第二十一話 安土の幻
鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。陸の印が朝の霧の層を薄く破り、のちに舟の鐘が二つ、そして四つ。湖の面で伸びた音が、天守の白い壁に柔らかくぶつかって返る。返った音は、石垣の目の中で一度吸われ、さらに高いところへうっすら上がっていった。音は上へ行きたがる。上へ集められるものほど、下で支えている手は見えなくなる。
安土城は、完成へ向けて最後の角を整えられていた。天守の彩りは、噂のとおり派手で、実際には噂よりも控えめで、控えめに見えるために周りが静かに整えられていた。色は、音を吸う。金の箔、漆の深い黒、朱のきっぱりした線。武家の城にふさわしい節度と、信長の「見せる」心が、同じ面の中で互いに引き合い、離れ、やがて、遠目にはひとつの面に見えるように仕上げられていく。
「殿」
利三が、まだ乾き切らぬ畳の縁を踏まぬように、影を細くして進んだ。「今朝は、越前よりの使者、そして畿内の寺社よりの参じ。式次第は、こちらの案のままに」
「よい。式の前に、札を一枚増やす。『礼の次第は階に従う』。目の高さに」
「承知」
安土の礼は、坂本の礼と繋がっている。坂本が人の暮らしの印だとすれば、安土は権の見せ場の印である。印に優劣はない。役が違うだけだ。違いをひとつの紙に乗せるよう、光秀は朝から紙の角を揃え、札の文字の太さを半分に抑え、僧俗の座の間にわずかな余白を挟んだ。余白は、礼の命だ。詰め過ぎれば、礼は窒息する。
「殿」
稲冨が、声箱の新しい箱を抱えてきた。安土にも、坂本で使ってきたものと同じ型で作らせた。「箱は三つ。城下の辻、寺の門、宿の中。紙は、昨日の倍」
「読む」
光秀は、紙を束から抜いた。墨の濃淡に、坂本の手の癖が混じる。遠くから来た者が、坂本に寄ってから安土に上がったのだ。
『城の色、見事。けれど、米の色が心細い』『鐘は同じに鳴る。安心』『札の字が読めた。難しくない』『袋の口の絵、城の荷にも役立つ』『太鼓が二つ鳴った夜、鐘が鳴らないから眠れた』『城の華美は、税の重さだと父が言う』
最後の一枚を指先で押さえ、光秀はわずかに息を置いた。民の言は、理の板の節目を教える。節目があるから、橋は伸びる。
「札に添える。『城は秩序の象徴。秩序は暮らしの印で守る』。字は太くするな」
稲冨は頷き、紙を丁寧に戻した。紙の白は、安土の壁の白よりも柔らかい。柔らかい白の上に、黒の線が軽く立つ。それは、舞台の墨引きに似ていた。
うす金の光が天守の欄干に走った。欄干から見下ろすと、琵琶湖がひろく、静かに息をしているように見える。水の面は、城の影を受け止めて、しかし長くは留めない。揺れて、歪み、ほどけて、また整う。整う前の一瞬の歪みは、幻のようだった。
「城は、舞台であり、幻だ」
光秀は、欄干の木目に親指を当てながら、声には出さずに言った。舞台は、見る者のために整え、見られるために存在する。幻は、光を放ちながら、手で掴めぬ。掴めぬものに、人は惹かれる。惹かれたまま、足を取られる。足を取られぬよう、坂本の印を、ここにも通す。通すための道筋を、朝から紙に置いてきた。
「殿」
了俊が、天守の階へと駆け上がり、息を整えて頭を下げた。僧形の袖が、風でわずかに鳴る。「寺社への触れ、応えが分かれます。『華美は戒に外れず』と言う者、『度が過ぎれば戒』と言う者」
「戒は、己が内側に置くものだ。城の色は外側にある。内と外を隔てるのは、札だ」
「札」
「『鐘は一と三。舟は二と四。夜は打たぬ』。——印は、戒の外側に立つ」
了俊は、うなずきながら、欄干から湖を眺めた。「水に映るものは、すべて歪みます。歪むから、美しい。歪みは、戒ではござらぬ」
光秀は、湖面に目を置いたまま、胸の内に紙を一枚差し込んだ。『煕子へ』。書くべき行が、ひとつ、またひとつ浮かぶ。幻を語れば、笑いと侮りを連れてくる。だが、幻を知らぬ者は、舞台から落ちる。
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安土の一日は、坂本の一日よりも速く、そして長い。朝の礼、昼の評、夕の饗、夜の密議。人と声と色と匂いが、絶えず入れ替わる。入れ替わりの境へ、光秀は細い札を立ててゆく。靴脱ぎの位置、膝を折る角度、盃を置く向き、問答の順、座の末尾の切り方——すべて、印に直す。印は、誰の目にも見える場所へ。目の高さ、耳の高さ、手の高さ。札の数が増えるほど、理は軽くなる。軽くなった理を、扱える者が増える。
「坂本殿」
越前からの使者が、見事な礼で頭を下げ、軽い驚きを隠さずに言った。「城の中に、札が多い。しかも、読める。寺の門よりも、わかりやすい」
「寺の札は、中の者が読む。城の札は、外の者が読む」
光秀の返しは短い。短さは、礼である。
使者が去ると、入れ替わりに商人が来る。堺の古馴染み、顔だけ笑って目が忙しい者だ。彼は、札の角を指でそっと触り、「城は商いの舞台でもある」と言った。「舞台が整えば、品も人も集まりましょう。ただ、税の重さは、舞台の床の軋みでございます」
「軋みの音は、鐘で覆う」
「鐘で?」
「人は、印のある音を覚える。覚えた音が鳴るところへ、帰る」
商人は、笑いながら頷き、ついでに「袋の口の絵、ここにも」と言って札を一枚置いていった。『少し』の絵が、天守下の米蔵の柱に結ばれた。舞台の裏に札が増えるほど、表の華美は、安心して光を増すことができる。
夕刻、羽柴が天守の広間へ現れた。扇をひと折りだけ開き、笑いを薄く含んだ目で、壁の彩を見回した。
「坂本殿。見事な舞台じゃのう。……舞台は、幻ゆえに、よう人を呼ぶ」
「呼ばれた人の足が、帰る場所を忘れぬよう、印を置く」
「印がおのれの足を縛ることもある」
「縛りは、自由の形だ」
秀吉は、笑いを細くした。笑いの細さは、刃の柄の固さに似る。「ならば、縛りの結び目を、見えるところに。……坂本殿、太鼓が二つ鳴ったという話が、今朝、城下にも走った。鐘は鳴らさなんだか」
「鳴らさぬ」
「ようござる。鳴らさぬ印は、舞台の裏の合図じゃ」
秀吉は、広間の隅にいた若い兵の顔を見て、「眼が眩むのう」と軽く言い、ついでに盃の置き方を直してやった。兵は、照れて笑った。笑いが舞台の端を柔らかくする。柔らかくされた端から、人は落ちにくくなる。笑いは、舞台の縁の布だ。
「坂本殿」
秀吉が、唐突に声を落とした。「城は、殿の言うとおり、幻や。けど、その幻を見せずに戦はできん。見せぬ戦は、理の板ばかりが目に立って、足が重うなる」
「見せることと、支えることを、同じ札に書く」
「書ききれるか」
「書ききれぬ。だから、紙を増やす」
秀吉は、目を細め、笑いを灯心のほどに絞った。「紙は、燃える」
「燃えぬ紙もある」
光秀は、懐に指を当てた。煕子の文。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。春は遠い。遠いが、紙は懐で温まる。温まりながら、燃えない紙となる。
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夜。諸国の使者を集めた饗の座では、詩歌と舞と、外国の楽の音までが入り混じった。南蛮渡来の珍しい器が、燭の光を奇妙な角度で返す。光は、裏の柱で細く折れ、天井の板の目で一度、止まる。止まるところが多いほど、舞台は深く見える。
柴田勝家が、酒を半ばに、短く言った。「坂本。お主の札は、ここでも働いておる。……固いが、働く」
「固い札は、柔らかい場所に置く」
「柔らかい場所?」
「笑いの上、香の上、音の上。固いものは、柔らかいものの上に置けば、傷を作らない」
勝家は、唇の片端だけで笑い、「扱いづらさは残る」と囁き、盃を干した。扱いづらさは、舞台の端の張りだ。張りが、場を引き締める。
滝川一益は、川の地図を畳んだまま、舞台の装束の裾が流れるのを眺め、「水も光も、浅いところでは眩しい」と言った。「深いところの光は、目に入るまでに時間がかかる。時間が、礼だ」
「礼は、時間だ」
光秀は、同じ言葉を返し、札の束を少し押し下げた。押し下げた隙間に、空気が入る。空気の入る場所を作るのが、舞台の要だ。
宴の外、廊下を渡ると、城下の暗がりが縫い目のように見えた。縫い目を確かめるのは、弥七の役だ。彼は、鈴を縄の根で結んでいるだけで、今夜は鳴らさない。鳴らさぬ鈴は、持つ者だけに鳴る。
「殿」
弥七が、小声で言う。「ほんに、城は美しうございます。けど、美しさは腹を満たしませぬ」
「腹は、坂本で満たす」
「坂本の札、こっちにもようけありまする。読めば、心が落ち着くと申す者、多うござる」
「印は、幻の床板だ」
弥七は、少し考えてから頷いた。「なら、釘は源九郎に任せとうございます」
「任せる」
源九郎は、舞台裏の釘の数を増やしている。増やした釘は見えない。見えないが、音を変える。床の軋む音が少し減る。減る音に、人は安心する。
お初は、今夜は城下の産屋へ降りていた。安土にも生まれる命がある。命は、舞台の外で生まれ、舞台の外で泣く。泣く声の高さが、鐘の高さに近いと、眠る子は眠る。遠くで太鼓が二度鳴れば、母は耳を塞ぎ、鐘が鳴らないのを確かめる。鳴らさぬ印は、夜の子の守りだ。
若旦那は、城の荷の出入りに『少し』の絵を貼り、定吉は、帳面の線を増やした。『祝/印/税』。税の行に、『重』と小さく書く手が増える。重い、は、舞台の床の軋み。軋みの音は、消しきれぬ。消しきれぬ音に、印を上書きする。
「殿」
権六が、天守の見張り台の上で顎を引いた。「城下の声、『華美は税の重さ』。……声は、風に乗り、火に近づくと、火の色に染まる」
「染まる前に、紙に落とす」
光秀は、稲冨に目配せした。紙は、火の色に染まらない。染まらぬ場所が、舞台には要る。
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深夜。使者たちが宿へ散り、灯が半分落ち、天守の上の風が清くなった。光秀は、欄干に肘を置き、琵琶湖を見た。湖は、城を映している。映しているが、長くは持たない。細波が入り、風が過ぎ、月が薄い。映るものは、つねに遅れて歪む。歪みの揺れは、舞台の幕の揺れに似ている。
「城は、舞台であり、幻」
言葉をもう一度、胸の中で転がした。幻は、光を放つ。光があるから、人は集まる。集まった人の息が、舞台の温度を上げる。温度が上がると、幻は早く消える。消える前に、印を打つ。印が残れば、幻が消えても、人は戻る。
懐から文を出し、灯にかざす。『煕子へ』。筆を置く。墨を含ませる。書く。
『安土は、舞台であり、幻です。幻は、人を集め、理を隠し、そして理を照らします。坂本の札を持ち上げて、ここに並べています。礼の次第、盃の向き、膝の角度、鐘の分け、袋の口の絵。民の言は「華美は税の重さ」。重さを軽くはできません。ただ、重さの下に板を一本、渡します。板の下に釘を打ちます。釘は見えません。見えぬものを見よ、と言うのは、無理です。だから、印を目の高さに。……湖に城が映ります。映りは歪みます。歪みの美しさを、私は戒と混ぜません。戒は内側に置きます。外側の光を、内側に持ち込まぬよう、紙を一枚、胸に当てます』
筆を止めたところで、足音があった。利三である。彼は、襖の外で止まり、待つ沈黙を置いた。
「利三」
「は」
「明朝、札を三つ。『礼の次第は階に従う』『鐘は一と三、舟は二と四、夜は打たぬ』『城は秩序の象徴』。それから、小さく、『印は暮らしのため』」
「承知」
「声箱の紙には、『税と華美』の札を添えよ。読みやすく。声は消さぬ。ただ、数える」
利三は、「数える」と復唱し、去った。数えることは、待つことの助けになる。待つ間に、舞台は次の場面の支度をする。支度の音は、紙で隠す。
⸺
翌日。諸国の使者の列は途切れず、礼の次第は崩れず、印は目の高さで働いた。坂本から上がって来た者が、安土の札を見て安心し、安土から降りて行く者が、坂本の札を探して歩いた。鐘は一と三。舟は二と四。夜は打たない。太鼓の二は、禁ず。舞台の裏と表で、同じ合図が使われる。合図が同じなら、人は恐慌を忘れる。
忠興が、細川の使いを伴って、控えめな装束で現れた。目は、相変わらずよく動く。舞台の端と端、裏と表を、二度ずつ見て、言った。
「城は、人を呼びます。坂本の札は、人を戻します。両方、要ります」
「両方、離すな」
「離さぬよう、帯の結び目を、少し下へ」
忠興は、娘の帯に教えられた言葉を、舞台に移した。舞台の結び目は、下へ。下へ重みを置けば、上が軽くても飛ばない。
「坂本殿」
秀吉が、最後の使者を見送ったあと、欄干で肩を並べた。「幻は、いつまで持つやろ」
「持たせるのではない。持つうちに、印を増やす」
「理や」
「理だ」
秀吉は、扇で湖面を一度だけ軽く仰いだ。水の面が、わずかにざわめき、城の影がほどけた。「なら、笑いを置いていく。笑いは、幻が消えたあとに、足を軽うする」
光秀は、頷き、札の束を小さく打った。打った音は、釘の音に似た。釘の音は、人に聞かせるものではない。けれど、城の壁のどこかで、確かに鳴っている音である。
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夕刻、湖の風が少し強まった。欄干の布が柔らかく鳴り、遠い帆が白く傾く。舟の鐘が二つ、そして四つ。陸の鐘が一つ、一つ、一つ。耳の印は、舞台の光よりも、深く人の中に残る。残るものは、幻ではない。
光秀は、欄干から一歩退き、天守の広間に戻った。広間の中央に、薄い板を一枚置かせた。板には、一行だけ。
『城は舞台。印は道。』
板の白は、壁の白と違い、息をしている。息をする白の上に、黒の細い線が立っている。立っている線は、湖の面に映る光のように、揺れても歪んでも、消えない。
「行こう」
利三が「は」と応え、稲冨が紙を抱え、弥七が鈴を内で鳴らし、権六が顎を引き、市松が帳面を抱き直し、お初は城下の産屋で腹帯を確かめ、源九郎が釘袋を打ち鳴らし、若旦那が『少し』の絵を掲げ、定吉が走る。了俊は、寺の鐘の紐を握り、子の目の高さをもう一度確かめる。
天守から琵琶湖を見下ろすと、湖面に映る光が揺れて、幻そのもののように歪んでいた。歪みは、美しい。美しさは、人を惑わす。惑わされぬために、札を掲げる。掲げられた札の白が、風に鳴った。鳴りは、誰のものでもない。——誰のものでもない鳴りが、もっとも強いことを、光秀は知っていた。




