第13話「信長の視線」
その夜の安土は、風が薄く、音が綴じられていた。
広間の白は、昼よりも冷たく、金の縁は灯を吸っては吐き、吐いた光が柱の節を細く撫でて消えた。畳は新しく、藺草の青い匂いがまだ刀の鞘につく。襖の向こうで、靴音が一度、二度、間を置いて三度。合図のようでいて、合図ではない。主は合図を要しない。合図を要するのは、主以外の者の心だ。
「揃ったか」
扇の骨が一度だけ鳴った。信長の声は、広間の天井に留まらず、金の陰の奥に沈む。沈むほど、背に届く。
「我が意に背くは敵」
短い言は骨だけで立ち、骨の周りの肉という肉をいっさい拒んだ。美辞も、緩衝も、嘆息すら寄せ付けぬ、冷えた刃の立ち姿。
その視線が、列の端から端へ、順に置かれてゆく。置かれたところは、しばらく冷えて、のちに痺れる。痺れた背は、しばらくの間、自分の重さを忘れて立つ。立ち続けるうち、足の感覚が戻らない者だけが、倒れる。
光秀にも、その視線が来た。
真正面。
蓋のない椀の、張り詰めた水面に指を落としたような、静かな破れが胸に走る。
「は」
声は一字。
その一字が、自らの骨に触れる角度に落ちるまで、息を止める。背筋の汗が、舞台の大手の勾配を逆さに流れた。冷たい汗は細い粉の線の上を走り、線は揺れず、ただ匂いだけが薄く立った。
「面倒を言う者は要る。だが、面倒で止まる者は要らぬ」
信長の扇が、宙で短く道の形を描く。
「四国は庭。近江は座。都は舞台。舞台で立つ者は、客の息を数えよ。数えられぬ者は、退け」
誰かが「はっ」と答え、別の誰かの喉で言が乾いた。
光秀は、視線を受けたところが薄く疼くのを抑え、両の膝頭に意識を落とした。膝は、坂の角度と同じだ。角度が合っていれば、揺れても落ちない。揺れは吐き気と礼の両方を生む。吐いた後に顔を洗う場を、どこに置くのか——それを考えるほうが、怒りや羞恥より先に来るのが、光秀の癖だった。
「安土の札は増えた。鐘は長い。灯は小さい。名は重い」
信長は数を列ね、そこで言を折った。折るとき、刃先は必ず内へ返る。
「だが、札で戦は止まらぬ。鐘で謀は解けぬ。小さい灯は、風で消える。重い名は、折れる」
金の陰が、ひと呼吸ぶんだけ深くなった。
「——我が意に背くは敵」
同じ言が二度置かれたとき、最初の言で固まった空気の縁が微かに欠けた。その欠け目は、粉で継げるだろうか。粉は、金ほどに眩くはないが、骨の温度に近い。
光秀は、白い札の面を思い、その白の上に「ためらい」と小さく書かれた線を思い、その線の上に立つ兵と町人と旅の楽人の背を思った。
——ためらい、罪としすぎぬ。
安土の式目草案の片隅、薄い字はまだ紙の内側で生きている。だが、舞台の主の言が今夜はそれを覆う。覆っても滲む。滲むが、読めるかどうかは、明朝の風次第だ。
「丹波」
信長は名を置いた。
「村が燃えれば、敵は皮を脱ぐ。皮を脱げば、走りが鈍る。鈍れば、刃は届く。——なぜ、刃を鈍らせる」
光秀の名は呼ばれない。呼ばれないまま、問いは胸へ投げ込まれる。
「恨みは長いにござります」
答えた声は、思っていたより落ち着いていた。
「長いものだけが、骨になります。骨は——」
「折れる」
扇の骨が乾いた。
「折れる前に、敵の骨を折れ」
「敵と民の骨は、ときに同じ衣を着ます」
光秀の言は、粉で継がれた盃の縁の上を歩くように、慎重で、遅い。
「衣を脱がすは、火。骨を撫でるは、文。文は遅い。遅いものは、長い。長いものは、やがて——」
「面倒を言う」
笑いではなかった。嘲りでもない。ただ、舞台の拍子を刻む者が、太鼓の皮を指で軽く押して、たるみを確かめる仕草に似た声だった。
「足は速く、眼は遅く、とは申したな」
信長は扇を閉じ、骨の列を親指で一つずつ撫でた。
「遅い眼で穴の縁を見るはよい。だが、穴の縁で座り込むな」
「座るために、余白を置いております」
「余白に座る者が、立たぬ」
「立てるよう、名を置いております」
「名は重い。重さで潰れる者は、敵である」
「——我が意に背くは敵」
三度目の同じ言。
金の陰が、今度は広間じゅうへ薄く広がって、床板の下の空洞にまで染みた。
広間の隅で、古参と若手の呼吸が一瞬ずれ、すぐ戻る。戻るときの音が、灯の芯をかすかに揺らす。
光秀は、言い返せる限りの薄さで、声を置いた。
「殿の意を守る道と、理を守る道が、離れぬよう——粉で継いでおります」
粉。
粉は風で飛ぶ。飛んだ後に残る粉が、線になる。
線は、見えすぎず、消えにくい。
消えにくいものは、遅い。
遅いものは、長い。
長いものだけが、恥と誇りを同じ器に納め、人を守る。
——だが、今夜の舞台では、線より刃がよく見えた。
やがて、お開きの刻。
広間に並べられた白い札が一斉に風に鳴ったような錯覚。実際には誰も札を揺らしていない。鳴ったのは背の内側の紙だ。
退出の列で、隣の若い者が、喉で言の形を作って崩し、それでも小声で言った。
「殿の目、今夜は…」
「陰を深くする目だ」
光秀は、若者の言に薄い粉を載せた。
「深い陰でしか見えぬ形がある。目に見えるものだけを数えるな。息を数えよ」
若者は首を縦に動かし、だが縦の角度は浅く、足音は少し速くなった。速い足は、余白を削る。
回廊に出る。夜の風は低く、硝子窓の端で音を変える。
大手の坂は、夜は登りより下りのほうが難しい。揺れが、礼か吐き気か、その境が暗くなるからだ。
石の段を一つ下りるたび、胸の内で、信長の言が骨に当たった箇所が、痛みを位置で思い出させる。「我が意に背くは敵」。
背くつもりはない。
だが、守るべき作法が増えるたび、殿の意と、札の文と、祠の白と、妻の息と——それぞれの「守る」が少しずつ方向を変え、糸が太くなるほど、捩れる。
忠義を尽くすほどに、己の存在が脆くなる——理の骨は、忠の刃と同じ骨に生えているのだろうか。
刀の鎺のところで、刃と柄が擦れ合うような、乾いた感覚が胸の中央に居座った。
門を出る前に、光秀は足を止めた。白い札が三枚並ぶ。
——鐘、七。灯、小。
——名、裏戸に二つ、石の裏に一つ。
——一刻の舞台。
札の白は夜風で冷えている。白は無ではない。可能性の色。
可能性は、見方を変えれば、未決の刃でもある。
札の端に、爪で見えぬほど薄い線を引いた。粉でなく、ただ気配だけで。
——ためらい、罪としすぎぬ。
広間の言と、札の言は、互いの影を踏み合っている。踏まれても、影は器の底で揺れ続ける。揺れる底に、水が少しだけ溜まった。
屋敷に戻る道は、灯の記憶でつくられている。角に一つ、小屋に一つ、井戸の傍に一つ。小さい灯ほど、持って歩ける。
門をくぐると、夜の匂いの中に薬湯の甘苦い香が混じっていた。
煕子は、起きていた。
痩せた手で光秀の肩をさすり、その指は粉の線をなぞるように細い。
「殿は、殿の道を」
声は細いが、芯が立っている。芯のある声は、舞台の上の音に負けぬ。
「殿の道」
光秀は、灯の下でその言を繰り返した。
殿——信長。
殿——自分。
同じ言が、違う指で指されると、違う場所へ届く。
「道は、札の並びのように見えます」
光秀は言い、肩に置かれた手の温度を骨で受けた。
「鐘、灯、名、祭、余白、ためらい。——並び替えれば、別の道になる」
煕子は、微笑を形にして、咳を一つにとどめた。
「並び替えられるうちが、道です」
「並び替えに、背くという名が付くこともある」
「名は、背の温度を変えます。——殿の背は、冷えすぎませんよう」
彼女の指は、肩から鎖骨へ、鎖骨から胸の中央へ、そこで止まった。
「ここに、刃の音がします」
「鎺です」
「鎺は、粉で継げますか」
「粉の匂いは、刃を鈍らせます」
「鈍る刃は、長く使えます」
会話は短く、端が粉のようにほどけ、それでも芯を持った。
彼女を寝所へ送り、灯を低くすると、闇が覗き込んだ。
光秀は文机に向かい、薄い紙を出した。
紙は薄い。薄い紙ほど、墨は早く乾く。乾いた墨は、朝の風でも剥がれにくい。
筆の先をすこし震わせ、今夜の広間の言を骨の形に写す。
——我が意に背くは敵。
——足は速く、眼は遅く。
——余白に座る者は立たぬ。
——名は重い。
その下に、小さく、自分の札を並べる。
——罪は、人に帰さず、行いに帰す。
——ためらい、罪としすぎぬ。
——白は無ではない。可能性の色。
——小さい灯ほど、持って歩ける。
文字と文字の間に、粉の線を一本ずつ置く。見えぬ線。匂いだけが残る線。
——忠義を尽くすほどに、己の存在が脆くなる。
その一行は、書いてから、しばらく見つめた。紙は受け取ったが、部屋の空気は受け取らない。受け取らぬものが、肺の底に止まる。止まったものが、夜半の祈りを連れてくる。
祠の前に灯を移し、両手を合わせる。
祈りは掟ではない。掟は祈りではない。
掟は骨で、祈りは息だ。
骨だけでは立てても、息がなければ歩けない。息だけでは歩けても、骨がなければ立てない。
——息、数える者が、歴史を記す。
藤孝の夜談が、灯の芯の揺れに重なる。
煕子の呼吸は、今夜は浅く、しかし規則に戻りつつある。
——一つ、浅く。二つ、深く。三つ、短く。
数える行為そのものが、粉で線を引く。数は、刃を鈍らせる。
文机に戻り、白の端にふたたび筆を入れる。
——殿の意と、理の札。
——境は、粉で引く。刃で引けば、光を反し、眼を痛める。
——境に座り込むな。ただ、踊り場を置け。
踊り場。
坂の途中に置く場所。人が自分の速度を思い出す場所。
今夜の広間には、踊り場がなかった。あれば、誰かの吐き気が礼に変わったかもしれぬ。
——次の座に、踊り場を。
筆を置くと、灯の炎が一度だけ大きくなり、すぐ小さく戻った。小さい灯ほど、持って歩ける。持って歩くべき夜が、増えるだろう。
翌朝の鐘は六つ。
光秀は自ら鐘楼に上がり、間をいつもよりわずかに遅らせて打った。遅い鐘は、屋根の霜を慎重に解かす。
鐘が降りる先で、女は灯を掛け、子は裏戸に紙を貼り、男は坂の掃除を右から始める。いつもの名、いつもの白、いつもの粉の匂い。
名が重なれば、紙は厚い。厚い紙は、風で千切れにくい。
——戦の支度、早々に——
侍所からの骨の文は、日を変えても同じ温度で来る。骨は変わらぬ。変わらぬ骨の周りに、粉を置き続けるしかない。
粉は、遅い。遅いものは、長い。
登城の道で、昨夜回廊で声をかけた若い者に再び会った。
「殿」
彼は立ち止まり、声の端を整え直してから言った。
「昨夜、私は……座り込んだかもしれません」
「踊り場に居た」
光秀は答えた。
「踊り場に立つ者は、立っているのだ。座り込む者は、言を吐いた後に笑う。——君は笑わなかった」
若者は、目の白を少し大きくして、深く頭を下げた。
「名を、裏戸に二つ、石の裏に一つ。今朝、貼りました」
「白は無ではない。可能性の色だ」
別れ際、若者の背の温度が、昨夜よりほんの少し上がっているのを、光秀は手のひらで確かに受けた。粉の線は、人の温度を少し動かす。それで足りる朝がある。
広間の昼の座。
夜の言は、昼の光で別の輪郭を持ち直す。
信長は、昨夜の言を繰り返さなかった。
扇は閉じられたまま、紙が数枚、彼の指から別の指へ短く渡っていく。
「阿波の道に石を積め」
「は」
「水は避けて流れよ」
「は」
光秀の方へ扇の先は向かぬ。向かわぬこと自体が、薄い意を持つ。
——今夜の目は、また深い陰を持つか。
広間の白を見渡しながら、光秀は息の速度を落とし、遅い眼で穴の縁を数えた。穴は増えてはいない。ただ、深さが変わる。深い穴は、影の質が違う。
影の質を見分けるには、粉の匂いが要る。粉の匂いは、昨夜の言のあとでも消えてはいない。消えにくいものは、遅い。遅いものは、長い。
夕刻、屋敷へ戻る。
煕子は、昼の眠りの上から静かに浮かび上がってきたような目をして、光秀の足音の形を聞き分けた。
「殿」
「うむ」
「肩」
痩せた手が、再び、鎖骨の上で止まる。
「鎺の音は、今はしません」
「粉を足しました」
「粉は、風で少し飛びます」
「飛んだ後に、線が残る」
「線は、見えすぎず、消えにくい」
会話の形は、昨日と似ている。似ているからこそ、違いがわかる。彼女の息は、昨夜より長い。長い息は、祈りになる。祈りは、掟の外にありながら、骨のそばで生きる。
夜、文机の白に、もう一行だけ置いた。
——忠義は、姿の名。理は、骨の名。
——二つの名を、同じ紙に置くとき、粉が要る。
粉は、裏切りの前触れではない。
粉は、裏切りの言に先んじて、息の座を作る。
——裏切り。
その言は、細い棘のように、紙の上で立ち、すぐに見えなくなる。見えないが、指先の皮膚は覚える。
誰も知らぬ道。
誰も知らぬ夜。
そこへ続く細い砂利道の、最初の小石を、今夜、指で返してしまったかもしれぬ。
石の裏には、まだ名はない。無名。
無名は白だ。白は無ではない。可能性の色。
可能性は、救いでもあり、堕落でもあり、道でもあり、断崖でもある。
——殿は殿の道を。
煕子の声が、白の上で薄く震えた。
彼女は知らぬ。
この道が、どこへ続くのかを。
それは、今、誰にもわからぬ。
ただひとつ、わかるのは——
粉の線は、見えすぎず、消えにくい。
消えにくいものは、遅い。
遅いものは、長い。
長いものだけが、恥と誇りを同じ器に納め、人を守る。
それを手放さぬかぎり、裏切りの言が紙に現れても、その隣に、息を数える白が残ること。
灯を小さく保ったまま、光秀は筆を乾かし、祠に一度だけ頭を垂れた。
遠い犬が、二度吠えた。
安土の夜は、金の陰を深くし、紙は薄く、白は冷たく、粉の匂いは、誰の庭にもつかないように静かに漂った。
背には、まだ視線の冷えが残る。
だが、肩には、妻の指の温度がある。
温と冷の間に置く粉の線——その一本が、明日の朝、誰かの背を半歩だけ伸ばすなら。
半歩で足りる夜を、信じるしかない。
そして、その半歩が、やがて、誰も知らぬ道の曲がり角で、引き返せぬほど長い影を連れてくることも、まだ——誰も、知らぬ。