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敗者列伝 ―光秀と三成―  作者: 剣城大和
第一部 明智光秀編
1/22

第1話「浪人の冬、灯のある卓」

 越前の冬は、音まで湿っていた。

 夜半の鐘が遠くで鳴るたび、雪は屋根の上でわずかに身じろぎし、薄紙の障子にその重みをゆっくりと伝えてくる。紙の向こうで、筆の腹がかすかに擦れる音が止んだ。光秀は筆先を見つめ、墨の黒さの中に、自分の思いの行き場を探していた。


 借り物の机は片脚が短い。煕子が折り紙を三重にして脚の下へ差し込み、水平を作ってくれている。油皿は一つ。焔は小さく、その芯の白さだけが頼りだ。机の上には、古い書付、丹念に写した律令の条文の抜き書き、寺社の座の規式、近年の年貢割付に関する覚書が重なっている。武の記録より、こうした文の束のほうが光秀の胸を温めた。

 だが求められるのはいつも槍働きで、文を買う者は少ない。戦の煙は冷たく、銭の重みは荒んだ心を鈍らせる。主君を失った浪人は路地の暗がりに溢れ、忠義は相場を落とした銅銭のように、誰かの掌で軽く鳴るばかりだ。


「殿の筆は、春を連れて来ます」

 湯気の立たぬ粥を、煕子が笑ってすくった。笑い方は、寒さの癖のように静かで、強かった。

「春は、道を選べましょうか」

「選べますとも。殿が春の側に立ちさえすれば」


 光秀は微笑み、粥の器に口を当てた。米は薄いが、塩の塩梅がいい。煕子の手指は割れて赤く、膝に隠す仕草が癖になっている。障子の向こうでは、町家のどこかで味噌を撹ねる音がし、木杓子が桶の縁に当たって、木の音が少し湿って響いた。

 義輝公は斃れ、義昭公は所在定まらずに流浪している。畿内は火の車。理想を語れば笑われ、力を語れば歯が軋む。光秀は、筆の先に結ばれぬものを胸の底に溜めて、呼吸をひとつ吐いた。


 その夜の遅く、戸口が静かに叩かれた。旧知の僧が、雪の白を肩に積んで立っている。袂に霜が薄く光り、頬は風に焼けて荒れていた。

「夜分にて失礼。殿に伝えたき縁があり参上つかまつった」

 煕子が手早く火を足し、僧の衣を乾かすべく湯を用意する。光秀は座に招き入れ、手短に事情を聞いた。

「細川藤孝様のところへ出仕の口が開くやもしれませぬ。人柄、学問、さようなお方を求めておわすとか」

「求むるは兵ではなく、文を扱う者か」

「さよう。ただし門は狭い。狭きは悪にあらず、選び抜かるるということにございましょう」


 灯の光が、僧の頬の皺に沿って細い影を落とす。煕子が差し出した湯気の薄い茶を、僧は掌を包むようにして飲んだ。

「戦は止まずとも、枠が要ると存じます」

 光秀は炉端へ掌をかざしながら言った。

「枠、にございますか」

「掟。人の心は火のように上がり下がりいたしまする。火に囲いがあるかないかで、家が焼けるか焚き物が煮えるか、分かれましょう。戦を止める手立てを持たぬ身であればこそ、せめて囲いの形を考えておきたい。戦の手引きではなく政の覚書を巻きたいのです」


 僧は目を細めて頷いた。煕子が視線だけで夫を見た。その眼差しに、あの言葉――「殿の筆は春を連れて来ます」――がもう一度宿っている。

「門は狭い。だが開いている」

 僧は帰り際、もう一度そう言った。その言い方が、降り止まぬ雪の中で灯を見つけたように、光秀の胸を静かに温めた。


 翌朝、雪はやんでいた。雲間から白い光が差して、雪の表は少し硬くなっている。光秀は古い鎧に袖を通し、留め金の錆を指で拭った。磨き込まれた金具に、自分の痩せた頬が映る。甲の内で肩を動かしてみる。布の軋む音が小さく鳴った。

 煕子が帯の結び目を確かめ、「ゆるみませんね」と言う。

「ゆるみは、心に出したくはないものだ」

「ゆるまずとも、ほどけぬように。強く結べば、切れてしまうこともあります」

 光秀は目を伏せ、頷いた。


 町に出ると、雪明かりに目が慣れるまで少し時間が必要だった。路地には旅の侍たちが焚き火を囲み、腰の浅い椀で汁をすすっている。声は荒いが、笑いは乾いている。米屋の前には短い列ができ、背の曲がった女房が銭を数えてはため息をついた。

 光秀は借りていた書物を貸本屋へ返し、小さな礼を言って、寺の方へ足を向けた。足袋の底から雪の冷たさがじわじわと上がってくる。寺の門は半ば凍っている。門前には読み書きを頼みに来た町人が二人ほど立ち、寒さで肩をすぼめていた。


 寺の庫裏で待っていると、若い徒弟が湯を持ってきて、少し遠慮がちに光秀を見た。

「殿は、戦の書付を?」

「いいや、村の揉め事の仲裁文を頼まれている。水争いだ。冬に水を争うのは、あまり賢くはないが、冬だからこそ枯れる樋がある」

 徒弟は曖昧に笑い、湯のみを置いて去った。光秀は懐から紙片を出し、昨夜のうちに草した調停案を見返す。

 ――両村の用水、旧来の幅に戻すこと。春の雪解けまでは、日々の配分を交代で記し、寺に封して預けること。封を破る日と人名は、毎朝両村の年寄が立ち会って記すこと。破りがあれば、翌月の配分を不利に改めること――。

 紙面の文は冷えている。文字は秩序を語るが、寒さは焚き火でしか和らがぬ。「理は骨であれ」と胸のどこかで呟き、筆先で一文を足した。

 ――この取り決めの間、双方の若者は互いの田畑に入らぬこと。入れば夜半であっても昼の罪として扱うこと――。


 「石の文は冷たいが、熱をこめるのは人の役目である」

 独り言が自分の耳に戻ってきて、少し滑稽に思えた。だが、そういう滑稽さこそ、いまの自分には必要だった。


 寺を出ると、雪の上で、二人の男が胸ぐらを掴み合っていた。片方は額の古傷が赤く盛り上がっている。もう片方は歯が一本欠けて、言葉の最後がいつも風に切られる。

「水路はこっちのもんや!」

「去年、そっちが勝手に掘り直したんやろが!」

 光秀は二人の間に体を入れた。袖が掴まれる。雪に足をとられながら、声を低く抑えて言う。

「掴む手をほどけ。ほどけぬなら、握りしめた手を互いに見よ。おぬしらの手は、田の泥が染み込んでいる。互いの手の泥は、よう似ておる」

 ふたりは一瞬だけ動きを止めた。

「村の事は、村の言葉で決めよ。しかし約束は、村の外に置け。寺へ運び、封じて預けろ。封を破れば、おぬしの子が困る。困れば、今の怒りは、あとでおぬし自身を責める」

 言いながら、光秀は自分の声が、どこか冷たい石のように感じられた。冷たいが、積まねば家は立たぬ。二人は歯噛みして、やがて手を離した。

「寺で……封を、か」

「封を破りよったら、村の恥になるで」

「恥は自分のために置くものだ。相手に着せれば、また戦になる」


 男たちが肩を怒らせながらも背を向けると、通りかかった老婆が、光秀の袖をちょいと引いた。

「殿。よう言うて下された。うちは耳が遠いで、理屈はよぅ分からんけど、封じるやつはわかりやすい」

「封は、いつでも破れる。破ったら恥だ、と皆が思えるうちは、国は保つ」

「国、ちゅうほど大きなもんの話かね」

「小さい封が積もれば大きな封になる。大きな封を、いつか誰かが破ろうとしても、小さい封が重石になる」

 老婆は笑い、歯の少ない口の奥に、寒いのに温い色を見せた。


 戻る道すがら、旅の侍に呼び止められた。衣の裾は泥で硬くなっているが、腰の刀はよく手入れされている。

「そなた、腕が立ちそうだ。槍の口は要らぬか」

「文の口なら、探しておる」

「世の中、文など役に立たぬ。今は槍で名を上げるときよ」

「名は上がる。が、すぐ降ろされる。文は上がらぬ。が、ゆっくり積もる」

 侍は鼻で笑い、雪を蹴った。その足跡はすぐに雪に消え、光秀は、その消え方を見つめた。消えゆく跡ほど脆く、だが美しい。美しいがゆえに、信じてはならぬものがある。


 夕暮れ、家に戻ると、煕子は竈の火を小さくして、薄い菜を煮ていた。

「寺でのこと、聞かせてください」

 光秀は、その日の出来事を淡々と話した。煕子は合いの手を入れずに頷くだけで、話の端々を器の口縁にそっと指でなぞるように受け取っていく。

「封は、破られるためにあるのではなく、破られたときに恥になるために置く。恥は、共同の熱だ」

「熱」

「恥を感じるには、温かさがいる。冷たい心は恥じぬ。だから、温かい器を作らねばならぬ」

 煕子は鍋の蓋を少しずらし、立ち上る蒸気の向こうで微笑んだ。

「器の温かさは、殿の手から出ます」

「手は、割れておる」

「割れてる手でしか、器は支えられませぬ」


 その夜、僧から託された文をもう一度読み、細川藤孝の名の周りに、細い線で丸を描いた。丸は、囲いだ。囲いがあるから、火は消えず、広がりすぎない。囲いの中身を、どれだけよい火にできるか。光秀は筆をとり、藤孝に宛てて書き始めた。

 ――拙者、明智十兵衛光秀、いまは浪々の身に候。乱世の只中にて、武をもって秩序の外郭とし、文をもってその核と為すべしと愚考致し候。もし御仁がさやうの理を求め給ふならば、拙者、紙一枚の役にも立ちたし――。

 筆は滑らかに動いた。文末の言い回しに迷い、三度書き換えた。迷いは恥ではない。迷いがあるから、言葉は固くならずに済む。


 書き上げた書状を乾かす間、煕子が古い碁笥を持ってきた。中身は空だが、蓋の内側に、小さな紙片が貼られている。

「何だこれは」

「私の約束です」

 紙片には、細い字でこう書いてあった。――殿が握る筆の先に、春を結ぶ――。

「子どもの遊びのようだ」

「遊びは、恥を教えてくれます。大人は恥を隠す術ばかり覚えますから」

 光秀は笑った。笑いは短かったが、焔を一度揺らすには足りた。


 翌日、雪はまた降り出した。僧に託して書状を送り、光秀は町はずれの堰のところへ出向いた。昨日の男たちが、寺からの封書を持って、ぎこちなく向き合っている。封の麻紐は固く結ばれ、赤い紙が寒さで少し縮んでいる。

「封は、重いぞ」

 光秀が言うと、男のひとりが頷いた。

「軽くても重い。手は軽いが、眼は重い」

「眼?」

「村中の眼が見とる。破ったら、背中が冷える」

 光秀は小さく笑った。背中が冷えるという言い回しが、理にかなっていた。恥は背筋の温度で測れる。


 堰の上では、子どもが雪玉を投げ合って遊んでいた。ひとりの子が、光秀の脛に雪玉を当て、はっとして頭を下げた。

「すまなんだ」

「よい。当たるところを選べ」

「え?」

「当ててもよいところを選ぶのだ。選べぬなら、投げるな」

 子どもはよく分からぬ顔をしたが、雪玉を小さく握り直し、今度は堰の土台の、誰もいないところに投げた。雪が砕け、白い粉がふわりと舞う。

「当ててよいところを選ぶ。人に当てるなら、言葉も同じだ」

 言いながら、自分に言っているような気がした。信長という名を、光秀はまだ口に出さない。だが、そう遠くないどこかで、その名の速度だけが雪崩のように迫ってくる気がした。


 数日が過ぎた。寺に預けられた封は破られず、堰の水は静かに二つの村へ流れている。光秀はまた寺の一室で、古い律令の条文に、近年の実例を書き足していた。「古今の折衷」と小さく欄外に記す。古は枠を示し、今は枠の歪みを示す。両方がなければ、器はうまくはまらない。

 障子の向こうで、雪を払う音がした。足音が一つ、ためらいがちに近づいてくる。

「明智殿」

 声は、僧の声ではなかった。もっと乾いて、鋭い。

 戸を開けると、細川家の使いと名乗る男が立っていた。浅葱の羽織に、薄い埃が雪に変わって縁に積もっている。

「藤孝公がお目通りを許される。明日、坂本にて」

 言葉は少なく、用件はすべてその一行に収まっていた。男は深々と頭を下げ、雪に足跡を残して去っていく。足跡の幅は広く、歩みは迷いがない。


 光秀の胸に、何かが静かに降り積もった。安堵とも恐れともつかぬ重みが、胸骨の内側へ層になって重なっていく。

 煕子に告げると、彼女はうなずいて、いつもより丁寧に袖を整え始めた。糸の端を歯で引き、結び目を爪の腹で押し固める。

「門は狭い」

「狭ければ、くぐったときの背筋が伸びます」

「伸びた背筋のまま、折れぬか」

「折れそうになったら、膝をついて座ればよい。折れるのは、立ち続けることだけしか知らぬ人です」


 夜、光秀は机の上に、薄く剥いだ板を一枚置いた。その上に、小さな石を四つ並べる。四隅が定まると、板は揺れない。先ほどまで短かった机の脚が、まるでまっすぐになったかのようだ。

「これで、筆が暴れぬ」

「筆が暴れぬと、心が暴れます」

「心は、器に従わせる」

 煕子が笑い、「器は人に従います」と返した。どちらが先でもよい。従い合って、角を少し丸くしていけばいい。


 寝床に入ってからも、光秀は眠りが浅かった。障子の外から、雪の落ちる音がする。時折、遠くの犬が吠える。その吠え方に、見えない他者への苛立ちと不安が混じっている。人もまた、見えないものに吠える。吠え続ければ、喉が傷む。喉が傷めば、声は届かなくなる。

 「声は、残らねばならぬ」

 心の中で呟き、煕子の寝息に耳を澄ます。細く規則正しい呼吸が、闇の中で灯のように安定している。


 明け方、雪は小止みになっていた。空は薄い白で、風は昨夜より柔らかい。光秀は身支度を整え、鎧ではなく、柔らかな袴を選んだ。文を携える日に甲冑は要らぬ。

 門口で草鞋の緒を結び直していると、煕子が小さな包みを渡してきた。

「何だ」

「煮しめを少し。それと、封」

「封?」

 開けると、薄い紙が一枚折り畳まれている。広げると、墨の香りがふわりと立った。

――殿が言葉を選ぶとき、言葉が殿を選ぶように――

 光秀は目を瞬き、紙を折り戻した。

「選ばれぬ言葉は、どこへ行く」

「残ります。殿の中で。いつか別の言葉に変わって出てきます」

「余白のように」

「余白こそ、読み手を入れる場所」


 坂本への道は、雪が踏み固められて歩きやすい。琵琶湖の気配が遠くにあり、冷たい匂いが胸の奥を新しくする。途中、寺の門前を通り、昨日の二人の若者が、封の紙を指差して何やら言い争っているのを見た。争っているが、手は出ない。封が、そこに重く載っている。

 光秀は足を止めぬまま、心の中で小さく礼をした。封に礼をするというのはおかしな話だが、誰かがどこかで何かを守っている限り、遠くの誰かも守られる。守られている間に、人は次の文を用意できる。


 坂本の町は、雪に隠れてなお賑やかだった。商いの声が短く、合図のように飛び交う。細川の屋敷は湖に向かって開け、門の前の石畳は雪が掃かれて黒く光っている。

 名を告げると、守番は目を細めて頷き、控えの間へ通した。畳は固く、香は控えめで、壁の絵は水墨の山。余白が多く、山の輪郭が呼吸している。

 やがて、細川藤孝が現れた。声は柔らかいが、視線は刃のように通る。春先の水面に差す光の帯が、底まで見通すように。

「明智十兵衛殿と聞く。書状、拝見致した」

 光秀は深く頭を下げ、座に膝を正しく置いた。藤孝は書状に手を軽く置き、紙の端を指でなぞる。

「戦の手引きではなく、政の覚書。……珍しき志である。世は槍を求むれど、槍の柄に巻く布を求むる者が、実は一番足らぬ」

「布は見えませぬゆえ」

「見えぬものを大切にできる者は、少ない」

 藤孝は微笑した。笑みは薄く、温かさより清明さを含んでいる。

「ところで、殿は、理をどのように働かせるおつもりか」

 問いは唐突で、的確で、逃げ場がなかった。光秀は、煕子の紙片の一文を思い出し、言葉に余白を残すように、ゆっくりと口を開いた。

「理は、骨でございます。肉は時勢に従い増えも痩せも致しまするが、骨は折れぬように保たねばならぬ。折れぬ骨は硬さではなく、しなやかさゆえに折れぬ。掟は硬く見えて、実は人の息で温まるように作るべきかと」

「息で温まる掟」

「はい。掟を守ることで恥が減り、恥を知ることで掟が生きる。そういう、行き来のある枠を」

 藤孝はしばし沈黙し、うなずいた。

「殿は、言葉の当て所を知るようだ。……わが方に、殿の言葉を置く場所があるやもしれぬ」


 光秀は、その言葉に過度な喜びを見せぬよう、呼吸の深さを均した。喜びは、足元を滑らかにし過ぎることがある。

「ただし」

 藤孝は扇を軽く傾けた。

「この道は、殿の心を冷やすこともあろう。理は人を救いもするが、人を傷めもする。殿は、冷えに耐えられるか」

 光秀は、越前の冬の夜、灯の小ささを思い出した。小さいが、消さずに持てる大きさでもある。

「耐えるために、家を温かく保ちます」

「家」

「はい。理を語るとき、家で笑うことを忘れぬように致します」

 藤孝は初めて、ほんの少しだけ、柔らかい笑みを見せた。

「よきかな」


 邸を辞したあと、湖畔の風が頬に気持ちよかった。空は薄く晴れ、雪は粒を小さくして舞っていた。光秀は袖の中で、指を一本一本、ゆっくりと曲げ伸ばしした。指の皮は粗く、紙の細いささくれを捉えるようにできている。

 帰り道、堰の上で子どもたちがまた雪を投げていた。昨日より狙いがよい。堰の石の角に当てて、雪がぱっと散る。

 光秀は足を止め、振り返らずに、小さく息を吐いた。胸の底にあった氷の筋が、わずかに形を変えた気がした。消えたのではない。氷は氷のまま、流れの向きを変えた。

 門は狭い。だが開いている。狭い門をくぐる背筋は伸び、伸びた背筋は、誰かの目の前で無用に強張らぬよう、家の柔らかさでほぐしておけばよい。


 家へ戻ると、煕子が縁側で、割れた茶碗の継ぎ目を指で撫でていた。金ではない。漆に粉を混ぜて、丁寧に線を描いている。

「金は使えぬゆえ、粉で」

「粉でも、線は残る」

「残る線は、器の恥です。恥があるから、器は大事にされる」

「器に恥を持たせるのは、よいことだ」

「人にも、少しは」

 煕子が微笑み、光秀もまた笑った。笑いは、冬の灯のように小さいが、二人の顔に確かな色を差した。


 夜、筆を取り、今日見たもの、聞いたこと、藤孝の問いの形、答えの余白、寺の封、堰の水、子どもの雪玉――それらすべてを、短い文で紙の上に並べた。列はばらつき、行はときどき逸れ、言葉はときどきたどたどしかった。だが、たどたどしさの中に、次の行の余裕が宿る。

 「殿の筆は、春を連れて来ます」

 煕子の声が、灯の明るさの外からそっと届く。

「春は、勝手には来ない。呼べば、織り目を見せながら近づく」

 光秀は紙に小さく、こう書きつけた。

――春は、呼ぶ者の背筋を見て、歩幅を合わせる――。


 外ではまた、湿った雪が屋根を重くしている。音はやさしく、重みは確かだ。重みを重ねる技は、戦より遅い。遅いがゆえに、長く残る。

 油皿の灯は小さい。小さいからこそ、消さずに持っていける。筆は乾かぬうちに蓋をされ、墨の香が薄く部屋に残った。

 光秀は横になり、目を閉じた。眠りは浅く、夢は短い。夢の中で、狭い門をくぐる自分の背筋だけが、くっきりと伸びていた。

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