第12話「藤孝との夜談」
春の端を過ぎ、まだ夜に潮の冷えを残す頃、光秀は坂本から舟で下り、三条の細川邸を訪れた。
この邸の夜は、いつも息が長い。襖の紙は薄いが、薄いほど墨が早く乾く。乾いた墨の匂いが畳に沈み、香の煙は柱をゆっくり撫でてから、格子の上でほどける。
藤孝は、庭の白砂に月が浅く落ちるのを見計らって座を設けていた。
「春水、寸陰を惜しむ、か」
彼は口の端で、古い句をやさしく転がす。声は低く、歌の骨だけを残して流れ落ちた。
「殿には、戦の書、持参か」
「はい。丹波の条と、土佐の往復の草。行いの名を、札に重ねた記」
光秀は文箱を膝の前に置き、蓋に指を当てた。指の腹で木の目を辿ると、粉の線が内から呼吸しているのがわかる。継いだ跡は金でなくてよい。粉がよい。粉は見えすぎず、消えにくい。
「まずは、肴で口を湿らせるがよい」
藤孝は盃をすすめ、庭の方を顎で示した。
雨の名残で石畳が暗く光り、苔の上を風が薄く撫でていた。白砂の一角に、直線ではない細い跡が残っている。
「庭師が、今日、砂で句を引いた」
藤孝は目を細める。
「朝のうちに消えるが、夜に読む者のためには充分じゃ。——線は、朝に消えるほど、夜には長い」
「長いものだけが、骨になります」
光秀が応じると、藤孝は穏やかに笑った。
「骨ばかりに気を入れれば、身が痩せるぞ。肉も置け。声も置け。——その声が、理想を運ぶ」
「本日の理想は?」
酒肴の皿が低く音を立て、盃の底に庭の月が小さく震えた。
光秀は少し目を伏せ、言葉を選んだ。
「——罪は、人に帰さず、行いに帰す。
恨みは、刃で薄まらず、施策で薄める。
ためらいを罪としすぎず、遅い眼で穴の縁を見る。
白は無ではない。可能性の色」
「札の列だな」
藤孝が笑う。
「字の並べ方まで、安土の大手に似てきた。坂の角度で人を揺らすように、言の角度で息を揺らす。——だが」
盃が畳の陰に沈み、彼は穏やかな声で継いだ。
「理想は、誰が記す?」
問は、庭の石に置かれた白砂の跡よりも静かに、しかし確かに、光秀の胸に落ちた。
「……勝者が記す、というのが世の常」
「常、とな」
藤孝は庭へ目をやり、遠い鐘を聞くような顔になった。
「勝者は、骨に金を載せる。金は眩しさで陰を深くする。陰の中には、敗者の息がある。——その息を、誰が記すか」
「……息は、文で残すほかありますまい」
「文は水だ。真意が炎であっても、水は遅い。遅いものは長い。——だが、遅い文は、勝の声に塗られる。塗られても、なお沁みる言が要る。君の札は、沁みるか」
光秀は文箱の蓋を開け、丹波の草を取り出した。
「ここに、村の祠の前で置いた札の写しがございます。
——名。裏戸に二つ、石の裏に一つ。
——武の行い、今夕までに記せ。
——一刻の舞台。
——ためらい、罪としすぎぬ。
これらは、勝つためではござらぬ。忘れぬためです」
藤孝は紙を受け取り、指で紙の重さを確かめた。
「薄い紙ほど、墨は早く乾く。——だが、薄い紙ほど、風でちぎれる」
「名が重なれば、厚くなります」
「名、か」
藤孝は紙から目を離し、光秀の顔を見た。
「名は、背の温度を変える。——敗者の名を、どこに置く」
「石の裏へ」
「石の裏は、長い。だが、見えぬ」
「見えすぎぬものほど、消えにくいこともあります」
「面倒を言う」
藤孝は、信長のような笑い方で言い、すぐにその笑いをやわらげた。
「面倒を、面白がる者の言だ。——よい。今宵は、それを面白がる夜にしよう」
彼は脇机にあった琴を少し押しやり、硯を引き寄せた。
「歌をひとつ。敗の歌を」
筆の先で紙を撫で、さらさらと短い和歌を置く。
——負けてなほ 名は消えざらむ 石の裏
白き粉線 灯に息つぎ——
「……粉の線か」
光秀は微かに笑った。
「殿。御歌にまで粉を入れていただくとは」
「君の癖は移る」
藤孝は盃を傾け、月の欠け際に静かな目をのせる。
「粉は、金ほどに歌にならぬが、長い。長いものは、やがて楽になる。楽は、敗者と勝者のあいだで呼吸を揃える。——記すべきは、呼吸かもしれぬ」
しばし、二人は黙って酒を酌み交わした。沈黙は薄いが、薄い沈黙ほど、長く残る。
「土佐のこと——」
光秀が切り出すと、藤孝は手で制した。
「四国は、今宵、風の話にとどめたい。書きすぎると、白が薄くなる」
「では、風の名を」
「風は器を選ばぬ。器が風を選ぶ。——安土の器は、風を呼ぶ。呼ばれぬ風まで」
藤孝は短く笑い、盃を置いた。
「君は、器の継ぎ目に粉を置くのだろう。だが、粉は雨に弱い」
「雨の前に、灯を小さく」
「灯を小さく、か。持って歩ける灯は、敗者の夜にも必要だ」
光秀は、盃の底の月がゆっくり歪むのを見つめた。
盃の縁が少しかけている。その欠けに粉の線が細く走り、灯の白が柔らかく吸われている。
「殿」
光秀は問う。
「歴史は勝者が記す——ならば、敗者の理は、誰が書き残すべきでしょう」
藤孝は盃をわずかに回して、粉の線の上に月を通した。
「君だ」
答えは短く、骨だけで立った。
「君の紙は薄いが、名が重なる。君は、敗者の名を石の裏に忍ばせ、裏戸に貼り、鐘の回数に刻むだろう。
そうして明日の朝風でも剥がれぬ場所に、敗の理を置く」
「……勝の理に、書き換えられまいか」
「書き換えられる。だが、粉は残る。粉は、匂う。匂いは記憶になる」
藤孝は、ひと息置き、低く続けた。
「勝者の文は、固く、速く、まぶしい。
敗者の文は、遅く、薄く、長い。
長いものは、やがて骨になる。
——歴史の骨が、いつか粉の匂いを帯びるかどうかは、君のような者の遅い眼にかかっておる」
光秀は、胸の内の氷が一度だけ細く鳴るのを聞いた。氷は解けぬ。解けぬまま、水の形を思い出そうとする。
「殿は、理想をどこに置かれます」
「置かぬ」
藤孝は即答した。
「理想は、置くと腐る。持って歩け。灯のように小さく。
そして、ときに、歌に隠せ。歌は、勝の耳にも入るが、心まで届くとは限らぬ。
届かぬ歌ほど、長い。
長い歌の端に、敗の理を結べ」
庭の砂に、夜風が小さな皺を引いた。
藤孝は、その皺を目で追いながら、ことさらに何気なく言った。
「噂は、風より速い。——君と家康の饗応の一件も、もう京の路地の口にのぼっておる」
光秀は盃を持つ指に、わずかな熱を取り戻した。
「理を美で隠すな、との叱責を、私は骨で受けました」
「骨で受ける叱責は、長い。
君が粉を好むのは、骨を守るためだ」
藤孝は盃を満たし直した。
「君の粉の線は、丹波の村の祠にも、土佐の港の札にも、安土の茶の小屋にも引かれている。
——だが、やがて君は、自らの名の下に線を引かねばならぬ夜に会う」
光秀は息を浅くした。
「名、に」
「敗の名、勝の名。
どちらへ粉を置くかで、歌の調べが変わる。
その夜のために、今宵は、理想を小さくし、文を遅くし、息を数えるがよい」
膳の端に、短冊が立てかけてあった。
藤孝はそれをとり、朱の細筆で一首を書いた。
——勝の文 まぶしきほどに 影深く
敗の粉線 夜半の灯に——
「歌は、作法の別名だ」
彼は短冊を返し、光秀に手渡した。
「作法は、出来事の列。
出来事の列は、札と鐘と名でできておる。
それを、君が明日の紙に置け。
我は、それを歌で囲う」
光秀は、短冊を懐に納め、ひとつ深く息をした。
「殿。——敗者の理を記す紙は、いつも薄い」
「薄い紙ほど、墨は早く乾く」
藤孝は同じ言で返し、盃の底で月をふたたび揺らした。
その月は、今度は少し歪んで見えた。歪みは、恐れの形をしている。
光秀の胸に、一筋の不安が走った。
敗の理を記す者が、いつか敗の名で呼ばれる夜。
その夜、粉の線は、灯にどれほど耐えるだろう。
「君」
藤孝の声は、庭の皺をなだめるように穏やかだった。
「敗を恐れて理想をしまえば、文は骨でなくなる。
勝を焦って理想を振れば、歌は刃になる。
刃は、粉の上には置けぬ。
——だから、遅く行け。
足は速く、眼は遅く。
遅い眼で、穴の縁を見よ」
「はい」
返事は一字。
その一字が、自らの骨に触れる角度に落ちるまで、光秀は沈黙を保った。沈黙は弱さではない。誓いの形だ。
夜が深まるにつれ、風は薄くなった。
藤孝は、茶を点て直し、湯気の上でひとつ小さく笑った。
「家のことは」
「煕子の咳、夜ごと浅く深く。
息を数える札を、枕元に置いております」
「……息を数える者が、歴史を記す」
藤孝は静かに言った。
「勝の文は、数を誇る。
敗の文は、息を数える。
息を数えた紙は、朝風にも剥がれにくい」
光秀は、盃をおいた。
「殿。——息の紙を、京の座に持ち込むのは、やはり面倒でしょうか」
「面倒だ」
藤孝は笑い、扇で軽く自分の膝を打った。
「だが、面倒を面白がる者が、舞台を腐らせぬ。
安土の舞台は大きい。
大きい舞台ほど、敗の席が要る。
敗の席に、歌と粉を置け」
邸の奥から、琴の低い音が一度だけ響き、すぐに止んだ。
藤孝は耳を傾け、目を閉じた。
「これも、敗の音だ」
彼は目を開き、盃の月を払う。
「途中でやめた音。
途中でやめる勇気は、勝者には要らぬ。
敗者には、ときに要る。
やめたところで、息は続く。
続いた息の名を、君が書け」
光秀は立ち上がり、庭の白砂に一歩踏み出した。
指で砂に、細い円を描く。
円の中央に、小石をひとつ置き、石をそっと返す。
裏に、小さく「名」とだけ書いた。
「何の名だ」
藤孝が問う。
「——まだ、無名」
「無名は、白だ」
藤孝は頷いた。
「白は無ではない。可能性の色」
「はい」
光秀は砂の上の線を指でぼかした。
「見えすぎぬ線が、明日の朝まで残れば」
「残る」
藤孝は盃を置き、静かな確信で言った。
「風が強ければ、粉が少し飛ぶ。
飛んだ後に残る粉が、線になる。
線が、誰かの背を半歩だけ伸ばす」
座へ戻ると、藤孝は小さな巻物を取り出した。
「これは、将軍家の古い文の断片。
勝の文の、骨の書きぶりだ」
淡い墨の列は堂々として美しい。美は陰を深くする。
「これに、君の薄い札を一枚、挟め」
「よろしいのですか」
「よい。
勝の骨は固い。
固い骨の間に、粉がひと筋あれば、息が通う」
光秀は、懐から札を取り出した。
——ためらい、罪としすぎぬ。
指で角を整え、巻物の間に静かに差し入れた。
紙は薄い。だが、薄い紙ほど、墨は早く乾く。乾いた墨は、他の紙と擦れてもにじみにくい。
外の路地で、猫が一声鳴いた。遠くで土鈴がひとつ揺れ、夜の底に薄い波紋が広がる。
藤孝は立ち、裾を整えた。
「今宵はここまで。
——勝の文に、敗の息を。
君は、明日の「出来事」を書け。
我は、今夜の「歌」を残す」
「お手前の歌は、勝にも敗にも、読まれます」
「読まれても、届かぬことが、救いになる夜もある」
藤孝は、庭の月をもう一度だけ見た。盃の底を離れても、月は少し歪んでいる。
「歪んだ月の下で、まっすぐ歩くのはむずかしい。
だから、遅く行け。
足は速く、眼は遅く」
邸を辞し、路地に出る。夜の風は薄く、石畳に溜まった昼の声を少しずつ撫でほどいていく。
光秀は歩きながら、懐の短冊に指を触れた。
——勝の文 まぶしきほどに 影深く
敗の粉線 夜半の灯に——
歌は、呼吸の器である。器は、欠けても使える。欠けを隠さぬ線があれば。
欠けた盃の縁に走る粉の線。
その線を、いつか自らの名の下に引かねばならぬ夜——藤孝の言は、風より遅く、骨に沿って残った。
坂を上がると、寺の鐘がひとつ、長く鳴った。
光秀は、暗がりの先で夜回りの札の白が揺れるのを見た。
——名、裏戸に二つ、石の裏に一つ。
——一刻の舞台。
白は無ではない。可能性の色。
彼は立ち止まらず、ただ胸の内で一枚札を増やした。
——敗の息、記す者。
紙にはまだ、書かない。
家へ戻り、煕子の枕元で息を数えた夜に、余白の端に小さく置けばよい。
「息を数える者が、歴史を記す」
藤孝の言が、灯の芯の揺れと重なった。
邸に戻ると、庭の梅の梢がかすかに白んでいた。
煕子は浅い眠りの底からこちらへ戻る途中で、光秀の足音の温度だけを先に聞き取ったのだろう、薄く目を開け、微笑の形を作った。
「殿」
彼女の声は細いが、芯が立っている。
「歌を、もらいましたか」
「はい。——敗の歌を」
「歌は、息の器」
「器は、欠けても使える」
ふたりは、短く頷き合った。
光秀は文机に向かい、硯に水を落とした。
墨は遅い。遅いものは長い。
筆をとり、余白の端に、藤孝の問いの形を写す。
——理想は、誰が記す。
次の行に、遅い答えを書き足す。
——息を数える者。
筆が止まる。止まったところに、白がある。
白は無ではない。可能性の色。
その白に、粉の線を一本、薄く引いた。
——敗の理、石の裏に。
——勝の文、粉の匂いに。
紙は薄い。だが、名が重なれば厚くなる。
厚い紙は、風でちぎれにくい。
灯を低くし、煕子の寝息を数える。
一つ、浅く。二つ、深く。三つ、短く。
息は、歌よりも確かに人をつなぐ。
外では、遠い夜更けの犬が二度吠え、どこかで土鈴がもう一度だけ揺れた。
光秀は、胸の内で静かに誓う。
——足は速く、眼は遅く。
——ためらいを罪としすぎぬ。
——罪は、人でなく、行いに。
——白は無ではない。可能性の色。
そして、最後にひと行。
——敗の息を、記す。
盃の底で歪んだ月は、今、窓の外でまっすぐにかかっている。
歪みは器のせい。器は人のせい。
人は、粉の線で器を継げる。
粉の線は、見えすぎず、消えにくい。
消えにくいものは遅い。
遅いものは長い。
長いものだけが、恥と誇りを同じ器に納め、人を守る。
藤孝の夜談は、その長さの入口で灯を一つ渡し、歌を一首置き、去った。
残された灯は小さい。小さいから、持って歩ける。
光秀は、灯を胸の白に当て、粉の線の乾きを確かめ、静かに筆を伏せた。