第十七話 長宗我部の誤算
決まる時は、冬の氷が薄く割れる音も立てない。安土からの二通目の飛脚が門をくぐったとき、決断はもう、こちらの「理」に触れる前に、こちら側の空気を先に凍らせていた。
「四国、長宗我部を打つ。躊躇、罪」
上意は、短く冷たかった。羽柴からの添状には、舟手の割り振り、堺での積み替え、湖西からの出し入れの刻限まで、すでに算段が引かれていた。余地は、余白ではなかった。余白とは、書ける場所の名だ。そこに、墨はもう置かれている。
光秀は、文を卓に並べ、指先で紙の角を揃えた。角と角が、逃げ場なく見合う。合わせた角の向こうに、自分が結んできた細い糸が、見えない手に次々と断たれる像が浮かぶ。阿波の脇で、塩と布を交換するためだけに結んだ弱い協定。土佐の浜の小屋で、風向きの名を言い合って笑うだけで終えた書付。讃岐の寺で、鐘の打ち分けを「海にも」と持ち込んで、子どもが指を折って呟いた一と二と三。いずれも、戦のためではなかった。戦を避けるためでもなかった。ただ、人が互いを見失わぬよう、道に置いた小さな石印に過ぎない。
「文で治め得るものを、なぜ刃で断つ」
声にならぬ呻きが喉の奥で丸まり、やがて自らの胸板に突き返って来た。言葉は、出どころに坐れ。快川の戒めが、竹林の節のように胸を打つ。坐った先に見えるのは、理の板ではなく、刃の刃文だった。波が立ち上がる模様。理はまっすぐであることを好む。刃は、波を刻む。
利三が、卓の端に静かに手を置く。置かれた手は、剣ではない。重石である。
「殿」
「申せ」
「城内、羽柴の達しを合理とする声が広うございます。『敵の膨張、いま断たずば後患』と」
合理。耳に馴染むはずの語が、今夜は、薄い紙を裂く音に聞こえる。合理は、理を合理化する。理は、生活の中に置いてはじめて理だ。合理は、生活から理を引き抜き、策に並べる。策は速い。速さは、正義に似る。似ているが、同じではない。
「……分かった」
光秀は、文を束ね、紐をひと巻きだけ掛けて、卓の隅に寄せた。寄せた場所のすぐ脇に、金継ぎの茶碗がある。煕子の手の癖が残る線が、灯の下で細く光る。その光りは、今夜は刃に似ていた。器の金は、継ぐために置く。刃の金は、断つために置く。光りの種類が、同じ金の名で呼ばれることに、胸が痛む。
「稲冨」
「は」
「『節目板』を書き替える。陸の鐘は一と三。舟の鐘は二と四。夜は打つな。ただし、兵の集合に限り、三つを一息に。混乱は嫌う」
「承知」
「弥七」
「は」
「湖西の舟手を二組に割る。南へ向かう組は鈴を縄の元で結べ。堺での銭袋は、口を少し開ける。『少し』を守れ」
弥七は、鈴を握り込んだ拳でひとつ打ち、「守る」という言葉を噛んだ。守る、は、刃の陰に置く言葉だ。陰に置かれる語ほど、固くなる。
「了俊」
「はい」
「寺の掲に『海の鐘』の印を添えよ。子の目の高さと、大人の目の高さ、二枚。同じものを町の辻にも。声箱の紙は毎夕、数だけを板に記す」
「心得ました」
利三の筆が、紙の上を音もなく往復する。往復の数だけ、橋板が並ぶ。並ぶ板の一部が、今夜は刃の鞘板に見える。鞘は刃を守る。守るが、抜くためにある。
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夕餉の輪に混じると、兵の空気は乾いていた。乾きは、よく燃える。燃え方は、赤子を暖めもすれば、屋根を焼きもする。
「殿」
権六が、骨ばった手で飯碗を持ち上げ、膝で浅く礼をした。古参の膝の礼は、ふだんより渋かった。
「いよいよ、でござるな」
「いよいよ、だ」
「繋いだ糸が惜しくはござらぬか」
正面からの言葉は、いつも救いになる。光秀は、飯の縁に残った米粒を指で集め、口に運んだ。塩気が、今夜は薄い。薄い味は、疲れを露わにする。
「惜しい。惜しいが、命じられた以上、渡る」
「は」
権六は、碗を置き、静かに吐息を漏らした。吐息は、冬の白にならない。屋敷の内は暖かい。暖かさが、今夜は、裏切る。
輪の端では、若い市松が、珍しく声を張っていた。いつも湖の縁に弱く、舟の仕事から陸へ回したばかりの市松が、理の言葉を借りて自分を固めようとしている。
「信長公の決断は……合理です。長宗我部は、どのみちこちらへ寄らぬ。伸び切る前に、刈る」
隣の若い者が頷き、向かいの者が目だけで肯く。肯きは、怖れの裏返しだ。怖れに理を被せれば、声は太くなる。太くなった声が、奥の方で乾いた音を立てた。乾いた音は、薪の裂ける音と似ている。
光秀は、輪の中央に目を落とした。箸の影が、短く細い。細さは、時間の薄さだ。薄い時間は、刃の好む場所だ。
「言え」
短く告げると、輪が少しだけ緩んだ。許しの合図を知っている顔がいくつもある。弥七が鈴を握ったまま、視線だけで二人の若者に促す。若者は、理を二度噛み直してから、言った。
「……いずれにせよ、戦は来る。ならば、こちらから」
「ならば、こちらから」
輪の中で、同じ言い回しが二度、三度流れた。言い回しが、兵の口を経るたびに、言葉は刃に近づいていく。近づくほど、理は声を失う。失った理の空白に、勇が溜まる。勇は、必要だ。必要だが、独り歩きは、足を折る。
光秀は、最後に飯を飲み下し、輪から離れた。離れる背に、利三の沈黙がついてくる。沈黙にも、種類がある。伴う沈黙と、拒む沈黙。今夜の利三は、前者だった。
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夜、文机。灯をひとつだけ。陰影は、薄く長く伸び、金継ぎの線に沿ってゆっくり揺れた。
煕子の文箱から、あの一枚を取り出す。紙は、冬の乾きで軽い。軽さが、重く感じられる夜がある。
『殿の理は必ず春を呼ぶ』
短い一行が、今夜は刃となって胸に刺さった。理は春を呼ぶ。呼ぶはずだ。呼んできたはずだ。鐘の一と三、舟の二と四、袋の口を少し開けること、畦の小槌、鉄の帳面、子の指の数え。そうしたものの端に、春の色が薄く宿るのを、幾度も見た。それでもいま、我が胸に差さるのは、春を遠ざける命である。理は、理の裏切りに耐えうる器を持たねばならぬのか。
「春は遠い。戦火が近い」
声にすると、部屋の隅がひとつ震えたように見えた。震えは、灯のせいか、眼のせいか、胸のせいか、わからない。わからないものの名をつけるのは、良くない習いだ。名を与えられたものは、そこに立ってしまう。
紙背に筆を当て、墨を含ませる。『煕子へ』と書き始め、筆先が止まる。止まった筆先に、墨が溜まって、小さな黒い点ができた。その点は、涙の形に似ている。涙は、今夜は出ない。出ない涙の重さが、点を沈ませる。
『春は遠い。だが、遠い春ほど、端が多い。端を集めるしかない』
薄い行を二つだけ置き、筆を置いた。二行が、刃文の波に飲まれぬように、紙は箱に戻す。箱の蓋を閉じる音が、刃の音に聞こえぬように、指で縁を抑えた。
襖の外で、利三の足音が止まる。止まって、動かない。待つ沈黙は、伴う沈黙である。
「利三」
「は」
「城中の声を」
「『四国は攻むべし』。多くはそう申します。『長宗我部は増長、いまを遅らせば京畿に火の粉』と」
「そうか」
「ただ」
「ただ?」
「了俊は、『鐘の数は増やすな』と申しました。『戦の前こそ、印を変えるな』と」
光秀は、灯心の長さを爪で少し切った。影が浅くなり、金継ぎが柔らかい金に戻る。
「増やさぬ。変えぬ。……変えるのは、刃の方だ」
利三が、短く頷いた。その頷きには、救いが少しだけ混ざっていた。
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翌朝。坂本の辻に、人が集まった。『節目板』の書き替えを見に来た者、子の手で鐘の絵をなぞる者、舟の帆柱の数を数える者。声箱には、紙が多い。
稲冨が、箱から紙を取り出し、板の隅に枚数だけ記す。了俊が、寺の掲に『海の鐘 二と四』と墨を太く置き、子の目の高さにも同じものを書いて掛けた。定吉が、舟着きに小さな札を結び、源九郎が、舟縁の釘を増し締めする。弥七は、鈴を縄の根で固く結び、権六は、見張りの交代を刻限通りに短く区切った。
「殿」
お初が、腹帯の布を束ね直しながら寄ってくる。寒の朝の手は赤い。赤い手で持つ紙は、墨が濃い。
「赤子は、戦の前の夜ほど、よく泣きます」
「そうか」
「泣く声の数は、鐘の数ではござんせん。けど、鐘が鳴ると、泣き止むこともあります。『印』は、赤子にも利く」
「印は、印のために打つのではない。人のために打つ」
お初は、にやりと笑い、「そうで」とだけ言って去った。去り際に、定吉の頭をひと撫でし、定吉は照れ隠しに帳面の線を濃くした。
「殿」
呉服屋の若旦那が、布を巻いた腕を胸に当てて、妙に真面目な顔で進み出る。
「袋の口、今朝より『少し』の幅を絵にいたしました。これなら、誰が見ても『少し』がわかります」
板の隅に、小さな図が描かれていた。袋の口の開きが、指一本分だけ見える絵である。絵の横に、『少し』と書かれている。言葉は、人によって広がる。絵は、広がりに楔を打つ。
「よい。人は、絵の方が速い」
若旦那は、顔の半分で笑い、半分で緊張を残したまま、店へ駆け戻った。駆ける背に、町の息遣いが、薄く力を宿す。
鐘が、一つ。間をおいて、一つ、一つ、一つ。陸の印。続いて、舟の印。二つ、そして四つ。耳の印は、戦の前だからこそ、守らねばならぬ。印が崩れる時、人は怖れを数え直す術を失う。
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午下がり、湖西の浦。帆は上がり、帆綱は鳴り、縄の元の鈴は鳴らない。鳴らさぬ鈴は、内で鳴る。内で鳴る音は、持つ者だけが知る。
堺からの商人が、目だけを忙しく動かしながら、積み荷の帳面を並べた。米、塩、油、乾物、釘。光秀は、袋の口が『少し』であるのを確かめ、舟の腹へ目をやった。舟底の丸みは、器の底に似ている。器は、盛って運ぶものだ。刃は、奪って散らす。
「殿」
利三が、舟の縁で声を落とした。
「安土よりさらに達し。『長宗我部、阿波に手を伸ばし、讃岐の一条へもひそかに触れあり』とのこと」
結び目を固くしたはずの糸が、知らぬところで別の糸を掴みに行くことがある。人の世は、織りであると同時に、ほどけでもある。
「……それが誤算だ」
光秀は、湖面の遠い一点に目を置いた。置いた目の先で、薄い冬の陽が、水の面で折れた。折れる光は、刃文に似る。刃文は美しい。美しさに惑うのが、人の誤算だ。
「誰の誤算にございます」
「長宗我部の。あるいは、こちらの」
利三は、問いを足さない。足さないことが、今は正しい。
舟が湖の中央へ出ると、比叡の裾の雪が青く返った。青は冷たいが、澄んでいる。澄みは、理の色だ。理の色は、刃の柄と合う。刃は、柄が良くなければ振れない。
「殿」
弥七が、鈴を握った手で膝をついた。
「兵の中、合理、という言の葉がよう出ます。『合理であれば、迷いは罪』と。市松など、その筆頭に」
「迷いは、罪ではない」
光秀は、はっきりと言った。声が、自分の体のどこから出たのか、はっきりわかった。
「迷いは、節だ。止まりを知らぬ伸びは、折れる」
弥七の顔の筋肉が、わずかにほどけた。ほどけは、勇を殺さない。勇に、方向を与える。
「では、迷ってよろしいのですか」
「迷え。だが、印を守れ。印を守りながら迷うのが、強さだ」
弥七は鈴を一度、内で鳴らし、頷いた。「内で鳴らす」という癖は、彼の器を支えている。器は、内側に音を持つ方が、揺れに強い。
⸺
夕刻、坂本へ戻る。屋敷の座敷は、朝と同じ静けさを保っているはずなのに、今夜は、静けさがよそよそしい。静けさにも、種類がある。抱く静けさと、拒む静けさ。今夜は、後者が隙間に立っている。
文机に座し、煕子の文をもう一度開く。『殿の理は必ず春を呼ぶ』。一行が、今度は刃ではなく、鞘に見えた。刃は、鞘があって刃だ。鞘のない刃は、早晩、人の手を傷つける。
「……春は遠い。だが、遠いほど、端が見える」
自分に聞こえるほどの小ささで言い、金継ぎの茶碗の縁に指を添えた。器は、欠けを継いで使う。人の理も、欠けを継いで使う。継ぐ間がないときは、継ぐと決めて置くだけでも、次の揺れ方が変わる。
利三が、襖の外で待つ気配を保ちながら、紙束を差し出した。声箱からの今夕の紙である。
『鐘が二と四のとき、舟が動く。父が帰る時の合図だと弟に教えた』
『鈴が鳴らない夜は、眠りが深い』
『袋の口の絵がわかりやすい。母が安心した』
『兵の交代が短くなり、塩が足りる。うまい』
『戦のことはよくわからないが、鐘は前と同じだと嬉しい』
紙を置くたびに、胸の内の白紙が、少しずつ、薄い薄い線で埋まっていく。埋めるのは、理ではない。生活の手である。生活の手が、理の板を湿らせ、刃の熱を少しだけ奪う。
「利三」
「は」
「明日、湖西に再び。舟手を南へ送り、堺へ触れを届ける。坂本は、節目を守る。鐘と札と声箱。……夜半、評を開く。兵三、町二、村三、寺一。『戦の前の評』を」
利三の目が、わずかに驚きの色を含んだ。戦の前に評を開く。戦は、評を嫌う。嫌うからこそ、開く。印を守るのは、戦の時だ。
「弥七には、『内で鳴る鈴』の話をさせよ。権六には、『迷いは節』を言わせよ。市松には、帳面を持たせる。理は、紙に置いてこそ、熱を逃がす」
「承知」
利三は、筆を置いて深く礼をした。その礼は、伴う沈黙の礼であった。
⸺
評の夜。竹林の入口に、灯が二つ。節目板の下に、人が集う。弥七が、鈴を縄の根で結んだまま、手の中で鳴らす仕草をしてみせる。鳴らない音の話は、子にも伝わる。市松は、帳面を抱えて立ち、権六は、迷いを悪びれずに口にする。
「わしは、迷う。迷いながら、印を守る。守るために迷う」
笑いが、薄く渡った。笑いは、戦の敵ではない。戦の敵は、恐慌だ。恐慌は、印の壊れを好む。印が守られる場所で、恐慌は育たない。
了俊が、鐘の紐を指で叩く。「一と三」「二と四」。子の指が、暗がりでゆっくり折れる。折られる指の節が、夜の冷えに小さく鳴る。鳴りは、竹の節の音に似ている。
「殿」
徳右衛門が、深く深く頭を下げた。
「畦直しの持ち回りは、戦の間も、ゆるりと続けます。続くことが、春の端になると、若い者が申します」
「続けよ」
続く、という語は、刃の届かぬところで強くなる。刃は速い。続くは遅い。遅いが、折れない。
評は、長くせず終えた。終わり際に、定吉が、紙をひとつ差し出した。中央に一語だけ。
『春』
光秀は、受け取り、折らずに懐に入れた。折らぬ紙は、懐で少しだけ温まる。温まった紙は、刃の冷たさを鈍くする。
⸺
夜半、文机に戻る。灯はひとつ。金継ぎの線が、柔らかく返す。
『煕子へ』
光秀は、再び筆を置いた。今夜は、二行の続きに、もう一行を置いた。
『刃で断たれる糸の外に、指の結び目を作っています。鐘と札と鈴と帳面。春は遠い。だが、端は手の中にあります』
筆先の墨が、紙に深く沈む。沈む音は、しない。しないが、胸に届く。届いたところで、刃の刃文の波が、少しだけ緩む。
灯を落とす前、光秀は、佩刀の柄に軽く触れた。柄の下で、骨がひとつ鳴る。鳴りは、節の音。節は、止まり、そして伸びる。伸びるために止まる。止まることを、今夜は忘れぬよう、胸に刻んだ。
⸺
暁近く、湖の方から、細い風が一つ、長い風が二つ、交わって来た。交わりは、帆をふくらませる。ふくらんだ帆の下で、人が動き、印が守られ、紙が掲げられ、鈴が内で鳴る。戦火は近い。近いからこそ、印は変えない。変えぬ印が、遠い春へ細い道を繋ぐ。
門口に立ち、光秀は、煕子の一行を懐で確かめた。文の紙の温みは、体温の温みでしかない。だが、体温こそが、理の最後の鞘だ。
「行こう」
利三が「は」と応え、稲冨が板と筆を抱え、弥七が鈴を握り、権六が顎を引き、市松が帳面を抱き直す。お初は腹帯を確かめ、源九郎は釘袋を打ち鳴らす。了俊は、寺の鐘の紐を手繰り、子の指の高さをもう一度確かめる。
春は遠い。戦火は近い。だが、遠いと近いの間に、いま、細い橋板が渡されている。渡りきれば、片端を外す。外した板は、またどこかで使える。器は、使われて器になる。理は、揺さぶられてなお、継がれて理になる。
長宗我部の誤算が誰の誤算であるかは、まだ定まっていない。誤算の名付けは、いつも、あとから来る。名のないうちに、すべきことがある。鐘を守り、札を掲げ、声箱を開き、鈴を内で鳴らし、袋の口を『少し』に保ち、子の指を数えさせ、畦の小槌を回す。
光秀は、佩刀に手を置き、冬の空に薄い息を吐いた。吐いた白は、すぐに消え、消えた場所に、印の音が残った。一つ。間をおいて、一つ、一つ、一つ。続いて、二つ、そして四つ。耳が覚えるべきものは、今もここにある。耳が覚え続ける限り、春は、遠くても、途切れない。