クリエイティブにおける自己批判の必要性
僕の好きなゲーム実況者が、「黄金の絆」というどうしようもないクソゲーを実況している。「黄金の絆」に関しては検索する価値もないので、この文章を読んだ人は検索する必要はまったくないと思うが、見ているだけでもとてつもなくひどいゲームである。
おそらく、「黄金の絆」の制作者というのは、開発終了後、あるいは開発中に自分のゲームをプレイしていないのではないかと思う。少なくとも、プレイヤーという一般的観点からはプレイしていないと思う。それくらいひどい。
批判する場合には、礼儀として、どの部分が良くなかったかを書くのだが、これに関してはもう全然書く必要もないくらいひどいので、なんにも書かない事にする。それでも許されるだろう。
そして、ここで言いたい事は極めて簡単な事ーー自分で作ったものを自分で遊んで見る、自分で書いた作品を自分で読んでみる、という事だ。それが大切だという普通の話だ。
クリエイターというのは厄介なもので、ただ自分が手をくわえて作っているだけで、そこに高揚感とか、「これ傑作じゃん!」みたいな間違った思い込みが自動的に発生する。僕にも発生してきたし、今も発生している。しかし、少し時間を置くと、その作品が単なるゴミである事が徐々にはっきりとしてくる。
で、「これ傑作じゃん!」というノリを捨てきれない人と、自分の書いたものがある時、全部単なるゴミだという事がわかってしまった人と、どっちが『才能』のある人かというと後者だと思う。自分の作ったものが全部ゴミだと気付いた時が、クリエイティブにとってのスタート地点だと思う。
困るのは、前者のノリが集団で形成されている場合だが、集団の問題は今は問わない。とにかく、クリエイティブという要素には、自分の中に冷静な批判者を置く事が大切だと思う。
物凄く簡単に考えると、自分の中に非常にレベルの高い批判者を置いておき、その批判者を越えるような作品を作ってしまえば、それは傑作になる。一般論としてはそうなる。
この場合、起こっているのは全部、自分の内部での事なので、他人から見ると「自己満足だろ」などと言われたりするが、自分の中に厳正な批判者を置いて、質の高いものを目指しているかどうかは、自分自身が一番良く知っているはずだ。自分自身の鋭い批判を越えるような作品を作る、そういう段階に至ればクリエイティブのレベルは上がるとかんがえられる。
ただ、これらは一般論なので、どうとでも取る事ができる。自己陶酔している人が「自分は鋭敏に自己批判をしている」と言う事もできる。だから最後に、具体例を上げる。
伊藤計劃という作家は三十すぎるまで、うまく小説を書く事ができなかった。伊藤の作家生活は最後の三年くらいに絞られる。では、それまで遊んでいたかというそうではないと思う。
ここからは想像だが、伊藤計劃のような人の場合、色々な作品を読んで知ってるので、自分の中の鑑賞者のレベルがかなり高い。そうなると、自分の書いたものが、鑑賞者から見ると、大したものではないとわかってしまうので、書いても消す事になる。そういう逡巡が伊藤には結構長い間、あったと思う。
わかりやすく言うと「眼高手低」という事で、目の高さまで手が届いていない。夏目漱石なんかにも同様の現象は見られて、「虞美人草」なんかは駄作だと思う。しかし、眼が(本当の意味で)高い人が、その眼の水準まで手の訓練を行うと良い作品が生まれる。伊藤計劃なんかはそういう作家だったと思う。そう考えると、伊藤計劃に、作家生活の時間がわずかしか残されていなかったのは残念だった。
…という風に、自分の作品を自分で読むとか、自分の作ったものを自分で遊ぶとかいうのは、非常に大切な事だと思う。その際、自分の中に冷静な批判者を置いておくと、作るもののハードルがあがるが、そのハードルがクリエイターとしての自分を成長させるので、それはどの分野でも大切な事かと思う。