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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 剣城大和
第一部 明智光秀編
10/22

第10話「妻の咳、夜半の祈り」

 夜半、安土の風は薄く、寝所の障子の桟を撫でては引き返し、また少しだけ形を変えて戻ってきた。

 煕子の咳は、その風よりも細く、しかし確かに、間を置いて胸の底から上がってくる。咳の音は高くない。高くないが、灯の火がその一度ごとに針ほど揺れる。揺れは小さいほど、見ている者の息を奪う。光秀は、湯気の立つ椀を両手で支え、妻の唇にそっと寄せた。薬湯は苦く、苦みの奥に、干した橘皮の薄い甘さが一刹那だけ残る。煕子は瞼を閉じ、口縁に息を置くようにして、二度に分けて飲んだ。二度のあいだに、灯がまた一度揺れた。


 「殿」

 煕子は椀を受け返し、息を整えながら笑みの形をつくった。

 「殿は、理を守ってください。……それが殿の武」

 笑みは、声より先に生まれる。生まれた笑みを声が追いかけ、半歩届かぬところで、咳がそれを横取りする。横取りされた声は、灯の影に落ち、そこで薄く溶けた。

 光秀は頷き、椀を卓に置いた。置くときの音が、寝所の布の匂いと混じって、小さく沈む。沈む音は、心の底で反響する。


 政の帳面も、戦の指図も、今この狭い室の白には入らない。入らぬものが扉の外に横たわっている気配だけが、目に見えぬ皺を障子紙に刻む。

 煕子の肩は細い。細さを守るために重ねられた衣の重みが、かえってその細さを際立たせる。

 ——人は国を治めるより、愛する一人を救うことのほうが難しいのかもしれない。

 光秀はそう思い、その思いが、胸の底の骨に当たって鈍く鳴るのを聞いた。骨に当たる音は、外の合戦の太鼓よりも、よく身を貫く。


 遠くで、夜更けの鐘が二度鳴った。安土の鐘は、昼と夜とで響きが違う。昼の鐘は坂に沿って広がり、町の余白を撫でる。夜の鐘は低く沈み、寝所の床板の下でひととき留まり、しばらくすると、土の中へ吸い込まれていく。

 「七つになさいますか」

 煕子が問う。問いというより、日々の作法の確認に近い。

 「明日は……六つで足りよう。朝の風が硬い」

 硬い風の朝は、鐘の数を少し減らす。鐘は名を呼ばずとも、人の足音と呼吸を揃える。揃えば、余白が生まれる。余白は、息の座だ。息の座があれば、怒りも恥も、椀を置く場所を見つける。


 薬湯の湯気は、冬の枯れ葉の匂いを奥に忍ばせていた。煕子は湯気を嗅ぎ、ふいに幼い子のような顔になった。

 「……どこかで、橘の花を嗅いだ気がいたします」

 「丹波の坂の、春の手前……いや、もっと前だ」

 光秀は、彼女の言の先に記憶の扉を見た。

 まだ仕官もおぼつかぬ頃、借りた机の片脚が短かった冬の夜、折った紙片で釣り合いをとってくれた指。あの指の節を、今と同じように見つめたことがあった。灯は小さく、白はまだ恐ろしいほど空で、そこに書く一行一行が自分の明日を決める気がした。

 ——殿の筆は春を連れて来ます。

 煕子が言った。

 ——春は白い。白は無ではない。

 その白に、いくつの線を置き、いくつの名を書き、どれほどの恥と恩とを重ねたか。白は厚くなった。厚くなった白は、風で千切れにくい。


 今、白はまた薄い。薄い白は、灯にかざすと骨の影が透ける。透ける影を見たくなくて、目を伏せる。伏せた目の裏で、筆の先が震えた。

 「殿」

 煕子が、光秀の手の甲にそっと指を置いた。

 「震えても、線は引けます。……粉の線なら」

 金の眩しさは要らない。粉でよい。粉の線は、見えすぎず、消えにくい。消えにくいものは、遅い。遅いものは、長い。長いものだけが、人の骨になる。

 彼女の声の奥に、細い芯が立っていた。いつからか、光秀が支えにする言は、彼女の口を通って自分の骨へ戻るようになっていた。


 寝所の隅に、小さな祠がある。簡素な木の枠に、古い紙の神影。紙は少し黄ばみ、角が丸い。丸さは、手で支えられてきた時間の形だ。光秀は灯を持ち、祠の前に膝をついた。

 祈りは掟ではない。掟は祈りではない。

 掟は骨で、祈りは息だ。骨だけでは立てても、息がなければ歩けない。息だけでは歩けても、骨がなければ立てない。

 ——罪は制度で減らし、恨みは施策で薄める。

 比叡の灰の夜、紙に置いた一行が、祠の白の前で別の重さを帯びる。

 ——ためらいを罪としすぎぬ。

 安土の陰で、主に刺すように言われた夜、薄く書き足した一行が、今は熱を持たない穏やかな線になって胸に浮かぶ。

 ——白は無ではない。可能性の色。

 札に、石の裏に、裏戸に。

 名の列が頭の中に現れては消える。兵の名、町の子の名、灯の芯を整えた女の名、港で笛を吹いた旅の楽人の名。

 そして——煕子の名。

 名は背の温度を変える。名を思うだけで、背が温まる。温まった背で、人は祈れる。


 祠の前で合掌するとき、指の間に灯の熱がわずかに籠もった。籠もった熱は、薬湯の匂いと混じって、胸の奥の冷えに届く。冷えはすぐには引かない。引かない冷えと共に生きる術を、人は、作法と呼ぶのだろう。

 「殿」

 背後から、かすれた声。

 「息、数えてください」

 光秀は頷き、耳と胸で、煕子の呼吸を数えた。

 一つ、浅く。二つ、深く。三つ、短く。

 呼吸の間が不揃いでも、数えることが救いになる夜がある。数えられるものは、掟の方へ寄ってくる。寄ってきたものに、人は粉の線を引ける。線があれば、明日も座り直せる。


 外では、戦の足音が近づいている。四国の文は水で、京の紙には炎の舌がのびている。

 ——四国は我が庭。

 主の言はいつも骨だけで立つ。骨の端々は冷たく、触れれば手が引き締まる。

 庭という言は、囲いの心から生まれる。囲いすぎれば風が腐り、囲わなければ苗が折れる。

 ——境は粉で引け。刃で引けば、光を反し、眼を痛める。

 この家の中では、粉で引くしかない。粉は灯に照らされ、柔らかく光を吸い、器を丁寧に扱わせる。

 光秀は、煕子の枕元の小さな陶の水差しの欠け目を、指で撫でた。粉で継いだ薄い線は、灯の陰の中でさりげなく呼吸を続けている。呼吸する線。——人の欠けもこうして継げたら、と一瞬思い、思いなおして掌を離した。


 煕子は眼を閉じたまま、指で布団の端を軽くたたいた。

 「文を」

 文——いつものように、夜半の祈りの後に、短い言を紙へ落とす癖。

 光秀は文机を引き寄せ、紙の端に灯を寄せた。

 筆を持つ指先が、冷えで少し強ばる。強ばりは、筆の芯に伝わって、最初の一字の撥ねをわずかに硬くする。

 ——夜半の祈り。

 ——煕子の咳。

 ——息、数える。

 余白を多くとる。余白は、声に出さぬ誓いの居場所だ。声に出した誓いは、明日の風で色を変える。色を変えぬ誓いは、紙の白に沈んでいなければならぬ。

 筆は迷い、迷いを抱えたまま、次の一行へと進む。

 ——理は、美や威の飾りではない。人を守る骨であるべきだ。

 ——骨は、見えない。折れてからでは、遅い。

 折れる前に、粉の線を足す。足す作法を、家の中で体に覚えさせる。

 煕子の息が、静かに上下する。上下の間に、灯が小さく揺れる。揺れは、紙の上の墨を乾かす。乾いた墨は、朝になっても濃い。


 「殿」

 煕子が、まぶたの向こうで笑った。

「書き過ぎてはいけません。白が薄くなります」

 「白は、可能性の色」

 「はい。……それに、白は、他人の息が入る場所」

 他人——明日、城下で子が名を書き、石の裏に札を忍ばせるとき、その白に彼らの呼吸が入る。白は自分だけのものであってはならぬ。

 光秀は筆を置き、白にそっと手をかざした。白は、手の影を受け取り、何も言わずに保った。


 遠い犬の吠えが、二度、短く続いた。戦の使いが夜道を走るとき、犬はいつも少し早く噂を知る。

 ——兵の支度、早々に——

 昼間に届いて、まだ返していない骨の紙が、懐の底で冷えている。冷えた紙は、皮膚を介さず、直接、骨に触れてくる。

 光秀は、その冷えを祠の前に置くようにして、ゆっくりと息を吐いた。

 ——足は速く、眼は遅く。

 主の言を、今夜は自分の胸で言い直す。

 ——眼が遅いのは、怠けではない。穴の縁を見るためだ。

 穴の縁は、病の床にもある。

 ——ここで、落ちるわけにはない。

 言は声にならず、背骨の中で立った。


 煕子が、小さな咳をひとつしてから、細い声でつぶやいた。

 「殿。欠けた器でも、使えます」

 いつか家康の饗応の夜に、彼女が言った言だ。

 「欠けを隠さぬ線があれば」

 光秀が続けると、彼女は頷いた。

 「線を引く人の手は、震えていてもいい。……震えの分だけ、粉が香る」

 粉の香り。金ではない、粉で継いだ器だけが持つ、目立たぬ、しかし確かな匂い。

 「……香りは、記憶になります」

 煕子は言い、また静かに息を整えた。匂いは形を取らず、形を持たぬまま、胸に居座る。居座って、明日の行いの角度を、少しだけ変える。


 光秀は、彼女の枕辺に札を一枚置いた。

 ——名。灯の芯。夜回り。裏戸。——

 いつもの札に、細い墨で小さく書き足す。

 ——息、数える人——

 名を置けば、背の温度が変わる。

 今夜、光秀は、自分の名を、彼女の息の隣に置きたかった。置く名は、外の戦の名ではなく、この狭い室のための名。

 名は、背を伸ばす。背を伸ばせば、灯が少し高くなり、影が少し短くなる。短い影は、恥を隠すためでなく、恥が立つための余白を作る。


 彼女が眠りに落ちかけるとき、光秀の耳は、外の細い音まで拾うようになった。回廊を渡る足袋の擦れる音、遠くの井戸で釣瓶が少しだけ鳴る音、風が竹の節で切り返す音。

 音は小さいが、小さい音ほど、器の厚みを教える。厚みがあれば、音は良く響き、薄すぎれば、音はすぐに抜ける。

 ——安土は、舞台。

 ——舞台は、日々の音でできている。

 今日、音がひとつ欠けた。それは妻の笑い声。

 欠けを隠さず、粉で継ぎたい。次の朝、彼女が咳の合間に笑うなら、その笑いの縁に粉の線を引こう。粉の線は、見えすぎず、消えにくい。


 灯が、小さく燃え尽きようとした。芯を指でつまみ、短く整え直す。

 「小さい灯ほど、持って歩ける」

 煕子が以前言った言が、今、灯そのものの口から聞こえたような気がした。

 灯を持って歩くこと。

 ——四国の風の中で。

 ——比叡の灰の後で。

 ——丹波の土に線を置いた時と同じ手の形で。

 光秀は灯を祠から寝所へ戻し、紙の上の白に影をつくった。影は深すぎず、浅すぎず。陰の質を決めるのは、金の枚数ではなく、灯の高さと息の速度だ。


 「殿」

 煕子の声が、布団の中からもう一度だけ出てきた。

 「明日の札に、ためらいを、ひとつ」

 ためらいを札に書くこと——それは、この家の新しい作法だった。

 ——ためらい、罪としすぎぬこと。

 ——ためらい、息のための余白。

 ためらいが許される家でなければ、理は骨にならない。家の中で骨になり得ぬ理は、外の風に吹かれて、すぐに抜け落ちる。

 光秀は頷き、札の端に細く線を引いた。

 粉の線は、灯にかざすと柔らかく光を吸い、紙を厚くする。厚い紙は、風で千切れにくい。


 眠りに落ちる直前、光秀は短い祈りを胸で結んだ。

 ——彼女の咳が、今夜だけでも浅くありますように。

 祈りは、掟の外にある。外にあるからこそ、骨のそばで生き、息とともに出入りする。

 彼は、耳で息を数え続けた。数えながら、遠い未来の紙の白に、まだ見えぬ線を探した。

 未来は、筆で描けると思う夜もある。描けないと思う夜もある。今夜は後者だった。墨の先が震える。震えの分だけ、線は揺れる。

 だが、揺れた線でも、地図は作れる。地図は、真っ直ぐな線だけではできない。曲がった線、薄い線、途中で粉が途切れた線——それらが重なって、人の道になる。


 浅い眠りと浅い夜明けの境、暗い空の底がわずかに青む頃、煕子は、長い咳を一度だけした。長い咳は、部屋の空気を入れ替え、灯の匂いを押し広げ、布団の皺を少しだけ深くする。

 光秀は、その咳の終わりで、そっと彼女の背へ手を当てた。背の骨が、細い音で息を受け取り、わずかに緩むのがわかった。緩んだところへ、白が入り込む。白は無ではない。可能性の色。

 「殿」

 煕子は、眠りと目覚めの境の、柔らかな声で囁いた。

 「明日も、理を」

 「うむ。……理を、粉で」

 ふたりのやりとりは、それ以上続かなかったが、続かなかった余白のほうが、長く胸に残った。


 明け方の鐘は六つ。光秀は自ら鐘楼に上がり、いつもより少し遅い間で打った。遅い間は、町の屋根の霜を慎重に解かす。音が降りた先で、女が灯を掛け、子が裏戸に紙を貼り、男が坂の掃除を右から始める。いつもの名が、いつもの白に重なっていく。名が重なれば、紙は厚い。厚い紙は、風でちぎれにくい。

 鐘を降りて、庭に立つと、東の雲が手の届かぬ高さで細く裂け、薄い金が滲んだ。金は光のためではなく、陰のためだ。今朝の金は、煕子の寝所に深い陰を落とすかもしれぬ。落とす陰が冷えすぎないよう、灯を低く保つこと——それが今の政であり、戦であり、祈りであると光秀は思った。


 侍所からの使いが来た。

 ——四国、兵の支度、早々に——

 昨日と同じ骨の文。骨は変わらぬ。変わらぬ骨の周りに、粉を置き続けるしかない。

 光秀は佩刀の位置を直し、腰骨で重みを受ける角度を確かめた。角度が合えば、歩は遅くとも揺れない。

 寝所に戻り、煕子の寝顔を見た。眠りは浅いが、息は先ほどより穏やかだ。穏やかさは、一刻の舞台のようなもの。札を立て、名を置き、終われば静かに片付ける。

 「行って参る」

 囁くと、彼女の指が軽く動いて、布団の端を抓んだ。抓むというより、そこに名を置くように。

 光秀はうなずき、札を一枚、枕元の柱に新たに貼った。

 ——一刻の舞台/夜半の祈り——

 札の白は薄い。薄い紙ほど、墨は早く乾く。乾いた墨の線は、夕べまで残る。夕べの線の上で、また夜半の祈りを続ければよい。


 外へ出ると、安土の道は白い霜で細く光っていた。坂は敬いの角度で、朝の足音を揺らす。揺れは吐き気と礼の両方を生む。吐いた後、人は顔を洗い、背を伸ばす者と、背を曲げて笑う者に分かれる。

 背を伸ばす者のために、白を残す。白は、可能性の色であり、誓いの形を隠す場所でもある。

 沈黙は弱さではない。

 声を節約して、骨に塗る粉のようなものだ。

 光秀は黙って歩き、門前で振り返らず、ただ心の中で一度だけ、祠に向かって頭を下げた。祠の白が、遠くでわずかに揺れた気がした。揺れは小さいほど、長く残る。

 彼は、足を速く、眼を遅くして坂を下った。遅い眼が、今夜の灯の高さと、粉の線の太さと、札の白の余地とを、先に数え始めていた。


 日が上がるにつれ、町の音が増えた。道の掃除の箒の音、井戸の釣瓶の軋み、茶の湯の湯気が襖に残す水輪の微かな音。

 光秀は、胸の内でその音を並べ、一本の線にした。線は、戦の図の上にも、政の帳面の上にも、そして寝所の白の上にも引ける。

 線は粉でよい。

 粉の線は、見えすぎず、消えにくい。

 消えにくいものは、遅い。

 遅いものは、長い。

 長いものだけが、恥と誇りを同じ器に納め、人を守る。

 そしてその器は、欠けても使える。欠けを隠さぬ線があれば。

 光秀は、その確かさを背骨の奥で確かめながら、今日の一歩を置いた。

 一歩の重みは、昨夜の祈りの濃さと比例する。

 昨夜の祈りは、静かで、薄く、しかし長かった。

 だから今日の一歩は、揺れず、遅く、長い。

 その遅さを、彼は信じた。

 信じられるうちは、まだ——彼は、理を武として持っていられる。

 そして、夜が来たなら、また白の前に座り、息を数え、粉の線を一本、置けばよいのだ。

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