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お華の髪飾り  作者: 本隠坊
2/37

②お華太夫参上

(1)


 とんだ「奉行所の乱」で手間取ったが、奉行所を後にした浩太郎は、一人で浅草元鳥越に向かって歩いていた。

 浩太郎は、砂埃にまみれた羽織の裾を見て、

(また洗濯か?)

 などと苦笑いしながら、永代橋手前で左に進んでいく。

 向かう先は、蔵前の米蔵に近い町屋の一角にある「すみや」という煮売り酒屋である。

 煮売り酒屋は、大根など野菜の煮込みに、飯や、酒を出す。

 要するに今で言う、居酒屋である。

 ちなみに、これより少し前の文化文政の時代。

 江戸には、既に千八百余りの居酒屋があったという。

 この時代の食糧事情等を考えると、独身の男、とりわけ酒好きには、ありがたい店となっている。

 実はこのすみやは、浩太郎の父が生前使っていた、目明。

 この頃は手先と言われた、親分が商う小体な店である。

 今は主に、その息子夫婦がやっており、親分は近所の裏店に夫婦で暮らしている。

 奉行所に繋がるすみやだからか、ゆすりたかり、食い逃げなど、こういった店にありがちな、問題は滅多に起きない。

 お客は「四文二合半(しもんこなから)くんな」などと、酒の種類と量を注文し、前金で払うのが、すみやの原則である。

 面倒の様だが、これが客にとっては、深酒や余計な支払いをせずに済み。妙な問題も無く、安心して飲める店とかえって評判になり、また、蔵前という場所柄も手伝ってか、結構繁盛しているようだ。

 そしてすみやは、この頃、殆どの店がそうであるように、朝から営業している。

 浩太郎が着いたのは、朝食や、朝帰りの客が丁度引けた時だった。

「ごめんよ」

 暖簾を、ちょいと手で上げると、

「いらっしゃい!」

 平吉という店の主人が、威勢良く言いながら振り向くと、同心姿に気付いた。

「これは、若様ではございませんか、お久し振りにございます」

 平吉は近寄り、深く頭を下げる。

「すまないな忙しいところ。親分に会いたいと思ってな。今は長屋かい?」

「いえ。先程うちの子連れて散歩に出かけちまいまして、すぐに戻ると思うのですが……」

「そうか。悪いが待たせて貰っていいかな?」

「へいそりゃ、構いませんとも。申し訳ございません」

「いやいや、いいんだ」

 浩太郎は羽織を脱ぎ、小上がりではなく、酒樽を逆さにした、腰掛け代わりに座った。

 その親分の名は省蔵といい、蔵前の省蔵で通っている。

 お手先もピンからキリまでいるが、浩太郎の父親が見込んだだけあって、筋の通った親分として、蔵前、浅草近辺では有名である。

 親分は、昔から八丁堀の屋敷に様々報告に来たりしていたので、浩太郎も、幼い折りから良く知っている。

 すると、平吉の女房おていが、二階から階段を下りてきた。

「おや」

 浩太郎に気付くと、さっと降りてきて、

「これはこれは、若様。いらっしゃいませ」

これも、深々と頭を下げた。

「おう、おていさん」

「御先代様の御葬儀以来でございますね」

「あの折は、わざわざ皆で来て貰ってありがとうな」

 すると、平吉がすかさず、

「何をおっしゃいます若様。御先代様には、それは色々とお情けを頂戴致しました。当たり前の事にございます」

 手先に、公式の手当など無い。

 仕える同心の懐から、微々たる金を受け取り活動するのだが、到底、満足のいく額ではない。

 次第に、善悪二足の草鞋を履くような者も出てきてしまう。

 役目を笠に着ての、金銭目的の悪行があまりに酷い為、幕府から何度も禁止令が出てしまう程であった。

 とはいえ、広い江戸を少ない定町同心のみで、治安を維持するのは事実上不可能である。

結局のところ、南北両奉行所では、こうした者たちを表向き、

「同心出役先 物持人足」

 と称していて、代々の奉行も黙許している。

 浩太郎の父はその辺抜かりなく、生活面も行き届く様にすみやを与えたのだ。

奉行所与力・同心は、下級武士の中で、比較的裕福な内証と言われているが、ここまでしてやるのは、並大抵の事では無い。

 

 しばらく三人で話していると、そこへ省蔵が、千代と言う名の孫を背負って帰って来た。

 厳めしい印象は少しも無い、好々爺と言っても良い男である。

「親父、若様が」

 と平吉が言うと、省蔵も浩太郎に気付き、

「これは若様!」

「親分、ご無沙汰」

「よく、おいで下されました」

 千代をおていに預け、浩太郎の前に跪く。

「定町御本役ご昇進。おめでとう存じます」

 省蔵は、笑顔で頭を下げる。

「やめてくれよ、ご昇進なんて」

 浩太郎は、恥ずかしそうに手を振る。

「いえいえ。御先代様の後を立派にお継ぎなされて、あっしも嬉しゅうございますよ」

本来、御家人である与力同心は、世襲出来ないことになっている。

 しかし、その家の嫡男は父親の在任中、見習いとして奉行所に出仕し、父親の引退時に、新規採用として任務に就くことになっていて、事実上の世襲制が引かれている。

「親分が父上を助け、お役目に貢献してくれたお陰だよ」

 浩太郎は、省蔵の肩に手を掛ける。

「もったいない事を……」

 省蔵も平吉達も、嬉しそうな笑顔である。

「ということで、また父同様、助けて貰いたいのだ」

 と言ったが、省蔵は顔を曇らせ、

「喜んでと言いたいところですが、あっしも老いぼれてしまいました」

 悲しそうに詫びる。

 浩太郎は笑顔で、

「良いんだよ。なにも走り回って、捕り物してくれってんじゃないんだから。これまでの親分の経験は、我が父の経験でもあるだろう。俺が教えを全て受ける前に、慌てて死んじまったからさ。色々相談に乗って欲しいって事だ」

「なんと恐れ多いことを仰います。そのような事でよろしいのでしたら是非ともお役に立ちたいと存じます」

 と頭を下げ、

「平吉もおりますので、いざという時はいつでも」

 省蔵に笑顔が戻った。

「早速なんだが……」

 浩太郎は事件のあらましを語る。

「親分、噂聞いてるかい?」

「いえ、初めて耳にしました」

「ちょうど……」

 おていが抱いている千代を指さし、

「この子ぐらいの子供達らしいんだ。やはり、拐かしではないかと思うんだが、どうだろう」

「あっしもそう思います。お宝の事なんかはいかがで?」

「ところがだ。何も言ってこないんだ。売っちまうにしても、こう何人もでは目立ってしまって、一遍には出来まい。こうなると、どこから手をつけようか迷っていてね」

「なるほど。向こうが動かないなら、こちらから手繰って行かなければなりませんね」

「そうだ。ただ、俺があまり表立っていくのはまずかろう。慌てて子供に危害があっては元も子もない。だからまず、親分の若い者を使って、目立たないように話を集めて欲しいんだ。それと、浚われても届けずにいるところが、まだあるかも知れねえ。そこんところも探って貰いたいんだ。届け出のあったところは、俺がこれから行ってくる」

 省蔵が承諾すると、浩太郎は立ち上がり、おていに向かって、

「お千代にも充分気を付けなさい。油断は出来ないからな」

おていが真剣な顔で頷くと、浩太郎はお千代の頭を撫でて、出て行った。

 お千代は可愛く笑い、後ろ姿に手を振っている。


(2)

 

 浩太郎は、吾妻橋西詰にある小間物屋へ足を向けた。

「ごめんよ」

 店の者が帳場から、

「いらっしゃいませ。これはお役人様」

 幾分元気の無い声で正面に座った。

「主人はいるかい?」

「私にございます。主人の五兵衛と申します」

「訴えの件につき参ったのだが、今、話は出来るかい?」

「これは、誠に御足労をおかけ致しました。ありがとうございます。もちろんにございます」

 主人は奥の部屋に浩太郎を案内した。

 用意された座布団に座り、

「早速だが、まだ何の音沙汰もないのかい?」

「はい、何も」

 五兵衛が答えると、その時、スッと障子が開いた。

 するとひとりの女性が入ってきて、無言で主人の隣に座った。

 五兵衛が慌てて、

「女房のお滝でございます。これ、ご挨拶せぬか失礼じゃ!」

 と叱りつけた。

 見るからに、思い悩んだやつれが見える、お滝は、

「すみません。どうか、うちの正太郎をお探し下さいまし、心配で心配で……」

 おろおろと泣き崩れた。

「さもあろう。その心持ちはようわかる。しかし、何も言って来ないのでは手の出しようも無い。せめてその時の様子をもう一度聞かせて欲しいのじゃ」

 お滝は泣いていて、言葉にならず、

「お役人様、私から申し上げます」

 かわりに五兵衛が事の次第を説明し始めた。

 まず、正太郎は手習いとは別に、算術指南所にも通っている。

 その日もいつもの様に、店の手代を供に向かっていた。

 ところが、その帰り道。手代が背後から棒のようなものでいきなり殴られ、失神してしまう。

 気がついた時には、既に正太郎は消えていたという。

 まだ明るい内の出来事であるが、目撃した者は誰も居なかった。

 五兵衛は当初、金銭目的と考え、あちこちから金を掻き集め用意していたが、いつまで経っても何も要求してこない。

 幾日か過ぎても変わらないため、とうとう奉行所に訴えたというのが一連の流れである。

「なるほど。そしてその手代は?」

「はい、知らせを受け、駆け付けますと、頭から酷く血を流して倒れておりました。すぐに近くの医者に担ぎこみ、見て貰ったのですが、肩の骨も折られていました。ただ、幸い命は取り留め、今は部屋に寝かしつけております。何より、正太郎が連れ去られたのが悔しいと毎日泣いております」

 浩太郎は腕を組んで、静かに言う。

「その様子では、下手人の顔は見ていないだろうな?」

「へえ、端折った足元と籠を背負っていた。としか覚えがないようでございます」

「足と籠か……。ところで主人。本所界隈で同じ様に攫われた子が、他にも何人かいるようだが、存じておるか?」

 すると五兵衛が、

「そうなのでございます。昨日もそんな騒ぎがあったようで」

 浩太郎は驚いた。

「何、昨日だと!」

「ええ、その母親の様な女が、聞き回っておりまして、ここにも参りました」

 浩太郎は腕を組み、渋い顔で、

「主人、女将。他にも苦しんでいる親が多くいるようだ。どうか諦めず、祈っていてくれ。何か動きがあれば、直ぐに奉行所に届けるよう頼む」

 五兵衛が、

「もったいないお言葉ありがとうございます」

 女将は畳に伏して号泣した。

「辛いところ良く話してくれた。見つかったら直ぐ伝えるから」

 と言い残し、浩太郎は店を出た。

 その後、昨日の件について、近所で数件聞き回ったが、新たな情報は掴めなかった。


(3)

 

 さて同じ日、八丁堀である。

 もう暮れ五つ(夜八時)を過ぎようとしている頃、

高積同心の吉沢源内は、奉行所からの帰宅の途についていた。

 例の騒ぎの後、咎人の始末や、斬られた者達の世話、そして各与力に報告など。

 浩太郎が言っていたように、かなりな手間がかかった。

 奉行所内の刃傷騒ぎは世間では意外に早く、そして嘲笑の噂となってしまう。

 しかし今回は、手当が早かったため死者も無く、源内が早期に収束したという事になっているので、それ程大事にならずに済んだ。

 おかげで、与力衆からは労いの言葉などを浴びたりして、いつもより、かなり遅い刻限となっていたのである。


 まもなく八丁堀の屋敷というところで、提灯を持って先導していた従者の正吉が、突然、声を上げた。

「おや? 旦那様。お屋敷の前で誰か倒れている様な……」

 その言葉で、源内も先の方へ目を凝らすと、確かに黒い物が横たわっているように見える。

 早速、早足で近づいてみると、やはり人のようだった。

「我が家の前で、斬られたのか? 行き倒れか?」

 先に近づき、様子を見た正吉が、

「斬られてはいないようで……あ! これは女にございます」

 源内も近づき、跪いて抱き起こす。

 うつぶせで倒れていたから、よく分からなかったが、光を当てて改めて見ると、黒羽織をまとって、中に粋な着物を着た、如何にも深川芸者という娘だった。

「く! 酒臭いな」

 源内は眉を寄せる。

 正吉が提灯の光を顔に当てると、源内の眉が上がった。

「ん? この女は」

 源内は途端に笑みを零し、正吉に、妻のお久を急いで呼んで来るよう命じた。

 呼ばれて外に出てきたお久は、源内の姿を見て驚く。

「旦那様、お戻りなさいませ。え? どうなされました」

 源内は笑い。

「芸者の行き倒れじゃ。ただし隣の娘じゃがな」

 などと言うものだから、すぐ源内と入れ替わり、その娘を抱いて顔を見ると、お久はまた、驚いた。

「あら、お華ちゃんじゃないの! なんでこんな?」

 すると、おさよも外へ出てきて、

「お父上、お戻りなさいませ。どうなされました?」

 と同じ様に言った途端、様子を見て仰天した。

「どうしたんです!」

 源内は笑顔で、

「隣のお華じゃ。今日は隣に縁があるな」

「え? お華ちゃん?」

 源内が隣と言った通り、この娘は浩太郎の妹で、お華という。

 但し、本当の妹ではない。赤子の時に養女となった娘である。

 とはいえ何故、同心の妹が芸者を……と言う事情はさておき、

当然、お久もおさよも子供の頃から知っている娘である。

しかし、そんな中でも、お華は目を覚まさず白川夜船といったところ。

「むにゃむにゃ……」

 何やら赤子のような寝言を言っている。

「呆れた! この子。これでも深川じゃ人気の芸者なのよ~」

 おさよは眉をひそめて言った。

 源内が、中に入れて寝かしてやるよう言うので、みんなで持ち上げ、おさよの部屋に敷いた布団に寝かせた。

酔っ払ってはいるものの、お華太夫を名乗る、本名お華は、おさよの言う通り深川一と評判の芸者である。

 如何にも浮世絵に出てくるような美形……と言えるかどうかは微妙だが、そこそこ美人で評判の娘である。

 性格は気が強く、いかにも鉄火芸者と言えるのだが、茶目っ気な娘でもある。

 恐らく、そこが愛嬌になって、皆に好かれているのだろう。

 その後、家族は居間に落ち着き、改めて、

「どうしたんでしょう、あの子は」

 おさよが言うと、お久は、

「何か、浩太郎さんに用事があったんでしょう」

「飲み過ぎですよ」

「そうねぇ」

 と笑い、

「たぶん、家に着いたと勘違いして、つい安心して力が抜けてしまったのよ」

源内が部屋着を着て居間に座ると、おさよに、

「お華の事はともかく、浩太郎殿には礼を言わねばならぬのだ。呼んできて貰えるか? もう、そろそろ戻る頃じゃろう」

 そしてお久に、浩太郎の膳の用意を命じた。

おさよは早速、様子を見に外に出てみると、折良く浩太郎が向こうから一人でやって来た。

 浩太郎の方も気付き、

「今朝方は、誠にありがとうございました」

 歩きながら笑顔で、礼を言って立ち止まると、

「浩太郎様、お戻りなさいませ。お羽織は乾きましたのでお部屋に置いておきました。それより、父が我が家にいらっしゃるように申しております。なにやらお礼がしたいとか……」

浩太郎は、あの件かと直ぐに分かり、

「礼? それには及びません。大した事ではございませんし」

 すると、おさよは少し意味ありげに笑って、

「でも、それとは別に、お礼を言って貰わねばなりませんから」

 などと妙な事を言うので、浩太郎は不思議そうな顔をした。

「どういうことです?」

「はい。酔っ払って、道端に行き倒れになった深川の芸者。お華太夫を我が家でお預かりしてますので」

「え!」

 浩太郎は目を見開き、固まってしまった。

「おさよ殿! お華って、一体」

「あの子、酔っ払って、我が家の前で倒れ込んでいたんですよ。父上が見つけて、私と母で部屋に運んで、寝かせております」

 おさよは、何やら嬉しそうに話すが、浩太郎はあまりの事に、

「そ、それは誠にもって申し訳ございません。あんの馬鹿者めが! すぐさま参ります」

 浩太郎は慌てて源内の屋敷に行き。挨拶もそこそこに、源内の前で平身低頭で、許しを乞う。

「うちの馬鹿者が、とんだ不調法でご迷惑を。誠に申し訳ございません。お許し下さい」

 すると、源内は笑って手を振り、

「なに、あの子は娘同然じゃ、気にすることは無い。のうお久」

 かたわらに座っているお久も笑顔で頷き、

「まあ、さすがに驚きましたけどね。でも、あの子らしいですよ。相変わらず面白い子です」

 穏やかに言ってくれれば言ってくれるほど、浩太郎は恥ずかしくなってしまう。

「直ぐ様叩き起こし、連れて帰ってひっぱたいてやりますので、どうかお許し下さい」

すると源内は首を振り、

「良いのじゃ良いのじゃ、寝かしておいてやりなされ。それより本日奉行所での事。こちらも礼を申さねばならん。誠にかたじけない」

 頭を下げ、そして源内は、奉行所での出来事をお久とおさよに話して聞かせた。

 さすがに浩太郎は、

「いえいえ、あれはおじさまが、曲者をとどめ置いて下さったから出来たことで、私は大した事をしておりません」

 いつもの呼び方に戻って、恐縮している。

「何を申す。まさにそなたの親父殿を思い起こさせる働きであったわ」

「はは、そんな」

「あれから、年番与力様や内与力様などからもお褒めの言葉を頂いたのだが、そなたあってこその事であったからの。せめて夕飯でもと思ったのじゃ。何故かお華まで来ておるし、丁度良い。ゆるりとしてくれ」

 浩太郎も、何だか可笑しくなって、

「いや~兄妹でお世話になって、誠に申し訳ございません」

 と頭を下げ、笑顔になった。

そしてお久とおさよが膳を運んできて、ささやかな宴になった。

 源内が、

「わしももう年じゃ。あの程度で倒れてしまうなんぞ、武士として恥ずかしい」

 いささか悲しげに述懐すると、浩太郎は、

「いえ、おじさまはさすがにご立派でございました。それに比べて他の連中は動くことすら出来なかったんですから。あれはどうしたものだか」

「そう言ってくれると嬉しいがな。そうそう、久々に手裏剣を見せて貰ったから、親父殿を思い出してしまったのじゃ」

「たまたま、上手くいっただけにございますよ」

 照れるように首に手をやる。

「昔、捕り物で、親父殿の手裏剣を見たことがあっての。感心したものじゃ。ちゃんと受け継いでおるのじゃな」

「ありがとうございます。おじさまもご存じの通り、本当かどうか定かではありませんが……父は子供の頃から、我が家は甲州忍者の家系だと、それはうるさく言っておりまして、毎晩手裏剣の稽古でしたから」

 すると、おさよも、

「私も小太刀の稽古をつけてくれましたよ。身を守る為にって」

 源内はそれには笑って、

「あれは余計だったな。可愛がってくれたのはありがたいが、気も強くなってしまって、行かず後家じゃ」

「まあ、お父上」

 おさよは膨れるが、源内夫婦は大笑いである。

 浩太郎も笑みを浮かべ、

「手裏剣習って、芸者になるお華に比べれば、遙かにマシですよ」

 と盃に口を付ける。

 すると、源内が姿勢を正し、

「そこでじゃ。わしはそなたの親父殿との約束を果たさなければならん」

「父とですか? 一体何を」

「そなたに、このおさよを貰って欲しいのじゃ」

 浩太郎は、いきなりの話に目を丸くした。

 おさよも、え? という表情だ。

「ち、ちょっとお待ち下さい、おじさま! その様な事。我が父と約束などしてらっしゃったのですか?」

「うむ。生前、見舞いに行った時、養子で良いから頼むと言われてな……。だがな。お久とも相談して、やはり嫁に出そうと決めたのじゃ」

 お久も、笑顔で大きく頷く。

 おさよは、どういう顔をして良いのか分からず下を向いている。

 しかし、浩太郎は当然ながら、

「しかし、おさよ殿は総領娘。それではこちらのお家が」

「いや。それは良いのじゃ。我が家は分家であるし、南町に勤める本家の方には嫡男がおるからの。それほど拘らなくてもよいのじゃよ」

 そう言われてしまうと、浩太郎には返す言葉がない。

 すると源内が、

「こんな娘では御不満かな?」

 浩太郎は慌てて手を振り、

「不満なんてとんでもございません。おさよ殿とは子供の頃からの仲。気心も知れておりますし、願っても無い事とは存じますが、何だか申し訳無く」

 するとお久が、

「良いんですよ。嫁に出すと言っても隣ですから、心配も少なくて私たちもありがたいし。家の事だって、子供が二人できれば、あっという間に解決ですからね」

 和やかに言い、そして、おさよに目を向けながら、

「それに、そもそもこの子は、あなたの元へ参りたがっているようですからね」

 これを聞いて、

「母上、何と言うことを!」

おさよは顔が真っ赤だ。

 源内も満足の様子で、

「不幸が続き、こちらもつい、言いそびれて伸び伸びになっておったのじゃ。それでは承知してくれるの?」

 実は浩太郎としても、おさよを想わなかった訳ではない。

 家のことで諦めていたのだが、こうとなれば断る理由は無い。

「はい。誠に持ってありがたいお話でございます。おさよ殿がよろしければ是非」

 浩太郎は平伏した。

 するとお久が笑って、

「この子が嫌なわけありませんよ。家じゃしない洗濯までしてあげてるんですもの。はぁ~良かった」

 これには下を向いて赤くなってる、おさよ以外、大笑いだ。

「おじさま。おばさま。亡くなった父母に顔向け出来るようになりました。ありがとうございます」

 改めて浩太郎が礼を言うと、おさよも嬉しそうに頭を下げた。

 しかし、何も知らないお華は、布団に包まって気持ち良さそうに寝ている。

 

 ところで、亡くなった浩太郎・お華の父は段蔵。母はお里といった。

 段蔵も、北町奉行所同心定町廻りであった。

 段蔵は有能な男で、蔵前の省蔵と組んで、数々の事件を解決した。

 自ら忍者の子孫だったと言うように、武芸は達者だったが、奉行所上げての捕り物などには、或る時期を除いて、一切関わらなかった。

 どうも、自分の武芸は影のものと、妙な忍者の信念がそうさせたようである。

 しかし一方で、子供達。

 浩太郎を始め、おさよとお華には、奉行所から帰ると、それぞれ、小太刀手裏剣を指導するという事に熱心だった。

 後進に伝えると言うよりも、単に子供好きからくるものだったのかも知れないが、四人は楽しい時間を過ごしたようだ。

 浩太郎はともかく、おさよとお華には当初、本当に遊び半分の護身術という程度の稽古であった。

 ところが、意外にも二人とも筋が良く、つい本気で武芸の指導をしていた様である。

 そして、お里は、おっとりとした母親で、浩太郎は勿論、養女のお華にも常に愛情を注ぎ込み、また世話焼きで、自分の事より子供達と考える女だった。

 しかし身体が弱く、お華が一人前の芸者になった時に早世してしまった。

 お里を送ると、段蔵も後を追う様に亡くなった。

 その折の浩太郎、お華の悲しみは計り知れない。

 特にお華は、狂った様に泣き崩れた。



                             (つづく)

 ようやく主人公が登場しました。

気に入って頂けると嬉しいです。


 この頃は、家制度により、あちらこちらで養子・養女がおりました。

 まあ、「お華」の場合はちょっと珍しいですが、 無かった話でもありません。

 この頃は、女性の職業選択の余地がほとんど無い時代。

 その中でも頑張っている「お華さん」をよろしくお願い申し上げます。

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