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お華の髪飾り  作者: 本隠坊
6/37

⑥蝶が羽ばたけば

(1)


 先の事件も片づき、平穏に戻ったかに思われた、数日後の朝方。

 置屋の二階で寝ていたお華は、おみよに起こされた。

「姉さん。もう姉さん!」

 お華は半開きの目で、頭を上げ、

「う~ん。何、おみよちゃん」

「佐助さんが、御用があるって下に来てますよ。何か急いでいるみたいですけど……」

 それを聞いたお華は「わかった」と飛び起きた。

 急いで、おみよと下に降りていくと、

 框に座っていた佐助が立ち上がった。

「おはようございます」

「おはよう佐助さん。何かあったの?」

「はい。押し込みです」

 お華の顔が少し強ばり、

「何処?」

「実は神田で」

 お華はその答えに、些か拍子抜けした表情で、

「なんだ。それじゃ、兄上の縄張りじゃないじゃない」

 と言いながら欠伸をすると、

「ええ。ただ、お嬢様には大事な場所だから、すぐ屋敷へ来いと」

 それを聞いたお華は、途端に表情が変わり、眉を寄せた。

「あたしの?」

 と言って、目がパチンと開いた。

「まさか……」

「はい。とにかく町娘の格好で直ぐいらして欲しいと。旦那様が」

「わかった」

 お華は簡単に仕度して、佐助と一緒に八丁堀に向かった。

庭から入っていくと、同心姿の浩太郎がおさよと居間に座っていた。

「おはようございます。あら、出仕なの?」

 と言いながら、お華は部屋に上がる。

「いや、一度行って、戻ってきたのだ」

 おさよの隣に座ったお華は、

「一体、どういうこと?」

 と聞いた。

 すると、庭からほぼ同時に、

「失礼します。おはようございます」

 隣の優斎も入って来た。

 お華が笑顔で、

「あら、先生。おはようございます。先生も呼ばれたの?」

 優斎も笑顔で、

「これは、お華さん。おはようございます。そうですよ」

 佐助は次の部屋に座っている。

 浩太郎は、

「お華。佐助から大方は聞いたな」

「ええ、神田で押し込みとか」

 それを聞いた優斎の顔も若干強ばる。

「そう、神田人形町。まさにお前が赤子の時の押し込みと同じ場所、お前の実家だ」

 お華は頷き、

「やっぱり……あたしは子供の頃に一度だけ、父上に連れて行かれたっきりだけど、あそこは今、小間物屋でしたよね」

「そうだ。お前も知っての通り、俺の場所ではないし月番じゃないから、本来は出る幕はないのだが、佐久間様に呼ばれてな。あの方はお前の事件を知っている。南町が火盗改より早く、現場を押さえた様だから、確認してこいと言われたのだ。そうなると、以前の事件唯一の生き残りを、呼ばない訳にもいくまい」

お華は、その配慮に頭を下げ、

「ありがとう、兄上。お殿様にもお礼をお願いします」

 そして浩太郎は、優斎に、


 「で、先生。ご足労だが一緒に検分してもらえないだろうか。何、それほどお手間は取らせません。既に他の医者も呼ばれて居るかも知れんが、この前も話した通り、傷を改めてもらいたい。刀傷かどうか、そして……」

 優斎は、微笑んで頷き、

「承知しました。ご同道致します」

「かたじけない。では、いくぞ」

 おさよが心配そうに、

「こういうときこそ、落ち着くのよ。お華ちゃん」

「大丈夫、姉上。もう慌てない」

 おさよにお華は頷いて笑った。


 さて、その店の前に付いたお華は、空を見上げ、大きく深呼吸した。

 浩太郎とお華達は、店の前にいた担当の南の同心に挨拶し、三人は、中に入った。

 そこは言葉通り、血の海であった。

 お華は、一瞬目を逸らしたが、気持ちを奮い立たせ、正視した。

 店先から、大量の血を流した死体が転がっている。

 大人から子供の丁稚まで容赦は無く、障子には血潮があちこち飛び散っていた。

 浩太郎は優斎に目をやり、

「早速だが先生。検分を」

 と促した。

「承知した」

 優斎は一人一人衣服を剥がし、見入っている。

 そして、ガックリと首を項垂れる。


 浩太郎から、

「お華、こっちへこい」

 と言われ、お華は浩太郎の後をついて行った。

死体と血の跡を避けながら行くと、そこは台所の土間であった。

「分かるかお華。お前が、赤子の折に隠されていたのは、ここじゃ。父上が米櫃の中にいたお前を助け出したところだ」

 お華は、薄暗い土間を見回した。

 赤子の頃だから、覚えている訳も無いが、雰囲気と匂い。

 何か懐かしいような気もする。

「恐らく、その時もこんな感じだったのであろう。よく生きていたものじゃ……」

「本当に」

 浩太郎とお華は、その時の父親の姿を、心の中で浮かべていた。

 すると、後ろから優斎が現れた。

 浩太郎が振り向き、

「早かったですな」

 優斎は頷き、

「検分も何も、一目瞭然でした。やはりそうでしたよ。直ぐ分かりました」

 浩太郎は苦い顔で、

「全く、何て事しやがる……」

 優斎も同じ苦い顔で、

「先日の千住も酷かったですが、更に酷い。刀を町人相手に楽しげに振っていた様子が明らかです」

 浩太郎は頷き、

「よし。それが分かれば俺たちには充分だ。屋敷に帰ろう」

 お華と優斎は頷き、帰路についた。

 途中、皆、無言であった。


(2)

 

「あら! おかえりなさいまし」

 と意外に早く帰ってきた一行を迎え、おさよは慌て気味にお湯を沸かしに行く、それを見て、

「姉上、私も手伝う」

 お華も奥に行った。


 居間に座った二人は、お互い腕を組んで何か考えている様子だ。

 おさよ達が戻って、茶の仕度をしていると、浩太郎が優斎に、

「先生。やはり間違いなく例の?」

 優斎は頷き、

「見事なまでの逆袈裟です。相違ありません」

 浩太郎はお華に目をやり、

「性懲りも無く、また表れたようじゃ」

 お華は俯きながら、

「あそこで、一体何人殺せば気が済むのか」

 憤然とした様子で呟く。

「いいかお華。一人で探そうなんてするな。お前一人では絶対に勝てん。分かったな」

 お華は、珍しく素直に承諾した。

「大丈夫ですよ浩太郎さん。お華さんは、もう無茶なことはしないでしょう」

 優斎にそう言われ、お華は少し照れた様子だ。

 そして浩太郎は、

「さて、先生……」

 と優斎の方を向き、

「逆袈裟とは、一体、何があったんです?」

 優斎は横の庭に目をやり、苦笑いしながら、

「いやだな、もう分かりましたか」

浩太郎も、少し笑いながら、

「そりゃ先生。骸を見ている先生の、医者を忘れたような怒りを込めた姿を見たら、誰でもわかりますよ」

 優斎は大きく頷き、

「でしょうね。逆袈裟の男。あれは、私がまだ仙台で部屋住みだった頃、私の妹を殺した仇です。あの押し込みのやり方、そして殺し方、間違いありません」

 それを聞いて、三人は仰天した。

 ことに、お華は、

「え!」

 と大声を上げた。

 そして浩太郎も、

「妹の仇? 先生の妹だって?」

 と眉をひそめる。

 それは意外な優斎の言葉だった。

 お華にとっては、自分の事より、むしろその話の方が衝撃的であった。

 優斎は静かに、

「その頃、十四の末っ子で、嫁入り前の武家奉公をしていたのです。その日たまたま、その家の奥方の急用で夜半に共の者を連れ、商店に出掛けていった際に出くわしてしまったのです。本人は勿論。供の者二人も逆袈裟で斬られてしまいました」

 浩太郎とおさよは顔を見合わせる。お華は食い入るように優斎の話を聞いている。

 優斎は続けて、

「妹では、逆縁ですし、さらに相手が押し込みでは敵討ちも何も……。その後、私は家を出て、江戸に出てきました。敵討ちの気持ちもありましたが、医療を目指そうとしていた私は、妹に心で謝りながら修業を続けてきたのです。しかし、ここに来て、お華さんの仇が、まさか私の仇だとは、思ってもみませんでした。私にとっては、今ならお華さんと同じぐらいの年の、可愛い妹でしたから……」

 敵討は通常、尊属の目上の者を殺された場合に許可が出る。

 優斎の場合、尊属でも妹であり、相手も不明では、藩から許可など出るはずも無い。

 優斎は、両手で腿を掴み、少し涙が滲んでいるようだった。

「なるほど、そういうことでしたか」

 浩太郎は、お華のこともあるから優斎の無念の気持ちはよく分かった。

 しかし、聞かねばならない。

「先生。今も仇が討ちたいですか?」

 すると優斎は、柔らかな笑顔で、

「気持ちが無いと言ったら嘘になります。しかし、私は既に医者になってしまっている。医者として看板を上げた以上、人を殺すなど許されぬ事です。これは妹も分かってくれると思います。ただ……」

「ただ?」

「罪人をお上に引き渡すことは、何も問題ありません。これは私の出来る唯一の仇討ちではないかと」

 浩太郎は笑顔で、

「さすがだ。俺も是非そうして頂きたい。お華はどう思う?」

 お華は、良い笑顔で頷き、

「桜田の父は、私に人殺しをさせぬよう願った方です。産みの両親もそう願ってると思います。だから優斎先生と一緒です」

 と頭を下げた。

 浩太郎とおさよは、満面笑みで、

「ほう、少しは大人になったではないか。父上の気持ちが理解出来たのは褒めてやる」

 優斎とお華は顔を見合わせ笑顔になる。

 そして、優斎が、

「ただ、もしかしたらもう、江戸を出てるかも知れませんな。以前もそこは手早かったですから」

 浩太郎は頷き、

「それは俺も思った。というよりも、このような事があったら、直ぐ手配するよう父上が言い残されていたのです。既に奉行所に街道の取り締まりの手配をお願いしています。恐らく、こちらを甘く見ているから、間道使って逃げるような真似はせんだろうが、念のため、そちらの方もしかるべく」

 お華は茶を飲みながら、呆れた顔で、

「しっかし今頃、こう立て続けに呼んでも居ない者が、次から次へと出てくるかね?」

 と言うと、おさよが、眉を寄せながら笑い、

「そりゃ、人の家の前で、酔っ払って行き倒れになったり、頼まれてもいないのに、お手先になったりする誰かさんのせいじゃないの?」

 それを聞いて、お華以外は大笑いだ。

「ええ? あたしのせい?」

 浩太郎も、

「そのとおりだ」

 と頷き、優斎も、

「片方が変わったことをし出すと、妙な力が働くもんです」

 そしておさよが、

「おかげで、また祝言伸びちゃったじゃない。どうしてくれるのお華ちゃん」

 と文句を言われ、お華は盆のくぼに手をやり、

「そんな~」

 と小さくなってしまった。


(3)

 

  翌日。

 月番ではないから、浩太郎はいつもの同心姿で無く、着流しの気楽な格好で親分とすみやで酒を呑んでいた。

「しかし若様、驚きましたよ。まさかあの件が、今出てくるとは」

「本当だよ。いくらお華がお手先になったからって、都合良く押し込まなくてもいいのによ」

「お嬢様は大丈夫ですかね? 頭に血が上ってやしませんか?」

 浩太郎は微笑み、

「いやぁ、優斎先生にお説教してもらったのが良かったのか、見違えるほど穏やかだよ」

 それを聞いた省蔵は、

「それは良いことでございますな。御先代もさぞご安心なされておられるでしょう」

と笑顔で頷く。

「しかし親分、それがいつまで続くかが問題だ。宴席なんかで、出くわさなきゃ良いんだけど」

「はは、それはそうですが、あの連中はそんなとこには来ないでしょう」

「まあな」

 と二人は珍しく昼から酒を呷る。

 しかし、二人は少々、甘かった。


 深川は、料亭ばかりでは無く、深川七カ所などと呼ばれる岡場所の一大繁華街である。

 脛に傷を持つ者が隠れるには絶好の場所だ。

 お華は、六つ過ぎに早く宴席が終わり、富ヶ岡八幡にお参りしてから帰ろうと、蛤町あたりから一人、堀沿いを歩いて八幡様に向かっていた。

 すると道の向こうから、省蔵親分の所の若い者、寛太が、手を振ってやって来た。

「あれは……」

 周りは暗くなってきているため、お華も目を細め、ようやく気付いた。

 ところがその時、横合いから、浪人らしき男がフラっと出てきた。

 見た目、やつれた感じの侍だが、妙な目つきをした男だ。

 寛太は危うくぶつかる所、身をかわしたが、微かに何処かが当たったようだ。

「ごめんよ!」

 と言いながら、尚もこちらに向かおうと、浪人に背を向けた瞬間、

「無礼者!」

 浪人は大声を発した。

 その様子を見ていたお華は、瞬時に危険を感じ。座敷の時は、簪の代わりに持っている袖口の石ころを二つ手にした。

 浪人が刀を抜く、ほんの直前、

「寛太! 水に飛び込んで!」

 と叫び、同時に小石を一つ、投げ打った。

 寛太もその声で異変を感じ、即座に道横の堀に飛び込んだ。

 石を辛うじて避けた分、切っ先は、寛太に届かなかったようだ。

 寛太は、懸命に堀を進み、お華の側にたどり着き、陸に上がった。

 その間、お華と浪人は向かい合い。浪人は下段に、お華は、髪から手裏剣の簪を抜いて、睨み合っている。

 まだ、手裏剣の間合いギリギリの距離がある。

 ようやく寛太が、お華の背の方にまわると、

「いいかい。彼奴は危ないよ。私が簪投げたら一緒にすみやまで、逃げる。分かったね」

 と、じりじり近づく、口辺に気味の悪い笑みを浮かべる浪人に対して、お華達は同じ分だけ下がっていく。

 そんな時、向こうの方から無関係の町人連中が、酔っ払った様子で歌を歌いながら、陽気に近付いてきた。

 浪人はさすがに諦めた様子で、刀を納める……と見せかけて、

一気に走り出した。

しかし、お華はそれを予想していた。

 直ぐさま、小石を顔に向け投げ、間髪入れず今度は簪が、常夜灯の反射で光を放った。

 浪人は、顔に向かった石は避けたが、走っているため、太股にはしっかり簪が刺さった。

 それを確認したお華は、

「逃げるよ!」

 と叫び、二人はその場から駆け去った。

 お華は裾を端折って、懸命に駆けていく。

 下駄を手に、深川芸者の素足での全力疾走という姿は、まず見ることはできまい。

 一方の浪人は、簪の為に転んでしまっていた。

 地べたに座りながら、ザックリ刺さった簪を抜き、手拭いで、素早く傷口を締め付けた。

「何者だ、あの芸者」

 震える声を漏らしながら、お華達が逃げた方向を見詰める。

 そしてしばらくすると、浪人は起き上がり、足を引き摺りながら立ち去った。


 お華たちは走りに走った。

 両国橋を渡り、橋番のところで、追跡者が無いのを確認する。

 さすがに両国の橋詰めは、夜でも人の往来が多く、迂闊な事はそうそう出来ない。

 二人は胸を撫で下ろす。

 ここで下駄を履き直し、そして、もう看板にしようとしていた、すみやに向かった。

 その時平吉は、表で片付けをしていた。

 そこに、二人が突然現れたので驚き、

「お嬢さん! 寛太も。一体どうしました」

 お華は汗だくで、

「危なかったよ平吉つぁん~裸足で走っちゃったよ」

 そして平吉は、寛太を見て、

「寛太! びしょ濡れだな。大丈夫か」

 寛太は笑顔で、

「姉さんのお陰で助かったよ」

 と言ったが、平吉がまだ湿っている身体を確認すると、

「馬鹿やろ、後ろザックリだぞ!」

 なんと着物の背中が綺麗に切られていた。

 寛太の顔が青ざめる。

「危なかったな、お前。お嬢さん、店に若様と優斎先生がいらっしゃってますよ」

「あら、丁度いいわね」

 浩太郎は、優斎と酒を呑んでいた。

 二人は、突然入って来た、芸者姿のお華達に驚く。

 優斎は、猪口を脇に置いて立ち上がり、

「お華さん! どうしました」

「襲われたの」

 浩太郎は目を見開き、

「何! 一体誰に?」

 お華は若干疲れた顔で、傷もようやく癒えて、店に復帰していた おていに、

「もう大丈夫なの? 無理しちゃ駄目よ」

「ありがとうございます。ご心配をお掛けしました」

 おていは、微笑んで丁寧に礼を言う。

「そんな時悪いけど、冷や一杯頂戴。この子には熱いのを」

 と頼むと、まだ頭に、今で言う包帯、この頃は晒を頭に巻いているおていは真剣な顔に戻り、頷いた。

 そしてお華は、

「あ、先生。この子の背中見てやってくれる?」

お華に頼まれた優斎は、寛太の背中を見て驚いた。

 早速、着られ具合を確かめ、直ぐ着物を脱がし傷を確認した。

「すんません。先生」

 寛太が恐縮して言うと、

「謝ることはないが、しかし危なかったな。良く躱した」

 そして、切れた着物を浩太郎に渡し、沈痛な声で、

「逆袈裟ですよ」

 と言った。

「な、何だと?」

 浩太郎は着物を広げ、切り口を見詰めながら、さすがに表情が凍り付く。

 おていが運んできた、冷や酒を一気に飲み干したお華も驚き、

「え? まさかあの?」

「ええ」

 優斎は幾分強ばった顔で頷く。

 浩太郎は、思わぬ展開に少々動転し、

「お華! なぜ襲われた。お互い、まだ顔も何も知るまい」

 怒鳴る様な、大きな声で聞く。

 お華は笑って、

「ちょっと違うの。偶然よ。寛太ちゃんを守ろうとしただけなの」

 事の推移を二人に説明した。

 横で寛太は、変わりの着物を着せられ、暖かい酒で冷えた身体を温めている。

 お華の説明を聞いて、浩太郎と優斎は、二人とも腕を組み、言葉が無い。

 ようやく、浩太郎が、

「で、そこは蛤町あたりの堀沿いだったんだな」

 と聞くと、お華は頷き、

「そう。ちょうど黒船神社の近くよ。置屋に行くことも考えたんだけど付けられたら厄介だと思ってね、大川沿いにここまで」

 そして優斎に向かって、

「先生のお陰で、まず逃げることが頭に浮かびました。ありがとうございます」

 礼を言われた優斎は笑顔で頷き、

「正しい判断です。よかったです。そうしてくれて」

 そして浩太郎に、

「あたしはあんな殺気を浴びたのは初めてで、本当に怖かったもの。簪だって一本しか持ってなかったからさ」

「人の怖さを知って初めて一人前だよ。しかし、よりによって、お前がぶちあたるとはね。父上のお導きだな」

 お華は不服そうに、

「何です? それ」

 と口を尖らせる。

「さて、先生。お陰で、彼奴らがまだ江戸に居ることはわかった。これからどう追い詰めていこうかね」

 その質問には、優斎も苦笑して、

「医者の私に言われても……」

 すると平吉が、

「寛太が顔を見ておりやす。深川近辺の岡場所を探りやしょう」

 と言うと浩太郎は、

「すまんな非番なのに。ただ、寛太も顔を見られていると思った方がいい。一緒に居るところを見つかると危ない。慎重にな」

「わかっておりやす。この前みたいなドジはもう踏みません」

さすがに身に染みているのか、自信に溢れた返事だった。

「そうだな、頼む」

 そしてお華に向かって、

「念のため、今夜は八丁堀に泊まれ。先生、一緒に連れて行って下さいませんか。置屋には、俺が行って話してくる」

「わかりました」

 と優斎は笑顔で頷き、店で長棒を借り、二人は八丁堀に向かっていった。

「平吉。親分が帰ってきたらこの件、話しといてくれ。妙な事になってきたとな」

 浩太郎は笑いながら、深川に向かって出て行った。


 優斎とお華は、川沿いのなるべく人通りの多そうな道を選び帰って行った。

歩きながらお華は、

「先生。あの殺気と言うか、何ていうか、妙な雰囲気はなんでしょうね」

 優斎は優しい笑顔で、

「そうですね……妖気ということですかね」

「人を殺しすぎると、ああいう風になるんですか?」

「はは、その通りですよ。武士であれ、何であれ、人を殺すことを楽しみにしている者は、既に人ではありませんからね」

「先生は人を斬った事あるんですか?」

 お華は少々恐ろしげに聞くと、優斎は軽く笑い、

「ありません。せいぜい小手を浅く斬ったぐらいです。でもその後、結局私が治療するんですから、馬鹿馬鹿しい話ですよ」

 そしてお華は、

「あ、そうそう不思議だったのは、なぜ寛太ちゃんは斬られなかったのでしょう。おかしな事を言う様ですけど、普通に抜き打ちしたらあれでは済まなかったと思うんです」

「ほう。どういうことです?」

「一度抜いて、刀で円を描くみたいに廻してから斬ったんです」

「なるほど、左逆袈裟ですからね」

「おかげで、間が出来て、石を投げる事が出来ました」

 優斎は頷き、

「いつぞやの浪人達と同じですよ。単なる油断です。おまけに逆袈裟なんぞ使おうとするから、どうしても一歩遅れてしまう」

 そして、

「お華さん。もし今度会ったら、その一瞬を逃してはなりません。そこが唯一の隙でしょう。総じて、一番隙が出来るのは得意技の時といいますからね。ただ、相手もお華さんの簪を見てますから、充分余裕がないと危ないかな」

 すると、お華は和やかに、

「大丈夫です。父上に教わった奥の手がありますから」

 と得意そうに言うものだから、優斎は笑って、

「ほう、それは心強い」

「あ~先生。嘘だと思ってますね~」

 お華は眉を寄せる。

「いえいえ、楽しみにしてますよ」

 などと二人は楽しそうに話しながら、八丁堀に辿り着いた。


 屋敷に庭から入っていくと、おさよが居た。

 おさよはお華の足下を見て、指差し、

「どうしたのその足、血だらけじゃない!」

 お華は気恥ずかしいといった様子で、

「いや、永代から両国まで裸足で走っちゃったもんだからさ」

 おさよは驚き、

「一体、何やってんの。今度は飛脚にでもなるつもり?」

 さすがにお華もそれには手を振り、

「姉上。そんな訳ないでしょ」

 と笑う。

 おさよも笑いながら、とりあえず、足を手拭いでまき、浩太郎の足袋をはかせた。

 そして、二人は居間に座ると、

「あのね、姉上。またあたし、狙われてるみたいなの」

 と、いつかと同じように言うと、案の定おさよの両目が光り、

 腰を上げようとすると、お華は慌てて手を振り、

「姉上、違う違う。今回は出番無いわよ」

 と笑った。

 おさよは、

「なあんだ。つまんないの」

 と意気阻喪の顔。

「何言ってんだか姉上は。そんなことばっかりさせたら、またおじさまに、嫌み言われちゃうよ」

 そう言われると、おさよも苦笑して、

「で、例の件なの?」

「そうそう」

 しばらく話していると、浩太郎も帰ってきた。

「おさよ殿はがっかりか?」

 と、からかうと、

「いえいえ、私はお屋敷でおとなしくしております」

 少々憤然とした顔で、お華を抑え、お茶の用意に座を立った。

「なるべくなら、非番の内に片づけたいものだ」

「なぜ? 兄上」

「月番になってしまうと、北町の仕事になっちまう。それじゃ、お前はともかく、先生には頼みにくくなる。さすがに納まり付くまい。同じお縄にするにしてもさ」

「そうねえ。まあ、あたしはそれでも良いと思うようになってきたけど、先生は、なるべく自分で決着つけたいでしょうからね」

「そうだ。これがもし、御家に帰参の仇討ちなら、どちらでも良いが、先生はお縄で納得している。出来れば、先生に手を貸して貰いたいからな。奉行所の捕り物じゃ、死人が出かねないし」

「へえ! そんなものなの?」

お華は些か驚いた。

 浩太郎は、奉行所での騒ぎを思い出しているのだろう。

「そんなもんだ」

 と苦い顔をした。

「でも、そう早く足取り掴めるかな~」

 お華は自分の手を見つめながら呟いた。

「そうだな。一つ考えていることはあるが、ちょっとな」

 するとお華が、笑いながら眉を寄せ、

「当ててみましょうか」

 と子供の様な顔で言った。

「分かるのか?」

 浩太郎は、少し驚いた様子で聞いた。

「あたしを囮に使おうかと考えてるんでしょ」

「ほう、よく分かったな。お前は、顔がバレてるからな」

 すると、お茶を運んできたおさよが、

「あら、面白そうなお話ね」

 と楽しそうに言った。

 浩太郎は苦笑して、

「お華に分かるんじゃ、おさよ殿にも分かるか」

「そりゃそうですよ」

 するとお華が、

「あたしは構いませんよ。あたしが出て行けば、どっちにしたって危ないからね」

「まあ、そう言うだろうと思ってたけどな。ただ、そりゃ最後の手段だ。やるとなると準備が忙しいからな」


(4)

 

 その同じ頃、深川の外れに或る岡場所に、男達が、数人集まっていた。

 素焼きの瓦灯に、灯心一本点る安女郎屋である。

 殆どの者は真っ先に殺されていて、女郎は数人、散々陵辱された上、首を絞められて辺りに転がされている。

 一人のヤクザ風な町人が、

「旦那、もう足も大丈夫の用ですね」

 傷を撫でていた逆袈裟の男が、鋭い目付きをさらに鋭くさせて、

「やかましい。もう一件の目星はついたのか?」

抑揚の無い、低い声で言葉を投げつけた。

「いえ、日本橋あたりは見廻りがキツイ。どうやら盗賊改も出てきたようで、こうなると街道筋は特に危ないですぜ」

「ほう、そいつは厄介だな……」

「やはり、いつもの様に、高飛びしておきゃ良かったですかね」

 逆袈裟は酒の大徳利を、ままで呑み。口を手で拭うと、

「仕方あるまい」

「まあ、先生は充分お斬りになったから良いですけど、あっしらはちょっとあれでは少ない」

 しかし、逆袈裟は違うことを考えていた。

「盗賊改……。あの芸者は盗賊改の犬じゃねえか。あの芸当はそんじょそこらの女に出来る芸当じゃねえ」

 その推測は、当たらずと雖も遠からず、といったところである。

「そんじゃ、そいつに旦那の顔がバレたんじゃ?」

 すると、逆袈裟は、薄気味悪く低く笑い。

「心配すんな。顔を見たぐらいじゃ、どうしようもねえ」

「そりゃそうですねぇ」

 と町人も笑った。

 逆袈裟は、刺された太股を再び摩りながら、

「しかし、わしに手傷を負わせるとは、ただでは置かん。江戸をフケる前に、たたっ切ってやる」

 不適な冷笑を浮かべる。

「まあ、富岡辺りに探りを入れて置きますよ」

 町人も卑屈な笑みで答えた。


 次の日、同じ場所には、南町奉行所の同心連中が立っていた。

 もちろん、逆袈裟連中は既に居ない。

 同心達は、あちこちに転がっている死体を検分していた。

 ここに通いの者が朝発見し、手先を通じて呼ばれたのだ。

「こりゃ、ひでえな」

「こんな安女郎屋に、押し込みとはな」

 などと言いながら、作業を進めていく。

 表には、蔵前の省蔵と、浩太郎に頼まれた優斎が様子を見に来ていた。

 彼らの目的は、死体の検分である。

「先生、こんな所までご足労おかけしてすみません」

 省蔵が詫びるが、

「親分、気にしないでくれ。関わった以上当然だよ」

優斎は笑った。

 省蔵は顔見知りの親分に断って、外に出される順に改める事にした。

「先生、これで良いですかね」

「充分だ親分。親分も気を遣って大変だね」

 優斎が労うと、親分は、

「いえいえ、事が事ですから」

 頭に手を当て、少々照れた様子だ。

 そして、暫くすると、同心達の検分が終わったようで、遺体が次から次へと運ばれて来た。

 優斎は、一体、一体、被されている筵を引き上げては、死因を特定していく。

 横では省蔵親分が、帳面らしき物に優斎の言葉を書いていた。

 三人目辺りで、優斎の動きが止まった。

 刀傷だった。

 優斎の目は始点を探している。

「あった! 親分」

「やっぱり、居ましたか」

「間違いない」

 その後も続き、二人の逆袈裟の傷が確認された。

「あとは絞殺、刺殺だ三人以上でいたようだな」

 優斎は、検分を締めくくった。

 親分が、渋い顔で、

「こう、メチャクチャに殺されては、堪りませんな」

 優斎は頷き、

「そうだな。早く止めなければ。血に飢えた狼を野に放ってる様なものだからね。さて、浩太郎さんはどうするかな」

「若より、お華お嬢さまがどう出るかって、あっしには心配にございますよ」

親分が笑って言うから、

「そうだなぁ。妙な事言い出さなきゃいいけどな」

 と優斎も笑い、二人は現場を立ち去った。


 すみやで、親分から調べの読み上げを聞いた浩太郎は、瞑目した。

 横の平吉も、神妙な顔で聞いている。

「三人以上で押し込みか……」

「へえ。先生のお見立てでは、後は町人だろうとのことで」

「これ以上、この辺に野放しにしておけんな」

「先生も、そう仰ってやした」

 浩太郎が、

「親分。お華が囮になるってんだが、どう思う」

 すると、親分は大笑いして、

「それも先生が仰ってました。妙な事考えなきゃいいがなって」

 浩太郎も苦笑いで、

「そうだろうな。がしかし、こうなったら仕方無いかもしれん」

「あっしは、やはり心配ですが。今回は若様や先生が背後についておりやすから、それ程の事は無いかとも思いやす。それにお華さまを見ていますと、やることがご先代様と本当にそっくりにございますよ。何年か前の様子が、蘇るようで……生みの親より育ての親と申しますが、血の繋がりは関係ないんでございますね~」

 浩太郎は、

「そんなこと本人に言うなよ。つけあがって、付いてこい! なんて言いそうだからな」

 と笑いながら、

「やむを得ないか。それでは、親分、平吉、絵図を決めよう」

三人は、お華囮の計画を話し合った。


(5)


 翌日から、親分の若い者達は、深川、本所に噂をまき散らした。

「深川の押し込みに、奉行所か盗賊改かは分からねえが、凄腕の密偵が嗅ぎ回ってるらしい」

 などと、辺り構わずである。

 お華は、あとでそれを聞き、

「あたしは凄腕かい?」

 と喜んだらしいが、今は浩太郎と一緒に、あっちこっち派手に動き回っている。

 お華はお華太夫の装い。そして浩太郎は、箱屋に化け、三味線箱の中に大小など、一切を入れてお華の後をついて行く。

 途中、深川霊巌寺門前の自身番で一休みした。

 自身番の親父は驚きだ。

 定町同心の旦那が、箱屋に化けてきたのだから当然である。

 浩太郎は、座って茶を飲みながら、

「さて、上手く引っかかってくれるかな。橋には省蔵親分の仲間連中を目立つ様に置いてるから、怖がって向こうには行けまい」

「大丈夫よ、若い子達も一生懸命動いてくれてるから」

 お華は和やかに答えた。

 すると浩太郎が何かを思い出した様子で、口調を変え、

「それなんですがね、お華太夫の姉さん」

「なんだい、浩さん」

 お華も併せて言うと、

「先頃、蔵前の親分さんからお聞きしましたが、『お華の会』ってのはなんですか? 生け花? それともお茶の会ですかね?」

 それを聞いたお華は、大いに動揺し、

「あ、あら、親分さんもおしゃべりね。いえいえ、私を贔屓にしてくれる若い人の集まりですよ」

 と、斜め上に視線を上げながら答えた。

 浩太郎は、眉を寄せ、

「何言ってやがる! ありゃ、親分の所の若いもんだろうが。勝手に名前なんぞ付けやがって」

 お華は、目を細めて顎を上げながら、

「いや~ものの弾みでございますよ」

「それで、事が落着したら、料亭にご招待ってのはなんだ? 生け花の見分会でもするのか、それで花代を俺が払うってのはどういうことだ?」

 全てバレてたお華は諦め、

「いいでしょ、あの子達にお礼ぐらいしたって! この前だって危ない目にあった子も居るんだし」

 浩太郎は呆れ顔で、

「ったく、お前には勝てないよ。次から次へと」

 お華は、えへへてな感じで笑う。

 しかし、浩太郎は目を細めて、

「あのな、今のうちは良いけど、これからは知んねえぞ。ちゃんと事前に了解とっておかねえと」

「あら? どういうことかしら」

 お華が和やかに答えると、

「これから桜田家は、おさよ殿が仕切っていくんだから。下手なことすると、庭の木に縛り付けられて、くるくる切り刻まれるぞ」

 それを聞いて、途端にお華は表情が凍り付き、口を手で覆う。

「げっ! そうだった」

 言いしれぬ恐怖が沸き立ってきた。

 その光景を想像出来るだけにおぞましい。

「そ、それは世にも恐ろしきお話。子供の頃から、何度木刀で斬られて、泣かされたことか……」

 お華は、ガックリ俯いた。

「ま、気を付けるんだな」

 浩太郎は哄笑した。

 そして二人は再び、町中を歩いて行く。

 優斎はというと、自宅に休診の札を貼り、笠を被って、珍しく両刀を差して歩いている。

 そして浩太郎達の後を、微妙な距離で付いて行く。

 優斎も医者である以上、いつまでも休診には出来ない。

 替わりの医者を手配はしているものの、早めに決着を付けたいところだ。

 するとその時、富ヶ岡八幡宮の門前を過ぎたあたりで、一人の妙な若い町人が、優斎と浩太郎達の間に現れた。

 優斎は、後ろから傘で顔を隠し、観察する。

 その男は、木場近くの自身番に、二人が入っていったのを確認すると、さっと、身を翻して行った。

 優斎は、自身番の横で、鋳掛屋に変装して道端に座っていた省蔵に合図をし、自分は二人に続き、自身番に入っていった。

 優斎は、笠を脱ぎながら、

「とうとう引っかかりましたよ。今、親分が追ってます」

 と言って、刀を抜き、二人の横に座った。

 浩太郎の顔に喜色が沸き、

「そうか! これで良い」

 お華が顔を傾け、

「先生も刀差してると、やっぱりお侍らしいですねぇ」

 笑って言うと、優斎は手を振り、

「いや~、刀が重い重い。もう侍にゃ戻れませんよ」

 と如何にも辛そうに言うので、三人は声を上げて笑った。

「引退した同心の先輩なんかの話を聞くと、皆そう言うよ。足の裏の大きさが左右違うんだよ。余程、無理なことしてんだな」

 三人で大笑いだ。


 さてその頃、荒れた寺に隠れていた男達は、迫ってきた追っ手の重圧に怯え初めていた。

「橋には全て、奉行所か火盗かは分からんが、手先みてえな奴が二三人、たむろしておりやす。おそらく、同心連中は、陰に隠れてるんじゃねえですかねぇ。あっちで仕事すんのは剣呑ですぜ」

 顔に傷の或る男が言い、自身番から戻って来た男が、

「旦那の言う通り、ありゃ犬でさぁ。自身番に芸者が入って行きやがった」

 連中の頭らしき者が、

「旦那、どうしやす。すぐ北に行きますか。ただ今は飢饉のせいであまり旨味はねえですけどね」

 逆袈裟の浪人は、

「仕方あるまい。また仙台あたりに行くしか無いだろう。しかし、その犬らは斬っていく。わしに傷を負わせた報いを受けさせてやらねばならん」

 しかし、頭の男は、

「大丈夫ですかい? サッサとほっぽらかしてドロンした方が良くはねえですかい?」

 すると、

「何だと……」

 逆袈裟の目が光り、刀に手が伸びた。

 男は慌てて、手を前に出し、

「わ、わかりました! よ、よして下せえよ」

 と後ずさりして、

「じゃどうするってんで」

 逆袈裟は、座り直し、

「誰か、自身番に盗賊連中が百姓家に居たと言って、深川十万坪に来るように伝えろ。何人来たって構わねえ、俺が全て叩き切る」

 他の連中は顔を見合わせて、苦い顔をしていたが、ここで斬られるのも間尺に合わない。

 結局、若い者二人が出て行った。

 ところで省蔵は、怪しい奴の行き先だけを突き止めると、サッサと引き返していた。

 さすがに、狂犬相手に危ない真似は出来ない。

 戻って来た省蔵は、自身番の障子を開け、

「乗りました!」

 叫ぶように入って来た。

 浩太郎と優斎は頷き、お華は一つ深呼吸した。

 省蔵が、

「どう出ますかね。北に素直に逃げるか、仕掛けてくるか」

 優斎は、

「仕掛けて来ると思うな。そういう男の様な気がする」

 浩太郎も、

「そうだな。おそらく俺たちと同じように欺しにかかるだろう」

「おびき寄せるってこと?」

 お華が言うと、

「ま、そういうことだ」

 浩太郎は、着流しに着替えながら、刀を差した。

 しばらくすると、

「すんません。すんません」

 と自身番の障子が叩かれた。

 浩太郎達は直ぐに隠れ、省蔵が表に出て話を聞いてやると、案の定、盗賊連中を深川十万坪で見つけた。と言ってすぐ立ち去った。

 それを聞いた浩太郎は、

「ほれ、早速来なさった」

「さてさて、どうする積もりかしら」

 お華が笑うと、

「まあ、あまり芸はありませんな」

 優斎も笑う。

「それでは、欺されてやろうか、お華大丈夫だな」

「当然よ。今日は一杯持ってきたからね」

 お華は満面笑顔で答える。

 優斎が、

「抜刀した時が勝負ですお華さん」

 と念を入れる。

「はい」

 お華は力強く答え、頷く。

 そして、準備を終えた三人は、深川十万坪に向かった。

 

(6)


 深川十万坪は、元禄年間に埋め立てられた土地で、深川洲崎十万坪ともいう。

 現在の、江東区東陽町あたりである。

 もともと新田開発と水路の整備が目的であったが、寛政三年、高潮に飲み込まれる大惨事が発生し、幕府はこれら一体に家屋の建設を禁じた。

 この頃は、歌川広重・名所江戸百景で描かれているように、まるで荒野のような、何も無い土地である

 

 浩太郎とお華が二人で連れ立って歩き、優斎は少し離れて歩いていた。

「お華、少々風がある。頭に入ってるな」

 横の浩太郎が言うと、

「心配ご無用よ。こんなだだっ広い所だと、気を遣わなくて良いから嬉しくなっちゃう」

 などと、惚けた事を言っているので、浩太郎も優斎も苦笑している。

「はいはい、頼んだよ」

 浩太郎は、正面を向き直した。

 暫くすると、前方の茫々と生えている背丈ほどもあろうかという叢から、男が数人姿を現した。

 やって来たのが浩太郎兄妹と優斎だけだから、安心したのかも知れない。

「ほう、割と多いな」

 男達は刀を抜いて声を上げ、一斉に駆け出して来た。

「来なすった!」

 浩太郎とお華の目が光る。

 二人は、優斎を中心に左右にパッと開き、たちまち小柄、簪が夕日を反射し、光を放ちながら荒波の様に飛んでいった。

 男達はその荒波にしたたか打たれ、叫びを上げながら、沈んでいく。

 そして浩太郎は、その者達の中に飛び込み、残りを刃引きでなぎ倒していく。

 まだ動ける者には、お華の簪が、舞うような動きで、次々光を放ちながら、再び襲いかかる。

 するとそれらの後ろから、一人の侍が怒濤の様に走り込み、浩太郎に打ち込んできた。

 逆袈裟の男である。

 さすがに、この男には浩太郎も受け太刀に廻り始める。

 そしてこの男の得意技を食らい、足下を斬られたように見えた。

「兄上!」

 お華が叫ぶ。

 しかし、浩太郎は、辛うじて躱し、お華の方向に飛んで、回転して身構えた。

 斬られた所を、手で押さえている。

 優斎も、とっさにお華を後ろに置き、浩太郎の横で刀に手を掛ける。

「浩太郎さん!」

「大丈夫? 兄上!」

 優斎の後ろから、お華が声を掛けると、

「着物だ。心配するな」

 屈んだ体勢で刀を構えながら、答えた。

 逆袈裟は、サッと後ろに距離を置く。

 手裏剣を意識したのだろうか。

 そして刀を納め、

「なんだ、浪人と医者に芸者だけか? 随分と舐められたもんだな」

 と嘲け笑った。

 すると、優斎も静かに笑って、

「あいかわらず、詰まらん剣法だな、逆袈裟の」

 などというものだから、逆袈裟の男は、

「何だと?」

 不思議そうに優斎を見る。

「ここに居るのは、お前を仇としているもの達だ。お前の人殺し道楽も今日で終わると知れ!」

「仇だと?」

「私とそこのお華さんが、この世で最後の相手だ」

 大刀をスラっと抜き放ち、ススッと間合いをつめる。

 芸者姿のお華は、夕日を受けて、スッと少々斜めに向いていた。

 現代ならば、スポットライトを受けこれから踊り始めるダンサーの様だ。

 そして、両手には簪がキラキラ光っていた。

 浩太郎は身構えながら、お華を見て、

(あれをやる気か……)

 と確信した。そして、

「お華。産みの父母も育ての父母も、今のお前を見守っているだろう。全ての者の為に打ち抜け!」

 珍しく優しい言葉だ。

 お華は頷き、呼吸を整える。

 一方、逆袈裟の男は、優斎の姿に意外な思いがした。

「仙台において、お前に殺された妹の仇を討つ。覚悟せよ」

 と静かに言って、正眼に構える。

 そしてお華も、

「親の仇覚悟しな」

 と低く、そして万感の思いを込めて言い放った。

 逆袈裟の男は、お華の簪は避ける自信があった。

 しかし、正面の優斎の剣が不気味である。

 思いの外、隙が無い。

 やはり得意技で、と考えたのだろう。

 剣を再び抜くと、円を描くように右下に構えようとした。

 その時だった。

 浩太郎と優斎が、

「今だ!」

 と二人とも、同時に叫んだ。

 お華は、両手で三本ずつ、その場で廻転し、まるで扇子をはためかせるよう、華麗に簪を放った。

 それは、いつもより多くの光を四方に放ちながら、優斎の後ろから回り込み、逆袈裟の男へ飛んでいく。

 逆袈裟の男は、優斎の剣圧に押され、身動きが取れなかった。  さすがに計六本の簪全ては躱し様がない。動けばやられる。

 頭部は辛うじてかわしながらも足、腹などに次々突き刺さった。

 痛みに耐え、それでも隙の無い様に見える逆袈裟だが、僅かの揺らめきは、優斎には充分の隙だった。

 躊躇無く、逆袈裟の懐に飛び込み、峰で抜き胴を食らわせ、向こう側に抜けていく。

 まるで空気を割るような、素早い飛び込みを目の当たりにした浩太郎は、思わず目を見張る。

(やはり……)

 逆袈裟の男は、何とか刀で防いだものの、衝撃を吸収仕切れず、鈍痛が走る。

「くっ……」 

 それでも逆袈裟の男は、何とか耐えた。

 もちろんまだ諦めてはいない。

 優斎に対し、振り向いて得意の左逆袈裟で反撃を試み、斬りかかろうとした。

 しかし、刷り上げる前に、それを予期して振り下ろした優斎の剣に止められてしまった。

 すると、

「これでお仕舞よ!」

 お華の叫びと共に、再び六本の光る鳥が舞った。

 まるで獲物を追う鷹のように、的を目指して光速で飛んでいく。

 それは計ったように、逆袈裟の男の背中に、ドドドっと全て突き刺さった。

 思わず仰け反る男に、優斎の剣が、斬り倒す勢いで首筋を強烈に打ち据える。

 さらに浩太郎が、

「おまけだ!」

 と小柄を一本、抜き討った。

 鋭く太い光が、力強く一直線に進み、

 男の右手に、深々と突き刺さった。

 度重なる衝撃で、とうとう男の剣は手から摺り落ち、そして身体も崩れ落ちた。

 それを見て、浩太郎は呼び子を吹く。

 すると、隠れていた省蔵を始め手先連中や、お華の会の若い者達が、声を上げながら飛び込んできた。

 既に沈んでいる者達、一人残らずお縄になった。

 そして、逆袈裟の男は四人がかりでお縄にされた。

 そのまま囲まれ、歩かされる。

 その姿はあまりにも悲惨で、何本もの簪を身体に残したまま、無念の表情で、力なく歩いて行く。

 恐らく、連中は深川の鞘番所と呼ばれる大番屋に連れて行かれるのだろう。

 大番屋は、名前の通り自身番より大きく、多数の下手人を収容できる。

 優斎は、すぐ浩太郎の元に行き、傷を確かめた。

「いや、本当に大丈夫だ」

 頭に手を当て、恥ずかしがると、

「さすが躱しましたな。修練の賜です」

 すると優斎は、近寄ってきたお華に笑顔で、

「あれが、お父上直伝の秘技ですか、驚きましたよ」

 お華は嬉しそうに、

「まあ、良いときに出せました。お父上も喜んでくれるでしょう」

 と言うと、浩太郎は苦笑して、

「ありゃぁ~秘技なんてもんじゃありませんよ。子供の頃、おさよ殿に木刀で切り刻まれて泣かされていたから、父上に黄表紙かなんかで読んだ必殺技を教えろ教えろと、しつこく言って教えて貰ったのがアレです」

 優斎は意外な話に大笑いした。

「で、おさよ様に勝てたのですか」

 お華に聞くが、途端に悲しそうな顔で、

「そ、それは……」

 すると浩太郎が、

「正面に居て、投げるの分かってんですから。おさよ殿の動きが早すぎて、あさっての方向に飛んでいっちまう。連戦連敗ですよ。下手な鉄砲にもなりゃしない」

 と腹を抱える。

「なるほど」

 優斎も和やかな笑みを零す。

 浩太郎は立ち上がり、真面目な顔になり、

「ま、それはともかく。先生もお華も、見事、仇を討ち、本願成就おめでとうございます」

 武士らしく祝いを述べた。

「ありがとうございます。母も兄もさぞ喜んでくれます」

 優斎は、頭を下げ、お華はうっすら涙を浮かべる。

「本来なら、最後までとお思いのところ、お上のお裁きに委ねて頂き、北町奉行所同心、桜田浩太郎。御礼申し上げます」

 と深々と礼をした。

「浩太郎さん、やはり極刑でしょうかな」

「ええ。間違いございません。ご安心を」

「これでようやく医者に戻れます。数々のご配慮、かたじけなく存じます」

 優斎も頭を下げる。

 浩太郎は笑みを浮かべ、お華に、

「さ、お前も、これでもう手札は必要ないな。お返し」

 と掌を差しだして言うと、お華はまた、小悪魔の様な顔で、

「あら、何をおっしゃる手負いの旦那。旦那がしっかりするまでは返せませんよ」

「なんだと?」

「それに、今日から私は、本当に桜田家の娘になれましたので、お父上の為。兄上を監視しなければなりません」

 浩太郎は目を丸くし、

「聞いたかい先生。これだよ。一体何になりたいんだか」

 と頭に手を当て笑うと、優斎もまた楽しそうに微笑む。


(7)

 

 帰り道、上機嫌のお華は、一人、浮かれ調子で先に歩いて行く。

 後ろから、それを眺めて歩きながら、

「先生。先程ああは言ったが、父上が最後に教えた技で仇を討ったとは、私は何だか感慨に堪えませんよ」

「そうですね。良い技でしたよ。気持ちが乗っていた気がしました」

「あいつのために逆袈裟を押さえ込んで頂いて、本当にかたじけない」

「いや~むしろ正確な簪のお陰で、私の方がやり易くなりました。やはり大したもんです」

 二人は大きく笑った。

「父がそもそも、隣に医者を住まわせたのは、お華の芸者仕度のため。あなたが来たときは、もうあいつは芸者になっていたから、本当は必要ではなかったのです。ところが、父上は絶対に必要になるからといって、あなたが住むの承諾した。おそらく、お華にまた金が掛かることを恐れての事だったのでしょうが、まさかこの事の為に役立つことになろうとは、思いもしなかった」

 優斎も感慨深い様子で、

「私は、先輩に、ここは医療のやりやすい所だからと勧められ、決めたのです。八丁堀だからといって、まさか仇討ちに繋がるとは思いもよりませんでした。お父上様にお会いしたのはその一度きりでしたが、病床ながらご立派なお方でございました」

「結局、手配のかけ方。お華の妙な秘技。そして先生と全て、父上のお考え通りになりました。私は父上の代わりに動いていたようなもので、自分の未熟さがお恥ずかしい限りですよ」

「死せる孔明、生ける仲達ですか?」

 優斎の言葉に、笑いながら、

「そういう事です」

 優斎は首を振り、

「私は、少し違うように思います。確かにお父上様は、考えられる限りの事を浩太郎さんに託したのでしょう。つまり、舞台設定はしたと言うことです。しかし、本を書いたのはあなた。そして演じたのは……」

 前方で機嫌良く笑顔で歩いている、お華を指差し、

「なんとお華さんです。さすがにお父上様もこれは想定していなかったでしょう。むしろ今頃、あれを教えといて良かったぐらい胸を撫で下ろしているんじゃないですかね」

 浩太郎は嬉しげに、

「そうですかね。まあ、言われてみればそうかも知れません」

 優斎は目を閉じて、感謝している様子である。

「ま、どうでもいいか。決着がつけば」

 浩太郎が吹っ切れた様に言った。

夕日が三人を真っ赤に照らす。


 そして浩太郎は、

「先生に、今回のお礼代わりと言っては何ですが……」

 と傍らの優斎に顔を向けると、

「先生は、あの尚歯会の件について気になりませんか?」

 と思いもしなかった言葉を浴びせた。

「尚歯会の件」というのは、後年言われる「蛮社の獄」の事。

 江戸の蘭学者髙野長英と田原藩家老渡辺崋山などが断罪された、蘭学者弾圧事件である。

 優斎も蘭方医である以上、他人事ではない。

「私は単なる町医者ですし、師匠筋も違うので一度も関わった事はないのです。ただ、同じ蘭学を志す者として気にはなっておりました」

「そうでしょうな。何かあれば、もうとっくに俺が奉行所に連れて行かねばなりませんから」

 と浩太郎は笑う。

「しかし、浩太郎さん。何故、今それを」

「本来なら、奉行所の事ですから、先生にもあれこれ言ってはならないのですが、今回のお礼と、今後、さらに気を付けて頂きたいからなんですよ」

「それでは、今後も続くと?」

「いや、あれは一応、決着がついてますから、もう大丈夫だと思いますが、何しろ相手が相手だけに、油断してはなりません」

「相手とは、誰なんです」

「鳥居耀蔵というお目付です。なんでも、あの林大学頭様の御次男だそうで、大の蘭学嫌いだそうです」

 優斎は目を見開き、

「おや、朱子学の親玉の息子様ですか。それじゃ仕方ありませんなぁ」

 と大笑いした。

「せっかく妹御の仇を取られたんだ、こんな事で捕まってはなりません」

 優斎は、頭を下げ、

「誠にありがとうございます。気を付けます。しかし、その様な事、私に話して大丈夫なのですか?」

 浩太郎は空を見上げ、

「良いんですよ。気にしないで下さい。あれはまだ見習いの時だったし、ちょうど父の具合が悪くなったときなんで、ほとんど関わってないのです。俺が言うのもなんですが、そりゃ捏造の、酷いものだったらしくてね。目付の圧力のせいかどうか分かりませんが、先代のお奉行は早世してしまう有様ですよ。ああいうのは許せません」

 浩太郎は続けて、

「さらに先生は仙台のお人だ。目付は、他の家中の人間に対しては過酷です。もし捕まれば、仙台の兄様はもちろん、お殿様にまで累が及びかねませんからな」

「なるほど……」

 浩太郎は笑いながら、

「ま、当分はおとなしく医者をしていて下さい」

「ふふ、そうですね」

 浩太郎は前を行くお華に目をやって、

「先生の事も心配ですが、俺は今後、お華がどうなるかが、もっと心配でね」

「お華さんですか?」

「そう、ここだけの話だが、実は、近々御改革が始まるようなんだ」

 優斎は空を見上げ、

「御改革……? ああ、あれはたしか、有徳院(徳川吉宗)様や白河候(松平定信)がやられたというアレですか?」

「さすが良くご存じだ。まさしくソレですよ」

 しかし優斎は首を傾げ、

「でも何で、それとお華さんが? あ!」

 浩太郎は苦笑して、

「どうなるか想像つくでしょ」

 優斎は目を丸くして、

「これは、私などより、相当マズイのではないですか?」

「仰る通り。お上の筆頭老中と目付が、深川一の芸者、お華太夫に喧嘩を売ってくるんですよ」

 二人は目を合わせ、また大笑いした。

 するとお華が振り向き、

「何ですか、またあたしの事で笑ってるんでしょ!」

 優斎は手を振り、

「お華さんは無敵だと感心していたんですよ」

 浩太郎は腹を抱える。

「いいえ~、先生のお陰ですよ。また危ないときは助けて下さいね~」

「そ、そうですね……」

 優斎も堪らず、また笑い出す。

 そんな話をしながら、二人と一人は、夕闇に消えて行った。

 


  ~つづく~

 バタフライ効果で始まったこの話ですが、

 お華さんと優斎、二人の人生、決着の場でした。

 敵討ちというのは、試練の場。その後の人生が決まってしまう。

 例えば、五十年以上かけて討ち果たした人もいるぐらい困難な事で、

これでは、後の人生も何も無くなってしまう。 難しい時代でした。

 さて、ようやく次の主題に入って行きます。

 どうか、今後ともよろしくお願い申し上げます。

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