『薄れ逝く祖母の記憶』
です
まだ祖母は健在であるが、もう、私の事も解らなくなってきてしまっている。この話を聞いたのは今から10年位前になる。
その頃でも祖母は繰り返し同じ話をするようで、こちらから話題の分岐を振らないと繰り返し同じ思い出話をしていた。
祖母の話によると終戦間近な当時、祖父は東京無線という会社に居たらしい。
この会社は仕事先で知り合った人の話では軍部と阿漕な噂も多かった会社だったと知らされた。祖父は私が生まれる前、御袋がまだ独身の頃に他界しているので話しの真意は定かでは無いが噂が起つ位だから想像はできる。
祖母の話では祖父は帰宅して祖母に
「人がブラウン管に映った。」
などと、話して聞かせてくれていたらしい。しかし、いつの時代だったかは聞きだせずじまいになってしまった。
その頃、当時会社の疎開先で上手く行かないため祖父達がまかされる事となり、長野に転勤になったそうだ。長野では部落間の問題などで労働者が対立して会社が上手くいっていなかったようで、祖父の赴任でその人柄からか上手く解決したらしい。ただし大好きな旦那の悪口は言うわけも無いので話しの半分は美化されているのかもしれない。そして赴任先が一通り落ち着き家にも会社の人達が来るようになって来た頃、祖父は鹿屋航空基地の無線師として徴兵されたそうだ。祖母はこの話しを、耳にたこが出来るくらい繰り返し話してくれた。
「鹿屋航空基地というから、鹿島なら直ぐ近くだから爺さんの田舎のご実家に疎開すればたまには会いに行かれると思って疎開したら帰ってきたら「鹿児島だあ。」って言われちゃった。」
と繰り返し話してくれた。
祖母の話によると、出兵後まもなく長野では大空襲があるともっぱらの噂が立ち、それと先程の話の勘違いから、姉弟三人乳飲み子まで居る中、茨城の美和村と言う水戸の奥にある祖父の実家を目指したそうだ。折角、祖父が食うに困らぬ様にと蓄えた物を一切捨て出てしまったそうだ。帰ってきた祖父に嫌味を言われたらしい。
たぶんこの工程にも様々なドラマがあったのだろうが聞き出せずじまいになってしまった。
ご実家に着くとそこは、
「頭に虱だらけの祖母さんとじいさま夫婦がおもらいさんみたいな服を着て居たんだ。だから部屋を掃除して婆さん綺麗にして大変だった。そしたらそのうち子供上二人が泣き出して。「お家に帰ろう、お家に帰ろう。」って言いだすから「此処がお家だがね。」と何度も言い聞かしたんだ。」
と。これも口がすっぱくなるほど聞かされた。
終戦が近づくと祖父は、隊長に呼ばれて
「国に帰りたいか?。」
と聞かれ、
「はい。」
と答え帰されたらしい。
この時は荷物を抱え長野に向かったのか?、はたまた美和へ向かったのか?終戦を移動中に知ったのかは?不明である。
この頃祖母は、じ根の張った石ころだらけの未開墾の猫の額にもならない土地と格闘していたらしい。
「「あんたがいくら丹精でっもこの土地は使い物にならんからやめな。」って言われたけど、東京から来た嫁だって村中が見てたから、なにくそ!って意地で頑張ったんだ。」
と祖母曰く、大工で飲んだくれの父親夫婦と祖母、子供達を抱えながら毎日あくせく働いたようだ。後年前出の方が倒れたので見舞いに行くと
「畑にしたそうだな。」
と褒めて貰ったらしい。
祖父の帰郷後、東京に出ると言った祖父を田舎の郵便局員にさせ祖母は教育ママゴンの走りとして娘は二人高校に行かせ、一人息子は日大に進学させた。
戦争中から戦後の話はこれぐらいであるが、この後、祖母は祖父の他界後多摩ニュータウンにマンションまで持ってしまった。因みに末っ子だった事も記載させてもらい、終わりにしたいと思う。戦中、戦後。そして平成まで生きてきた女の意地を少しでも感じてもらえたら幸いである。
はい