破棄れメロス
メロスは激怒した。
必ず、かの邪智暴虐の婚約者の悪役令嬢を除かなければならぬと決意した。
メロスには政治がわからぬ。
メロスは、この国の王太子である。
笛を吹き、側近と遊んで暮して来た。
けれども(自分から見て)邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
今日未明、メロスは王都を出発し、野を越え山越え、十里を回ってこの王都に戻って来た。メロスには馬車も、馬も無い。そもそも馬に乗れない。
十六の、内気だがイエスマンな妹だけが頼りだ。
この妹は、国の或る律気な侯爵家の次男坊を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近なのである。メロスは、それゆえ、侯爵家からご祝儀をせしめたり御馳走をねだったりするため、はるばる侯爵領に行こうとして迷って戻って来たのだ。
先ず、王宮の貴族からご祝儀をたかり、それから王都の大路をぶらぶら歩いた。
メロスには竹馬の友がいた。セリヌンティウスである。今はこの王都で、大公をしている。
その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。
久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。
歩いているうちにメロスは、王都の様子を怪しく思った。ひっそりしている。
もうすでに日も落ちて、街が暗いのは当り前だが、けれども、何だか、夜のせいばかりではなく、王都全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になってきた。
道で会った若い衆を捕まえて、何かあったのか、二年前の建国三百年記念大祝祭のときは、夜でも皆が歌をうたって、王都は賑やかであった筈はずだが、と質問した。
若い衆は、首を振って答えなかった。
しばらく歩いて老爺に会い、今度はもっと、語勢を強くして質問した。
老爺は答えなかった。
メロスは両手で老爺の体をゆすぶって質問を重ねた。
老爺は、あたりをはばかる低声で、わずかに答えた。
「王太子様は、人から金を巻き上げるのだ」
「なぜ巻き上げるのだ」
「ジャンプしたら金の音がするから、というのですが、誰もそんな、小銭ばっかり持ってるワケではありませぬ」
「たくさんの金を巻き上げたのか」
「はい、はじめは王様の妹婿様から。それから、御自身の弟君から。それから、イエスマンの妹様からも。それから、妹様の妹様からも。それから、王妃様からも。それから、賢臣のアレキス様からも。あとさらに――(etc、etc……)」
「おどろいた。王太子は乱心か」
「いいえ、乱心ではございませぬ。遊ぶ金欲しさ、というのです。この頃は、臣下の財布をも、お狙いになり、少しでも金の匂いをさせている者には、人質ひとりずつ差し出すこと(身代金支払いによって免除可)を命じております。ご命令を拒めば十字架にかけられて、目の前で豪華なフルコースを食べる様を見せつけられます。今日は、六人がフルコースの香りに泣かされました」
聞いて、メロスは激怒した。
「呆れた王太子だ。裏で操っている悪役令嬢がいるに違いない。生かして置けぬ」
メロスは、王太子本人であった。
だから自分を黒幕である悪役令嬢に仕立て上げる決意をした。
巻き上げた金を背負ったままで、のそのそ王城に入っていった。
たちまち彼は、門番の兵士に勘弁してくださいと泣きを入れられた。
謝られて、メロスは懐から短剣を取り出したので、騒ぎが大きくなってしまった。
メロスは、婚約者の公爵令嬢の前に引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」
王太子の婚約者のディオニスは静かに、けれども威厳をもって問いつめた。
その公爵令嬢の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「王都を王太子の手から救うのだ」
とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」
公爵令嬢は、憫笑した。
「仕方の無いやつじゃ。私には、おまえの狂気の論理がわからぬ」
「言うな! 私はおまえのせいにすることにした!」
とメロスは、いきり立って反駁した。
「人の金を使うのは、最高の快楽だ。公爵令嬢は婚約者なのにわかっておられぬ」
「わかってたまるかというのが、正当の心構えなのだと、私に教えてくれたのは、おまえだ。王太子は、あてにならない。王太子は、元々私欲の塊さ。信じては、ならぬ。」
公爵令嬢は落ち着いて呟き、ほっと溜息をついた。
「私だって、平和を望んでいるのだが」
「何の為の平和だ。自分の地位と財産を守る為か」
今度はメロスが嘲笑した。
「罪の無い人から金を巻き上げて、何が平和だ!」
「おまえだろ、下手人」
公爵令嬢は、さっと顔を挙げて報いた。
「口では、どんな言い訳でも言える。私には、おまえの腹の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、今に、私から婚約破棄されて泣いて詫びたって聞かぬぞ」
「ああ、公爵令嬢は悪役だ。自惚れているがよい。私は、もう今にも婚約破棄する覚悟でいるのに。おまえと結婚など決してしない。ただ――」
と言いかけて、メロスは足もとに視線を落とし瞬時ためらい、
「ただ、私も無情というワケではない。婚約破棄まで三日の猶予を与えてやってもいいぞ。たった一人の妹に、あと一回だけお金を借りに行きたいのだ。三日のうちに、私はお金を借りてここに戻ってきてやる。だから私を逃がせ」
「ばかな」と公爵令嬢は、嗄しわがれた声で低く笑った。
「とんでもない嘘を言うわ。それが最後の一回なワケがないだろう」
「当たり前だ。永遠にたかり続けてやる」
メロスはあっさり認めた。
「だが私は今回だけは約束を守るぞ。私を今見逃せば、三日後に戻ってきて婚約破棄を宣言してやる。したいだろう、婚約破棄。公爵令嬢側からはできないもんなぁ? しかし、それでも私を信じられないならば、よろしい、王宮にセリヌンティウスという大公がいる。私の金づるでおまえのいとこだ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮れまで、ここに帰って来なかったら、代わりにあいつをあまりにも無残なはりつけ、火炙り、市中引き回しの上、打ち首獄門の刑に処してしまえ。むしろ処せ。私は金を返さないためにも。たのむ、そうしてください」
それを聞いて公爵令嬢は、信じられない気持ちで、普通にドンビキした。
恐ろしいことを言うわ。どうせ帰ってこないに決まっている。
この嘘つきにだまされたフリをするとか、亡国一直線すぎて乾いた笑いしか出ない。
そうして身代りの大公を、三日目に殺せと言うとか王太子ヤバイ。マジヤバイ。
だから公爵令嬢は、三日経ったら王太子は信じられぬと悲しい顔して世論に訴えて、その身代りの大公を次の婚約者にしてやる流れを作るつもりだ。
世の中の、王太子廃嫡推進派(もうすぐ主流派閥)に見せつけてやりたいものだ。
「願いを、聞いたわ。その身代りを呼ぶがいい。三日目には日没までに帰って来い。遅れたら、その身代りを次の婚約者にするぞ」
「え、殺さないの?」
「誰も彼も、おまえみたいな真性のクズじゃないんだよ」
「メロスは激怒した! 必ず、かの邪智暴虐の悪役令嬢を除かなければならぬと――」
「ちょっと遅れて来るがいい。おまえの借金は私の名義で帳消しにしてやろうぞ」
「…………(長考)。…………(さらに長考)。何をおっしゃる」
「はは。今、遅れちゃおうかなって少し思っただろ。おまえの心は、わかっているぞ」
メロスは口惜しく、地団駄を踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。
公爵令嬢ディオニスの面前で、王太子のクズとバカ大公は、二年ぶりに会った。
メロスは、大公に一切の事情を語った。
セリヌンティウスは無言でうなずき、メロスをひしと抱きしめた。
クズとバカの間は、それでよかった(主にクズ側の都合が)。
セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。
初夏、満天の星である。
メロスはその夜、十分に眠り、十里はあると豪語してた侯爵領までの道(歩いて三時間程)を休みに休んで、侯爵領へ到着したのは、あくる日の午前、陽は既に高く昇って、市民達は王太子に目をつけられないよう、揃って俯きながら仕事を始めていた。
メロスのイエスマンの妹も、今日も兄の代わりに市民から金をせびっていた。
適当にたかる相手を見繕っている兄の、婚約破棄を決意する姿を見つけて驚いた。
そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。
「なんでもない。ただちょっとあの公爵令嬢が――」
メロスは無理せずに妹に全てブチまけて、その責任を公爵令嬢になすりつけた。
「王都に婚約破棄の用事を残して来た。またすぐ王都に行かなければならぬ。明日、おまえの結婚式を挙げる。別に早くなくてもよかろうが、領民に逃げる時間は与えぬ」
妹は頬をあからめた。
「うれしいか。綺麗な衣装も(せびった金で)買ってきた。さあ、これから行って、領民達に知らせてこい。結婚式は、明日だと。ご祝儀を出さねば極刑に処すと」
メロスは、また、よろよろと歩き出し、侯爵家へ上がり込んで神々の祭壇の供物を漁り、祝宴の席をしつらえ、そのままに床に寝っ転がって深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。
メロスは起きてすぐ、花婿の部屋を訪れた。
そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。
侯爵は驚き、それはいけない、こちらにはまだ何の仕度も出来ていない、来月まで待ってくれ、と答えた。
メロスは、待つことは出来ぬ。明日にしなければ極刑、とさらに押して頼んだ。
だが侯爵はアダマンタイト並に頑強であった。物理的攻撃は通じまい。
だからメロスは袖の下を贈る策に出た。
夜明けまで賄賂の交渉を続け、やっとどうにか婿を脅し、震え上がらせ説き伏せた。
結婚式は、真昼に行われた。
新郎新婦の、神々への宣誓が済んだ頃、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて侯爵領を飲む込むような大雨となった。
祝宴に列席していた領民達は、メロスがいるからだと確信していたがが、それでも、極刑に処されるのを恐れて、広い式場の中でメロスのご機嫌を窺いつつ、陽気に歌をうたい、手を打った。
メロスも、満面に喜色を湛え、しばらくは、婚約者とのあの約束をさえ忘れていた。
祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。
この流されやすい連中に生涯寄生して暮らしていきたいと願ったが、今は、婚約破棄できるかどうかの瀬戸際である。ままならぬことである。
メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。
明日の日没までには、まだ十分時間がある。
ちょっと一眠りして食事して賭場行って娼館行ってハッスルしてひと眠りして食事して賭場行って娼館行ってハッスルして、それからすぐに出発しよう、と考えた。
その頃には、雨も小降りになっていよう。
少しでも長く、妹を口実にしてこの家でただ飯を喰らったりしたかった。
メロスほどの男にも、やはり未練の情というものはある。
今宵呆然、深酒に酔っているらしい花嫁に近寄り、
「おめでとう。私は急用思い出したから、ちょっと今回の結婚式の費用の支払いを侯爵家に頼んでおいてくれ。これからすぐに王都に戻る。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、とことんまで吸いつくしてやれ。おまえの兄の、一番嫌いなものは、金を払うことと、それから、金を払うことだ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に共有資産とか作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、偉大で優しいイケメンなのだから、おまえもその誇りを持っていろ」
花嫁は、夢見心地でうなずいた。しかし酔っているので1%も理解していない。
メロスは、それから花婿の肩を叩いて、
「選択肢が無いのは王家じゃないからさ。私の家に、投資する権利をあげよう。さぁ、有り金全て出すんだ。メロスの弟になったことを誇って、今後も投資してくれ」
花婿は揉み手して照れた。こいつはバカだ。いい寄生先だとメロスは思った。
メロスは笑って領民達にも会釈して、宴席から立ち去り、せめて一度だけと思って賭場に潜り込み、侯爵家で巻き上げた金を全てスッて、ヤケになって深く眠った。
眼が覚めたのは翌日の薄明の頃である。
メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。片道三時間だし。
今日は是非とも、あの悪役令嬢に、人の信頼の意味するところを見せてやろう。
そうして笑って磔の台に上がってやる。メロスは、悠々と身仕度を始めた。
雨も、いくぶん小降りになっている様子である。
身仕度はできた。
さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
王都とは逆方向へ。
私は、今宵、婚約破棄をする。
婚約破棄をするために走るのだ。身代りの大公の死を無駄にしないために走るのだ。
王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。
そうして、大公が死んだあとで妨害された風を装って公爵令嬢に濡れ衣を着せるのだ。
さらば、ふるさと。明日には帰るから。
若いメロスは、辛かった。今日は王都の飯屋が大盛り半額の日だったからだ。
幾度か、立ちどまりそうになった。
というか立ち止まった。
あれ、そういえば死なないんだっけ、大公。というのを思い出していた。
何ということだ、じゃあ、寄生先を変えられないじゃないか。
妹婿の侯爵家は極めて有望な寄生先であるだけに、悪役令嬢への怒りが募った。
メロスは激怒した。
再び、かの邪智暴虐の悪役令嬢を除かなければならぬと決意した。
えい、えいと大声あげて空想の中の公爵令嬢を叱りながら走った。
侯爵領を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、王都の隣の領地に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。
メロスは額の汗を拳で払う。ここまで来れば大丈夫、もはや侯爵領への未練は無い。
妹達は、きっと(妹にとって都合の)よい夫婦になるだろう。
私には、いま、なんの気がかりも無いはずだ。
まっすぐに王都から離れれば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。
ゆっくり歩こう、と持ち前のクズさを発揮し、好きな小歌をいい声で歌い出した。
ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全行程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、メロスの足は、はたと、止まった。
「見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔と下流に集まり、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。私は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺め回し、また、声を限りに呼び立ててみたが、繋舟は残らず波に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、膨れ上がり、海のようになっている。私は川岸にうずくまり、男泣きに泣きながら神に手を挙げて哀願した。『ああ、鎮しずめたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王都に行き着くことが出来なかったら、あのよい友達が、私のために死ぬのです!』」
と、メロスは河原に腰を下ろしてブツブツ呟いていた。
早く時間経て、早く時間経て。
彼が願うのはそればかりである。呟いているのは、言い訳の予行練習であった。
メロスが時間を気にするのには理由がある。
彼は王都にギリギリ間に合わない程度の時間に戻る必要があるのである。
自分は必死に走った。しかしかの邪智暴虐の悪役令嬢の妨害にあった。
そのおかげで間に合わなかった事実(100%虚偽)を公表し、悪役令嬢に婚約破棄を叩きつけるのだ。
次に悪役令嬢と大公が裏で繋がっていた事実をでっちあげ、大公に非業の死を遂げてもらわねばならない。
悲しいことだが、侯爵家の方が寄生先として優良物件なのだから仕方がない。
「濁流は、私の叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。波は波を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今は私も覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。私は、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う波を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。私は馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時――」
呟き続けていると、突然、目の前に一隊の兵士達が躍り出た。
「待て。まばたきせずブツブツ言うな。気味が悪い」
「何を言うのだ。私は陽の沈まぬうちに王都へ行かなければならぬ。放せ」
放す以前にメロスは捕まっていない。
「さっさと行けよ」
しかも兵士は、むしろメロスに王都行きを勧めた。
「ああ、行かねばならぬ。行かねばならぬというのに何故放さぬ。放せ、放せ」
しかしメロスには聞こえていなかった。見えていなかった。
このメロス、生来目が見えぬ。といった感じに五感を閉ざしていたからだ。
「私に命の他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。何だと『その、いのちが欲しいのだ』だと!?」
「言ってない、言ってない。王太子の命とか劇物すぎていらない。怖い」
かぶりを振る兵士達の感性は極めて真っ当だといえた。
「さては、悪役令嬢の命令で、ここで私の妨害をするつもりだな!」
「逆。王都まできっちり案内しろって」
だがメロスは、ものも言わず一息に棍棒を振り上げた。
いきなりの攻撃態勢に兵士達がビクっとしたので、メロスはひょいと体を折り曲げ、飛鳥の如く身近の一人に襲いかかり、その棍棒で全力で振り回して、
「気の毒だが正義のためだ!」
と、猛然一撃。
たちまち、全員を殴り倒し、意識ある者にトドメを刺して走って峠を下った。
無論、兵士達から金品を巻き上げることは忘れていない。
メロスはクズである。
自分の得になることに対しては殊更異様に鼻が利くクズである。
一気に峠を駆け下りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩いて、ついに、がくりと膝を折った。
嘘である。全てメロスの脳内における描写である。
陽射しはとても快適で、ゆるやかに流れる風が頬に気持ちがいい。
立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。
ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情けない。
愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。
おまえは、稀代の不信の人間、まさしく悪役令嬢の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎なえて、もはや芋虫いもむしほどにも前進かなわぬ。
勿論、嘘である。これもまたメロスの脳内で展開された描写である。
がんばれがんばれ、私がんばれと自分を叱咤しながら、メロスは水筒の紅茶を飲んだ。
そして路傍の草原にごろりと寝ころがった。
身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐ふてくされた根性が、心の隅に巣喰った。
あー、仕方ないなー。頑張ったけど仕方ないなー。
疲れたし、暑いし、体力削られ切って無理だもう動けぬ。ピクリとも。
私は、これほど努力したのだ。
約束を破る心は、微塵も無かった。
神も照覧、私は精一杯に努めて来たのだ。
動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。
ああ、できる事なら私の胸を断ち割って、真紅の心臓をお目にかけたい。
愛と真実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。
でもなー、無理だわー、だって心臓見せちゃったら私死ぬもんなー。
ッかー、残念! 見せたいのになー、超見せたいのになー!
一目見てもらえれば私が愛と真実の人間って絶対信じてもらえるのになー!
けれども私は、この大事なときに、精も根も尽きたのだ。
私は、よくよく不幸な男だ。
私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。
つまり不敬罪祭りの始まりだ。
私の一家笑ったヤツは反動分子だ、即時極刑確定だ。
おお、何という有能王太子。
怠惰を貪るフリをして、地下に潜む潜在的反逆者をいぶりだすなんて。
でも、途中で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。
ああ、もう、どうでもいい。これが、私の決まった運命なのかも知れない。
どうでもいい。もうどうでもいい。
明日から本気出すから、今日はもうどうでもいい。
セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。
君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。
ただ、ちょっと寄生して、利用して、疲れたから見捨てるだけだ。
私達は、本当によい友と友であったのだ。
一度だって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。
今だって、君は私を無心に待っているだろう。
ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。
よくも私を信じてくれた。
そこまでバカなおまえだから、私は笑って見捨てることができるのだ。
それを思えば、たまらない。
友と友の間の信実は、この世で一番誇るべき宝なのだからな。
セリヌンティウス、私は走ったのだ。
君を欺くつもりは、微塵も無かった。信じてくれ!
私は急ぎに急いでここまで来たのだ。
濁流を突破した。(妄想)
兵士の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。(暴走)
私だから、出来たのだよ。
ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。
どうでも、いいのだ。
私は負けたのだ。だらしがない。笑ってくれ。いや、笑ってしまうわ。
悪役令嬢は私に、ちょっと遅れて来い、と耳打ちした。
遅れたら、悪役令嬢名義で私の借金を肩代わりしてくれると約束した。
私は悪役令嬢の卑劣を憎んだ。
けれども、今になってみると、肩代わりしてくれるならいいかと思っている。
私は、遅れて行くだろう。
悪役令嬢は、一人合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。
だがきっちりと借金の肩代わりはしてもらう。
婚約破棄はできないが、まぁそれはそれ。次の機会を虎視眈々と狙うのみ。
大体、あの女は真面目過ぎるのだ。
国民なんてどっかから生えてくる不思議な生き物なのだから、利用するだけ利用し、搾取するだけ搾取して、枯れ果てたら次の国民に替えればいいだけではないか。
しかし、もし借金ができなくなったら、私は、死ぬより辛い。
だから今回はあの女に花を持たせてやって、借金返済を代わりにやってもらおう。
婚約破棄はそのあとだ。
私は、永遠の勝利者だ。地上で最も、名誉ある人種だ。だって王太子だし。
セリヌンティウスよ、私は死なんぞ。君は一人で死んでくれ。
あ、死なないんだっけ。まぁいいや。
今となってはどうでもいい。私が本気を出すのは明日からだ。今日ではない。
君だけは私を信じてくれるに違いない。
いや、それも私の、独り善がり――、って私は王太子だ、私が善に決まっている。
ああ、もういっそ、悪徳者として生き延びてやろうか。
王都には私の家がある。家臣もいる。妹夫婦は、まさか私を告発するようなことはしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。
人にたかって私が生きる。
それが私が定めた世界の真理ではなかったか。
ああ、何もかも、バカバカしい。
私が神だ。私以外のことなどどうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな。
四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、水の流れる音が聞えた。
そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。
すぐ足もとで、水が流れているらしい。
よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目からこんこんと、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。
水を両手ですくって、一口飲んだ。
ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。
泉は回復ポイントだった。
何ということだ、疲労が回復してしまった!
歩ける?
行ける?
肉体の疲労回復と共に、わずかながら希望が生じた。
義務遂行の希望である。我が身を殺して、名誉を守る希望である。
斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。
日没までには、もう間もない。
つまり、そろそろギリギリ間に合わない演出をするのに丁度いい時間だ。
私を、待っている人があるのだ。
少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。
私は、信じられている。
セリヌンティウスの命なぞは、問題ではない。
死んでお詫び、などと言ったところでやるはずがないので言わない。
だが私は、ギリギリ間に合わないタイミングに合わせる必要があるのだ。
いや、いっそ間に合ってしまってもいい。
その場合は、あの小うるさい公爵令嬢から解放される。晴れて婚約破棄だ。
待つんだ、メロス。
いっそではなく、今からでも間に合うように走るべきではないだろうか。
過去ではない、今でもない、目を向けるべきは未来なのではないか。
あの、メロス的に見て暴虐邪智なる悪役令嬢を婚約者のままにしていいのか。
ならぬ、それだけはならぬ。将来的に見て、絶対尻に敷かれる。
ならばこの婚約破棄は、絶対に成立させねばならぬ。私は今、真実に至った。
婚約破棄を達成する。いまはただその一事だ。破棄れ! メロス。
私は私を信頼している。私は私に信頼されている。私以外はどうでもいいのだ。
私が定めた真実こそが世界の真実、私が悟った真理こそが世界の真理。
先刻の、あの私自身からの囁きは、あれは夢だ。今後叶えたい夢だ。
忘れたらいけないぞ、借金は肩代わりしてもらって、のち、侯爵家に寄生するのだ。
メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。
再び立って走れるようになったではないか。ありがたい!
私は、正義の王太子として婚約破棄ができるぞ。
ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。
待ってくれ、神よ。私は生まれたときから正直な男であった。
正直って美徳だろ? 助けろよ、神だろ?
助けて見せろよ、この自分に真っ正直な愛と真実の王太子メロス様をよぉ!
道行く人を押しのけ、跳ね飛ばし、メロスは黒い風のように走った。
野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駆け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。
一団の旅人とさっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。
「今頃は、あの男も、磔にかかっているよ」
ああ、セリヌンティウス。どうでもいや。
私のために私は、今こんなに走っているのだ。その男の生死は、その、別に。
急げ、メロス。遅れてはならぬ。
自分の悪事の責任を公爵令嬢になすりつけて婚約破棄したい。
その、愛と誠と真実の願いの力を今こそ思い知らせてやるがよい。
風体なんかは、どうでもいい。
メロスは、いまは、ほとんど全裸であった。ごめん、ほとんどじゃなく全裸。
呼吸も出来ず、二度、三度、ケツから血が噴き出た。
見える。遥か向こうに小さく、王都の入り口の巨大アーチが見える。
巨大アーチは、夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああ、メロス様」
うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ!」
メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。あなたのお友達のこの国の大公セリヌンティウス様の部下でございます」
「つまり、誰だ!」
「だから、フィロストラトスでございます。あなたのお友達のこの国の大公セリヌンティウス様の部下でございます」
だからと言われても、初対面なので知らなかった。
その若い貴族は、メロスのあとについて走りながら叫んだ。
「フィロストラトスでございます。あなたのお友達のこの国の大公セリヌンティウス様の部下でございます。フィロストラトスでございます。あなたのお友達のこの国の大公セリヌンティウス様の部下でございます。フィロストラトスでございます。あなたのお友達のこの国の大公セリヌンティウス様の部下でございます。フィロストラトスでございます。あなたのお友達のこの国の大公セリヌンティウス様の部下でございます。フィロストラトスでございます。あなたのお友達のこの国の大公セリヌンティウス様の部下でございます。そろそろ覚えていただけましたでしょうか?」
「つまり、誰だ!」
メロスは物覚えが悪かった。
「名も無きモブその1でございます」
フィロストラトスは諦めた。
「そうか、フィロストラトスか!」
「何故諦めたら覚えていただけるのですか、嫌がらせございますか?」
フィロストラトスの表情がものすごいことになった。主に憤怒って感じの。
「ところで、何だ!」
「あ、はい、そうでございました」
走るメロスに、走るフィロストラトスが用件を思い出して告げる。
「もう、駄目でございます。無駄でございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方かたをお助けになることは出来ません」
「あの方って、誰だ!」
「え?」
「え?」
フィロストラトスが立ち止まった。メロスも立ち止まった。
「あの方は、大公セリヌンティウス様ですが」
「………………?」
メロスは眉間にしわを寄せて首を捻り、腕を組んで考えこんだ。
セリヌンティウス、セリヌンティウス……?
そういえば、少し前に記憶から切り捨てた過去の寄生主がそんな名前だったよーな。
「ちょうど今、あの方が日が暮れるところです。ああ、あなたは遅かった。お恨み申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「ミルコ・クロコップ」
「フィロストラトスでございます。わざと? わざとでございますか?」
「いや、すまないフィロストラトス。ところで、聞きたいのだが」
「何ですか、ここからまた走るのならやめてください。もうやめてください。今はご自分の身が大事です。あの方は、あなたを信じておりました。刑場に引き出されても、平気でいました。令嬢様が、さんざんあの方を慮ってもメロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
主セリヌンティウスを思い、フィロストラトスが拳を握って涙する。
それは熱い、あまりにも熱い男の涙である。
固く結ばれた主従の絆を垣間見せるフィロストラトスに、メロスは白けた顔で言う。
「……君、私を誰かと間違えてないか?」
「えっ」
「いやー、私は確かにメロスだが、他のメロスと勘違いしてるんじゃないかな」
「ええっ」
「セリヌンティウスとはそんな間柄じゃなかったしなー」
「えええっ」
「いいか、私は私のために走るのだ。私は婚約破棄をできると信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス!」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。っていうか我が主、人を見る目皆無でございますね!」
言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。
最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。
何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。
陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く王宮に突入した。間に合った。
「待てェい! メロスが帰って来たぞ! 約束の通り、いま、帰って来た!」
と、大声で刑場の群衆に向かって叫んだつもりであったが、王宮前広場に集まった群衆の歓声にかき消され、群衆は一人として彼の到着に気がつかない。
「何だこれは、どういうことだフィロストラトス!」
「あ、我が主セリヌンティウス様の婚約発表会見中でございますね」
「何と、それはめでたいな。誰とだ!」
「あなたの元婚約者の公爵令嬢様とでございますね」
「何と、それはめでたいな。何でだ!?」
「あ、冷静に見えてきっちり驚愕していらっしゃいますね」
「いやいや、おかしい。何で私が婚約破棄をする前に新しい婚約者ができるのだ!」
「それはメロス様が王太子を廃嫡されたからでございますね」
「何と。そういうことであったか。何でだ!?」
「実は天丼芸がお気に入りでございますか? まぁ、日頃の行ないでございますね」
フィロストラトスが意味の分からないことを言う。
しかしメロスには信じられなかった。
彼は、自分の行ないが悪いと言うが、それが真実とは到底思えない。
メロスほど、自分に正直に生きている人間はいない。
自分に正直に生き、自分を愛し、自分の誠を貫く。そんな最高の人間が自分だ。
ならば、ここでやることは決まっていた。
メロスはそれを決意して最後の勇。先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、セリヌンティウス! 私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」
と、全身全霊、精一杯に叫びながら、ついにエントランスに昇り、公爵令嬢と並んでいるセリヌンティウスの両足に、すがりついた。群衆は、どよめいた。
「セリヌンティウス」
メロスは眼に涙を浮べて言った。
「私が殴る。力一杯に頬を殴る」
殴った。
セリヌンティウスが吹き飛んだ。
セリヌンティウスは、すべてを察した様子でうなずき、王宮一杯鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴り返した。殴ってから優しく微笑み、
「王太子に対する暴力行使による大逆罪、並びに猥褻物陳列罪だ。捕らえろ」
新たな王太子セリヌンティウスを全裸で殴った男メロスは兵士に捕まった。
メロスは目をパチクリさせて、セリヌンティウスに問うた。
「どういうこと、友よ?」
「いや、もう友じゃないから。話しかけないでくれない?」
セリヌンティウスはよそよそしかった。
メロスは隣にいる公爵令嬢に問うた。
「どういうこと、婚約者よ?」
「元、ね。元婚約者。そこ、間違わないで」
公爵令嬢もよそよそしかった。
「何、何で二人、そんなことになってるの? ねぇ?」
「いやぁ、何か単純に、この三日間の間に仲良くなっちゃってー……」
そして公爵令嬢は頬を赤らめらせて、視線を逸らした。
彼女の肩に手を回すセリヌンティウスの様子も、また同様であった。
次の瞬間、どっと群衆の間に、歓声が起こった。
「万歳、新王太子様万歳! ご婚約おめでとうございます!」
民衆が沸き上がる中、怒りに顔を赤くしたメロスが婚約破棄を叩きつけた。
「王太子メロスの名において、おまえとの婚約をここに破棄してやる!」
「あ、それ、昨日までだから」
しかし、公爵令嬢の返答は何とも冷ややかなものだった。
「バイバイ、元王太子現犯罪者さん」
その言葉を最後に、大逆人メロスは兵士に引っ立てられていく。
かくして、かの邪智暴虐の王太子は皆の望み通りに除かれたのであった。
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