私の役割は、ここまでで充分なんだ。
猫は全力で走ると、時速48kmのスピードが出るという。
一般人より足の速いマラソン選手でさえ平均的な速度は時速24km前後と言われており、その速さは倍ほどである。
ネコ科生物の遺伝子が含まれた『ヌーベル』であるユウリの脚も、それだけの速さを備えていた。
逃げる眼鏡の男性へ一気に追い付くユウリ。
男性もその存在に気が付き、逃げ切れないと判断する。
「だあっ!」
振り返った男性に対し、踵でブレーキをかけながら拳を放った。
が、しかし。
ぶつかった場所が僅かに歪んだだけで、ユウリの拳は男の体をすり抜けてしまう。
まるで男が、ホログラム映像と化しているかのように。
「ええっ!?」
「僕に物理攻撃は、通用しない。」
驚くユウリにそう告げた男は、ユウリの手首を掴んで捻る。
体を傾けながら、ユウリは手首の痛みに耐えた。
「いたたたた!?」
前腕の内側にある神経が引っ張られるような感覚に、思わず歯を食いしばるユウリ。
解放され、手首を振りながら前方を向き直した彼女は目を丸くした。
「あれ?」
気付けば、男の姿は無くなっていた。
痛む手首に意識が向いたその一瞬で、男はその場から消え去ったのだ。
周囲を見回しても、見つからない。
しかしその直後、ユウリは再び走り出した。
男が見えなくても、居場所が分かるのだ。
猫の嗅覚は人間の一万倍から十万倍ほど存在すると言われている。
男の匂いを覚えた彼女にとって、追跡など容易い。
見えない逃亡者を追い続けるユウリ。
住宅街へ差し掛かろうとした所で、再び男が姿を現した。
苛立ちを隠せないように、しかめっ面で眼鏡を持ち上げる。
「全くしつこいですね.....。何があなたを、そこまで動かすんですか。」
「私を育ててくれたのは、警察の人達だから。」
「.....そうですか。」
ユウリの回答が何であろうが、男にとってどうでも良かった。
いずれにせよ、ここで片付けるつもりであったから。
「その耳に、その手足....恐らく、ネコ型亜目の生物の遺伝子が混ざったヌーベルといったところですかね。...僕の能力に、勝てるような能力者では無さそうだ。」
眼鏡の男はそう呟くと、再び姿を消した。
ユウリの嗅覚はある程度の位置を把握する事は可能ではあるものの、手の形や足の位置など、細かい部分は分からない。
そしてそれは、格闘戦において致命的である。
「ッ!」
横方向から男が出現。
構えてはいたものの、拳に反応できず腹部に直撃。
痛みで一瞬、体を折り曲げた所にハイキックが放たれる。
叩き付けられるような蹴りを食らい、ユウリは二、三転がった。
「ぐっ!」
猫は人間に比べて骨の数が多く、鎖骨が存在しない。
よって柔軟に姿勢を変えられることができ、『頭の通る場所ならどこでも通れる』とまで言われるほど。
その特性は、ユウリにしっかりと刻み込まれていた。
男にハイキックを叩き込まれたにも関わらず、ボールが跳ねるように軽々と転んだ後、着地。
通常の人間が受けるダメージを、数分の一まで抑えたのだ。
しかし、男の攻撃がそれで止まるわけではない。
「だったら、こっちから!」
男が消え、背後から匂いが出現。
実体化したその瞬間を狙い、背後を振り返って拳を放った。
拳は男の胸をまっすぐ貫通する。
と言うよりも、先程と同様にすり抜けた。
男が放った蹴りを回避し、素早く背後に飛び退く。
「言ったじゃないですか、僕に物理攻撃は効かないと。」
「実体化した瞬間に殴っても効かないなんてね.....。」
顎に伝った汗を拭い、ユウリは困ったように呟いた。
物理攻撃が効かないとなれば、超能力も魔術も持たないユウリに勝ち目は無い。
しかし、ユウリはそれを理解した上で。
この男と戦闘を続ける事を、選択したのだ。
殴り、蹴り、全てをすり抜け、的確なカウンターを放つ眼鏡の男。
これだけやっても諦めようとしないユウリを学習しない馬鹿であると決め付けていた彼に、一筋の違和感が走る。
「...いくらやっても一緒ですよ。理解頂けませんか?」
「確かに、私じゃアナタを倒す事はできないみたいね。」
「理解って頂けたなら結構。もう付きまとわないで貰いたい。無駄ですので。」
先ほど感じ取った違和感から離れるように、男は早々に会話を切り上げ背を向けた。
そのまま立ち去ろうとする男に、ユウリが言葉を放つ。
「私の役割は、ここまでで充分なんだ。」
ユウリの言葉に、男が立ち止まった。
振り返った男の顔面に、凄まじい突風が叩き付けられる。
地面が激しく削れる音と共に、チミーが現れたのだ。
秒速約29万9千8百キロメートル。
理論上、光の速さまで移動できるチミーが二人へ追い付くには、ほんの1秒もかからなかった。
男の匂いを追跡するユウリのエネルギーを、チミーが追ってくるだろう。
ユウリは何となく、そんな直感がしたのだ。
まさに『野生の勘』というやつである。
「よかった〜、来てくれるような気がしたんだ!」
「お疲れ様。ここからは私に任せて!」
安堵の表情を浮かべるユウリを労いつつ、チミーは男に向かって構えを取った。
瞬間移動に近いスピードで現れた、新たな相手。
眼鏡の男は本能的に、チミーを危険であると判断する。
気付けば防御の姿勢を取っていた自分に呆れるように、ため息を吐きながら眼鏡を持ち上げた。
「 全く、厄介なのが現れたみたいですね....。」
「らァッ!!」
いきなり拳を振り上げ、男の顔面へ拳を放ったチミー。
とんでもないスピードのパンチだったが、物理攻撃をすり抜けられる男には通用しない。
手首を掴み、男が反撃する。
「うおっ!」
左、右と頭を振って素早く回避したチミーは自身の手を掴む男の手首を掴み返そうと、反対の手を伸ばした。
しかし、まるで砂を触ったかのように、手は男の手首をすり抜け、触れられない。
「チミーちゃん、そいつは殴ることも蹴ることも、掴むこともできない!」
「.....なるほどねぇ。」
ユウリの言葉を、チミーは理解したように呟いた。
眼鏡の男から距離を取り、ゴーグルを額の上まで持ち上げる。
ゴーグルの下に隠れていた翡翠色の眼が、男の持つ『エネルギー』を見た。
一見すると、通常の人間とほとんど変わらない反応。
しかし、そこに僅かな違和感がある事を、チミーは見逃さなかった。
端の部分をよく見ると、粉のように小さな粒状のエネルギーが漂っている。
彼の肉体は一つではなく、その粒状のエネルギーの群体となっていたのだ。
ニヤリと笑みを浮かべ、ゴーグルを下ろす。
理解できた安心感から僅かに痒くなった頭を掻きながら、チミーは男の能力を看破した。
「その体、一つ一つの小さな部品が集まって構成されてるね。『砂』とか『粉』とか、その辺りかな?ま、いずれにせよアンタに勝ち目は無いね。」
チミーにとって、男の能力が何なのかはどうでもいい。
ただ、『エネルギーを持っているか』さえ分かれば。
チミーは『永遠なる供給源』を発動。
男に向かって手を向けると、男の耳に掛けられていた眼鏡が震え始め、吸い寄せられるように離れる。
飛んできた眼鏡を右手で掴んだチミーは、左拳を握りつつ男に歩み寄った。
また、殴るつもりか。
だが物理攻撃は効かないはず。
僕の能力は『粒子化』だ。
全身を細かく分けられ、自在に形を変えられる。
男はそう考えていた。
しかし、そんなものはチミーにとって、何の問題も無いのだという事を、直後に知る事になる。
「おらァッ!!」
顔面の骨が砕けたかと錯覚するほどの平手打ちが炸裂。
『重症にならない程度』かつ『最大限の威力』として調整されたチミーの平手打ちは、痛みさえ置き去りにするほど脳をかき混ぜる。
ぐらぐらと頭が揺れる感覚の奥に、じわじわと骨の軋む痛みが漏れ出て来た。
『体を粒子化させる能力』だろうとチミーには関係ない。
『その粒子が持つエネルギー』を操り、固めてしまえば良いだけだからだ。
粒子の拡散を封じられた状態の彼は、普通の人間と何ら変わらない。
そして普通の人間は、殴られると物凄く痛い。
「なっ.....」
言葉を発しようとするも、意識が間に合わなかった。
平手打ち一発で意識が朦朧とし始めた男の顔に眼鏡をかけ直すと、チミーは彼がサイドポケットに入れていた『宝珠』入りの黒い球を取り出す。
『宝珠』の奪還は、成功した。




