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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 斎宮 たまき/斎宮 環
第一部 明智光秀編
14/25

第14話「民の声、兵の声」

 領内を巡る道すがら、細い用水の流れに沿って、女房言葉のようにやさしく崩れた声が耳に触れた。


 「殿の兵は、田の畦を踏み荒らさぬ」


 炊ぎの湯気が上がる。刈り置きの稗は、縄で十字に締められている。麦藁の匂いと、湿った土の匂い。そのどれもが、光秀の肩にそっと手を置くようで、胸の奥の硬さを、ひとしずく、和らげた。


 「……よかった」


 思わずもれた息に、斎藤利三が横目を寄越す。


 「何か」


 「いや。風が、好い方角から吹いておる」


 利三は、うすく笑った。長年の従臣の笑いには、言葉よりも多くが含まれている。その笑いの端に、しかし、別の風向きが潜んでいることを、光秀は知っていた。


 兵の声、である。


 今朝、巡検に先立って、陣屋裏の薪置き場で、足軽の低い囁きが重なっていた。「厳しすぎる」「米の配りが遅い」「夜に駄賃も出ぬ」。軍律を保ち、民の田畑を守る。それは理にかなう。だが、兵の足は泥に沈む。雨が続けば、草鞋は重く、腹は減る。民の声を守れば守るほど、兵の声は、湿った薪のように燻ぶっていく。


 理想と現実。その二つの間に、橋を掛けるのが政であり、軍である。頭ではわかっている。わかっているからこそ、その橋板をどちらから先に渡すかで、いつも足が止まる。


 「殿」


 利三が、見回りの列から半歩だけ遅れ、囁いた。


 「城下の口入屋が申しておりました。近村の百姓、今年の苗、半ば病にやられた由。追い植えをしたくとも、馬借の値が跳ね上がっていると」


 光秀は頷く。昨夏の長雨が尾を引く。種籾の足りぬ家も多い。馬借は、戦の度に強くなる。道が荒れれば荒れるほど、足のある者に価値が移るのだ。


 「代わってやらせるか」


 「兵を、でございますか」


 「うむ。昼餉の後、歩兵二十を割いて、苗床の土返しを手伝わせる。……ただし、支給米を前倒しにする」


 利三が短く息を呑んだ気配があったが、すぐに「承知」とだけ答えた。


 歩みを続ける先、竹林が見え始める。細い幹が、風のたびに、互いの節をかすかに打ち合わせて、鋭い玻璃の音を立てた。


 竹は、見上げると、どれも真直ぐだ。けれど、根は絡む。地の下では、幾本もの筋が、互いを支え、時に締め、時にほどく。人の世も、竹の世も、同じだろう。真直ぐに見えるときほど、根の複雑さが支えになっている。


 「殿」


 別の声が、前方から走ってきた。目付の稲冨いなどみが、膝に手を付き、息を整えずに報告する。


 「下中条村にて、兵二名、納屋の干し物を無断で持ち出したとの訴え」


 光秀は足を止めた。


 「連れてきたか」


 「はっ。村の者が押さえております」


 竹林の端、夾竹桃の根元に、二人の若い足軽が膝をついていた。うなじに汗が溜まっている。傍らには、干した小魚の束と、藁草履の片方。訴え出た婆が、曲がった背中で、唇をかみしめている。


 「名を」


 「……熊助」


 「……利吉」


 名は、どこにでもある名だ。どの軍にもいる名だ。だからこそ、処し方を誤れば、火は隅から広がる。


 「申してみよ」


 熊助が、ひたいを土につけた。


 「腹が減ったのでございます。昨夜から何も……。藁は、破れた草鞋に……」


 「申したか」


 「はっ。かしらには……。けれど、その、申せば止められると思い……」


 利吉が顔を上げた。若い。片頬に、まだ消えぬ吹き出物の跡がある。


 「婆さま、許せ。藁は返す。魚は……」


 婆は、震える手で小魚の束を抱え込み、光秀を見た。その目は、怒りというより、怖れに濡れていた。荒らしが続けば、畦は崩れ、種は尽きる。そうなれば、来年は命が尽きる。婆の目は、その先を見ている。


 光秀は、利三を見やり、静かに頷いた。


 「熊助、利吉」


 「はっ」


 「罪は、罪だ。軍律は軍律だ。だが、口が、腹が、乾くのも事実だ」


 光秀は、腰の袋から、木札を二枚抜いた。小さな朱の印が押されている。陣屋の台所で通用する引換札だ。


 「今日から三日、下中条の苗床の土返しに就け。婆の家の前の用水からだ。日暮れまで働けば、この札で汁一椀と飯半合を引き替えるがよい。藁草履は、軍から一足支給する。代金は次の分配で差し引く。盗みの罰は、働きで返せ」


 熊助と利吉が顔を上げた。婆は、声を出さずに頷き、藁の束を利吉に差し出した。利吉は、両手で受け取り、顔を歪めた。


 「ありが……とう……ございます」


 「礼は婆に申せ。藁は婆のものだ」


 利三が、小さく息を吐く。稲冨が、筆記の板を差し出し、光秀は、簡潔に、いま告げた措置を書き付けた。書き付けは、陣中に張る。罰は罰として明らかにする。だが、罰の形は、壊すより、繋ぐ側に寄せたい。


 「利三」


 「はっ」


 「軍律の三箇条を、改めて触れ回れ。ひとつ、民家に泊まるときは屋内に足を踏み入れず、軒下を借りること。ひとつ、食い物は代価を払い、受け取りの証を書き残すこと。ひとつ、草鞋・縄・釘などの細工物は、軍から前渡すこと。代金は次の分配で引き、転売を禁ず」


 「心得ました」


 「さらにもう一つ」


 光秀は、竹の音に耳を澄ませた。風が、少し変わった。


 「声箱を置く」


 利三の眉が動く。


 「声箱、にございますか」


 「うむ。陣屋の出入り口脇と、町場の辻に、同じものを二つ。民も兵も、名を書いても書かずともよい。見たもの、思うことを入れよ。目付は毎朝、箱を開け、わしが読む」


 稲冨が、思わず顔を上げた。


 「殿が、すべて、でございますか」


 「すべては無理だ。だが、はじめの三日だけでも、目を通す」


 利三が、薄く笑う。


 「殿は、目を酷使なさる」


 「耳を酷使するよりは、救いがある」


 そう応じて、光秀は、視線を竹の奥へ投げた。竹の節と節の間に、日が短い帯となって挟まっている。帯は、風に合わせて、すぐにほどけた。


 昼餉は、野営にかぎった。握り飯に、里芋の汁。山椒が少しだけ香る。兵の輪に混じって、光秀は膝を折った。気配が走る。将の気配が、兵の輪を固くする。それを承知のうえで、あえてそこに座る。飯を口に運ぶ兵の手が、わずかに早くなる。若い者が、ふいに握り飯を落としかけ、隣の古参が肘で支える。笑いが、小さくこぼれた。光秀は、汁を啜り、喉を下ろしながら、耳だけを澄ませた。


 「……殿が座ってる」


 「汁、今日は薄くない」


 「利三さまが見て回ってるからな」


 それは、良い兆しだった。だが、輪の反対側の隅で、べつの声も、確かにあった。


 「これで戦えるかね」


 「むしろ、戦えんから、こうしてるんだろ」


 「戦になれば、結局、取るもんは取る」


 言葉は刺だった。だが、刺は、血の出るうちに抜かねばならぬ。肉に埋もれてしまえば、見えぬところで毒がまわる。


 光秀は、握り飯の飯粒を拭い、立ち上がった。


 「言い合え」


 輪が、かすかにざわめいた。いま、殿が言ったのは、命令ではない。許しの言葉だ。言うことの許し。言ってよいのか。言えば、罰か。眼が、行き交う。


 利三が、さりげなく輪の外へ退いた。稲冨が、筆を持つ腕を下ろした。古参が、唇の端を吊り上げた。若い者の喉仏が、上下した。


 最初の声は、背中から出た。


 「殿」


 振り返ると、声の主は、背の高い弓足軽であった。日焼けが濃い。鎖帷子の肩先に、麻紐で結んだ鈴が、ひとつ下がっている。手製の厄除けだろう。


 「申し上げます。軍律のこと、民のこと、わかります。わかっております。けれど、俺らの草鞋や弓弦は、ただで強うなるわけじゃない。殿が民を守るために俺らを縛るのなら、俺らの身も、守っていただきたい。雨の夜の見張りは、交代を短く。支給米は、汗の量で割ってほしい」


 「名は」


 「弥七」


 「よい。次」


 「殿」


 今度は、声が小さかった。輪の端、握り飯を落としかけた若い者である。頬はまだ丸い。


 「俺は、こういうの、ありがたい。俺の親父は、昔、ほかの殿の兵に、納屋を焼かれたんだと。それで、冬の間、妹が泣いて……。だから、俺は、殿の軍に入った。殿は、焼かない、と噂に聞いたから。……でも、つらいのも、わかる。夜は長いし、腹は減る。だから、えっと、さっきの人の言うこと、俺も……」


 言葉がほどけ、声がしぼんだ。古参が、肩で笑い、若い者の背を叩いた。弥七が、鈴を鳴らさぬように頷いた。


 光秀は、ゆっくり息を吸い、吐いた。


 「代えよう」


 輪が、わずかに傾いた。


 「見張りの交代を短くし、そのぶん、昼間の休息を長くする。汗の量での支給は難しい。だが、明日から、労の重い組に、塩を多めにつける。塩は、兵の足を作る。……それから、歩兵と農手伝いの組は、日によって入れ替える。汗の種類を、偏らせぬように」


 利三の筆が、短く走った。稲冨が、頷いた。弥七が、鈴のない肩で、ふん、と笑った。


 「さらに申す」


 光秀は、輪の中心に目を落とした。地に刺した箸の影が、短く、薄い。


 「明夜、竹林で評を開く。兵三、村三、町二、寺一。声の代表を出せ。……声は、集めねばならぬ。ただ、集めただけでは、風に散る。束ねる手が要る。束ねる手は、わしである」


 飯の匂いが、少しだけ濃くなった。そう感じたのは、光秀の心のせいだろうか。


  ⸺


 夜、光秀は、少数の供を連れて、陣屋の裏から竹林に入った。月は薄い。葉の擦れる音が、低く、長く、耳を撫でる。竹の皮が剥けたところに、昼間の光がまだ少し残っている。手で触れると、冷たい。冷たいが、嫌な冷たさではない。


 足元の土は、乾ききらない。靴の底に、細かな砂が噛み、歩くたびに、かすかな音が鳴る。音は、どこかで重なり、どこかで消える。風が通り、竹の節が鳴る。鳴りは、規則のようで、規則でない。光秀は、立ち止まり、目を閉じた。


 「誰の声に従うべきか」


 昼間、自分で放った問いが、暗がりの奥から、そっと戻ってくる。問いは、答えを連れてこない。問いだけが、帰ってくる。問いは、耳に触れ、胸に沈む。沈む場所は、いつも少しずつ違う。今日は、みぞおちの右寄りだった。


 快川和尚の声が、遠い記憶の中で、うっすらと響いた。「声に従うな。声の出どころに坐れ」。出どころに坐る、とは、何だ。民の声も、兵の声も、どちらも、腹から出る。腹の底に、冬の田がある。春の風が、そこを撫でる。撫でながら、雑草も撫でる。雑草をすべて抜けば、土は崩れる。残すか、抜くか。その見極めが、坐ることだ。


 枯れ葉が、光秀の肩に当たった。細い。軽い。手で払うと、指先に、ほのかに、土と風の匂いが移った。


 「殿」


 利三が、ひそやかに呼ぶ。


 「箱、置き終えました。鍵は、双方、稲冨に」


 「よい」


 「明夜の評、寺は、了俊りょうしゅんに。村は、庄屋の徳右衛門、鍛冶の源九郎、産婆のお初。兵は、弥七、古参の権六、若手からは市松。町は、呉服屋の若旦那と、米商の丁稚」


 「丁稚を、か」


 利三はうなずいた。


 「呉服屋は口が回ります。その相手に、丁稚。米商は、親方が敬遠しましたが、丁稚なら、と」


 「面白い」


 光秀は、竹の幹に背を預けた。幹は、思いがけず温い。昼間の光が、まだそこに立ち止まっている。


 「利三」


 「は」


 「わしは、いま、足場を作っておる。城ではない。足場だ。足場は、登るためのものだ。登りきれば、外す」


 利三が、静かに頷いた。彼は、頷くとき、顎をわずかに引く。その癖が、光秀には、心地よかった。


 「登りきれば、何が見えるとお思いです」


 「風」


 「風」


 「風は、目に見えぬ。だが、肌に当たる。竹に当たる。草に当たる。……それを見たい」


 利三は、言葉を足さなかった。足さぬことが、答えでもある。


  ⸺


 評の日。竹林の入口に、簡素な卓が置かれ、灯が二つ下がった。灯は、風に揺れて、竹の節に影を作る。影は、節の数だけ重なる。重なりは、厚みとなる。


 弥七は、鈴を外して来た。権六は、手拭を肩にかけ、市松は、白い頬を引き締めている。徳右衛門は、深く頭を下げ、源九郎は、火で炙られた手の甲をさすった。お初は、腰に布を巻き、背には小さな小袋。呉服屋の若旦那は、襟元をきちんと合わせ、丁稚は、緊張で唇が乾いていた。了俊は、袈裟の裾をたくし上げ、竹の節に手を当てて立つ。


 光秀は、卓の陰に半歩だけ身を引き、利三と稲冨に合図した。


 「始めよ」


 最初に口を開いたのは、意外にも丁稚だった。


 「米のこと、申します」


 声は震え、舌がひっくり返りそうになっている。だが、言葉は、まっすぐだった。


 「兵の方が、昼前に買いに来ると、昼過ぎの客に回す分が足らなくなる。親方は、兵は後回しにせよと言う。けど、そうすると、兵の方が怒る。怖い。……で、思ったんだ。時間を分ければいい。兵の時間、町の時間」


 了俊が、目を細めた。


 「時分けか」


 「はい。鐘を打てば、わかる。兵の鐘と、町の鐘。鐘の数を変えれば、間違えない。兵は、鐘が三つのとき。町は、鐘が二つのとき」


 源九郎が、鼻で笑った。


 「鐘なんぞ、いつでも鳴らせる」


 お初が、源九郎の肘をつついた。


 「源九郎、意地悪を言うでないよ」


 「意地悪じゃねえ。げんの話だ」


 「現の話なら、あたしに言わせておくれ。産婆は、夜に呼ばれる。鐘がなったら、誰の腹か、困る」


 笑いが、竹の間を渡った。光秀は、その笑いを、胸に収めた。


 弥七が、丁稚を見た。


 「坊、名前は」


 「定吉」


 「定吉、鐘のことは、了俊さまと相談せえ。寺の鐘は、寺のものだ。だが、寺の鐘は、村のものでもある」


 了俊が、頷いた。


 「鐘は、耳の印。耳の印をつけるのは、今の世にはよいことだ。殿、寺の鐘、兵と町で打ち分け、よろしいか」


 「よい」


 「では、鐘を一つと二つで」


 権六が、腕を組んだ。


 「二つは、縁起が悪い」


 市松が、思わず笑ってしまった。自分でも、なぜ笑ったのかわからないという顔をした。権六は、堅い顎を、わずかにゆるめた。


 「ならば、一つと三つでどうです」


 市松が恐る恐る口を開くと、権六が、指を折って数えた。


 「よし」


 「よし」


 笑いが、また渡った。竹の節の影が、ふるえた。


 徳右衛門が、深く、深く、頭を下げた。


 「殿。わしは、言葉が得手ではない。だが、言う。兵さまらが、田の畦を踏まずにいてくださるのは、ありがたい。ありがたいが、畦は、人の足だけで崩れるのではない。雨でも崩れる。獣でも崩れる。村の者だけでは、直せぬ。……兵さまが、時々でよい、畦直しを手伝うてくだされば、村は、殿の軍を、もっとよう守る」


 弥七が、うなずいた。


 「畦直し、俺らの足で崩す分、俺らの手で直そう」


 源九郎が、腕を組んだ。


 「俺は、鍛冶だ。戦が続けば、蹄鉄も、釘も、足りなくなる。足りなくなれば、俺の手間賃も上がる。上げる。俺は、上げる。商いだからな。……だが、上げっぱなしにはせん。殿が、鉄の配りを決めてくださるなら、鍛冶は、村ごとの帳面をつける。誰が何を、いついくつ持ったか。帳面は、稲冨の目にさらす」


 稲冨が、眉を上げた。


 「さらす、と」


 「さらした方が、俺は楽だ。疑われるのが、一番、疲れる」


 お初が、にやりと笑った。


 「生まれてくる子の数も、帳面につけるかい」


 源九郎が、お初の背を軽く小突いた。笑いは、竹の上に上がり、暗い空へ消えた。


 呉服屋の若旦那が、ようやく口を開いた。


 「殿。布は、腹のものではございません。腹は、飯で満ちる。しかし、布は、心を満たします。兵が、汚れたまま町を歩けば、町の心は曇る。兵が、ゆすりをせねば、町の心は晴れる。……殿の軍が、布を買うてくださる時は、代金を、先に、少しだけでも、見せてくださりませぬか。銭が見えれば、町の者は、安心いたします」


 利三が、目を落とした。


 「前渡し、でございますか」


 若旦那は、急いで手を振った。


 「いえ、前渡しとは申しませぬ。ただ、袋の口を、少し開いて、銭の縁だけ見せる。そうすれば、逃げられると思う者は、逃げず、逃げようとする者は、初めから逃げる」


 光秀は、唇の端を、わずかに上げた。


 「袋の口を、少し開ける」


 了俊が、笑った。


 「禅では、袋を叩くばかりして、中を見ぬやつが多うございます」


 市松が、手の甲で、無意識に袋を叩いた。自分の袋の口は、ひもで固く結わえてある。結び目が、妙に、固く感じられた。


 権六が、低い声で、言葉を落とした。


 「殿。わしは、古い。古いから、変わるのは、得手ではない。だが、今の軍は、昔の軍とは、違う。違わねばならぬ。殿が、違えるのなら、わしは、殿に力を貸す。……ただし、違えすぎれば、足が地につかぬ。地のこと、忘れないでくだされ」


 「忘れぬ」


 光秀は、権六の目を、真っ直ぐに見た。


 「地を離れた理は、空滑りだ。空滑りは、音だけはよい。音に酔えば、足が居場所を忘れる。……わしは、今日、足の居場所を確かめに、ここに来た」


 了俊が、竹の節を指で叩いた。ポン、と、短い音がした。


 「足の居場所は、節でございますな」


 「節か」


 「節があるから、竹は伸びる。節がなければ、折れる。節は、止まる場所。止まるから、また伸びる」


 利三が、声を布で包んだような調子で、口を添えた。


 「では、節を定めましょう。今日、ここで定めたことを、『竹の節目』として、板に記し、陣屋に掛けます。鐘のこと、畦直しのこと、鉄と帳面のこと、袋の口のこと。ほか、声箱のこと。……声箱は、殿が三日見ると仰せだ。四日目からは、目付が交代で。毎七日に一度、殿に取り次ぐ」


 「それでよい」


 光秀は、竹の上を見上げた。葉の裏が、風で白く返る。返ってはまた、緑に戻る。戻りながら、別の葉が返る。返りと戻り。どちらも、風の形だ。


 評が終わって、人々が竹の陰に散っていく。足音が、土の上に、短い点を打っていく。点は、線にならぬ。点を、線にするのは、明日からの手である。


 光秀は、立ち去ろうとする丁稚の背を呼び止めた。


 「定吉」


 「は、はい」


 「鐘の合図、寺と決めたら、町にも触れよ。兵にも。触れは、丁稚が走るのが早い」


 定吉は、眼を丸くし、それから、こくこくと頷いた。頷くたびに、喉が上下した。


 「走ります」


 「走れ」


 定吉は、走り出した。竹の間を、風よりも少しだけ遅く。足が土を蹴る音が、短く、軽い。


 弥七が、鈴を手に持ったまま、光秀に近づいた。


 「殿。鈴は、明日から、付けたり外したりいたしましょう」


 「なぜだ」


 「鈴の音が、夜には人を起こす。昼には、人を笑わせる。……どちらも、時に利く」


 「よい。鈴も、節だ」


 弥七は、笑って、鈴を握り直した。権六が、その音を鼻で受け止め、肩をすくめた。市松は、弥七の鈴を、少し羨ましそうに見た。


  ⸺


 翌朝。声箱の鍵を、稲冨から受け取り、光秀は、箱の口を開けた。中には、粗い紙切れが、いくつも、いくつも、折られて入っている。墨の匂いが、箱の中にこもっている。墨は、乾く前に蓋をされると、匂いがこもる。こもった匂いは、湿りを帯びる。湿りは、紙に戻る。


 一枚目。大きな文字で、こうあった。


 「鐘の一つと三つ、遠くでもわかる」


 二枚目。


 「夜の見張り、交代が早まって、足の痛みが減った」


 三枚目。


 「袋の口、少し開ける。銭の縁が眩しい」


 光秀は、紙を並べ、指で端を押さえた。四枚目は、字が小さかった。子どもの手かと思ったが、文のつなぎは、老いの癖がある。


 「殿。わしの家の裏の水路、石が外れておる。兵が通るたびに、足がはまる。直してくれ。直すとき、声をかけてくれ。わしも手を出す」


 五枚目は、墨が濃い。


 「殿。俺は、兵で、名は書かん。書けば、罰を受ける気がするからだ。だが、申す。昨日の飯は、うまかった。塩が、うまかった」


 六枚目。紙の端に、干した米粒が、ひとつ貼り付いていた。


 光秀は、笑った。その笑いは、誰にも見せぬ笑いだ。利三にさえ見せぬ、薄い笑いだ。


 箱の底には、もう一枚、細く折られた紙があった。開くと、短い一行。


 「殿の兵は、略奪せぬ」


 それは、昨日の、道端の声に重なって、光秀の胸の奥で、静かに鳴った。鳴りは、竹の節の音に似ていた。短く、確かで、次の音を呼ぶ。


 「利三」


 「は」


 「今日も、橋を掛けるぞ」


 「承知」


 「橋は、架けっぱなしにはせぬ。渡り終えたら、片端を外す。……渡り続けるために」


 利三が、顎を引いて頷いた。稲冨は、板と筆を抱え、声箱から出た紙の数を、無言で数え始めた。


 外で、鐘が鳴った。ひとつ。間を置いて、ひとつ、ひとつ、ひとつ。三つ。兵の鐘と、町の鐘。耳は、たしかに、印を覚える。


 光秀は、箱の蓋を閉めた。墨の匂いが、薄く、部屋に残った。残り香は、やがて、畳に染み、衣に移り、肌に移る。声もまた、そうして、肌に移る。移った声は、やがて、腹に落ちる。腹に落ちた声が、判断に変わる。判断は、明日の橋板になる。


 誰の声に従うべきか。問いは、今夜も、竹の闇に沈むだろう。だが、沈んだ問いの上を、鐘の音が渡る。一つと、三つ。人の足音が渡る。鈴の音が渡る。袋の口が、少し開く。墨の匂いが、薄く残る。


 風が、竹の節を撫でる。節は、止まり、そして、伸びる。伸びるために、いったん、止まる。止まる場所を、今日、ひとつ、増やした。


 光秀は、陣屋の戸口で、朝の光に目を細めた。民の声。兵の声。どちらも、風に乗っている。風は、目に見えぬ。だが、いま、たしかに、肌に当たっている。


 「行こう」


 利三と稲冨が、「は」と応えた。足が、土を踏む。踏んだ場所が、節になる。その節が、いつか、誰かの手で、また撫でられる日を思いながら、光秀は、次の橋板に、掌を置いた。

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