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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 斎宮 たまき/斎宮 環
第一部 明智光秀編
18/23

第十八話 毛利の影

  ⸺


 鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。つづけて、二つ、そして四つ。陸と舟の印が朝の空気に刻まれ、坂本の辻に集まった人の呼吸が、その刻みに合わせて浅く深く揺れた。冬はまだ抜け切らないが、湖の匂いは、昨日よりもわずかに塩を含んでいる。西へ向けた積み替えが、ほんの少しずつ増えている証だ。


 その朝、光秀は、舟着きの棚に並べられた板札を指先で確かめていた。米、塩、油、乾物、釘。板の縁には細い朱で「二と四」と記されている。舟の鐘は二と四。夜は打たぬ——印は変えない。変えないことが、いまは何よりの理である。


 「殿」


 稲冨が、声箱の紙束を抱えて走ってきた。息は上がっていない。走り慣れた足だ。


 「昨日より、紙が増えました。『舟の鐘は遠くでもわかる』『袋の口の絵が役に立つ』『鈴が鳴らない夜は眠れる』——いつもの調子のほかに、『西の方角の空が赤い』と」


 「……赤い」


 光秀は、湖の上に視線を投げた。冬の朝の空は、白とも青ともつかぬ薄さを保っていたが、遠い西の端に、確かに、煤のような色が混じっていた。雲とも煙ともつかぬその色は、やがて色の名を与えられることになるだろう。戦の色、という名を。


 さらにもう一つ、早駆けが舞い込んだ。封に朱の点が散り、隅に太い署名。羽柴である。筆致はいつも通りの急ぎの太さだ。


 ——中国攻め、総大将某。播州より西、諸所打ち連れて進む。坂本殿は補佐として調略と兵站をとりまとめ、湖西よりの出し入れと堺の渡しを繋げ。毛利、引き下がらず。士気は保つべし。


 「殿」


 利三が、光秀の横顔をうかがい、短く告げた。「総大将は羽柴にて」


 光秀は頷いた。頷きは、感情を含まぬ板のように薄い。安土でも同じ達しを受けた。総大将・羽柴秀吉。信長の采配は、理の板を速く並べる。その速さが、人心の上を滑るとき、光秀の胸にはいつも、わずかな石付きが残る。


 「弥七」


 「は」


 「舟手を南へ。堺と淡路の間に仮の渡しの板を設ける。銭袋は『少し』、鈴は縄の元で結べ。権六には、湖西の見張りを厳に。市松は……陸の帳面だ。舟縁はまだ足が慣れぬ」


 「承知」


 弥七は、鈴の玉を掌でひと度転がしてから、縄の根で固く結び、腰に収めた。鈴は内で鳴る。鳴らない音が、持つ者を支える。


 「了俊」


 「はい」


 「寺の掲、『海の鐘 二と四』の脇に、ひとつ墨を添えよ。『変えぬこと、力』と」


 「心得ました」


 鐘の紐を握る僧の掌には、冬の乾きと墨の湿りが同居している。了俊の掌は、いつも、その両方の湿り方を間違えない。


  ⸺


 堺の舟宿に、羽柴秀吉の声は先に届いていた。笑い声、と言って差し支えない軽さを伴って、柱や板の角で音が跳ね返り、部屋を明るくしてしまう一種の声だ。


 「坂本殿、遠い所お越しなされ。いやいや、冷える冷える。ほれそこ、火を寄せ刀を乾かせ、というておくれ。刀いうても、坂本殿のおは理でござるがの!」


 光秀は、口の端でわずかに礼を作った。秀吉は、救いようがないほど軽いのではない。軽さを意識して振るう器用さがある。器用な男は、人心を一気にすくい上げる。すくい上げられた心は、しばしば浅い。浅さが悪いのではない。浅く流すべき時があるのだ。——だが。


 「湖西の渡しは整いました。舟は二と四。夜は打ちません。堺の側は」


 「堺の側も同じように。おお、坂本殿の札、あれはようできとる。『袋の口の絵』、わし、あれ好きでね。おかげで商人衆の顔が明るうなったわ」


 秀吉は、椀を置く手つきひとつにも無駄がない。場の重心が彼の周りに移ってくるのを、光秀は肌で感じながら、手元の紙に必要だけを書き付けた。余白は削る。削った余白に、彼は笑いで色を塗る。そこが、光秀のやり方とは、根から違う。


 「毛利の動きは」


 「はじめは引くふりして押す。押しながら、こちらの腹を読む。腹を空かせるとすぐわかる。だから腹は、先に満たしてしまう。坂本殿の番や」


 「兵站を、ということですな」


 「そう。坂本殿の理、わしらの笑い。それで人は動く。どっち欠けても、こける」


 軽く言う。その軽さに苛立つ自分を、光秀は自らの襟元で押さえつける。苛立ちは、理の敵だ。だが、胸の底で別の声が小さく呟く——理が人心を繋ぐのではなく、笑が繋ぐのか、と。


 秀吉は、部屋の隅に固まっていた若い兵に気づくと、片目を細めて、指で輪を作り、彼らの持つ碗の縁に、音もなく触れた。触れられた瞬間、兵の顔の筋肉が少しゆるみ、肩の力が抜けた。笑いは、器の縁を撫でる。撫でられた縁は、たしかにこぼしにくくなる——それは認めざるを得ない。


 「坂本殿」


 秀吉がふいに声を落とした。軽さの中から、ときどき、刃の側の声を取り出す癖がある。


「毛利は、影の出し方が上手い。影は、実より先に揺れる。揺れに人は惑う。——影の中で、札と鐘を切らすな」



 「承知」


 短く返しつつ、光秀は、無意識に佩刀の柄に指を当てた。柄の下で骨がひとつ鳴る。鳴りは、節の音。節は、止まり、そして伸びる。


  ⸺


 舟は湖を渡り、湖は川へつながり、川はやがて瀬戸へ出る。出る手前で、積み荷は何度も背中を変え、縄の食い込む位置を変え、乾いた肩に汗の路を刻む。兵站の道は、戦の道よりも、つねに半刻先を行かねばならない。遅れれば、前線の腹が鳴る。腹が鳴れば、笑いも理も、まずは片方が消える。


 坂本から送り出した荷の一部を見届けるため、光秀は川沿いの小さな渡しの小屋に入った。壁には板が二枚。「二と四」「袋の口は少し」。その下には、稚い指の高さで書かれた小さな字——『父が帰る印』とある。定吉が掲げたものだろう。子の目の高さに掲げられた字は、親の目の高さよりも、時に強い。


 「殿」


 お初が、荷の札の紐を結び直しながら寄ってきた。舟着き場にも、産婆の仕事はある。舟の底で生まれる命もある。


 「鈴が鳴らない夜は、赤子がよう眠るもんで」


 「内の音は、聞こえますか」


 「ええ、産婆には聞こえやすい」


 お初は、笑いながら指で自分の耳たぶを軽く叩いた。「外の音より、中の音。あんたも、よう聞いとる」


 光秀は、短く礼をし、舟底に積まれた樽の数を確かめた。板に刻まれた数字、油の匂い、縄の太さ。彼の理は、こういうものの上に置かれる。笑いではなく、印。印が人心を繋ぐと信じている——信じたい。


 しかし、道中の軍勢の輪の真ん中から時折、秀吉の声が跳ねてくるのを聞くと、光秀の胸の底では、理の板がわずかに軋む。笑いは、疲れた足をほんの少し前へと押す。押された足は、板の上で転ばない。転ばないなら、それでよいのか。——その問いこそが、今の孤独のかたちなんだろう。


  ⸺


 毛利の影は、先にこちらの心に落ちた。実際の影——雲の下で動く兵・櫓の影・城の影——よりも、言葉の影が先に来る。山中で補給路を襲う夜討ちの噂、瀬戸の潮目に逆らって舟を消すという小技、忍びの太鼓が深夜に二つ鳴ったという話。出どころのわからぬ陰が、影であることを自ら誇示するように、辻から辻へ伝わっていく。


 湖西の見張り台に立っていた権六が、眼窩に風を入れながら言った。


 「影は、光が強いほど濃うなる。羽柴殿の光は、濃い影を連れてくる」


 「影を見て、足を止めるな」


 「止めませぬ。止めませんが、止まりを知らぬ足は、折れます」


 権六は、見張りの交代の板を指で叩いた。印を守れ——彼の言葉は、いつもそこへ戻る。印の前では、笑いも理も、ただの道具に過ぎない。


 夜、陣中。秀吉の陣の周りには、いつも薄い笑いが漂っている。火の粉が宙に舞い、その粉に兵の目が短く集まる。秀吉は、その集まった目を見逃さない。軽い冗談を一つ。濡れた草鞋を火で干す時の匂いの話。出立の印の鐘を逆に数えた子どもの話。そういう断片で、夜の角が丸くなる。


 光秀は、その輪から半歩外に立って、兵站の帳面を見ている。塩の配り、米の残り、油の減り、釘の位置、舟の数。どれも、明日の朝、笑いに混ぜられることはない。だが、これが欠けたとき、笑いはひどく薄っぺらになる。


 「坂本殿」


 秀吉が、火の方から声をかけてきた。光の中から呼ばれると、影の方にいる自分がよく見える。


 「兵、寒うてかじかんどる。湯を沸かす油、もう一樽、貸してくれんか」


 「貸しではなく、今日の分を明日の分から繰り上げる。板に記す。返す時は、笑いではなく、油で」


 秀吉は片目を細め、わずかに肩をすくめた。「理やな」


 「理です」


 「よし、理で行こう。……理は、わしには冷たう聞こえる時がある。けど、冷たいもんに薬味を少し載せるのが、わしの役や」


 秀吉は、指で塩をつまむ仕草をした。夜の火が、その指先だけ白く照らした。塩は冬の舌に利く。利くからこそ、配りには理が要る。笑いで塩の味を濃くすることはできても、塩そのものは笑いでは出て来ない。


 「坂本殿」


 その夜更け、秀吉はもう一度だけ光秀を呼んだ。声は、冗談のない音程だった。


 「毛利の影は、影だけで終わらぬ。こちらにも影がある。——坂本殿の影は、深い」


 「影は、器の内側の光沢の裏です」


 「ほぉ」


 秀吉は、ほんの少しだけ目を楽しげにした。「なら、その器、割れぬように」


 「欠ければ、継ぎます」


 「継ぐ時間、いまは無いで」


 秀吉の言は正しかった。正しい言は、時に残酷だ。継ぐ間もなく、器は揺さぶられる——今朝、茶碗に言った言葉が、胸の内で薄く返った。


  ⸺


 翌日からの道は、速さと重さがせめぎ合った。西へ、さらに西へ。備前の境、播磨の山裾、川の蛇行。積み荷の列は途切れず、列の端で必ず誰かが水筒の紐を結び直している。結び直す手は、いつも同じ濡れ方をする。冬の湿りと油の匂いが混じり、手の甲の皮が白くなる。


 そんな道の途中で、毛利方の小勢が補給路の一部をさらって消えた。塩を十樽、油を五、釘を二。数は多くない。だが、数ではなく、印の破れが胸に残る。舟の鐘の二と四はその夜、湖の向こうまで届かず、代わりに、遠くの太鼓が二度、間を置いて鳴ったという話が入った。影は、印の間を狙ってくる。


 光秀は、壊れた印の端を拾い集めるように、板に『破れ』の印を記し、人の足を先に送った。先に送られた足は、笑いに混じらず、紙にだけ触れる。紙は、冬の夜に冷たい。冷たいものに触れる手は、正しく動く。


 夜、評を開いた。兵三、村三、町二、寺一。竹林は遠く、代わりに野晒しの林の端で灯を二つ。弥七が鈴を内で鳴らす仕草、市松が帳面を立て、権六が迷いを口にする。


 「迷う。けど、印は守る」


 了俊が、持ち運びの鐘を指で叩く。二と四——舟の印。叩き方で、子が笑い、若い兵が肩をゆるめる。笑いは、印を忘れさせないときだけ、理の味方である。


 評の最後に、定吉が紙を差し出した。『破れ』の字の横に、小さく『継ぎ』と書いてある。板の端にその紙を貼り、光秀は、ほんの少しだけ胸の重石をずらした。


  ⸺


 毛利の影は、日が落ちたあとに濃くなる。哨戒の兵が戻るたび、焚き火の明かりで刀の刃文が湿りを帯び、その湿りの中に、誰かの顔が一瞬だけ映る。映った顔の多くは、翌朝には忘れられる。忘れられぬ顔は、指で触れるほど近い。近い顔は、名を持つ——元親、元春、小早川、吉川——名の列の遠くに、名のない影が無数にいる。


 秀吉の陣は、その影に対して、ふだんより笑いを多くしたように見えた。笑いは、影と戦うときに、刃を鈍らせない。むしろ、刃を手から落とさせないための麻縄のようなものだ。麻縄がなければ、重い刀は滑る。


 光秀は、それを認めつつも、別の場所で理の板を並べる。塩の配りの時間、米の炊き方の順、油の使い方。袋の口は『少し』。紐の確かめは二度。舟の鐘は二と四。夜は打たない。陸の鐘は一と三。印の列は、影の列よりも長い。長い列は、戦の最中ほど、目に見えにくくなる。見えにくいものを見続けることが、孤独の正体だ。


 夜が深まると、文机の前の灯がわずかに揺れた。煕子の文を取り出す。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。その一行は、今夜、刃でも鞘でもなく、板に見えた。板は、重ねるためにある。重ねた板は、渡るためにある。渡り終えた板は、片端を外す——その理だけは、変えない。


 文の紙を胸に戻し、光秀は、筆を置いた。


 『煕子へ。毛利の影は、笑いでも理でも、すぐには細らない。笑いは人を繋ぐ。理は印を繋ぐ。二つを離さず持つために、わたしは、孤独の器を少し広げる。広げると、縁は薄くなる。薄くなった縁を、指でそっと撫で、明日、板をもう一枚置く』


 墨の黒は、夜の黒よりも深い。深いところで、灯が細く返る。返った光は、金継ぎの線に似ている。欠けを隠さぬ光。


  ⸺


 翌朝。西にかかる雲の帯は低く、毛利の城下の煙は、その下で水平に流れていると伝えが来た。風の向きが変わる。鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。陸の印。続けて、舟の印。二と四。耳が覚えたものは、人を戻す。


 坂本から遠く離れた陣地にも、声箱は作られていた。竹筒に蓋を付け、板で口を狭め、名を書いても書かなくても入れられるようにした簡素なものだ。稲冨が日毎に開き、数を板に記す。紙は多かった。『鐘が同じで安心した』『袋の口の絵がここにもある』『鈴が鳴らない夜は眠れる』『塩の味が増えた』『油が湯に変わって、手が戻る』——遠い坂本と同じ文が、遠い場所で同じように積もっていく。この積もりこそが、光秀にとっての春の端である。


 「殿」


 利三が、秀吉の陣から戻って来た。書付を差し出す。『本陣、明日より城下へ押し出す。坂本殿は補給の端にて調略の糸を張れ。町の者と寺、鍛冶、船頭、誰にでも良い。影の下で動く糸が強い』——秀吉の筆だ。


 糸——光秀が坂本で結んできた細い糸。笑いの上を滑る糸ではなく、印の上に沿う糸。糸の強さは、結び目の数に比例する。結び目は、指で作る。指は、疲れる。疲れを笑いで和らげる手が側にあるなら、それも良い。だが、指は指のままでいなくてはならぬ。


 光秀は、城下の辻で、寺の僧と、町の若旦那と、鍛冶と、若い丁稚と、順に言葉を交わした。言葉は、触れと印の間を行き来し、その間に細い糸がかかる。目には見えない。だが、糸はある。糸の上を、笑いは軽く乗り、理は重く乗る。どちらも、糸を切らぬ限り、渡れる。


 城下の外れで、毛利方の忍びがひとつの太鼓を二度鳴らした。間をおいて、また二度。舟の鐘の「二と四」に似せた印の破り方だ。印を破るには、印をよく知っていなければならない。知っている者は、印そのものの強さを恐れる。だから、鳴らす。——鳴らせば、こちらは鳴らさない。鳴らさない強さを、こちらは持たねばならぬ。


 「殿」


 権六が、太鼓の方角へ顎を引いた。「鳴かさぬ。鳴かさぬのが、今夜の印」


 「鳴かさぬ印も、印だ」


 風が鳴り、竹の節が短く鳴り、足下の土が固く鳴る。鳴りは、誰のものでもない。だが、誰のものでもない鳴りが、いちばん強い時がある。


  ⸺


 その夜、秀吉の陣から、珍しく使いが来た。小さな紙片にただ一語、『笑』とあった。笑いは足るか、という意味にも読めるし、笑いは要るか、とも読める。光秀は、筆で同じく一語、『印』とだけ書いて返した。印は足るか。印は要るか。——どちらの一語も、欠ければ倒れる。


 返事を持たせたあと、光秀は文机の前で、ふっと、息を吸い込んだ。吸い込みながら、自分の胸の中で何かが薄く割れる音を聞いた気がした。割れる音は、小さな器の音に似ていた。器は、揺らされすぎると、縁から欠ける。欠けたところに、金を置く時間がない。ないのに、置くべき金の線が、胸の中にありありと見える——この視える感じが、孤独の正体である。


 煕子の文を懐に入れた。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。今夜、その一行の『春』だけが、やけに遠く見えた。遠く見えるものを遠くに置かず、手元に端を集める——そう決めて、灯を落とした。


  ⸺


 翌朝。城下に薄い靄がかかり、毛利方の旗の色が、水の上で滲んだ。滲みの向こうで、太鼓が鳴り、こちらの鐘は鳴らない。鳴らさない印を守りながら、人は動く。弥七が鈴を内で鳴らし、市松が帳面を抱き直し、権六が見張りの交代を短く切り、稲冨が声箱の紙を数え、了俊が子の目の高さで札を掲げ、お初が腹帯を確かめ、源九郎が釘を増し締めし、若旦那が『少し』の絵を描き直し、定吉が走る。——そういう動きの一つひとつが、影よりも強い。


 秀吉は、笑いで輪を作り、輪の外を鋭く見ていた。笑いが大きくなるほど、彼の目は冷たくなる。その冷たさは、刃の柄である。柄が良ければ、刃は無駄に振られない。


 光秀は、輪の半歩外で、印の板を確かめた。印は、笑いよりも遅い。遅いが、消えない。消えないものを持つ手は、孤独である。孤独は、器の余白の別名——その言葉を、胸の内側で、何度もなぞった。


 「坂本殿」


 秀吉が、ふいに声をかけた。笑いの中の刃の声だ。


 「毛利は引かぬ。押す。押して、影で撹乱する。——押し返すより、流す」


 「流す」


 「そう。坂本殿の板が流れに乗るよう、わしが笑いで舟を押す。板と舟、どっちも要る」


 秀吉は、指で舟のかたちを描いた。その指先に、昨夜、塩をつまんだ白が、まだ残っている気がした。笑いは、指につく。理は、紙につく。どちらも、落ちる。


 「承知」


 短く返し、光秀は、胸の中の板を一枚、少しだけずらした。ずらすと、空気の通りが良くなる。良くなった通りに、遠い春の薄い匂いが、ほんの一瞬だけ、まぎれ込んだ。


  ⸺


 その日の夕刻、毛利方の小勢が川の蛇行の外側から補給の列にかすめ寄り、油の樽を二つだけ奪って消えた。印の破れは小さい。だが、破れは、破れを呼ぶ。光秀は、川の内側に板を二枚、余分に渡し、樽の置き方を変え、紐の結び目の位置をずらした。ずらしたことで生じた隙間に、紙を一枚、噛ませる。紙は、白。白は、何にでもなる。紙一枚が、樽を倒さない。


 夜、評。弥七が「内で鳴る鈴」の話をし、権六が「迷いは節」を言い、市松が帳面の横に『破れ/継ぎ』の二語を書き、了俊が鐘を叩いた。子の指が折られ、若い兵の肩がゆるみ、町の者が笑い、村の者が頷き、寺の僧が目を閉じた。笑いは、ここで利く。印は、ここで利く。——両方を離さず持つことが、今夜の答えだった。


 評の終わり、定吉がまた紙を差し出した。今度は、『影』と一語だけ。光秀は、その紙を板の端に貼り、横に小さく『光』と書き添えた。光は、笑いだけでも、理だけでもない。人の手が触れた板の面に、灯が当たったときの返りである。


  ⸺


 深夜、光秀は一人、文机の前で茶碗を持ち上げた。金継ぎの線に、灯が細く滑る。滑りは、薄い。薄い滑りの中に、秀吉の笑い、毛利の影、鐘の一と三、舟の二と四、袋の口の『少し』、子の指、お初の耳、源九郎の釘、若旦那の絵、定吉の走る足音——いくつもの小さな印が重なって見えた。重なりは、器の底に澄む。


 「——理が人心を繋ぐのではなく、笑が繋ぐのか」


 昼間、胸の底で呟いた問いを、今度は声にした。声にすると、問いは、部屋の隅の影に刺さる。刺さって、消えない。消えない問いを抱えたまま、光秀は、茶碗の縁を指でなぞった。縁は薄い。薄い縁を、指で撫でる。撫でることしか、今夜はできない。


 煕子の文を懐に当てる。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。春は遠い。遠いからこそ、端が多い。端を集める。板を置く。笑いがその上を渡る。影が、その下を流れる。印は——変えない。


 灯を落とし、外の冷たい空気を一息だけ吸い込む。吸い込んだ冷たさが胸の奥を通り、佩刀の柄の下で骨が鳴った。鳴りは、節の音。節は、止まり、そして伸びる。伸びるための止まりを、今夜も胸に刻む。


  ⸺


 暁。鐘が一つ、間をおいて、一つ、一つ、一つ。つづけて、二つ、四つ。印は、いつも通りだ。いつも通りであることが、戦の朝の一番の救いになる。湖の向こうの空に、毛利の影はまだ濃い。濃いが、こちらの印は、薄くない。


 「行こう」


 利三が「は」と応え、稲冨が板と筆を抱え、弥七が鈴を内で鳴らし、権六が顎を引き、市松が帳面を抱き直し、お初が腹帯を整え、源九郎が釘袋を打ち鳴らし、若旦那が『少し』の絵を掲げ、定吉が走る。了俊は、寺の鐘の紐を握り、子の目の高さをもう一度確かめる。


 毛利の影は、今日も濃い。だが、影の下で動く印の列は、昨夜より長い。笑いがその上を渡り、理がその下を支え、孤独の器が、縁を薄くしながら広がる。広がる縁を、指でそっと撫でてから、光秀は、板の上へ足を置いた。春は遠い。遠いが、途切れない。印を変えぬ限り。

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