私と蜂
なんの前触れもなく、胸元から、一匹の蜂が飛び出した。
「え?」
その瞬間を、私はたしかに見た。ウォーキングの最中だった。若草色のTシャツの胸元から飛び出したそれは、小柄で、黄金色に焼けていて、それから少し、脚が長かった。
蜂はその場に留まることも、もちろん振り返ることもせず、前だけを向いて飛び去っていった。お先に、とでもいうように、ささやかに羽を震わせながら。
私は恐ろしい気持ちになった。
あなたは蜂が好きですか、それとも嫌いですか。
そう問われたら、私は迷うことなく「嫌いです」と答えるだろう。ただそれは大雑把な真実で、実際、私は蜂が嫌いというより、蜂が怖いのだ。
あなたは蜂をどう思いますか、と問われたら、私は間違いなく「怖いです」と答えるだろう。
私にとっての蜂は、他の追随を許さないレベルの“攻撃者”に分類される。
その姿を見かけると、脳が即座に警鐘を鳴らすのだ。逃げろ、と。
こちらが手出ししなければ襲ってこないのに、などと百万回言われようとも、私の意識は変わらない。蜂は怖い。遺伝子レベルで蜂を恐れている可能性すらある。
その蜂が、私の胸から飛び出していっただと?
私は恐ろしい気持ちになった。
比類なき“攻撃者”が、私の胸から飛び出していったという、その事実に。
あの蜂は、きっとなにかを、誰かを襲いに行ったのだ。私の代わりに。きっとそうに違いない。
ではいったいなにを、誰を?
さんさんと日の光が降り注ぐなか、私は一人、後ろ暗さに立ち尽くす。真昼の太陽は足元に小さく丸い影をつくる。からだの横を、風がざあざあ通り抜ける。
「え?」
蜂は私がこれから進むはずの方向へ、すいと飛び去った。姿はもう見えない。
終