第一話:兄と妹の、静かな時間
秋の気配が深まる頃、山奥の隠れ家はひっそりとしていた。
窓の外では、紅葉が始まった森が燃えるような色に染まり、風が木々を揺らす音が、静かな屋敷に響く。
ヴェラは暖炉の前で、摘みたてのハーブを乾燥させながら、兄ルシアンが訪れるのを待っていた。
彼の定期的な訪問は、ヴェラの隠遁生活における、唯一の外界との繋がりであり、最も心安らぐ時間だった。
コンコン、と、控えめなノックが響く。
「……どうぞ」
扉を開けると、そこに立っていたのは、いつものように上質な外套をまとったルシアンだった。
彼の顔には、王都での公務による疲れがにじんでいたが、ヴェラの顔を見ると、その表情はわずかに和らいだ。
「遅くなったな、ヴェラ」
ルシアンは、手土産にと持ってきた上等な茶葉と、街で流行しているという焼き菓子をテーブルに置いた。
彼が公爵家当主としての威厳を解き放ち、ただの兄に戻る瞬間を、ヴェラはいつも静かに見守っていた。
その変化は、まるで氷がゆっくりと溶けていくように、しかし確かな温かさを伴っていた。
「いいえ、お気になさらないでください、兄様。お変わりなく何よりですわ」
ヴェラは、ルシアンのためにハーブティーを淹れた。
湯気と共に立ち上る香りは、二人の間に流れる穏やかな空気を、さらに心地よいものにする。
「最近は、王都も落ち着いている。そちらはどうか?」
ルシアンの問いに、ヴェラは微笑んだ。
「ええ。森は穏やかで、魔物の動きもありません。私も、薬草の知識を深めたり、庭の手入れをしたりと、平和に過ごしています」
他愛のない会話。
しかし、その一つ一つが、かつての彼らには想像もできなかった、かけがえのない時間だった。
かつては家訓と義務に縛られ、感情を抑圧し合っていた兄妹の関係は、今や言葉以上の信頼と理解で結ばれている。
「そうか。……お前が安らかに過ごせているのなら、それでいい」
ルシアンは、ハーブティーを一口飲み、静かに呟いた。
その声には、深い安堵と、妹への愛情が滲んでいた。
彼は、ヴェラが人知れず世界を救い、その功績を誰にも知られることなく「悪役」として生きる道を選んだことを知っている。
だからこそ、彼女がこの隠れ家で穏やかに過ごせることこそが、彼にとって何よりも大切なことだった。
「兄様も、ご無理なさらないでくださいね。王都の政は、きっと大変なことも多いでしょう」
ヴェラが心配そうに言うと、ルシアンはフッと小さく笑った。
「ああ。だが、お前が救ったこの平和を守れるのなら、どうということはない」
暖炉の火が、パチパチと音を立てる。
その炎が、二人の顔を優しく照らしていた。
「……私は、この場所で、私の役割を全うしていますわ、兄様」
ヴェラの言葉に、ルシアンは静かに頷いた。
「ああ。そして、お前は、この世界で最も勇敢な英雄だ。誰が何と言おうと、私の自慢の妹だ」
ルシアンの言葉は、公には決して口にできない、彼自身の心からの本音だった。
彼は、ヴェラの「悪役」としての生き方を決して否定しない。
むしろ、その選択を尊重し、影から支え続けることを、固く心に誓っている。
静かな時間が流れる中、ヴェラはルシアンの隣で、温かいハーブティーをゆっくりと味わった。
この穏やかな時間が、彼女にとっての本当の「居場所」であり、兄との揺るぎない絆が、その居場所を何よりも確かなものにしているのだと、彼女は深く感じていた。