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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 斎宮 たまき/斎宮 環
第一部 明智光秀編
11/30

第11話「敵か、民か」

 春の手前、丹波の山はまだ骨を見せていた。

 湖の光を遠くに置いてから、どれほど歩いたろう。山襞は細かく重なり、風は谷ごとに別の名を持って下りてくる。白く残った霜の縁を靴の底が削り、土は濡れて、指の腹で触れれば冷たさを押し返してこない。

 進む先に村があった。茅の屋根は低く、畑の畝は冬の眠りの形を保つ。小さな社の木鼻に布が巻かれ、昨年の藁がゆっくり黒くなっていく。

 先触れの隊が戻り、耳元で低く囁いた。

 「敵兵潜む由。……焼き討ちを、との声、多し」

 囁きには火が混じる。火の匂いは乾いて軽く、耳の奥で小さく爆ぜる。

 後ろの兵の列に、火の色に似た眼が点々とあった。疲れと飢えと怒りとが、短い時間で一つの言に変わりやすい季節である。

 光秀は足を止め、掌に風を一度乗せた。風は無色だ。だが、火の前では、風もまた色の片鱗をまとって見える。


 「焼くな」

 短い言が背を渡った。

 「まず札を立てる」

 札は白い板。白は無ではない、可能性の色。

 村の入口の柳に縄を渡し、札を三枚並べた。

 ——名。裏戸に二つ、石の裏に一つ。

 ——武の持ち主、今夕までに名を置く。

 ——鐘、七。灯、小。

 名を求められると、背が冷える。冷えた背で人は、火に不用意に近よらぬ。

 兵の中から、不満の息が揺れた。

 「殿。潜む敵を、名で出せまするか」

 「名は、恥と誇りの両方を呼ぶ。呼び出された者の中に、行いが見える」

 行い、と光秀は繰り返し、胸の奥で骨に触れさせた。

 ——罪を、人に帰すな。行いに帰せ——

 その言は、まだ紙には出していない。紙に出す前に、背で立たせ、骨のそばで温度を測っておくべき言であった。


 村の空気は、見えない蔓で一つに結ばれている。踏み入ると、蔓は足首に絡む。

 最初に出てきたのは、背の曲がった老女だった。

 「年貢の紙は、昨年より薄くなりました」

 老女の言は挨拶の代わりで、挨拶は祈りの代わりであった。

 「薄い紙ほど、墨は早く乾く」

 光秀は頷き、札の白に指先を当てた。

 老女の背後で、少年がこちらの眼を見返していた。眼は火ではなく、石の色に近い。湿り気のない、冬の終わりの石の色。

 別の家の戸の陰から、女の影が短く揺れ、すぐに引っ込んだ。

 「殿」

 側にいた組頭が、小声で言った。

 「ここは、秋に夜盗が出まして。山の向こうの城に通じる者が、多分に」

 多分——その曖昧が、火を早くする。曖昧は軽く、軽いものは遠くへ行く。遠くへ行くものは、戻ってくるときに形が歪む。


 兵のひとりが、焚きつけ束に火打石を近づけた。

 光秀はその手首を取った。

 「置け。火は最後だ」

 「殿、敵は潜む。村は敵の外套。——焼けば、脱ぐ」

 男の眼は真っ直ぐで、息は速い。速い息に、理は入らぬ。

 「脱いだ皮膚は、怒りの色をしている。怒りの色は、冬の終わりに長く残る」

 「面倒を言う」

 「面倒は、器の継ぎ目だ」

 光秀は短く返し、村の中心にあたる辻へ進んだ。


 辻の褪せた石に、もう一枚札を立てる。

 ——一刻の舞台——

 札の下に腰掛けを二つ。

 人は、座り直す場所があれば言を変えうる。立ったままの言は、刃に似る。座った時の言は、粉の線に似る。

 村人が幾人か集まってきた。

 光秀はまず、水を置いた。水は文に似る。真意が炎であっても、水は遅い。遅いものは、長い。

 「——この村に、槍三、鉄砲一、弓二」

 側の目付が耳元で囁いた。

 「隠し場所、見当つかず」

 隠し方には、その村の作法が滲む。作法は、祭りと盗みと防衛の、奇妙な混血だ。

 光秀は、辻の小さな祠の前に出た。祠の紙は黄ばみ、角が丸い。丸さは手で支えられた時間の形。

 「——名」

 ただ一言、光秀は言った。

 「武の持ち主。——行いの名を置け」

 人の名でなく、行いの名。

 沈黙が、白い紙の前で厚みを持った。厚い沈黙ほど、長持ちする。長持ちする沈黙は、やがて言を産む。

 最初に名を置いたのは、昼間から顔の赤い男だった。

 「夜半、畦で、棒」

 拙い字。だが、棒の横に小さく「見張り」と添えてあった。

 次に、女が「蔵の板の下、錆槍」と書いた。

 子が指で示して、父が筆を持ち、焼けた手で「山の社裏、粉火薬少々」と記す。

 名が重なった。紙は厚くなる。

 厚くなる紙の端で、小さな影が動いた。少年である。先ほど目が石の色をしていた子。

 「何を書く」

 光秀が問うと、少年は口を結び、やがて「裏戸の名」とだけ書いた。

 裏戸の名。——それは、内と外の境を人が引き受ける印だ。


 夕刻までに、武の行方は半分見えた。

 ——半分。

 半分は、いつも火を呼ぶ。

 半分に満足できぬ兵の眼が、斜めに光る。

 「殿。槍、二はまだ隠れております。敵が潜む由、間違いございませぬ」

 「間違い」——その言は、火の芯だ。

 「間違いは、刃で正せる。だが、恨みは刃では薄まらぬ」

 光秀はゆっくり言い、札の下の空白を指で撫でた。

 そこへ、ひとりの男が駆け込んだ。衣は埃にまみれ、眼は拗ねた犬のように落ち着かない。

 「槍は……山裾の倉。昨夜、裏の者が運び……」

 言いかけて、男は唇を噛んだ。

 「名を」

 「……行いだけ、では」

 「行いは名を欲しがる。行いが名を欲しがるとき、恥は骨に沿って立つ」

 男は、やがて自分の名と、まじわったふたつの名を書いた。札は重くなった。


 倉の前で、兵が槍を二本と、古い弓を一張、見つけた。

 倉の板の隙間から出る土の匂いは湿っていた。湿っている分だけ、火が遠のく。

 「殿」

 部将が言った。

 「今なら、焼けば早い」

 「早いものは、長く持たぬ」

 「長く持たせるために、人が死ぬこともある」

 部将の言は、冷たく正しい。冷たさは骨に触れるが、火の色は帯びない。

 光秀は、倉の戸板に白い粉を指で走らせた。粉は、木目の上で細い線になって残る。

 「——罪は、人に帰すな。行いに帰せ」

 言を、粉の線の上に置いた。板は応えない。応えない板に、兵の幾人かが息を吐いた。

 「行いの名を書いた者と、行いの中心にいた者——三。……いや、四。さらに一。五を、引け」

 五人だけ、烏帽子の影が落ちる。

 その他は、札の前で名を重ねた者たち——罰は銭ではなく、手間で薄める。用水の堰、道の掃除、鐘の紐、夜回りの交替。

 「五では、少なすぎる」

 兵のひとりが吐き捨てた。

 「殿、我らの血は、十では足りますまい」

 「血は数えられぬ」

 光秀は淡く返し、捕えられた五人を見る。

 そのうちのひとりが、先刻の少年の父であった。少年は、影のように祠の横に立っている。

 「行いを選んだのは、私だ」

 父が言った。

 「名を書いたのは、子だ」

 「名は、背の温度を変える」

 光秀は父に向き直った。

 「骨に沿って、冷えが立つ。その冷えで、今、立て」

 父は頷き、視線を少年に向け、そして視線を戻した。戻した眼に、海の湿りではなく山の乾きがあった。乾きは、火に似る。


 処断の場は、音を吸う。

 山の端に陽が残り、村の犬が遠くで短く吠え、誰かが思わず喉で鳴らした声がすぐに消える。

 五人の前に、薄い白布を張った。

 粉で引いた線を白布の端に置き、恥の色を隠さぬようにするためだ。

 「罪は、人でなく、行いに」

 光秀の声は高くない。高くない声ほど、背に落ちる。

 「行いの名を書いた者は、別の行いで返せ。書かなかった者は、今この場で骨を折る」

 骨を折る——刀でなく、縄と棒で。

 音は短く、しかし長く残った。

 残るのは、音ではなく、目である。

 村人の眼が、風より遅く、火より冷たく、光秀の背に刺さる。

 冷たい怨嗟の視線。

 視線は、札にも粉にも、金の陰にも載らない。載らないものは、胸に沈む。


 処断が終わり、白布を畳んだ。粉の線がわずかに指に移る。粉は、灯にかざすと柔らかい光を吸う。吸った光は、器を丁寧に扱わせる。

 ——器は、欠けても使える。欠けを隠さぬ線があれば。

 煕子の声が、遠い部屋から届いたような錯覚がした。

 しかし今、ここで欠けたのは、器でなく、名である。

 名は背の温度を変える。温度が変わった背が、今、こちらに向けているのは、温ではない。冷だ。

 「殿」

 部将が小さく言った。

 「これで村の口は、閉じたでしょう」

 「口は閉じる。——目は閉じぬ」

 光秀は、祠の前に立つ少年を見た。

 少年の眼は石の色をやめ、薄い水のようになっていた。

 水は、器の形を写す。器が歪めば、水も歪む。歪んだ水でも、喉は潤う。——だが、その潤いは、長く持たぬ。


 夜。

 村の外れで、光秀は札場の札を一枚増やした。

 ——ためらい、罪としすぎぬ——

 ためらいを札にする。家の中だけの作法を、外に持ち出す。

 兵は、焚火の側で低く笑った。

 「殿の札は、歌のよう」

 笑いは揶揄にも似たが、熱はなかった。熱がない笑いは、意地悪ではない。疲れの裏返しだ。

 光秀は茶をひと椀、彼に渡した。

 「歌は、息を揃える。——明朝の息をだ」

 「朝になれば、殿の言は軽くなる」

 「朝になるほど、紙は重くなる」

 紙は薄いが、薄い紙ほど、墨は早く乾く。乾いた墨は、朝の風でも剥がれない。

 兵は茶を二度に分けて飲み、返した椀の縁を指で撫でた。

 「欠け」

 「粉で継いだ」

 「粉は雨に弱い」

「雨の前に、灯を小さく」

 ふたりの言は、火の煙の中で短くなり、上へ昇らず、低く広がった。


 夜番の札に、村の若者の名を重ねた。

 ——裏戸の名。

 ——堰の名。

 ——灯の名。

 目に見える名の重なりは、風を鈍らせる。だが、目に見えぬ視線は、札の裏で生き続ける。

 寝所に戻り、灯を低くすると、煕子の咳が遠い記憶の中で一度だけ鳴った。

 光秀は、文机に紙を置いた。

 ——丹波某村落にて。

 ——武の行い、名に帰す。

 ——五を処断。

 ——恥は、背の温度。

 筆は進むが、途中で止まった。止まった先に、白がある。白は無ではない。白は、問の形だ。

 ——我が理、正しかりしや。

 その一行を、光秀は書けなかった。書けば、重みが決まる。決まった重みは、朝に持てるほど軽くない。


 翌朝の空は薄い灰で、鐘は六つにとどめた。

 光秀は村の辻に立ち、昨日の札を読み上げ、行いの名の前に、新たな名を二つ置いた。

 ——恩の名。

 ——忘れぬ名。

 恩は今の銭では買えぬ。昔の手間で買ったものが、今日利を生む。だが、きのう骨を折られた者の家の前で、恩の名は薄い。薄い名を厚くするには、時間が要る。時間は、遅い者の味方だ。

 兵を集め、次の峠への出立を伝えると、列の端から、低い声がした。

 「殿、残る者の眼が、冷ゆ」

 光秀は頷いた。頷く動きに、骨が軋むような感覚が混じる。

 「冷えは、火に不用意に近づく足を止める」

 「止めた足で、石を投げる」

 「石は粉で鈍る」

 粉。——粉で継ぎ、粉で鈍らせ、粉で線を引く。

 金の眩しさではなく、粉の匂い。

 匂いは記憶になる。記憶は、すぐには形を変えない。


 村を出ようとして、光秀は振り返らなかった。振り返れば、視線が背に刺さるのを見ることになるからではない。視線が刺さることは、もう知っている。

 振り返らなかったのは、振り返っても、そこに置ける言がないからだ。

 ——罪は人に帰すな、行いに帰せ。

 胸の中で反芻すると、言は少し粉の匂いを帯びた。

 この言は、紙に出せる。

 紙に出せば、朝の風にも残る。

 だが、紙の言が、少年の眼の水を止めるか。

 止めまい。

 止めぬことを知りながら、紙に書く。

 書くのは、明日の別の少年のためである。

 ——明日。

 明日は、いつも白い。

 白は無ではない。可能性の色。

 可能性の色に、粉の線を一本、また一本。


 峠道に入ると、春の匂いが遠くから来た。

 土の下で、水がまだ眠っている。眠る水の上に、薄い根が伸び、根の先が冷たさに触れて、微かに震える。

 光秀の筆も、微かに震えた。

——我が理、正しかりしや。

 紙には書かず、骨のそばに置く。骨は見えない。折れれば全身が崩れる。

 ——折れる前に、粉の線を。

 粉の線は、見えすぎず、消えにくい。

 消えにくいものは、遅い。

 遅いものは、長い。

 長いものだけが、恥と誇りを同じ器に納め、人を守る。

 器は、欠けても使える。欠けを隠さぬ線があれば。

 ——では、冷たい怨嗟の目は、どこへ置く。

 問が、胸の白に現れ、消えぬまま残る。

 置き場は、紙ではない。

 置き場は、作法だ。

 鐘の回数、札の位置、裏戸の名、堰の鍵、夜回りの順。

 小さな出来事の列が、怨嗟の目の重さを、少しずつ別の位置へ移す。

 移し続けながら、忘れぬ。

 忘れぬための名。

 忘れぬための粉。

 忘れぬための遅さ。


 峠の上で、風が一度だけ向きを変えた。

 兵の列がわずかに揺れ、誰かが短く吐いた息が、春の手前の匂いに溶けた。

 光秀は、背で受ける視線のかつての冷たさを、ほんの少し和らげるように、隊の速度を落とした。

 遅い歩みは、怠けではない。

 穴の縁を見るためである。

 ——穴の縁は、村の辻にも、祠の前にも、処断の場にも、紙の白にもある。

 見落とした縁の数だけ、恥は刃に変わる。

 刃に変わる前に、粉の線を引く。

 粉は風で少し飛ぶ。

 飛んだ後に残る粉が、線を作る。

 線は、今日も一本、明日も一本。

 たちまち城は建たず、戦も終わらぬ。

 だが、一本の線が、誰かの背を半歩だけ伸ばす夜がある。

 半歩で足りる夜が、確かにある。

 その夜のために、今日の怨嗟の目を、胸の白に貼り付けたまま歩く。


 道の端に、昨日の少年と同じ年格好の子らが、枝で地面に円を描いていた。

 円の真ん中に、小さな石。

 石の裏には、たぶん名がある。

 光秀は立ち止まらず、ただ心の中で札を一枚、増やした。

 ——子の名。石の裏。忘れぬ。

 紙には書かぬ。

 白は、まだ薄いから。

 白が厚くなったとき、また戻って来られるか。

 戻れぬかもしれぬ。

 戻れぬとしても、白の厚みを信じる。

 信じることが、武であり、理であり、祈りである夜が、確かにある。

 その夜まで、粉を少しずつ、指で伸ばす。

 指が震えても、線は引ける。

 震えの分だけ、粉は香る。

 香りは記憶になり、記憶は、次の選択の角度を、ほんの少し変える。


 夕刻、別の村の札場に、光秀は短い一行を足した。

 ——罪は、人に帰すな。行いに帰せ。

 札の白は、柔らかく風に鳴った。

 鳴る音が遠のくとき、胸に残るのは、なお冷たい視線の重みだった。

 重みは消えない。

 消えないものを背に、灯を小さく保つ術を、人は覚える。

 覚えた術の名を、光秀はまだ知らない。

 名がない術は、風に早く乗る。

 早く乗るものは、すぐに遠くへ行く。

 遠くへ行ったものが、いつか戻ってきたとき、恥にならぬように。

 そのために、今夜も紙の白を前に座り、黙って息を数え、粉の線を一本、置く。

 置いた線の上に、明日、誰かが名を置けるように。

 その名が、背の温度をほんの少し変えるように。

 そして、いつの日か——怨嗟の目が、寒さではなく、少しの余白を見つめるように。

 それが叶うまで、理を武として持ち、遅い眼で、穴の縁を見続けるしかないのだ。

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