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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 斎宮 たまき/斎宮 環
第一部 明智光秀編
16/30

第十六話 孤独の器

  ⸺


 音は、消えるためにいちど満ちる。冬の朝の屋敷は、そのことわりを忠実に演じていた。夜具をたたむ衣擦れ、廊下を拭く布の微かな擦過、台所の水が桶の縁に触れて立てる丸い音。そうした細波が、ふっと途切れ、広い座敷には、ただ白い呼吸だけが漂った。


 煕子を喪ったあとに残る静けさは、静けさというよりも、音の抜け殻であった。抜け殻の内側に顔を入れれば、遠いところでまだ誰かが話しているのがわかる。だが、その言葉は、こちらへは届かぬ。


 光秀は、文机の上の器をひとつ、両手で包み上げた。掌に、薄い温かさの名残が移る。器は茶碗で、口縁から胴のあたりにかけて、ひと筋の欠けがあった。欠けは、金で継がれている。継ぎ目は、細い稲妻のように走って、朝の光を細く返した。


 この金の線を、はじめて見た日のことを、光秀はありありと思い出せる。煕子が台所の片隅で、膝を折り、指先に紙絆創膏を巻いて、漆をゆっくりと置いていた。欠けた破片を合わせる角度を一度で決めず、微細に何度もずらしてから、やっと「ここ」と言って、そっと掌を離した。


 ――欠けても、使える。それが、人の器でございます。


 煕子は、そう言って、小さく笑った。「殿の器は大きい」とは言わなかった。大きさよりも、使えること。欠けてもなお、使えること。器の価値を決めるものは、そこだと、煕子は知っていた。


 光秀は、茶碗の口縁に、親指の腹をそっと当てた。継ぎ目の金が、わずかに冷たい。冷たさは、いまの心と同じ温度をしていた。


 「ことわりも、欠ける」


 独白は、声になったのか、ならなかったのか、自分でも定かではなかった。言葉を声の方へ押し出す力が、胸のうちでなかなか集まらない。理は、橋板だ。どれほど堅く削り出しても、渡る足によっては歪み、ときに割れる。自分が刻んできた板も、いま、どこかで割れている気がする。


 「……だが、継げるのか」


 金継ぎは、美しいが、時間を要する。乾き、また置き、また乾く。そのあいだに、人は待つ。器のために、ひとを待たせるのではない。器が、待つひとを支えるその時のために、待つのである。政の器はどうだ。欠けている。継ぎたい。だが、継ぐ間もなく、また振られる。振られて、落ちる。割れる。拾う手の数は、足りるのか。


 襖の外で、利三の気配が立った。呼吸をひとつ置いて、彼はたった一語、声を置いた。


 「殿」


 その一語に、冬の空気がふるえた。ふるえの中に、馬の汗、矢羽の匂い、雪を蹴立てる蹄の音が混ざる。急使の色である。


 「……入れ」


 襖が、音の少ない音を立てて引かれ、利三が膝で滑るように進んだ。その後ろに、鷹羽模様の背旗を巻いた早駆けが、礼を短く置く。冬の朝の息が、彼の口許から白くほどけ、すぐ消えた。消えた白に、別の白が重なる。封蝋の白。織田桐の印が刻まれている。


 「安土より急使にて」


 利三の声は、余分を削った竹の節のように固く、ひとつずつ、言葉を渡してくる。光秀は、茶碗を机に戻し、指の腹に残った冷えを袖で揉み消しながら、封を解いた。紙が、冬の乾きで少し鳴る。鳴りは、容赦のない音に似ていた。


 ――中国筋、毛利との戦端すでに開く。播磨につづき、西路一線、備えを怠るな。四国のこと、長宗我部に猶予ならず。三好の旧臣を糾合し、阿波脇に手を入れよ。淡路の封、証文の趣、改めて触れさせる。遅参、罪。


 短い文が、矢の連射のように紙面を打つ。息継ぎのすきもない。容赦なき指令の連打とは、こういうときのためにある言葉だ。


 利三が、早駆けの背の雪を払っている。払われる雪片が、畳の上で溶ける前に、光秀はつぎの紙を引き抜いた。朱の小さな点が散らばり、隅に「羽柴」の署名が見える。羽柴の手だ。筆致は太く、急ぎの癖を隠そうともしない。


 ――播州のことは、某に任せ置かれ候。然れど四国の事、坂本殿にて御受け下されよし。海路の段、堺に触れ済み。兵糧積み替え所、湖西の浦に設けるべし。


 羽柴秀吉の文は、利を人の手に乗せる術を知っている。知っている者の筆は、余白が少ない。少ない余白のぶんだけ、読み手の余白が削られる。


 光秀は、文を机に並べ、茶碗の金継ぎの線の上に、紙の角がかからぬように、そっとずらした。器の継ぎ目に、命令の角を当てるべきではない。そう思ってしまう自分の指が、ひどく人間めいて見えた。


 「殿」


 利三が、いつもより半分だけ低い声で言う。


 「どう取り計らいましょう」


 「坂本の備え、琵琶の浦に舟手の仮置きを。堺との渡し、了俊を使いに。鐘の合図は、兵の三、町の一に改む。夜は、三は打たぬ。混乱を嫌う」


 「承知」


 「稲冨には、声箱の紙をまとめさせ、寺と町の『節目』板に、四国の触れを加えよ。兵の足、今月半ばに二十増やす。畦直しは、村ごとの帳面で持ち回り。弥七の組、海へ出す。鈴は、外させておけ。海では鳴る」


 利三の筆が、音もなく走った。走る筆は、橋板を並べる音の代わりである。並べた板は、人が渡らねば板ではない。渡す人は、誰だ。――自分だ。


 光秀は、佩刀を帯びた。腰の重さは、いつもと同じなのに、今朝は少し深く沈んだ。沈みは、痛みの重さと似ている。だが、佩刀は、痛みを切るためのものではない。切るべきは、曖昧さ、躊躇、怠慢。切らねばならぬときに切らなければ、それは人の器にひびを入れる。


 机の茶碗が、わずかに揺れた。早駆けの足音が廊下を横切るたび、板がわずかに軋み、その振動が机の脚を伝わって、器の胴に当たるのだ。煕子の金継ぎが、その小さな揺れを、細い金の線のところで和らげている。器は、揺れてなお、倒れない。


 「……置いていく」


 光秀は、茶碗を両手でいったん持ち上げ、机の隅に寄せた。寄せながら、自らに言い聞かせるように、低く言った。


 「継ぎは、乾くのを待つ。乾きは、理の時間だ。理の時間を、いまは机に預ける」


 利三が、殆ど見えぬほどの、短い礼をした。礼は、理解の形である。形だけの理解ではない。利三という器は、余白の深い器だ。そこに、水を置ける。


 廊下の向こうで、お琴が立っていた。いつもと同じ位置、同じ角度、同じ手の添え方。彼女の同じは、屋敷の節目を作る。節目があるから、屋敷は揺れても折れない。折れないものの背に、光秀は手を置いた。


 「行って参る」


 お琴は、深く頭を下げ、顔を上げたとき、目の周りに、薄い紅が差していた。紅は、冬の頬に血の色を戻すための、ちいさな工夫だ。人は、そうやって、自分で自分を支える。器の中に、器を作る。


  ⸺


 坂本から湖西へ抜ける道は、雪を踏み固めた足跡が、二列、三列と重ねられて、節のような模様を作っていた。竹の節と違って、人の節は、足で刻まれる。刻まれた節を辿っていくと、風の方角が変わるところがある。そこから先は、湖の匂いが強くなる。湿りを含んだ風が、頬の熱を一段、奪う。


 琵琶の浦には、堺からの舟が二艘、風待ちをしていた。帆柱の縄が鳴る。鳴りは、竹の節の音に似ているが、もう少し塩を含んでいる。光秀は、舟底の丸みに足を乗せると同時に、視線を湖面に落とした。冬の水は、黒に近い青をしている。その上を、細い白が走る。水の上にも、金継ぎのような線がある。


 「殿」


 堺からの商人が、綿入れの襟を正して進み出た。顔の半分を布で覆い、眼だけがよく動く。動く眼は、利の動きを追う眼だ。


 「米一千俵、塩一百樽、油五十。淡路渡しに備え、積み替え所の小屋、昨日より棟上げ中にて」


 「よい。舟手の出入りは、声箱の掲に従う。鐘は、明けにひとつ、暮れに三つ。夜の鐘は打たぬと触れた」


 商人は頷きながら、眼で利三の筆を追っている。利三の筆は、筆であって刀だ。余白を削り、必要だけを紙に残す。残された文字は、板に移され、辻に立ち、寺の鐘に呼応する。そうして、理は人の動きに変わる。変わるまでの時間が、いまは一刻、いや、それより短い。戦は、それを短くする。


 「殿」


 了俊が、船縁に手をかけていた。寺の衣ではなく、厚手の野良着に袈裟を重ね、足元は粗い草鞋。彼は、すでに湖の風に身を合わせている。合わせることを厭わない者の腰は柔らかい。柔らかい腰は、折れない。


 「鐘の打ちわけ、町にも伝わりました。稚児らが指で数える癖をつけております。数えることは、待つことの助けになります」


 「助けは、器の縁だ」


 光秀は、湖を渡る風の向きを見合わせるために、帆先へ目をやった。帆は、まだ下りているが、布は風の癖をとらえるように、微かにふくらむ。ふくらみの度合いで、帆を上げる時を測るのだ。器も同じだ。ふくらみを見なければ、注ぐ時を誤る。


 「殿」


 稲冨が、湖の際で紙を押さえながら駆け寄った。紙の端が水気を吸って、馬の耳のように丸まっている。


 「声箱に、新しい紙が多く入りまして。四国のこと、町の者も兵も、問うております。“海の鐘はあるのか”“鈴は鳴るのか”“袋の口は湖でも開けるのか”」


 利三が、口の端だけで笑った。


 「袋の口は、どこでも、少し開け」


 光秀は、頷いた。舟の上では、少し開けることが命になる。銭も、帆も、心も、開けすぎれば風に持っていかれる。閉じすぎれば、風を掴めない。


 蔵人くろうどの若者が、帆綱に手をかけ、「上げ!」と叫んだ。帆が上がり、舟が、わずかに身震いのように動き出す。水が、器に注がれる酒のように、静かに位置を変えた。


 湖面の中ほどに差しかかると、比叡の裾に積もった雪が、薄い陽に照らされて、青く返った。青は、冬の白に混ぜると、静けさに重みを与える。重みは、沈むだけではない。支える。


 舟のふちに手を置いて、光秀は、もう一度、器の継ぎ目を思い出した。金の線は、欠けを隠さない。隠さないからこそ、美しい。政の継ぎも、隠してはならぬ。失敗と歪みを白く塗りつぶすと、次に置く板が、どこまで伸びているのかが見えなくなる。見えぬ板に足を置けば、落ちるだけだ。


 「殿」


 利三が声を落とした。


 「安土にて直々の召し、とのこと。坂本に戻られず、そのまま向かわれよ、との早飛脚」


 「……そうか」


 湖の上の風が、頬を刺した。刺しは、覚悟の場所を教える。覚悟は、刀を帯びる位置を、半分だけ下げる。下げた位置で、腰の骨がわずかに鳴る。鳴りは、節の音だ。


 「安土であれば、器の話はできぬ」


 「はい」


 「器の話は、器の前でしかできぬ」


 利三は、何も足さなかった。足さぬことが、理解の証になる瞬間がある。


 舟は、湖西の浦に寄せ、光秀は馬に乗り換えた。雪は、湖の近くでは湿りがちで、蹄の音が低く、鈍く響く。鈍い響きは、急がねばならぬ時に、逆に足を速める。音が遅いから、心が先に行く。先に行った心に、身体が追いつく。


  ⸺


 安土の城は、冬の空に、筆の先で描いたように立っていた。黒と白の面が重なって、日の角度で表情が変わる。天守の窓に、斜めの光が差し、格子が薄く金を返した。その金は、金継ぎの金と違って、継ぐための金ではない。示すための金だ。示すことの力は強い。強いが、継ぐ力ではない。


 広間の空気は、柴の香に冷たい鉄の匂いが混じっていた。板の上を歩く音が、いつもより少し高く響く。高い音は、権の上向きを示す。上へ向かう音の中で、声は鋭くなる。


 「坂本」


 信長の声は、相変わらず、余白を削る。余白が削られると、人は深く息を吸えなくなる。吸えない息で、言葉を出す。出す言葉は短くなる。短い言葉は、命令に似る。


 「四国、猶予なし。長宗我部、増長甚だし。三好の遺脈、掘り起こせ。淡路の波戸、手当て遅れるな。播磨は羽柴に任せる。備前の境で抜かりなく、湖西と堺の渡し、坂本にて繋げ」


 「は」


 光秀の返答も、短い。短さで、意思を刻むしかない。刻んだ意思の上に、足を置く。


 「坂本。そなたは器だ」


 信長が、ふいに言った。言葉の温度は変わらないのに、中身だけが唐突に変わるときがある。光秀は、目を上げた。信長の目は、笑っていない。笑っていないが、怒ってもいない。器、という言葉を、理ではなく、用の言葉として置いた目である。


 「器は、割れたら捨てる」


 信長は、続けた。


 「だが、捨てる前に使い切れば、器は器の役目を果たす。器は、器のためにあるのではない。盛るためにある」


 「承知」


 光秀の胸のどこかで、金継ぎの線が、冷ややかに光った。器の話を、器の前でしかできぬ、と自分で言ったくせに、いま、器という言葉を、器ではない者から受け取っている。受け取って、心の中で、そっと位置を変える。捨てる器と、継ぐ器。盛るための器と、待つための器。器の語が、同じ一文字で、いくつもの意味を抱く。抱くことができるのが、日本語の器だ。言葉自体が、器である。


「坂本」



 信長は、さらに短く言った。


 「遅れるな」


 遅れる、は、罪。罪は、切る。切らねば、広がる。広がれば、手に負えない。容赦なき指令の連打は、最後に必ず、この一語を置く。置かずに済む世は、まだ先だ。先へ行くために、いま、遅れるな。


 退出ののち、広間を出た廊下で、羽柴とすれ違った。彼は、いつものように、笑っているのか怒っているのかわからぬ口許で、ひょいと指を二本立てた。二本は、鐘ではない。二本は、「二日のうちに」という合図だ。光秀は顎をわずかに引いた。引く頷きは、坂本の合図だ。言葉を浪費しない者同士のやり取りは、器の縁に沿って素早く流れる。


  ⸺


 坂本へ戻る道すがら、雪はやみ、空に薄い光が走った。手の甲に当たる風が、少しだけ柔らかくなった。柔らかさは、冬の終わりのきざしではない。むしろ、冬の底の柔らかさだ。底があるとわかると、人は歩ける。


 屋敷に入ると、机の茶碗は、朝と同じ位置にあった。利三が、わずかに位置をずらし、脚の下に紙を一枚、噛ませている。机が微かに傾いでいたのだろう。紙の端が、金継ぎの線と向き合っている。欠けを支える紙。紙は、白だ。白は、書かれる前の余白だ。余白が、器を安定させる。人の器も、余白が支える。余白は、孤独に似ている。


 「殿」


 稲冨が、声箱から出た紙の束を抱えて入ってきた。束は、いつもより重い。重さは、声の数だ。


 「四国のこと、海の鐘のこと、鈴のこと。……それと」


 稲冨は、束の腹から、一枚を抜いた。白い紙の中央に、墨が細く長く走り、一語が置かれている。


 『器』


 それだけだ。誰の手か、筆の癖からは読み取れぬ。子か、大人か、男か、女か。わからぬ。わからぬが、それでよい。器とは、誰のものでもないものの名だ。誰のものでもないものに、みんなが手をかける。それが、村であり、町であり、軍であり、政である。


 光秀は、紙を机の隅に置いた。茶碗の金継ぎの線と、紙の「器」という字の横画が、遠目には、よく似た光り方をした。


 「利三」


 「は」


 「海の節目板を作る。寺の鐘、船の鐘。陸は一と三。舟は二と四に改める。夜は打たぬ。舟手の鈴は、縄の元で結び、外へは出さぬ」


 「承知」


 「源九郎に、釘と小槌をさらに十。定吉に、舟の荷の帳面の書き方を教えよ。お初には、舟着き場の産婆の役を頼む。生まれるということは、出立だ。舟にも、出立の者がいる」


 「承知」


 「了俊には、鐘の打ちわけの札、子の手の高さと、目の高さと、両方に掛けるよう伝えよ。子は指で数え、大人は目で数える」


 利三の筆が、また走る。走る筆の音は、竹の節の音に似ている。似ているが、少しだけ人の体温を含む。体温の含まれた音は、屋敷の静けさに溶け、溶けながら、静けさの形をわずかに変えた。


 お琴が、台所から茶を運んできた。茶は、煕子の茶ではない。だが、湯の温かさが、器の縁から指に戻ってくるのは、同じだった。お琴は、茶碗の金継ぎに、目を落とし、何も言わなかった。言わぬことが、今は礼だ。


 茶を口に運び、光秀は、胸の白い余白に、静かに墨の一点を置いた気がした。点は、きわめて小さい。小さいが、線になる予感を含んでいる。線になれば、文字になる。文字は、触れになる。触れは、人を動かす。動いた人は、板の上を渡る。渡りきれば、板は片端を外せる。外した板は、次の場所に使える。器は、使われながら、器になる。


 「殿」


 弥七が、鈴を握った手で膝をつき、短く礼をした。彼の鈴は、今朝から外に出ていない。紐の中で、小さく鳴った。


 「海へ出る者、十名、集まりました。権六も、見張りに付けます。市松は、舟の縁に弱いので、陸の方に」


 「よい」


 「それと……」


 弥七は、迷いのない声で続けた。


 「器は、揺らした方が、強くなることもあります」


 光秀は、弥七の眼を見た。湖の風を通してきた眼だ。通してきた眼は、曇りが少ない。


 「揺らし方による」


 「はい」


 弥七は、鈴をひとつ鳴らした。縄の中で鳴る鈴の音は、外へは出ない。出ないが、鳴っている。鳴っていることを、持っている者は知っている。知っているから、余計なところで鳴らさない。鳴らない音が、人を動かすこともある。


  ⸺


 夜更け、光秀は、ひとりで座敷に残った。灯をひとつだけ残し、他は落とした。暗さは、器の内側を見せる。器の内側の光沢は、灯の数が少ないほど、深く見える。深さは、孤独に似ている。孤独は、器の余白の別名だ。


 机の茶碗を、ふたたび両手で持ち上げる。金継ぎの線に、灯が滑った。滑りは、薄い。薄い滑りの中に、昼の安土の金と、湖の水の白と、雪の青と、鐘の一と三と、舟の二と四が、微かに重なっている。重なりは、器の底に沈む。沈んだものは、澄む。


 「孤独の器」


 光秀は、自分の胸の中で、その言葉を繰り返した。声にはしない。声にすれば、割れるような気がした。孤独は、器を大きくはしない。むしろ、縁を薄くする。薄い縁は、扱いを慎重にさせる。慎重に扱う手が、器の中身をこぼさない。こぼさなければ、器は役を果たす。役を果たしきれば、捨てられてもよい。捨てられることを怖れれば、器は使えない。


 煕子が言った「使える」が、胸の奥で、ゆっくりと形を変えていく。使える、は、捨てられることを、どこかで受け入れている言葉だ。受け入れているから、強い。強いから、優しい。優しいから、継ぎを待てる。待てるから、継げる。


 机の端に、昼間の紙が残っている。『器』。たった一語の紙。光秀は、それを茶碗の下に、わずかに噛ませた。机が微かに傾ぎ、器が揺れたとき、紙がその揺れを受ける。紙は、白だ。白は、何にでもなる。何にでもなれるものの強さは、見えにくい。見えにくい強さこそ、器を支える。


 襖の外で、利三の足音が止まった。止まって、動かない。動かない足音は、立ち去る気配ではない。待つ気配である。


 「利三」


 「は」


 「明朝、出立する。湖西へ。舟手を割り、堺へ触れを持たせ、四国へ渡す。……戻りは、期せぬ」


 「承知」


 「屋敷は、節目を守れ。鐘を守れ。声箱を守れ。器を、守れ」


 利三は、しずかに言った。


 「殿は、守るものを増やし過ぎませぬ」


 光秀は、茶碗を机に戻し、灯をひとつだけ増やした。影が、浅くなる。浅い影は、眠りを呼ぶ。眠らねばならぬ。眠りは、理の時間だ。理の時間に、ひとは体を預ける。預けねば、明日の板が、削れない。


 「増やしているのは、守る手だ」


 「は」


 「守る手は、器の外からも内からも、要る」


 利三は、礼を置き、去った。去る音がしないのは、彼の礼だ。礼は、音を消す。


 灯を落とす前に、光秀は、茶碗の金継ぎの線を、もう一度、指でなぞった。指の腹の皮膚が、細い金の冷たさを覚える。覚えた冷たさは、朝になっても、少し残るだろう。残る冷たさが、熱を無駄にせぬ。


  ⸺


 夜が明ける前、鐘が一つ鳴った。間をおいて、一つ、また一つ、また一つ。三。陸の鐘と、舟の鐘。耳は、印を忘れない。忘れないところに、人は集まる。


 出立の支度は、手が覚えている。佩刀を帯び、蓑を取り、草鞋の緒を二度結ぶ。机の上の茶碗は、紙を一枚噛ませたまま、朝の薄い光の中に、静かに立っている。揺れない。揺れない器を、背に置いて、光秀は戸口に立った。


 お琴が、深く頭を下げた。顔を上げたとき、目の紅はもう薄く、それでも、口元は、少しだけ強く結ばれていた。結びは、節だ。節は、止まり、そして伸びる。止まりを知った伸びは、無駄に揺れない。


 「行って参る」


 利三が、「は」と短く応じ、稲冨が板と筆を抱えて続く。弥七が、鈴を縄の根で結んだまま、腰の位置を確かめる。源九郎は、釘の重みを掌で量り、定吉は、帳面の白に、はじめに線を引く心づもりをつくっている。了俊は、寺の鐘の紐を握り、打つ手の高さを、子の目の高さに合わせた。


 門を出ると、冬の空は、うすく明るかった。息が白く、土が固く、風が細い。細い風は、器の縁を撫でる。撫でられた縁は、強くなる。強さは、孤独の別名だ。孤独は、器の余白だ。余白があるから、盛れる。盛れば、渡せる。渡せば、捨てられてもよい。


 坂本の道を踏みながら、光秀は、胸に置いた一行を、そっと撫でた。


 ――殿の理は必ず春を呼ぶ。


 春は、遠い言葉ではない。舟の二と四、鐘の一と三、袋の口の少しの開き、子の指の数え、畦の小槌、鉄の帳面。そうしたものの端に、春の色が薄くついている。薄い色を見ずに進めば、器は空滑りする。見ながら進めば、器は使える。


 孤独の器を、今日も持つ。持つ手は、冷たい。冷たい手でしか、掴めないものがある。掴みそこねたら、継げばよい。継ぐ時間は、理の時間だ。理の時間は、いつも短い。短いから、正しく置く。


 湖の方角から、細い風が一つ、長い風が二つ、交わって来た。交わりは、帆をふくらませる。ふくらんだ帆の下で、人が動く。動く音が、鐘の印に絡み、竹の節の音に絡み、屋敷の静けさの残り香に絡む。そうして、今日が動き出す。


 光秀は、佩刀の柄に、軽く手を置いた。置いた手の下で、骨がひとつ、鳴った。鳴りは、節の音だ。節は、止まり、伸びる。伸びるための止まりを、いま、胸に刻む。


 「行こう」


 声は、冬の空気に吸い込まれ、うすく返ってきた。返った声は、器の内側で、静かに澄んだ。澄んだものだけが、遠くへ行ける。遠くは、春の端に続いている。春の端は、器の縁の、すぐそばにある。

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