前編
赤い髪の鬼の家には、金棒がある。
ある夜半、鬼の家に、別の鬼がやってきた。
肌は青、角は1つ、目も1つ。
額から真っ直ぐ、触れるものを突き刺せるような、顔くらいの長さもある角。
それを、赤い髪をした5歳の小鬼は、根元から無惨にへし折ったのだ。
「お前なあ…。もう少し手加減てものを知らないのか?」
ため息をついているのは、大天狗だ。
「…だって」
「だってじゃない!」
言い訳をしようとした鬼の頭を、大天狗は軽く小突いた。
いてえ…。
そう呟いて口を尖らせる鬼に、大天狗はなお言う。
「いいか?青鬼は別にお前に危害を加えようとしたわけじゃない。それをお前は…」
「わかってるよ、そんなこと」
頬を膨らませ、不満そうな表情だ。
「俺はただ、長い角が面白いなって思って…」
自分の角は、2本。
骨が隆起したような形状で、それほど大きくない。
「だからって。不用意に触っちゃいけないんだ。その者たちにとっては、とても大事なものかもしれないんだから。それこそ命に関わるような」
「あ、わかった。天狗の羽みたいなものか!」
納得したような鬼の笑顔に、大天狗はため息をついた。
そうなのだ。
鬼退治を人間に請われ、いざ向かった山にいたのは、自分が何者かもわからないような、自分の息子とさほど変わらぬ体格の小鬼だった。
この赤い髪の鬼に、親のように色々教えていこうと考えた生真面目な大天狗は、自分たちが住む天狗の山に鬼を連れていった。
子供の足でも力強く山道を歩き、疲れたそぶりは一切ない。さすが鬼か、と感嘆していると、思った以上に早く自分たちの山へ着いた。
長の連れてきた鬼とはどのような者か、警戒しながら様子を見に来た烏天狗たちは、幼いながらも整った顔立ちの鬼を見て、可愛い!と鬼に群がる。
押し合いへしあいしているのは、もちろん、女性ばかりだ。
大人の女性の豊かな体に抱擁された鬼は、初めての感触に戸惑い、またなんとも言えない心地よさを感じ、自分を抱き締めてる烏天狗の体を触り、ふと思った。
背中に、よくわからないもの。
なんだろう、これ。
言葉を知らない彼は、相手に何か問うことも知らない。
そういえばさっきも見た。鳥と同じもの。だけど、色が違うな。
なんだろう。
再びそう思って、指に少し力を入れた瞬間、耳元でぎゃっと悲鳴が聞こえた。
あわれ烏天狗。羽を思いもよらぬ怪力で握られ、痛みに悶絶している。
「…あれは…気の毒なことをした…」
長としても、同じ天狗の羽を持つものとしても、これはちょっとよろしくない、と生命の危機さえ覚えた大天狗は、鬼にまずはこんこんと諭した。
いいか。
むやみに触ったり、力一杯握ったらいけない。
言葉がほとんどわからない鬼に、身振り手振りで、さらには自分の羽を指して、「これ」と教えようとした瞬間、鬼の手が伸びてきて慌てて飛び退いた。
根気よく、時折大人げないほど間合いを取りながら、大天狗は鬼に言葉をはじめ様々なことを教えてきたのである。
だいぶわかってきたと思ったんだけどな。
大天狗はそう再度ため息を付いて、無惨に折られた青鬼の角を見た。
…ない。
「おい、角知らないか?青鬼の…って、お前!」
大天狗の説教に飽きた鬼は、小屋の外にいる。
そして、にこにこしながら、なにやら長いものを勢いよく振り回していた。その動作に合わせて、重い風の音がする。
金棒だ。片手に金棒。そして片手に、角。
「…お前それは」
どう見ても子供に持てるものではない。しかし、鬼は片手で軽々と金棒を左右に振っている。
「いいだろ。昨日来たやつが持ってきたんだ。昨日のやつは、これで松ぼっくりを飛ばしてたよ。ひゅーっ、て、すごい遠くに飛んだから、これも飛ばしてやったら角もあの青いやつのところに届くよね。大天狗さま、見ててよ」
うわあ、と、間抜けな大天狗の声は、金棒が起こす風の音にかきけされた。
あ。
遠くまでよく見える天狗の目でも追いかけられないくらいの速さで、角は山の彼方へ吸い込まれていった。
ああ…
大天狗は膝をつく。
「あれ?届いたかな?」
鬼はのんきに、角が消えた方角を見ている。
「お前は…青鬼がどこから来たのか知ってるのか?」
「うん。あっちって言ってた」
そう言って、いましがた自分が角を飛ばした山を指差す。
あああ…
大天狗は頭を抱えたが、親代わりとして、ここはなんとかこの無邪気な悪童を導いてやらねばならぬ。
気を取り直して立ち上がり、鬼を見下ろす。
やや威厳を取り戻すよう腕を組んでみたが、鬼は先ほどと変わらず金棒を振って遊んでいる。
そういえば、うちの子も俺の羽団扇をいじってたな…それで止めようとした俺は飛ばされたんだっけ。そうだ、家の壁を3枚くらいぶち抜いた記憶がある…しばらく腰が痛かった。
いや、違う。
腰痛の記憶を振り払い、大天狗は鬼に向かってこう言いつけた。
「いいか。その金棒は、青鬼のものだろう?」
「うん」
「じゃあ、どうしたらいいかわかるよな?」
「うん?」
鬼は、首をかしげる。大天狗は、深呼吸をしてゆっくり説明をした。
青鬼は、角を折られた際に心身ともに疲弊し、大事な金棒を置いていってしまった。だから、これは返さないといけない、と。
「そうか!わかった。これも青鬼の山に投げればいいんだな!」
鬼が、したり顔で言う。いや、さすがに投げたら駄目だろう…そもそも投げたところで届くのか?届いたらそれはそれで、なにかよくない気もする。
ひとまず、迂闊に投げたり飛ばしたりしないようにやんわりと制し、大天狗は鬼にひとつ、あることを言いつけた。
歩いて青鬼の住む山に行き、金棒を届けること。
但し、投げてはいけません。
これが、小鬼5歳。
はじめてのお使いである。
鬼って、なんだろう。
他の鬼は、どんななんだろう。
物心ついた時から一人で山にいた彼は、自分以外に「鬼」と呼ばれる存在を見たことがなかった。
天狗たちのように、近隣の山々へすぐに飛んで行けたり、山々を転々としながら生きていく異形の者たちは、自分と同じような、または異なる者ともしばし遭遇する。
しかし、赤い髪の彼は、たまに天狗の住む山に出向くことはあっても、わざわざ他の山へ移り住んだり、ましてや遠くへ行きたいとは思わなかった。
「今日は、天狗は来ないのかなあ。暇だなあ」
小鬼は、一人で住む山小屋の、無造作に敷かれた筵に横たわる。
天狗の家で昼寝をしたとき、天狗の母親が歌を歌ってくれた。
天狗はすぐに寝てしまったが、小鬼は横になり自分の胸を優しくたたく烏天狗を見て言った。
寝ちゃうなんてもったいないな。俺はずっと聞いていたい。
烏天狗は、なぜだかちょっと悲しそうな顔をした。
鬼のおれには、まだまだわからないことが沢山ある。小鬼はそう思った。
そんなことを思いだし、小鬼は子守唄を口ずさむ。
しかし、烏天狗のように上手には歌えない。
「なんでだろう」
まだ言葉も完全ではないが、大天狗や、同じ年頃の天狗たちと接するうちに、だいぶ語彙も増え気持ちを伝えられるようになってきた。
でも、自分で歌っても面白くないな。
そう思ったまま寝転んでいると、ふと小屋の外に気配を感じた。
大天狗よりちょっと大きい影。
ごくたまにだが、この山にも悪意を持った何者かがやってくる。たいていは、鬼がそちらに反応すると逃げていくが、人間の場合はちょっと厄介だ。
異形のものほど力もなく、「さとれ」ない。
小鬼は、争う気などないから、さっさと去って欲しくて意識を向けるが、鈍くおろかな人間には届かず、連れている家畜が気配にやられ、時に狂ったように騒ぎ出す。
そうして、飼い主を噛み殺し屍を背に乗せた獣の姿は、人間たちを騒然とさせる。
小鬼はそんなことは知らない。
自分はただ、ここにいるだけだ。
この日も、自分の昼寝を邪魔する見知らぬ気配を、本能で威嚇しようとしただけだった。
「…なあ」
影が、話しかけてきた。
「おれ、なにもしないよ。おまえも、なにもしないだろう」
今までの来訪者とも、天狗たちとも違う、異形だけど穏やかな気配。
「誰だ」
こちらからも、問うた。それ以上でもそれ以下でもない単純な問い。
すると、青い、大きな影が身をかがめて小屋に入ってきた。
青いのは、服ではなく肌。腰には獣の皮を無造作に身につけている。その下から伸びた足も、もちろん青い。
そして、ぎょろりとした目は、1つしかない。
「こんにちは」
額から伸びた1本角をさすりながら、そう、のんびりした口調で話す。
「…こんにちは」
小鬼は、虚をつかれながらも挨拶を返した。
驚いているのは、青い鬼を初めて見たからではない、見知らぬ異形のものがきちんと挨拶をして小屋に入ってきたからだ。
「お前、えらいんだな」
小鬼は青鬼にそう、声をかけた。
「えらい?」
「そうだ」
ふんぞり返って腕を組む。
「大天狗が、挨拶をするのは良いことだ。えらいって褒めてくれたぞ」
得意げに言う幼い小鬼に、へえ、と青い鬼も感心したように言う。
「あかおには、てんぐさまとともだちなのか」
「赤鬼って誰だ」
「おまえはあかいから、あかおにだろう?」
これか?と、小鬼は自分の髪を指でつまむ。
「よくわからない。お前みたいに、肌まで赤じゃないし」
そうか、と青鬼はのんびりした口調で言う。
「それより、なんでお前はここにいるんだ?」
小鬼の問いに、ああー、とさらにのんびりと答える。
「これをとばしてたら、このやまにとんできて」
これ、と言いながら広げた手のひらには、潰れかけた松ぼっくりが乗っている。
「投げたのか」
いや、と青鬼はもう片方の手を、のそっと小鬼の目の前につき出した。黒光りした、先にとげのついた棒。
「これで」
青鬼は金棒を持ちなおす。もう一方の先端は輪になっているが、そのすぐ下の少し細いところを握ると、軽く振ってみせる。
「こう、ほうって、とばすんだ」
「へえー」
小鬼は初めて見る金棒に興味津々だ。やってみせて、とせがむと、青鬼はまた小屋の外に出る。
「あのやまから、きたんだ」
そう言ってやや遠くに頭だけ見えている山を指差し、松ぼっくりを軽く放り、一呼吸おいてから金棒を左右に勢いよく振った。
一瞬で、松ぼっくりは見えなくなった。
「すげえ!本当に山まで飛んでいった!」
小鬼は興奮している。え、なんだおまえ、いまのみえたのか?と青鬼は驚いたが、そんな話は小鬼の耳には入らない。
「なあなあ、お前、すごいな。良いの持ってるし、角もかっこいいし」
もう、目を輝かせている様は、普通の人間の子供のようだ。
「…こわくないのか」
「怖い?」
何が?と小鬼が首を傾げると、青鬼は腰をかがめて、小鬼と目線を同じくした。
そして今度は自分を指差す。頭、顔、目、からだと、青鬼の指の通りに視線を動かし、小鬼はまた首を傾げた。
「何が?」
青鬼の表情が、やわらいだ。しかし小鬼の視線はもう一度目の前にある青鬼の頭に戻る。
「格好良いな」
そう言って、ごく自然に手を伸ばした。
青鬼の、1本角に。
次の瞬間、山じゅうに青鬼の絶叫が響き渡った。
「これでよし」
いつもの着物と袴、草履。あとは弁当。
そして、長の妻である烏天狗が首から数珠をかけてくれた。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
それは、まがりなりにも鬼であるこの子にかける言葉として、どうなんだろうか。大天狗は心のなかで思う。
「いいなあ」
こちらは、息子である天狗の言葉だ。
良いのか?何が?
いずれにしても、鬼が鬼に会いにいく場面に似つかわしくない呑気さだ。
「ねえ、投げちゃだめ?」
金棒を、まるで木の枝みたいにくるくる回す、こいつが一番わかっていない。
「駄目!!」
下っ端の烏天狗が聞いたら震えあがりそうな大天狗の怒声が飛んだが、小鬼は、ちぇっ、面倒だなあ、などとぶつくさ言っている。
「まあいいや。いってきまーす」
元気に、足取り軽やかに、小鬼は天狗の山を出発した。
「いいなあー」
その後ろ姿を見送りながら、小さい天狗は、まだ言っている。
「お前は、まだ駄目」
大天狗は息子に厳しく言い渡し、自分も小鬼が歩いていく方角を見た。
「大丈夫だろうか…あいつの足なら夜までには着くだろうが」
「途中で飽きて、金棒投げちゃったりしてね」
妻はにこやかに不穏なことを言う。
「まさかな…」
「まさかねえ」
ふふふ、と、不適な笑い声が響いた。
「あー、飽きた!」
小鬼は、金棒を足元に投げ出した。
がらがら、と重くて鈍い音がする。
朝早くに出発し、走るとも飛ぶともいえぬ速さでいくつか山を越え谷を渡り、日が暮れる前に目当ての山すそまで来た。
「弁当は食べちゃったしなあー。暇だなあ」
弁当を包んでいた木の皮と手拭いを懐にしまい、金棒でそのあたりの地面をぐりぐりと掘る。
すると、掘り返した土の中に、なにやら尖った物が目についた。
「なんだ?」
かがんで手に取ると、角である。
自分が折った、青鬼の角。
「あー、あった!やっぱりこの山まで届いてた!大天狗さまに言わないと」
そうして角についた土をはらい、はたと気づく。
「そういえば、俺、青鬼の家って知らないんだっけ」
うーんと腕組みをして考えたとき、少し離れた場所から自分を呼ぶ声がした。
どしどし、と、ちょっと重い足音をたて、おーい、と、のんびりした口調で呼ぶのは、青鬼だった。
「よくきたなあ。あ、それ」
青鬼は小鬼が手にしている角を見る。一つ目が、嬉しそうに見開かれた。
「よかったあ。このあたりでけはいはかんじたんだけど、みつけられなくてなあ」
はい、と小鬼はきれいになった角を渡して、青鬼を見上げた。
「気配?」
「つのの、けはいだ。おれのからだのいちぶだからな。おまえがよこしたんだろうとはおもったんだけど、まさかうまってるなんてなあ」
ふうん、と、小鬼は自分の角を触ってみる。そんなもんなのかなあ。
青鬼は、折れた角を額にあてる。少しそうして、よし、と手を離した時には、元の通りにくっついていた。
「やっぱり格好良いなあー」
自分には無い長い角に目を輝かせる小鬼を見て、青鬼は可笑しそうに笑う。
「まあ、よくきた。それに、それもありがとうな」
青鬼は、小鬼が放った金棒を右手で軽々と持ち、左手で小鬼の体をすくうようにして、ひょいと自分の肩に乗せた。
「わあ!」
小鬼は思わず声をあげた。
大天狗の肩に乗せてもらったときより、さらに高い。
「おれのいえは、このさきだ。まあゆっくりしていけ」
大股で悠然と青鬼は歩いていく。
目の前に広がる景色を高い場所から見るのは、気持ちがいい。そして、青鬼が優しく支えてくれる手は大きく、温かかった。