後編
ざりざり、と、地面を苛立たしそうに蹴る音がする。
「遅い!!」
声の主は、大天狗だ。
「あらあら。青鬼と楽しく遊んでいるんじゃないですか?」
そういうのは、妻の烏天狗。
「ねー、俺はいつになった青鬼のところに行けるの?」
口を尖らせるのは息子の天狗だ。
「うるさい!!」
大天狗は一喝したが、妻と息子はどこ吹く風だ。えー、とか、まあまあ、とか、全く焦りも怒りもない様子で青鬼が住んでいる山を見ている。
「青鬼に何かをされていることはないだろうが、それより、あの子が何かしてるんじゃないか…山の木を折ったり、岩を投げたり…」
「見てる限りはそんなことは無さそうですけど」
小鬼がいるであろう山を見ながら言った烏天狗の言葉に、大天狗は、ん?と振り向く。
「見てる?何をだ?」
「いえいえ、見えないから大丈夫なんですけどね」
よくわからない。
さらに大天狗が目をこらしたその時、視線の先の山で、なにかが光った。
「あ!」
烏天狗が、素早く駆け出した。
「何だ?」
慌てて大天狗も、息子を小脇に抱えてあとを追い飛び立つ。
空から行けばたいした距離ではないが、羽がない鬼たちを探すため、山に差し掛かったところで地表に降り立った。
「父さん、数珠があるよ」
天狗が言った。正確には数珠の、珠だ。
烏天狗が見たのはこれが夕日に反射した光だった。
「あった」
矢が刺さったままの鳥を見つけたのは、小鬼だった。
「こっちもだ」
青鬼は、鹿を持ち上げた。先ほど見つけた兎も数羽、もう片方の手に持っている。
「多いな」
小鬼の言葉に青鬼もうなずく。
「きょうのにんげんは、とくにころすのがすきなやつなんだな」
山に入って獣を殺し、それを持ち帰って自慢する人間が大半だが、ひたすら殺してだけいく者もいる。
「なんか、嫌だな」
眉間に皺を寄せながら、小鬼は鳥に刺さった矢を抜いた。血が滴る体は、まだ温かい。
「こおに」
鹿を再び地面に置き、青鬼は夕日が沈む方角を見る。
ん、と小鬼も同じ方を見た。逆光の中、人影が現れた。
「これはおもしろい。鬼か!1つ目の鬼だ!」
威勢よく叫んだのは、侍か。馬に跨がり、弓を持っているが、獲物は下げていない。
どうやら、今日やたらに獣に矢を放っているのは、この男のようだった。
「なんだ。子供がいるのか?鬼にさらわれたのか?」
まだいくらか日の光は届くものの、20歩ほど離れた薄暗い林の中では、小鬼の赤い髪も闇に近い色に見えるようだ。
そして、まさか1つ目巨人の鬼と、人間にほど近い容貌の小鬼が一緒にいるとは思わないのだろう。
「子供よ、俺が助けてやろう」
居丈高にそう言うと、侍はおもむろに弓矢をつがえた。
狙いは、青鬼の1つ目。しかし、放たれた矢は、青鬼が払った手であっさり地に落ちる。
すると、にやりと笑って腰に手をそえた。刀を抜く気だ。
「止めろよ」
小鬼が不快感を顕にして言うので、侍は驚いた。
「子供が鬼を庇うのか?」
「こいつは何もしてない。兎や鹿を殺したのはお前のほうだろ」
侍が、片方の眉を上げる。
「さらわれてきた子供じゃないのか。口のききかたを知らない、山育ちか。それなら助けてやる道理は無いな」
そう言うと、あろうことか刀を小鬼に向けた。小鬼は素早く馬に駆け寄り、体当たりをする。馬から転げ落ちた侍は、自分に殴りかかろうとする子供を必死に押し退けようとして、その頭と、生えている骨のようなものに触れた。
「…角?」
すでに日は落ちかけている。薄暗がりの中で、鋭い爪が、侍の首筋に食い込む。
小鬼に組み敷かれた侍は無我夢中で刀を振り回した。
ぷつっ、と、小鬼を掠めた刀が数珠に引っ掛かり、糸を切った。反射的に、小鬼は侍から離れて飛び退く。
「ああっ…」
青鬼が手を伸ばした。刀は、小鬼の首にもうっすら傷を付けたようで、つつ、と血が垂れている。
小鬼は、無言で血を拭うと、次の瞬間に侍目掛けて再び襲い掛かった。
「だめだ!」
小鬼が我にかえったとき、その鬼特有の鋭い爪は、侍をかばった青鬼の腹をえぐっていた。
侍はというと、青鬼の下敷きになり気を失っている。
血の匂いがする。
人間の血とはちょっと違う、獣のような匂い。青鬼の血の匂いだ。
「…俺」
自分がやったんだ。そう悟った小鬼は、愕然としたが、青鬼は笑いながら手を伸ばした。
「だいじょうぶだ。すぐなおる。それより、えらかったな、おまえがちょっとちからをぬいてくれたから、おれもこのくらいですんだ」
よいしょ、と起き上がってその場に胡座をかいた青鬼の脇腹は、確かにもう血が止まりかけていた。
いいか、と、泣きそうな顔をして座った小鬼に、青鬼は向きなおった。
「おまえは、つよい。だけど、まちがったつよさは、じぶんもまわりも、だめにする」
もう、日は完全に落ち、月明かりが木々の隙間から漏れている。
「そんなに、つよがらなくても、いいんだ。おまえには、うたをうたってくれるひとがいる」
人影が、近づいてきた。
顔を上げると、大天狗と、烏天狗。
遠巻きに様子を伺っていたようだ。小さな天狗は、すでに父親の腕の中ですこやかな寝息をたてていた。
一歩近づいた烏天狗の手には、ばらけた数珠の珠が1つ握られている。
「大丈夫?」
白く細い指が、小鬼の首筋に触れる。こちらもすでに、傷痕が消えかかっている。うん、と頷いて、小鬼は大人たちを順番に見た。
「侍は、あとでもう少しふもとに運んでおく。夢でも見たと思ってくれたらいいが」
うん、と青鬼もうなずいた。
「帰るか」
大天狗は、小鬼の肩に手を添えた。しかし、小鬼は動こうとしない。
「俺、今日までここにいるって言ったから。明日帰る」
赤い目で、まっすぐ大天狗を見た。
そうか、と言い、大天狗は青鬼を見た。
青鬼は、嬉しそうに笑った。
青鬼と食べる最後の夕飯は、美味しかった。
何日一緒に過ごしたかわからないけど、とにかく色々な経験をした。
とにかく、楽しかった。
夕飯を食べ、小鬼が、洞穴に寝転がりながら歌を口ずさむ。
「こもりうただな」
青鬼はそう言うと、歌詞を土に指で書く。
俺はまだ字を習ってないんだ、と小鬼が口を尖らせると、青鬼は笑って続きを歌い出した。
小鬼も、声を重ねる。
1番を歌い終わったところで、小鬼が聞いた。
「なあ、青鬼にもこの歌を歌ってくれた人がいたのか?」
「ああ」
2番を、青鬼はすらすらと歌い、そのまま3番まで歌いきった。途中から、小鬼は黙って青鬼の歌声に耳を傾けていた。
「俺と同じ、赤い目だったんだな」
「そうだ」
青鬼に子守唄を歌ったひと。
小鬼は、自分に似ている者に出会ったことはなかった。
赤い目の人、か。
「母ちゃんかな」
「そうかもな」
ふたりは、にっこり笑いあう。
母ちゃんか。
烏天狗みたいな、優しい人だといいな。
「やさしいひとだった」
青鬼が、小鬼の心を読んだかのように言う。
そうか。
そう思っただけで、気持ちが温かくなった。
その、優しい赤い目の人と出会ったから、青鬼は優しいのかな。
それとも、青鬼が優しいから、その人と出会えたのかな。
「そうか」
俺も、優しくありたい。
青鬼のように、見たことの無い母のように。
いずれ暮らしを共にする大事な人と、心安らかに過ごせるように。
「ただいま!」
翌日の昼、明るい声が、天狗の山にこだました。
小鬼の声を聞いて真っ先に現れたのは、小さい天狗だ。
「おかえり!」
子供たちは笑いあい、すぐに駆け出し遊びに行ってしまった。
何日も会っていなかったことも、多少危ない目に遭ったことも、日々溢れでる好奇心のままに駆け回る子供たちにとっては、取るに足らないことなのだ。
もう数日経つと、すっかり山は平穏な空気を取り戻した。
大人たちが小さな鬼の帰宅をやきもきして待っていたのも、もうだいぶ前のことのように感じる。
「元気だな」
大天狗は、呆れたようなほっとしたような溜め息をつく。小鬼は青鬼の山から無事に戻ってきたが、青鬼はどうしただろうか。
人に危害を加えたか、たとえそれを見た者がいなくても、ただ、異形の姿、見かけが鬼というだけで疎まれる。青鬼はよそから来たらしい、と小鬼が言っていた。きっと、彼もどこかから追われてきたのだろう。
青鬼には、友達がたくさんいるから、大丈夫!
自分も、という意味も込めて小鬼はにこやかに言った。
「元気に、たくましくなって帰ってきましたね」
烏天狗も微笑を浮かべ山を見渡しながら言う。
すると、突然山が揺れた。
どん、と一度だけ。しかし、かなりな衝撃である。
「…何だ?」
さすがの大天狗も、得体の知れない出来事に不安を隠せない。しかし烏天狗の表情は、驚いた様子からすぐに合点がいったものに変わった。
「大天狗ーー!」
そこに、小鬼が駆けよってきた。天狗や、ほかの小さな烏天狗たちも数人いる。
「…お前、今のが何か知ってるのか?」
「うん。一本松に行けばわかるよ」
一本松とは、この天狗の屋敷からやや離れたところにある樹齢もわからないような老木だ。
「屋敷の近くだと危ないから、これを目印にしてくれって頼んだんだ」
目印?
頼んだ?
「欲しいって言ったらくれたんだけど、また持ったまま山を越えるのも面倒だったからさ」
不審な顔の大天狗をよそに、小鬼は軽々と岩を飛び越え木々をすりぬけ一本松目掛けて駆けていく。
一本松が生えているのは、なだらかな斜面のすぐ上だ。枝は、青鬼が住む山に向かって伸びている。
「まさか」
大天狗は、急いで追いかけた。
「あった!」
小鬼が叫ぶ。
固い山肌に、黒い棒が深々と突き刺さっていた。輪になっている持ち手に、何か布が巻かれている。
ひょい、と身軽に跳びあがり、そのまま斜面を軽やかに滑り降りた小鬼は、適当な凹凸に手と足をかけると、黒い金棒の輪っか部分を空いてる方の手で無造作に掴んだ。
「よいしょ」
一気に引き抜く。
小鬼の腕より太い金棒が、細い枝のようにするっと抜けた。
「そーれ」
抜いた金棒を、持ち手の輪に入れた指を中心にしてくるりと回し投げる。重量に見あわない緩やかな放物線を描いて、金棒は一本松の隣に立っている、大天狗の足元に落ちた。
ずん。
鈍い音。
大天狗はすでに何も言う気力がないのか、溜め息を吐いて足元を見た。
あらあら、と烏天狗は遠巻きにそれを見ていたが、一歩近づき、金棒の輪に巻かれた布を手に取った。
「あら、これお弁当を包んでいた手拭いじゃないの」
笑みを浮かべ、そこに泥で書かれた文字を、ゆっくりと読み上げる。
「またこいよ、ですって」
武骨な、優しい字。
すでに斜面を上ってきた小鬼は、とても嬉しそうな顔をしていた。