地下に差し込む光
私の夢はいつも赤で染められている。
村を蹂躙した無慈悲な炎。炎に囲まれて逃げることさえ許されない絶望からくる慟哭と悲鳴。人の肉を焼く嫌なにおい。もはや誰だったのかわからないほど焼かれた死体。苦悶の表情を浮かべたまま身体の半分ほどが炎でおおわれてなお死んでいない村人。
これが神罰であればまだ耐えられただろう。あるいはモンスターが押し寄せられたのならばまだ許せただろう。
しかし、この炎は神が遣わされたものでもモンスターが吐き出すものでもなかった。
「ひゃっはー」
「エルフどもだぜー!」
人間どもの下卑た声がまだ耳に残る。
「男は殺せ! 女は犯せ! 子供はさらえ!」
炎で生き残った村人を殺す人間たちの表情は暗い喜びで満ちあふれていた。生き残ったエルフは怪我人の傷を癒したり燃え広がる炎を消したりすることに必死で卑劣な人間たちの襲撃に対応できずに殺された。
「勘違いするなよ。これはあくまで劣等な種族であるエルフどもを浄化するための聖なる儀式だ」
「へへ、わかっていますぜ」
人間の成年齢は二十歳頃だとされているが、人間よりも寿命が長いエルフの成人年齢は個人差があれどもおよそ百歳。私はエルフとしては若く、五十年しか生きていないから村の外に出たことはなく、エルフ以外の旅人が村に訪れたこともなかった。
人間という生き物について詳しくない私だったが、村を焼いたという行為に特別な意味はないということは幼かった私でも察することができた。
もちろん、そこに意味が全くなかったという訳ではなかった。だが、その理由は『人間よりも劣るエルフは絶滅すべき種族である』というエルフでは絶対に理解できないものだった。
今思えば私はあのとき生き延びようとせずに自ら炎の中に飛び込んで死んでおくべきだったのかもしれない。
「おい、これ見ろよ。エルフのくせに肌が黒いぜ」
「すすで黒く見えるだけじゃねえか?」
「いや、なんにせよ上玉だ」
普通のエルフは肌が白く、髪も太陽の光のように輝く金髪だ。でも私は生粋のエルフなのに肌は褐色で、闇のように黒く輝く髪を持っていた。
「ダークエルフか、こいつは高く売れるな」
そうして私は奴隷となった。
奴隷となった時点であらゆる権利を剥奪されたモノとなる。しかも私たちの村を焼いた帝国ではエルフは家畜同然の存在だと法律で定められている。
だから高値で娼婦として買われた私の待遇は最悪だった。
「ほら飯だ」
客が残した余り物を煮ただけの粥や家畜が食べるエサが私の食事。食事を与えられることなく泥水をすすらなければならない日もあった。
そして与えられた部屋は太陽の光が当たらない地下室であり、鎖や枷によって自由を奪われている。服もぼろぼろの雑巾のような布一切れしか与えられていないので冬には凍えて死にそうになる。もちろん安くない金額で買い取った娼館が貴重な商品を無駄にする訳もなく、寒い冬は湯を用意する。だが、あくまで死ななければいいというだけで本当に必要最低限しか与えない。エルフは人間よりも肉体的に優れているので病気になっても医者に見せることなどないし、火傷、あざ、骨折などの客がつけた傷も回復魔法で癒さない。
今日の客はこの帝国の大臣らしい。でっぷりと脂肪を蓄えた腹と相手に嫌悪感を抱かせる人相を見る限り悪人にしか見えないが、これでも国民には好かれて人望もあるという。今までの客の傾向からすると人間は権力者ほど歪んだ欲望を持っているというが、こいつはその典型的なタイプだ。
「おらおら、どうした! ダークエルフ様は人間よりも強いんだろうが!」
こいつは肉体も魔法も人間を圧倒的に上回るエルフを反撃できないように拘束したまま殴り、やめてくれと懇願させるのが最高の快楽というどうしようもないクズ野郎だ。
嗜虐心が満たされてげらげらと笑うクソ野郎の声だけが地下室に響く。
「クソ野郎」
「なんとでもいうがいいさ! どうせお前はそのマジッキアイテムがある限り、わしには指一本触れることもできんのだからな!」
そう、私を縛る拘束具は魔封じの枷という特別製のマジックアイテムだ。このマジックアイテムは縛った対象の魔法を全て無効化し、さらに肉体の敏捷性を下げるという効果がある。普通の人間よりも長く生きた私でも肉体は成長の途上にある子供のそれであり、エルフが得意とする魔法もこの枷がある限り簡単なものでも発動することはできない。ましてやこの人間を殺し、この娼館から自由になることなどできやしない。
「お客様、お時間です」
「ふん、命拾いしたな。ダークエルフ」
聞き飽きたセリフを吐き捨てると、クソ野郎は地下室から出ていった。
もちろん、客がぶちまけていった精液や私の血液はそのままだ。娼館がわざわざそういったゴミを片付ける訳がない。むしろ客の方がそういった演出を望んでいるのでよごれが残っていた方が好都合なのだ。
私としてもこの地下室が掃除されていないというのは都合がいい。なぜなら、ろくに食べ物が与えられない日にはこういった汚れを食べるネズミやゴキブリを食事としなければならないからだ。
いまさら、生娘のように泣き言など言えない。
涙はとうの昔に枯れ果てた。泣いても焼かれた村は戻ってこない。人間への復讐は遂げられない。自由の身にはなれない。ただ人間への憎悪は燃え続ける。奴隷に身を落とそうとも心の内に眠る牙を折ることだけはあってはならないことだ。
憎悪を磨き、牙を研ぐ。それこそが私がこの狭い地下室の中でできる全てだ。そうでもしなければ私は今度こそ本当に人間に敗北する。人間の支配に完全に屈服すれば家畜以下の奴隷になる。
けれどあの男と出会ってから変わった。
「あんたが今日の客?」
「…………………………」
変な男だ。
第一印象はその一言に尽きた。
私を買う客は金持ちばかりだがそれも当然だ。人間扱いされていないエルフを娼婦として雇っている娼館は表向きには存在していないということになっている。人間からすればエルフは獣同然であり、それと身体を交わるなど人間のやることではない。だが、それでも悪趣味な連中はいる。そのために私は娼婦として生かされているのだ。そしてそういった社会の裏側に属する連中は揃いも揃ってまともな性格ではない。
そんなクソの掃き溜めにも劣るゴミが善良な人間であるはずがない。たいていの者は太った豚のように脂肪を蓄え、今まで行ってきた悪行はその人間の顔に表れるものだ。
それが、この男には一切ない。
身体には無駄な脂肪はない。見ただけで服の中は引き締まった筋肉があるのだろうということがわかるほどたくましい身体だ。運動をしない権力者や富豪ではこんな鍛え上げた肉体を持つことなどありえない。
では、暴力の世界に生きる殺し屋か?
それも違うだろう。無口ではあるが人殺し特有の狂気がこの男からは感じられない。
「…………………………食え」
「は?」
意味がわからない。
「奴隷に食べ物を与える? それも、自分たちよりもエルフは劣るとさんざんとのたまった人間が、同じエルフでもない人間が? 人間以下の家畜同然であるエルフに、飯を与えるって?」
においをかぐが腐ったもののそれではない。毒や薬のにおいもしない。
「私を餌付けする気? 残念だけど、人間の施しなど受けない。あんたらみたいな人間どもに媚びるほど私は落ちぶれてなどいない」
「…………………………いいから食え」
そう言うと、驚くほどすばやく口の中に食べ物をねじこまれる。
食べ物自体はシンプルに二枚の食パンの間に野菜と肉をはさみ、調味料で味付けをしたもの。どこにでも売られている、ありふれたものだ。
毒は盛られていないし、腐ってもいない。
ごく普通の、そう普通の食べ物だ。
けれど。
なぜだろう、涙が止まらない。
「…………………………泣くほどか」
「うるさい、あっちいけ」
人間への憎悪は簡単に消え去るものではない。私が何十年もの間積み上げてきたものがそんな簡単に崩れ去るはずがない。
けれど、たとえ明日には忘れ去ってしまう偽りだとしてもその優しさは私の心を打ったのだ。
「う、うう」
男はなにも言わなかった。私を殴ることも罵ることも犯すこともなく、ただずっと黙っていたのだ。
私が泣き止むと彼は口を開けた。
「…………………………またくる」
それだけ言って帰ってしまった。
次に会ったのはそれから一週間後のことだった。
「なにさ、性懲りもなくまた来たのか。あんたみたいなやつ、来なくたっていいだよ。どうせここに来る客は救いようもないクズばかりなんだから私が傷つくのは当たり前のことさ」
「…………………………」
「黙っちゃってさ、同情なんていらないよ。どうせあんたも私のことを人間以下の家畜同然だって思っているんだろう。わかってんだよ、お前ら人間が私みたいなやつをどう思っているかなんて」
だが男がやった行動で私の中でマグマのように沸き立つ憎悪が揺らぎ、驚愕が私の心を支配する。
「って、なにしてんだよ!」
男は懐から小瓶を取り出して中の液体を私にふりかけたのだ。
すると、私の身体にあった傷が治る。ちょっとした傷から折れた手足も元通りになり、さらには今までの傷でできたあざまできれいに消えた。
「あんた、これって……」
「…………………………ポーションだ」
ポーションなら知っている。村にいたときに薬師が作っていて何度か使ったこともある。けれど、骨折まで治すことができるポーションは入手が極めて難しい。特別な資格が必要な上、必要な材料も非常に高価だ。だから一部の錬金術師と神殿がその販売を占有しており、さらにそのほとんどを国家や貴族が買い占めている。一般人でも購入できない訳ではないが値段は目が飛び出るほど高い。具体的に言えば、庶民が一年ほど働かずに生活できるほど。私を身請けするには足りないがそれでも大金だ。
「なん、で」
なぜ、私のためにポーションなんて高級品を使ったのか。
私は奴隷だ。個人としての権利の全てを奪われたモノだ。モノは乱暴に扱われるものだ。
どうして、人間みたいに扱うのか。
「…………………………見たくなかったんだ、お前の傷を」
それに、どうして。
どうして、こんなにも心が揺さぶられるのか。
何十年とこの暗い地下室の中でただひたすら人間への憎悪を燃やし続けたこの私が、こんな男に動揺しているなんて。
「こんなのは、まるで恋みたいじゃないか」
私はもうそんな生娘じゃない。否、生娘でいることは許されずに生きてきた。
愛も恋も、そんな感情はこの地下室に連れていかれるまでの間に置き去ってきた。奴隷になった時点で余計な感情は捨て去った。あるのは、人間への憎悪だけ。
そのはずだ。
そのはずなのに。
「…………………………また来る」
男は静かに立ち去った。
客として訪れたこの国の大臣は私を殴っていた。何度も何度も、執拗に粘着質に。私の顔があざの青と血の赤で染まっていくごとに嗜虐芯を満たされた大臣は喜びにふるえる。
だが、そこであの男が突然現れて大臣を殴り飛ばしたのだ。
「き、きさま! こ、この、わしを誰だと思っているのだ!? この国の大臣だぞ!」
「…………………………知っている」
「わしを、殴ったのだぞ! この、わしを! すぐに磔にしてやることもできるのだぞ! お前だけではない! そこの薄汚れたダークエルフも同罪だ! それだけでない! お前の家族や友人も例外なく処刑してやる!」
口から泡を吹き出しながら脅す姿は哀れというよりもいっそ滑稽でさえあった。
「…………………………なら聞こう」
「なんだ、命乞いなら聞いてやろう」
相手の口調から自分の優位だと思い込んだ大臣はさきほどの無様な姿から立ち直り、もとの尊大な態度を戻った。
「…………………………お前を殺せばそんなこともできなくなる」
大臣の顔から傲慢さが消え、代わりに絶望が顔を染め上げた。
「…………………………だが、今なら殺さない」
「そ、それは、どういう……」
「…………………………今すぐ消えろ」
その言葉を聞くと大臣は股間を濡らしながら逃げ去った。
「……助けてくれなんて頼んでいない」
「…………………………気にするな、俺が勝手にやったことだ」
違う。私が言いたいのは、そんなことじゃない。ありがとう。その一言さえ口に出せればそれでいいのに、どうしても言えない。
この温かい感情を伝えるのに何十年も蓄え続けた人間への憎悪が邪魔しているのだ。
「それで、今日はなにしにきたのさ」
どうしてもつっかかるような口調になってしまう。
「…………………………これを」
男の懐から出てきたのはちょうど男の手のひらに収まってしまうほどの小さな箱だった。
「これは……」
「…………………………チョコレートだ」
チョコレートは高級品だ。それこそこの間のポーションとは比べ物にならないほどの。
なぜなら、チョコレートの原料とされるカカオを育てることができるのはエルフだけ。しかも、エルフは外の世界と交流をほとんどしないのでエルフの村にしか生えていないからだ。そして、エルフの間でも年に一度の収穫祭でしか食べることができないほど貴重なものなのだ。さらに、チョコレートに加工するのには多大な手間と高価な材料を必要とする。
そんなチョコレートを贈り物、それも私への贈り物にするなんて。
「…………………………受け取ってくれるか」
「ま、まあ、受け取らないっていうのも悪いから、受け取ってあげる」
なに言ってんだ、私は。彼は自分が処刑されることさえ厭わずにあのクソ大臣を殴り飛ばしてくれたじゃないか。保身よりも私を優先してくれたんだから、もう好きって言っていいじゃないか。
「おいしい……」
つい本音が出てしまう。けれど、その一言が私の心情を端的に現していた。
甘く、甘く、甘い。
私の心を溶かし尽くすほど甘いのにその甘さをしつこく感じさせないように味を整える苦さがほのかに残る。
「…………………………うまいか?」
「え、ええ、まあまあね」
「…………………………そうか」
また素直になれなかった。
「…………………………一つ、提案がある」
「な、なに?」
「…………………………自由になる気はあるか」
それは、とても魅力的な提案だった。しかしそれは現実から離れすぎた夢物語だ。
「……ええ、なりたい。けど、そんなことが本当にできるの? この魔封じの枷を砕くのは絶対に不可能。鍵で開けるしかないけど、その鍵があるかどうかもわからない」
「…………………………人間ならな」
そう言うと彼は口を開けた。いや、口の中にあるものを見せた。
そこにあったのは、人間やエルフには存在しない、大きく鋭い牙だった。
「吸血鬼……」
「…………………………そうだ」
吸血鬼は人間やエルフを肉体と魔法の両面で圧倒的に上回る種族だ。いくつかの制約があるものの世界最強のバケモノといえる。それこそ魔封じの枷を身体能力だけで砕くことができるほど。
けれど、私は彼の正体がそんなバケモノだと理解してなお彼への想いが色褪せることはなかった。
「…………………………こんなバケモノで本当にいいのか?」
「ええ、甘くみてももらっちゃ困るわ」
少しだけ強がってしまったけれど今度こそうまく言えた。
「…………………………わかった」
彼は口を開けてその牙を私の首筋に刺した。
「ああぁ……」
その日、私は吸血鬼になった。
その後、地下奥深くに閉じ込められていたダークエルフは死に、夜を統べる吸血鬼の新妻が生まれた。
バレンタイン企画でフォロワーさんのお題をもとに作ってしまった。
ちなみにもとのお題は『ツンデレ褐色で身長低い女の子と無口な大男の男→女にチョコ渡すシチュ』です。