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お華の髪飾り  作者: 本隠坊
3/37

③遠山の金さん

(1)

 

 翌日朝。

 お華は、結局一度も起きず、まだ寝ている。

 するといきなり、布団をポンと剥がされ、うつぶせの尻をピシャリと叩かれた。

 うっ! と変な声を上げて目を開けると、そこにおさよがニコニコしながら座っている。

「いつまで寝てんの、お華ちゃん」

「あ、ね、姉さん」

 お華は、途端に目が覚めた。

 そしてあたりを見回し、

「あれ? ここは」

「隣よ隣」

 それを聞き、お華は背中に冷たいものが走るのを感じた。

「え? あたしは何でこちらに」

「うちの前でお華ちゃんが行き倒れてたから、父上が拾って持ってきたのよ」

「ひぇ~てっきり家だとばかり」

 お華は頭を抱え、おさよが大笑いしていると、お久が入ってきた。

 すると、お華は跳ね起き、慌てて平伏して、

「お、おばさま。た、大変ご迷惑をおかけしました。誠に申し訳ございません。あの、おじさまは……」

 お久は笑って、

「もう出掛けましたよ。華ちゃんは相変わらずねぇ」

 お華はおさよを見て、

「すると当然」

 探るように言うと、おさよは笑い、

「そりゃお怒りでしたよ。武家の娘が酔っ払って行き倒れとは何事か! ってね」

「あはは。やっぱり」

 お華は、乾いた笑いと共に肩を落とす。

「で、お華ちゃん。一体どうしたの」

 とおさよが聞くと、大きく頷き、

「はい、おばさま、お姉さん。昨日お座敷があったんですけど、兄上に相談したいことがあったから、さっさと終わらせて、こっちに来ようと思ってたんです。でも、お客が中々お開きにしてくれなくて。仕方ないから、酔い潰してしまえ。とドンドン呑ませて、終わったのは良かったんだけど、あたしもやられてしまったようで……」

 それを聞いて、お久は和やかに、

「思った通り。なるほど、勝負に勝って試合、ああ、お酒に負けたってことね」

 おさよと二人で声を上げて笑う。

 すると、お久が、

「おさよ。お華ちゃんにも教えてあげなければ。一番関係があるんだから」

 と促した。

 しかし、お華はまだ何かしくじりをと、目がキョロキョロしている。

 その様子に気付いたおさよが笑って、

「違う違う。本当は浩太郎様が言うんだろうけど。あなたは寝てたから、私に言えって仰るからね」

「えっ、何でしょう?」

「実はね、昨日、私と浩太郎様の縁組みが調ったの」

 と言って、おさよは恥ずかしげに袖で顔を隠す。

 お華は、何の事か直ぐには理解出来ず、お久の顔を見る。

「お華ちゃんは、おさよの義理の妹。そして私の義理の娘になるのよ」

 その言葉で、お華は途端に満面笑顔となり、

「それは良かったぁ! きっと父上母上も草葉の陰で大喜びでございます」

 思い切り頭を下げる。

「あんな兄上だから、どうするのか心配しておりましたが、姉さんが姉上になるのなら何も心配ありません。おばさまにもお礼申し上げます。ありがとうございました。ふつつかな兄ですが幾久しゅうよろしくお願い申し上げます」

「ふふ、たいして変わらないわよ。おさよの部屋があっちになるだけですからね」

お久は笑顔から、少し真面目な顔になり、

「ただね。あなたのお母上様が、最後まで本当に心配なさっていたのは、お華ちゃん、あなたよ。私は生前よく伺ったの。あの子が心配だって。今度はあなたの番よ。早く安心させてあげてね」

 苦笑いして頭を下げるお華を横目に、お久は和やかに座を立った。

 すると、おさよが、

「で、お華ちゃん。昨日は一体何を言いに来たの?」

 お華は、その言葉で我に戻り、

「ああ、その事その事。あのね姉さん……」

 

(2)

 

 おさよとお華が話している頃、浩太郎は戻っていた従者の佐助を従え、永代橋渡ってすぐの深川佐賀町にある、長屋には珍しい二階屋の一つを訪ねていた。

 ここは、お華が住む置屋。

 この頃は、芸者屋と呼ばれていたが、父親段蔵の意向か、ここでは置屋と、上方の名称で呼ばれている。

 ところで、深川の芸者は、城から辰巳の方向にあるため辰巳芸者、または羽織芸者とも呼ばれている。

 何故、羽織なのか?

 深川芸者は、宴が終わると客を舟で送ることが多い。

 行きはともかく、帰り一人になると、些か夜風が厳しい。

 自然、羽織一枚着て帰るのが定番になったとか、または単に男装目的などとも言われるが、本当のところはわからない。

 だが、それがいつの間にか、深川芸者の尊厳を表す象徴になってしまったようだ。

(芸は売っても身体は売らぬ)というのが、深川芸者の身上である。

 しかし実際は、チョンの間、身体を売ったりする芸者が多いのも現実である。

 段蔵はそれを恐れ、相当の配慮をしている。

 水揚げも形ばかりのものであったし、置屋と呼ばせるのもその一つかも知れない。

 他とは違うと言いたいのだろう。

 

 さて、その置屋の女将は、元芸者であった、お吉である。

 四十に手が届く位であるが、元芸者であったからか、年を取っても粋な香りの残る女将である。

 お吉は、女将兼箱屋として置屋に住み、お華の面倒を見ている。

 箱屋とは、芸者の身支度の手伝い、送り迎え、玉代の集金などをする者である。

 本来は男衆がやるのだが、抱え芸者も二人なので彼女が一手に引き受けている。

そして、お華の他は五つ下の、妹芸者の美代吉、本名おみよが、一緒に住んでいる。

 中に入っていくと、お吉とおみよは、並んで笑顔で迎え、

「若様、わざわざのお越し、恐れ入ります」

丁寧に挨拶した。

 浩太郎も框に腰を下ろし笑顔で、

「悪いね。朝っぱらから」

「いえいえ。あのお華は一緒では?」

「実はな……」

 話を聞いたお吉は、気の毒なくらい恐縮して頭を下げているが、おみよは笑いを堪えるのに必死だ。

「昨夜は宴席が終わって、そちらへと申しておりましたので、まさかそのような事とは露知らず。何とお詫びを申し上げればよいやら」

 と再び、深く頭を下げる。

 しかし浩太郎は、

「何も女将が謝ることはないさ、あれがトンチキなだけだ」

 とこれも苦笑いだ。

「それよりも」

 お華は、何を言いに来たのか聞いた。

 浩太郎は、二日酔いのお華から聞くより、女将に話を聞いた方が正確と考え、また他の頼み事もあって見廻り前に立ち寄ったのだ。

「はい。実は……」

 二日前、(ひる)(とんび)(空き巣)に入られた形跡があるのだが、不思議な事に盗まれた物は、お華の(くし)一本簪(かんざし)二本だけだという。

「昼鳶と申しましても、入られたのは恐らく、私どもが出掛けた夕刻後。元々、この家にお宝になるような物はございませんし、大事な証文などは、先代の旦那様が火の用心の為にと作って下さった。小さい隠し扉の中にしまってありますので無事でしたけど。ただ、家中荒らされた跡が無いのでございます。それに、盗まれた櫛簪もそう高い物でもないので」

「ふ~ん。確かに妙だな。とすると、あのトンチキは、同心の妹の所に盗みに入るとは! とか言って俺の所に来ようとしたわけだ」

 お吉も笑って頷き、

「ええ、まあ。そしてここには、このおみよもおりますのに、盗まれた物が自分の物だけ、って言うのが気になったのかも知れません」

おみよも、可愛く首を傾げ、

「櫛や簪は、いつも姉さんのと一緒に並べて置いてあるんですけど、姉さんのだけ無くなっていたんです」

 と不思議そうに言う。

「女将はどう思う?」

「ええ、今ではあの子も、深川一と言われるくらいの芸者になりましたから、そういったことかとも思ったのですが。ただ、男の人が間違いなく、お華の櫛簪だけを持って行くなど、そうは出来ないと思うんでございます」

 すると浩太郎は、

「まあ、どうしてあれが深川一なのか、全く分からんが」

 肩をすくめて笑い。

「いずれにしても、しばらくは様子見だな。もしまた何かあったら知らせてくれ。あ、トンチキはだめだ。また酔っ払って寝てしまうからな」

 二人も笑いながら頷く。

 そして浩太郎は、

「それとな女将。話は変わるんだが、この界隈で子供が居なくなった、若しくは神隠しがあったとか噂ないか?」

 二人は顔を見合わせたあと、

「いえ、聞いた事ございませんが……」

 お吉が首を振りながら言うと、

「そうか。最近、本所近辺でそういう騒ぎが続いていてね。深川も長屋が多いから。もし、そんな噂聞いたら、それもすぐに知らせてくれないか。あ、これも、トンチキには言わなくていいから。あいつは自分で聞き回りかねねえからよ」

 二人は笑いたいのを堪え、承諾した。

 それから浩太郎は、外に控えていた佐助と見廻りに出掛け、奉行所に戻る途中、すみやに寄った。

 省蔵親分が居なかったので、平吉に様子を聞くと。

「親父は今若い者散らせて、噂を聞き回っております。何かあったらすぐお屋敷にお知らせに上がると申しておりました」

「そうか。よろしく頼む」

 浩太郎達は、店を出ると浅草御門を過ぎ、小伝馬町の囚獄あたりを通りながら、つい頭に浮かぶのは子供達の安否だった。

(時間は掛けられねえが、しかし)

 あまり明るい希望は持てなかった。

 

(3)

 

 翌日の夜。

 お華太夫ことお華は深川の大きな料亭で、おみよと一緒に宴席に出ていた。

 呼ばれた宴席は、中部屋に客が四人の小さなもので、商談の終わりに酒を呑むといった、線香二本程度(約二時間)のものであった。

 そうした宴席だから、早めに終わる。

 お客を送り出した後、お華も、おみよと一緒に置屋へ帰ろうとしていた。

 すると廊下の奥で、料亭の亭主が店の者に、

「本日はお奉行様もおいでになっておられる。粗相の無いように!」

 と注意を与えていたのを耳にし、帳場に居た女将のところに寄った。

「おや、お華太夫。今日はもう上がりかい? お疲れさん」

 女将に言われると、笑顔で頭を下げ、

「ねえ、女将さん。今夜は町奉行様がいらっしゃってるの?」

「ええ、北の遠山様がお越しなのよ。新任のお奉行様だから、みんな緊張しちゃってね」

 すると、お華の目が鋭く光った。

「あのさ、あたしもちょっと、ご挨拶させて頂いていいかな?」

 というと、この女将はお華の事情を知っているから、

「ああ、そういえば……。お兄様の為? いつもお世話になってるからね。あなたなら構わないわよ。よかったら、座を盛り上げて頂戴。ただし、玉代は出ないわよ」

 と笑う女将に了解を取り付け、おみよを待たせて、早速大広間に向かった。

 遠山と内与力の加藤は、江戸の大手米問屋の寄り合いを兼ねた宴会に招待されていたのだ。


 遠山左衛門尉景元。

名奉行として後に有名となる男である。

 芝居などで、「桜吹雪の遠山金四郎」でご存じの方も多いだろう。

 実はこの彫り物には諸説あって、明確なものは何も無く、あったかどうかさえ確かな事は分からないのだが、それだけに、惹かれる男である。

 ちなみに、この男の父親、遠山景晋は、日本で始めて、受験参考書。

 官吏登用試験である学問吟味の「(たい)(さく)(そく)」を書いたことで、これも有名で、何だか妙な親子である。

 

 さて、飢饉から、米価もようやく落ち着き始めた事もあってか、新任の町奉行との顔合わせ。

 といった穏やかなものであったが、この手の宴会が苦手な遠山は、そろそろ抜け出そうと考えていた。

 遠山という男は、このような連中と飲むより、町場で、町人と飲んでいる方が楽しいと思うような男だから尚更である。

「おい、加藤」

 と、少し下がった所で飲んでいる内与力の加藤を呼び、

「はい。お奉行。飽きられましたか?」

 小声で、笑いながら返事をする。

 すると、

「知れたことよ」

 こちらも小声で笑っている。

「承知致しました。幹事の万屋に、うまく申して参りましょう」

 と言って、腰を上げようとした。

 しかし、その時。

 大広間の向こうの方から、新しい顔の芸者が一人、しずしずと近づいて来た。

 遠山は酌かと思い、断ろうと思っていたが、その芸者は遠山の正面に座り、平伏した。

 加藤もそれを見て、少々様子がおかしいと、また座った。

 そして、その芸者は、

「この様な場でございますので、このような不作法、何とぞお許し下さいませ。恐れ入りますが、北のお奉行様にございましょうか」

 と平服する。

 遠山は、妙な芸者に少々興味が湧いたのか、

「そうじゃが」

 と軽く答えた。

 どうやら、お酌という訳では無さそうだ。

「ありがとう存じます。ご無礼の程、何卒ご容赦下さいませ。私はお華太夫。本名を桜田の華と申します」

 加藤は一瞬、目付か何かの隠密か? と思ったのだが、本名を名乗る隠密もおるまいと苦笑し、大刀に伸ばそうとした手を戻した。

 が、桜田と聞いて、少し妙な気がした。

 なぜなら、芸者が本名と言って、姓まで名乗ることは無いからだ。

 遠山は和やかに、

「桜田のお華とやら、そなたは武家の出か?」

 遠山も加藤と同じ疑問を持ったようだ。

「はい。実は私。北町奉行所定町同心、桜田浩太郎の妹にございます」

 などと言うものだから、遠山も加藤も仰天し、耳を疑った。

 特に加藤はかなり慌てて、

「おい! そなた本当に浩太郎の妹なのか?」

 お華は、微笑みながら頷き、

「はい。先頃亡くなりました我が父、段蔵になりかわり、定町の本役となりました浩太郎の妹にございます」

 この言葉に、本物だと加藤も納得し、遠山に小声で告げる。

 遠山は、意外な展開に更に興味をそそられ、

「ほう、おもしろいな。その妹が何の用じゃ?」

 帰ろうとしたことを忘れている。

 お華は、

「このような所でないと、お願い出来ませんから」

 と横を向いて少し笑い、そして向き直り、

「どうかお奉行様。お願いにございます。私を浩太郎付きのお手先にお命じ頂けませんでしょうか?」

 その言葉に、二人は更に驚いた。

 遠山は目を見開き、

「なんじゃ? 手先じゃと?」


 「はい。本来、浩太郎本人に願い出るのが筋と、充分承知してはおりますが、あの無粋で堅物の兄が許す筈がございません。ここは是非、お奉行様から一言お申し付け下されば、文句は言えないと思いますので……」

 それを聞いて、二人は大笑いだ。

 直訴も色々あるが、このような直訴は二つと無い。

 遠山は笑いながら、

「ちょっと待て。その前に、そちが何故芸者をやっているのか説明せよ」

 するとお華は、自分が養女の身であること。そして、家の為。あるきっかけで芸者になったことなど縷々と語った。

 遠山は頷き、

「ほう。なるほどな。近頃なかなか良い話を聞いたわ」

 と笑う。

 加藤もようやく理解はしたものの、

「私は内与力の加藤じゃ」

 と言うと、お華が顔を向け、

「これはこれは、いつも兄がお世話になっております。今後とも、よろしくお願い申し上げます」

 と平伏する。

「うむ。それはまあよいが。そなた、何故その様な事を考えついたのじゃ?」

「はい。養女とはいえ、実の娘以上の恩を受けました父に、ご恩返しがしたいのでございます。勿論、父はもう亡くなってしまいましたので、嫡男浩太郎の何らかの役に立てれば、との一念にございます」

 その受け答えが気に入ったのか、遠山は、

「しっかし、我が配下の妹から妙な御用を承ったものじゃ」

と手を叩きながら大笑いし、そして頷き、

「そうじゃな。こういった所にも奉行所に通じる者が一人ぐらいいてもよかろう。加藤、手配してやれ」

 遠山から許しが出ると、お華は満面笑みで、

「誠にありがとうございます。今後はお奉行様の為、兄の為、しっかり勤めさせて頂きます」

 お華は、再び、深く深く頭を下げた。


(4)

 

 そして、翌日の夕刻。

 浩太郎が奉行所から帰ってくると、おさよが出迎えた。

 おさよはあれから、祝言の日まで、なるべく浩太郎の屋敷にいるようにとの父、源内の指図を受け。家事などをしながら待っている。 

 当然ながら、お久の指導付きだが……。


 浩太郎はおさよに、

「あの馬鹿は来てますか?」

と、些か気色ばんで聞いた。

 おさよは、少し笑って、

「はい。お華ちゃんなら、浩太郎様に呼ばれたと言って……」

 しかし浩太郎は最後まで聞かず、刀をおさよに預けると、ズンズン入って行き、着替えもせずに居間に座っているお華の前に、いきなり座った。

「おい!」

 浩太郎は、目を釣り上げてお華に言うが、

「あら、これはこれは兄上様、お戻りなさいませ」

 頭をチョコッと下げたものの、すぐあさっての方向に視線を上げる。

「ええっと。何のお呼び出しでございましょうか?」

 そこに、おさよも来て座った。

 浩太郎は、怒り心頭という顔つきで、

「お前は一体どういうつもりだ。何故、事もあろうにお奉行に直訴などしたのだ!」

 などと言うものだから、おさよはあまりに驚いて、

「お、お奉行様に直訴? お華ちゃんが?」

 と思わず声が裏返って、浩太郎に聞いた。

「この馬鹿は昨日の晩。米問屋の宴席に招待されたお奉行の前に、呼ばれもしないのにしゃしゃり出でて、私を兄のお手先として使うようお申し付け下さいなどど、言いやがったんですよ」

 あまりのことに、おさよは仰け反って、

「ええっ? 本当なのお華ちゃん!」

 お華はただ黙って、小悪魔の様に頷く。

「先ほど奉行所に戻ったらな……」

 と浩太郎は話し始めた。

 

 浩太郎が同心部屋にいると、内与力の加藤に呼ばれた。

 例の件かと思い部屋に行く。

「申し訳ございません。ただいま八方、若い者を使い探らせておりますが、まだハキとしたことが出てきませぬ。もう少々お待ちの程を」

 と報告したのだが、加藤は笑って手を振り、

「うむ。その件は引き続き頼むが、今日はその儀に非ずじゃ」

 では何事かと思っていると、加藤は改めて、

「深川の華太夫という芸者は、本当にお主の妹なのか?」

突然、予期していない事を聞いてきた。

 当然ながら、浩太郎は大いに慌てる。

 奉行所に古くから居る連中は、みな承知しているが、奉行は着任してから日が浅いので、内与力の加藤が知らなくてもおかしくはない。

「は、はい、お届けが遅れて申し訳ございません。先代の折にお許しは頂いておるのですが、なにしろ父が急死してしまった為、今のお奉行にお届けするのを失念しておりました。誠に申し訳ございません」

 慌てて謝ったが、加藤はまた笑って、昨夜の出来事を話した。

 浩太郎は、首筋に冷たいものが通り過ぎた気がした。

 驚愕どころの話ではない。

「な、何とお詫びを申し上げればよろしいか。訳あって芸者を(なり)(わい)にしてはおりますが、妹に間違いございません。今から立ち返り斬って捨て、私も自害を……」

 と言うと、加藤は大笑いして、

「たわけ。お主はまだ仕事が残ってるであろう。つまらぬ事言うものではない。お奉行はな、願い、聞き届けてやれと仰っておったぞ!」

「へ?」

 浩太郎は、加藤の意外な言葉に平伏のまま、顔を上げた。

「お奉行は、お華がいたくお気に召したようで、ああいう所に奉行所の目が届くのも悪くないと、浩太郎に手札を出すよう申し付けて置けとおっしゃるのでな」

 

 と、一連の流れを語った浩太郎は、

「こういう事じゃ。全く、婚礼前に自害せねばならんとこじゃったわ。お奉行のお情けで救われたのじゃ!」

 おさよは、相変わらず横を向いているお華に、

「お華ちゃん。本気なの?」

 お華は、ようやくおさよの方を向き、大きく頷いた。

「はい、姉上。私も何らかのお役に立ちたくて」

 浩太郎は呆れ顔で、

「芸者姿で捕り物でもするつもりか?」

するとお華は、

「そればかりが仕事じゃないでしょ!」

 と言い返す。

 浩太郎は腕を組み、

「あのなぁ、そんなこと父上が生きてらっしゃったら許す筈ないだろ。母上だってきっと泣いておるぞ」

「いいえ。お二人とも、きっと喜んで頂けます!」

 そう胸張って言うお華に、浩太郎は苦笑しながら、

「それに、お前。父上に教わったことなど、もう、とっくに忘れていよう」

 するとお華は、サッと懐に手を入れ、キラリと光る簪を取り出した。

 するとなんと、そのまま投げ打った。

 それは、ささやかな書院造の床柱にある年輪の中央に、見事に突き刺さる。

「毎日稽古致しておりました。せっかく父上に教わった大切な事。忘れはしません」

 お華の投げ打った簪。

 正確には、簪に似せた矢羽模様の飾りがついた、細い小柄といった様なものである。無論、簪としても使える、いわゆる棒手裏剣だ。

 段蔵が、懇意にしていた刀鍛冶の伊平に作らせたもので、浩太郎の小柄、おさよの小太刀も、その者の手による特別注文品である。

 浩太郎は立ち上がり、柱に刺さったその簪を引き抜くと、お華にポンと投げ返し、

「お前と言う奴は……」

 言いながら、また座った。

 困り顔の浩太郎に、おさよが、

「よろしいではないですか、お奉行様もお許しなら。昔から言い出したら聞かない子ですから、何を言っても無駄ですよ」

 笑って、お華に助け船を出すと、彼は、溜め息をついてガックリうなだれる。

「しかし、おさよ殿。結局、面倒見るのは俺ですからね」

 などとブツブツ言っていたが、懐から紫の袱紗を取り出し、

「致し方あるまい、これが手札じゃ。ただし、十手は無いぞ。加藤様も、深川の芸者に十手は似合わんと仰っていたからな」

お手先(岡っ引き)には、手札。今で言う警察手帳の様な証明書

(木札)が与えられる。そして十手は、同心から貸与される。

 お華は嬉しそうに、その手札を受け取り、大事そうに胸にしまった。

 この勝負、お華の勝ちである。

 浩太郎は気を取り直し、

「それで、例の物取りの件はどうなった?」

 機嫌が良くなったお華は明るく、

「はい。あれからは入られておりません。見つけたら十本ぐらい打ってやろうかと思っていましたが」

「馬鹿もの。簪は自分の身や周りが危ないとき。もしくは俺の指示以外では使ってはならぬ。父上にも同じ事、言われたであろう」

「は~い」

 お華は和やかに頷く。

「恐らく、あれは女じゃ。しかも同業の女だ。目立たぬように他の芸者連中を探れ」

「芸者ですか? 私もそう思ってました。承知しました」

 お華の幸せそうな顔を見ると、浩太郎はこの先が思いやられる気がした。

「では、このこと当分、女将とおみよ以外には話してはならぬ。良いな。それでは佐助に送らせる」

 佐助を呼ぼうとした時、川向こうの方向から、なにやら鐘の音の乱打が小さく聞こえてきた。火事の半鐘である。

 浩太郎とお華は立ち上がり、縁側からその方向を共に見る。

 夜空に微かな火事の光が見える。

「あれは、本所の方角か?」

 浩太郎がお華に聞くと、

「おそらく」

「そうか。まだ俺が呼ばれることはあるまい。風も無さそうだから、深川は大丈夫と思うが、何かあったら佐助に伝えよ」

「わかりました兄上」

 お華は満面笑みで、佐助に送られて深川に戻っていった。

着替えて居間に座る浩太郎は、

「おさよ殿、申し訳ありませんな。遅くなって」

「いいんですよ。別に心配してないでしょうし。それに、このお話は大事な事ですから。父上や母上が聞いたらさぞ驚かれるでしょう。特に父上はどういう顔をするやら」

 と想像しながら笑う。

 浩太郎は情けない顔になって、

「ああ~お恥ずかしい事です。どうかよしなにお伝え下さい」

「では、お食事にしましょう」

「よかったら一緒に食べませんか?」

 おさよは嬉しそうに、「はい」と仕度を始めた。

 二人が食事を始めると、おさよが思い出したように庭を向き、

「そういえば、あそこで泣いてましたね」

 浩太郎は頷き、

「そうでしたね。ずぶ濡れになって」

「お母上様の時も、私の家で一日中泣いてましたが、お父上様の時はあそこで」


 父、段蔵の、命の火が燃え尽きようとしていたとき、外は天水桶をひっくり返したような大雨だった。

 段蔵は枕元の浩太郎に、家の事と、役目の事などくれぐれも頼むと言い、そしてお華の事も、

「色々、面倒だろうが、あれもわしと母さんの娘である。やれることはやったつもりだが、あとはお前に頼む」

 浩太郎は涙を浮かべ、

「承知致しました」

 と頭を下げた。

 その時、おさよは母お久と一緒に、部屋の端に座っていたが、ふと雨の庭に視線を移すと、女が一人蹲り、雨に打たれ平伏していた。

 お華である。

「お華ちゃん!」

 おさよが、身体を浮かせて言うと、浩太郎が顔を上げ、庭に向かって裸足のまま飛び出した。

「馬鹿者!」

 と言いながら、お華の襟首をもって起き上がらせ、

「お前は、父上に最後の挨拶もしないつもりか!」

 頬を平手打ちした。

 雨でどろどろになっているお華だったが、それでも泣いているのがわかる。

「でも兄上! あまりにも恐れ多く。申し訳無くて……」

 叫ぶように言ったが、

「それならば、余計に礼を言わなければなるまい。お前は正真正銘、桜田家の娘なのだ」

 浩太郎は引き摺るように、お華を父の枕元に連れて行った。

「お父上~!」

 お華は、大泣きで病床の段蔵にすがる。

 段蔵は、泣き叫ぶお華を見る。

 段蔵の最後の顔はとても優しかった。

 

 おさよは、しみじみとした様子で、

「あの時のお顔は、とても良いお顔でした」

「あいつは、最後まで養女の負い目から抜けきれなかったからな。父上は、俺には家がどうとか、お役目がどうとしか言わなかったが、最後にお華の顔を見たときは、幸せになるんだぞと言って、良い笑顔で逝ってしまわれた。本当に可愛かったのであろう」

「そうでしょうね」

「芸者の次はお手先か……。俺は確かに父上の後を継いでるよ」

 浩太郎は幾分目を潤ませ、大笑いした。

 するとおさよが、

「そう言えば、お母様が生前、私の母上と話していました。浩太郎が子供好きのおかげで、お華は何の心配なく娘になれたって」

「へ~母上が? そうは言っても大変でしたよ。子供の頃、手習いから帰ったら、そこに」

 と、傍らの畳を指さし、

「知らない赤子が寝てるんだ。あの時は本当に驚いた。しかも大泣きに泣き始めるもんだから、抱きながら右往左往さ。あの時から困らせてたからな、あいつは」

「私もまだ幼かったから、あまりよく覚えておりませんけど、よく負ぶわれてましたね」

 浩太郎は頷き、

「母上は子供好きにかこつけて、俺を世話係にしたってとこだな」

 二人はまた笑い合った。

 すると、おさよは、

「でも、なんでお手先に、何て言い出したのでしょう」

 浩太郎は頷き、溜め息をつく。

「仇討ちのつもりだろう」

 おさよは意外な言葉に驚いた。

「仇討ちですか?」

「うむ。実の父と母のな」

「あっ!」

 おさよは納得したものの、

「でも、何で今頃」

「はは。おさよ殿が、輿入れすると聞いたからじゃないかな」

「この家の先が決まったから、今度は、ってことでしょうか?」

「あいつの考えそうなことですよ」

 複雑な苦笑いである。

 

 お華は、もともと神田人形町にあった、中程度の呉服屋に生まれた娘であった。

 ある日の夜中、この店に押し込み強盗が入り、一家惨殺で金が奪われる事件が発生した。

 知らせを聞いた浩太郎の父、段蔵は、現場にいち早く到着したが、皆殺しの、何とも陰惨な様子を見て、立ちすくんでしまった。

 しかしそんな時、赤子の泣き声が、どこからか聞こえてきた。

 慌てて探しまわると、声は土間の米びつの中からだった。

 そこには、赤子が、花を一本、胸に挿し沿われ泣いていたのだ。 お華の命名はここから来ている。

 段蔵に抱き上げられたお華は、安心したのか泣き止み、

それはかわいらしい笑顔を向けた。

「なんと、お前さんだけが生き残ったのか」

 段蔵は、一目でこの子が愛しくなり、養女にすると決意してしまった。  お里もお華を見て、言葉に従ったという訳だ。

 それが浩太郎と、居間での大騒ぎとなっていく。

「あれ以来、父上は勿論。俺も気には掛けていたのじゃが、殆ど手掛かりが残されていない。気の毒ではあるが、蔵入りじゃ」

「そうですか……でも、あの子は幸せですよ。ああして、好きなことが出来るのですから」

「それじゃ。本当に好き勝手なことばかりしてるよ」

 と二人は微笑む。

 今回もご覧頂きありがとうございます。

 出ましたね「遠山金四郎」。

 この頃の江戸を書く以上、この人は外せません。

 ある本には、「この人は実際の人物ではない。と思ってる人が多い」

 と書いてありました。

 確かに、桜吹雪ですからね。どうしても芝居じみている。

 本文には出ませんが、この人は、在職当時から名奉行で有名で、

 天保十二年八月十八日に行われた、「公事上聴」(将軍臨席の裁判)においては、

 二件の裁判を行い、将軍家慶から、「奉行たる者、左もこれ在るべき事」と褒めちぎられたぐらい、最高の評価を受けています。

 現役から「名奉行」と言われたのは江戸時代、この人一人。

この事は、今後の話の展開に繋がっていくことになります。

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