嫌いにはなれない。嫌いにはならぬが、酔わない。酔わぬために、札を掲げる。掲げられた札の白が、朝の風に鳴り、その鳴りは、誰のものでもない。——誰のものでもない鳴りこそ、もっとも強い。光秀は、その音を胸の壁にあて、壁の高さを、ひとつ、下げた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ