第11話「敵か、民か」
春の手前、丹波の山はまだ骨を見せていた。
湖の光を遠くに置いてから、どれほど歩いたろう。山襞は細かく重なり、風は谷ごとに別の名を持って下りてくる。白く残った霜の縁を靴の底が削り、土は濡れて、指の腹で触れれば冷たさを押し返してこない。
進む先に村があった。茅の屋根は低く、畑の畝は冬の眠りの形を保つ。小さな社の木鼻に布が巻かれ、昨年の藁がゆっくり黒くなっていく。
先触れの隊が戻り、耳元で低く囁いた。
「敵兵潜む由。……焼き討ちを、との声、多し」
囁きには火が混じる。火の匂いは乾いて軽く、耳の奥で小さく爆ぜる。
後ろの兵の列に、火の色に似た眼が点々とあった。疲れと飢えと怒りとが、短い時間で一つの言に変わりやすい季節である。
光秀は足を止め、掌に風を一度乗せた。風は無色だ。だが、火の前では、風もまた色の片鱗をまとって見える。
「焼くな」
短い言が背を渡った。
「まず札を立てる」
札は白い板。白は無ではない、可能性の色。
村の入口の柳に縄を渡し、札を三枚並べた。
——名。裏戸に二つ、石の裏に一つ。
——武の持ち主、今夕までに名を置く。
——鐘、七。灯、小。
名を求められると、背が冷える。冷えた背で人は、火に不用意に近よらぬ。
兵の中から、不満の息が揺れた。
「殿。潜む敵を、名で出せまするか」
「名は、恥と誇りの両方を呼ぶ。呼び出された者の中に、行いが見える」
行い、と光秀は繰り返し、胸の奥で骨に触れさせた。
——罪を、人に帰すな。行いに帰せ——
その言は、まだ紙には出していない。紙に出す前に、背で立たせ、骨のそばで温度を測っておくべき言であった。
村の空気は、見えない蔓で一つに結ばれている。踏み入ると、蔓は足首に絡む。
最初に出てきたのは、背の曲がった老女だった。
「年貢の紙は、昨年より薄くなりました」
老女の言は挨拶の代わりで、挨拶は祈りの代わりであった。
「薄い紙ほど、墨は早く乾く」
光秀は頷き、札の白に指先を当てた。
老女の背後で、少年がこちらの眼を見返していた。眼は火ではなく、石の色に近い。湿り気のない、冬の終わりの石の色。
別の家の戸の陰から、女の影が短く揺れ、すぐに引っ込んだ。
「殿」
側にいた組頭が、小声で言った。
「ここは、秋に夜盗が出まして。山の向こうの城に通じる者が、多分に」
多分——その曖昧が、火を早くする。曖昧は軽く、軽いものは遠くへ行く。遠くへ行くものは、戻ってくるときに形が歪む。
兵のひとりが、焚きつけ束に火打石を近づけた。
光秀はその手首を取った。
「置け。火は最後だ」
「殿、敵は潜む。村は敵の外套。——焼けば、脱ぐ」
男の眼は真っ直ぐで、息は速い。速い息に、理は入らぬ。
「脱いだ皮膚は、怒りの色をしている。怒りの色は、冬の終わりに長く残る」
「面倒を言う」
「面倒は、器の継ぎ目だ」
光秀は短く返し、村の中心にあたる辻へ進んだ。
辻の褪せた石に、もう一枚札を立てる。
——一刻の舞台——
札の下に腰掛けを二つ。
人は、座り直す場所があれば言を変えうる。立ったままの言は、刃に似る。座った時の言は、粉の線に似る。
村人が幾人か集まってきた。
光秀はまず、水を置いた。水は文に似る。真意が炎であっても、水は遅い。遅いものは、長い。
「——この村に、槍三、鉄砲一、弓二」
側の目付が耳元で囁いた。
「隠し場所、見当つかず」
隠し方には、その村の作法が滲む。作法は、祭りと盗みと防衛の、奇妙な混血だ。
光秀は、辻の小さな祠の前に出た。祠の紙は黄ばみ、角が丸い。丸さは手で支えられた時間の形。
「——名」
ただ一言、光秀は言った。
「武の持ち主。——行いの名を置け」
人の名でなく、行いの名。
沈黙が、白い紙の前で厚みを持った。厚い沈黙ほど、長持ちする。長持ちする沈黙は、やがて言を産む。
最初に名を置いたのは、昼間から顔の赤い男だった。
「夜半、畦で、棒」
拙い字。だが、棒の横に小さく「見張り」と添えてあった。
次に、女が「蔵の板の下、錆槍」と書いた。
子が指で示して、父が筆を持ち、焼けた手で「山の社裏、粉火薬少々」と記す。
名が重なった。紙は厚くなる。
厚くなる紙の端で、小さな影が動いた。少年である。先ほど目が石の色をしていた子。
「何を書く」
光秀が問うと、少年は口を結び、やがて「裏戸の名」とだけ書いた。
裏戸の名。——それは、内と外の境を人が引き受ける印だ。
夕刻までに、武の行方は半分見えた。
——半分。
半分は、いつも火を呼ぶ。
半分に満足できぬ兵の眼が、斜めに光る。
「殿。槍、二はまだ隠れております。敵が潜む由、間違いございませぬ」
「間違い」——その言は、火の芯だ。
「間違いは、刃で正せる。だが、恨みは刃では薄まらぬ」
光秀はゆっくり言い、札の下の空白を指で撫でた。
そこへ、ひとりの男が駆け込んだ。衣は埃にまみれ、眼は拗ねた犬のように落ち着かない。
「槍は……山裾の倉。昨夜、裏の者が運び……」
言いかけて、男は唇を噛んだ。
「名を」
「……行いだけ、では」
「行いは名を欲しがる。行いが名を欲しがるとき、恥は骨に沿って立つ」
男は、やがて自分の名と、まじわったふたつの名を書いた。札は重くなった。
倉の前で、兵が槍を二本と、古い弓を一張、見つけた。
倉の板の隙間から出る土の匂いは湿っていた。湿っている分だけ、火が遠のく。
「殿」
部将が言った。
「今なら、焼けば早い」
「早いものは、長く持たぬ」
「長く持たせるために、人が死ぬこともある」
部将の言は、冷たく正しい。冷たさは骨に触れるが、火の色は帯びない。
光秀は、倉の戸板に白い粉を指で走らせた。粉は、木目の上で細い線になって残る。
「——罪は、人に帰すな。行いに帰せ」
言を、粉の線の上に置いた。板は応えない。応えない板に、兵の幾人かが息を吐いた。
「行いの名を書いた者と、行いの中心にいた者——三。……いや、四。さらに一。五を、引け」
五人だけ、烏帽子の影が落ちる。
その他は、札の前で名を重ねた者たち——罰は銭ではなく、手間で薄める。用水の堰、道の掃除、鐘の紐、夜回りの交替。
「五では、少なすぎる」
兵のひとりが吐き捨てた。
「殿、我らの血は、十では足りますまい」
「血は数えられぬ」
光秀は淡く返し、捕えられた五人を見る。
そのうちのひとりが、先刻の少年の父であった。少年は、影のように祠の横に立っている。
「行いを選んだのは、私だ」
父が言った。
「名を書いたのは、子だ」
「名は、背の温度を変える」
光秀は父に向き直った。
「骨に沿って、冷えが立つ。その冷えで、今、立て」
父は頷き、視線を少年に向け、そして視線を戻した。戻した眼に、海の湿りではなく山の乾きがあった。乾きは、火に似る。
処断の場は、音を吸う。
山の端に陽が残り、村の犬が遠くで短く吠え、誰かが思わず喉で鳴らした声がすぐに消える。
五人の前に、薄い白布を張った。
粉で引いた線を白布の端に置き、恥の色を隠さぬようにするためだ。
「罪は、人でなく、行いに」
光秀の声は高くない。高くない声ほど、背に落ちる。
「行いの名を書いた者は、別の行いで返せ。書かなかった者は、今この場で骨を折る」
骨を折る——刀でなく、縄と棒で。
音は短く、しかし長く残った。
残るのは、音ではなく、目である。
村人の眼が、風より遅く、火より冷たく、光秀の背に刺さる。
冷たい怨嗟の視線。
視線は、札にも粉にも、金の陰にも載らない。載らないものは、胸に沈む。
処断が終わり、白布を畳んだ。粉の線がわずかに指に移る。粉は、灯にかざすと柔らかい光を吸う。吸った光は、器を丁寧に扱わせる。
——器は、欠けても使える。欠けを隠さぬ線があれば。
煕子の声が、遠い部屋から届いたような錯覚がした。
しかし今、ここで欠けたのは、器でなく、名である。
名は背の温度を変える。温度が変わった背が、今、こちらに向けているのは、温ではない。冷だ。
「殿」
部将が小さく言った。
「これで村の口は、閉じたでしょう」
「口は閉じる。——目は閉じぬ」
光秀は、祠の前に立つ少年を見た。
少年の眼は石の色をやめ、薄い水のようになっていた。
水は、器の形を写す。器が歪めば、水も歪む。歪んだ水でも、喉は潤う。——だが、その潤いは、長く持たぬ。
夜。
村の外れで、光秀は札場の札を一枚増やした。
——ためらい、罪としすぎぬ——
ためらいを札にする。家の中だけの作法を、外に持ち出す。
兵は、焚火の側で低く笑った。
「殿の札は、歌のよう」
笑いは揶揄にも似たが、熱はなかった。熱がない笑いは、意地悪ではない。疲れの裏返しだ。
光秀は茶をひと椀、彼に渡した。
「歌は、息を揃える。——明朝の息をだ」
「朝になれば、殿の言は軽くなる」
「朝になるほど、紙は重くなる」
紙は薄いが、薄い紙ほど、墨は早く乾く。乾いた墨は、朝の風でも剥がれない。
兵は茶を二度に分けて飲み、返した椀の縁を指で撫でた。
「欠け」
「粉で継いだ」
「粉は雨に弱い」
「雨の前に、灯を小さく」
ふたりの言は、火の煙の中で短くなり、上へ昇らず、低く広がった。
夜番の札に、村の若者の名を重ねた。
——裏戸の名。
——堰の名。
——灯の名。
目に見える名の重なりは、風を鈍らせる。だが、目に見えぬ視線は、札の裏で生き続ける。
寝所に戻り、灯を低くすると、煕子の咳が遠い記憶の中で一度だけ鳴った。
光秀は、文机に紙を置いた。
——丹波某村落にて。
——武の行い、名に帰す。
——五を処断。
——恥は、背の温度。
筆は進むが、途中で止まった。止まった先に、白がある。白は無ではない。白は、問の形だ。
——我が理、正しかりしや。
その一行を、光秀は書けなかった。書けば、重みが決まる。決まった重みは、朝に持てるほど軽くない。
翌朝の空は薄い灰で、鐘は六つにとどめた。
光秀は村の辻に立ち、昨日の札を読み上げ、行いの名の前に、新たな名を二つ置いた。
——恩の名。
——忘れぬ名。
恩は今の銭では買えぬ。昔の手間で買ったものが、今日利を生む。だが、きのう骨を折られた者の家の前で、恩の名は薄い。薄い名を厚くするには、時間が要る。時間は、遅い者の味方だ。
兵を集め、次の峠への出立を伝えると、列の端から、低い声がした。
「殿、残る者の眼が、冷ゆ」
光秀は頷いた。頷く動きに、骨が軋むような感覚が混じる。
「冷えは、火に不用意に近づく足を止める」
「止めた足で、石を投げる」
「石は粉で鈍る」
粉。——粉で継ぎ、粉で鈍らせ、粉で線を引く。
金の眩しさではなく、粉の匂い。
匂いは記憶になる。記憶は、すぐには形を変えない。
村を出ようとして、光秀は振り返らなかった。振り返れば、視線が背に刺さるのを見ることになるからではない。視線が刺さることは、もう知っている。
振り返らなかったのは、振り返っても、そこに置ける言がないからだ。
——罪は人に帰すな、行いに帰せ。
胸の中で反芻すると、言は少し粉の匂いを帯びた。
この言は、紙に出せる。
紙に出せば、朝の風にも残る。
だが、紙の言が、少年の眼の水を止めるか。
止めまい。
止めぬことを知りながら、紙に書く。
書くのは、明日の別の少年のためである。
——明日。
明日は、いつも白い。
白は無ではない。可能性の色。
可能性の色に、粉の線を一本、また一本。
峠道に入ると、春の匂いが遠くから来た。
土の下で、水がまだ眠っている。眠る水の上に、薄い根が伸び、根の先が冷たさに触れて、微かに震える。
光秀の筆も、微かに震えた。
——我が理、正しかりしや。
紙には書かず、骨のそばに置く。骨は見えない。折れれば全身が崩れる。
——折れる前に、粉の線を。
粉の線は、見えすぎず、消えにくい。
消えにくいものは、遅い。
遅いものは、長い。
長いものだけが、恥と誇りを同じ器に納め、人を守る。
器は、欠けても使える。欠けを隠さぬ線があれば。
——では、冷たい怨嗟の目は、どこへ置く。
問が、胸の白に現れ、消えぬまま残る。
置き場は、紙ではない。
置き場は、作法だ。
鐘の回数、札の位置、裏戸の名、堰の鍵、夜回りの順。
小さな出来事の列が、怨嗟の目の重さを、少しずつ別の位置へ移す。
移し続けながら、忘れぬ。
忘れぬための名。
忘れぬための粉。
忘れぬための遅さ。
峠の上で、風が一度だけ向きを変えた。
兵の列がわずかに揺れ、誰かが短く吐いた息が、春の手前の匂いに溶けた。
光秀は、背で受ける視線のかつての冷たさを、ほんの少し和らげるように、隊の速度を落とした。
遅い歩みは、怠けではない。
穴の縁を見るためである。
——穴の縁は、村の辻にも、祠の前にも、処断の場にも、紙の白にもある。
見落とした縁の数だけ、恥は刃に変わる。
刃に変わる前に、粉の線を引く。
粉は風で少し飛ぶ。
飛んだ後に残る粉が、線を作る。
線は、今日も一本、明日も一本。
たちまち城は建たず、戦も終わらぬ。
だが、一本の線が、誰かの背を半歩だけ伸ばす夜がある。
半歩で足りる夜が、確かにある。
その夜のために、今日の怨嗟の目を、胸の白に貼り付けたまま歩く。
道の端に、昨日の少年と同じ年格好の子らが、枝で地面に円を描いていた。
円の真ん中に、小さな石。
石の裏には、たぶん名がある。
光秀は立ち止まらず、ただ心の中で札を一枚、増やした。
——子の名。石の裏。忘れぬ。
紙には書かぬ。
白は、まだ薄いから。
白が厚くなったとき、また戻って来られるか。
戻れぬかもしれぬ。
戻れぬとしても、白の厚みを信じる。
信じることが、武であり、理であり、祈りである夜が、確かにある。
その夜まで、粉を少しずつ、指で伸ばす。
指が震えても、線は引ける。
震えの分だけ、粉は香る。
香りは記憶になり、記憶は、次の選択の角度を、ほんの少し変える。
夕刻、別の村の札場に、光秀は短い一行を足した。
——罪は、人に帰すな。行いに帰せ。
札の白は、柔らかく風に鳴った。
鳴る音が遠のくとき、胸に残るのは、なお冷たい視線の重みだった。
重みは消えない。
消えないものを背に、灯を小さく保つ術を、人は覚える。
覚えた術の名を、光秀はまだ知らない。
名がない術は、風に早く乗る。
早く乗るものは、すぐに遠くへ行く。
遠くへ行ったものが、いつか戻ってきたとき、恥にならぬように。
そのために、今夜も紙の白を前に座り、黙って息を数え、粉の線を一本、置く。
置いた線の上に、明日、誰かが名を置けるように。
その名が、背の温度をほんの少し変えるように。
そして、いつの日か——怨嗟の目が、寒さではなく、少しの余白を見つめるように。
それが叶うまで、理を武として持ち、遅い眼で、穴の縁を見続けるしかないのだ。