1・1猫より飯を食い、ごみを拾い、石と語らう男
1・1猫より飯を食い、ごみを拾い、石と語らう男
戦国乱世は遥か昔。泰平の世が永らく続き、合戦など絵物語の題材でしかない時代に彼はいた。
どたばたとこちらに近づいてくる足音を聞くなり、玄関に腰を下ろした青年は背中をびくつかせ動作がせわしくした。慌てて草履を履こうとするが、揃えられた履物を蹴っ飛ばしてしまう。ひっくり返した小さな下駄や褪せ気味の色紐のついた雪駄を揃えなおすのに手間取っていると声の主の雷が落ちる。
「あらまあ、こんなに散らかして。童じゃあるまいし」
すきがけの紐をきちっとしめたとしかさの女は気せわしく声を張る。青年はやや面長で頼りなげな顔をしかめた。
弁解の言葉のつもりか、もごもご口を動かしているのを女はじれったそうに遮る。手にもった散り払いの繻子を背中を丸めたままの背中へ衝動的に振るった。
「なんですってもう。どうぞはっきりとおっしゃって下さいな」
「すみません義姉上」
「変わり映えのない謝罪の言葉は結構です。することさえきちんとしてくれれば。いつになったら変わるんです。泣きそうな顔をしたって駄目ですよ。三つや四つの童じゃあるまいし。その手はもう飽き飽きです。いつまでも部屋住みの身で恥ずかしいとは思わないのですか。同じ冷飯でも平森様のようにお役目に預かって妻帯するお方もいるんですから。心がけ次第ですよ。ふてくされていないで見習ってください。江戸詰めの兄上様にいつまで心配かけるのです。やっとう遊びの行儀見習いで貰い手が見つからぬようなら、口入屋の縁起堂でいき丁稚奉公でもして算術と性根を叩きなおしてもらってはいかが。それか開明派の我が藩では天文や異国の言葉の言葉を身につけた者が厚遇されるのでしょう。蘭方医も悪くありませんね。そろそろ雄飛してもいい歳頃ではないですか」
「すいません」
「剣術も大変に結構です。無骨を好まれる縁談相手もいらっしゃいます。でもねずみを捕まえてくれるだけ、まだ猫の方が役に立ちますよ。猫の飯なんて慎ましいもの。打ち粉に丁子油だってたたではないのです。あんな指南役様の知己というのに恩恵もない余所者の小道場で女子に剣法を教わっていないでいっそ貴方も熊野道場に入門して、爪の垢でも煎じて飲んだらいかがです」
「遅れてしまいますゆえ、失礼をば」
ぐいと腰を起こしいきなり立ち上がった青年は兄嫁に一礼すると、大股で玄関をでていった。刀でねずみを捕まえるのは難しいかもしれないが、そこまでいうことはないだろう。
「待ちなさい話は終わっておりませぬよ。やはり兄上様と月とすっぽん。これだから捨て子貰い子、不義の子などとよからぬ噂を立てられるのです。もう世継ぎの心配はいらぬのだからどことなりへ出ていってくれぬものか。いっそ騒動でもあれば口減らし、いえご家老様の御目にも留まるでしょうに。南蛮人でも攻めてこないかしら」
相手がいなくなっても兄嫁はいい足らぬ文句を吐き続けて、駄目押しを決めた。
「稽古道具を忘れてどこにいくんですか」
ぱっとしない青年は兄嫁とその世間話仲間の地獄耳に引っかかりそうな武家屋敷から町はずれまで逃れてきたあたりで、はたと気づいた。うっかり昼飯と稽古道具を入れた包みを玄関に置き忘れてしまった。お小言の流れをぶち切ってきただけに、すごすごとりに戻るのもばつが悪い。せめてご機嫌伺いの菓子でも持参しなければ。
彼はうつむいてため息を吐くと数歩先をぼんやり眺めた。通り雨の後にできた泥水たまりは流れる雲を映している。そこに浮かんだ花札が目に止まる。あめにこまいぬ。平木では見慣れない柄だ。国によって異なる柄や遊び方もあると聞く。しかし街道筋でもない場所にどうして一枚だけ放ってあるのだろう。
妙だなと二歩、三歩と考えて、四歩目。装飾かと思えば散っているのは血飛沫のようだった。
あっと声を漏らした時、絶妙な位置に陣取っていた石ころにとうせんぼされ彼は派手に転んでいた。待ち構えていた泥色の空に己の目口を大開きにした顔がぐいぐい迫ってきて、口づけと同じくして落水する。衝撃のあまり数瞬つっぷしていた。
「やるなお主。石ころに不覚をとるとは」
恨めし気に己を転ばした小さな石ころへ目をやる。
ふうはあと長く深いため息をついて、すりむいてしまった手にくっついた砂利を払い、痛む膝を労わりつつ道べりに腰をおろす。ふう、またため息をおまけして、手ぬぐいで泥水まみれの顔を拭う。
花札がどうも気にかかる。物珍しくもあったし奇妙でもあった。かようなごみをわざわざ拾いに戻る者もおるまいし、くず拾いもやってこまい。汚れてしまっては使い難かろうし、ぽいと捨てたのだろう。座興と思って道場の面々にでも見せてみるかと思い、手ぬぐいに包んで懐へしまう。
「小銭であれば嬉しかったのだがなあ」
百年以上も続く太平の世。石ころと独り相撲をとった男は真鍋数馬という。へんぴな平木でしがない藩士の次男坊として生を受けた。下の上、または中の下の家柄。俗にいう冷飯食いの身分だ。いよいよ食い詰めているわけではないがあれこれと内職を頼まれる。やっても不出来でしょっちゅうつっかえされることしきりだが。兄嫁にいわせれば小道場の師範代なぞはろくな肩書でなく甥っ子の小遣銭にもならない。
数馬の立場は微妙である。幼少のみぎり病弱であった兄に大事あった際、お家断絶を防ぐための備えであった。兄が無事に元服し父の役目を継ぎ、男児を得たので用はもう済んでいる身の上で肩身は狭い。
兄は参勤交代で江戸詰めの真っ最中。兄嫁と甥っ子、数馬の三人で留守の家を守っている。であるので兄嫁のうっぷんの聞き役が公ではない数馬のお役目ということになる。
兄嫁が引き合いにだした平森氏はひとかどの人物だと聞く。藩で最大規模を誇り質、量ともに秀でる熊野道場にあって四天王と称され、中でも筆頭格とされている。同輩には国家老様の威光を笠に着た鼻つまみ者の悪童もいるだけに、浮いた話も聞こえてこない平森の謹厳実直さが際立っていた。おまけに男ぶりもいい。奥方は器量よしと評判で、純愛を成就させるという離れ業までやってのけた。
秀でた武勇と優れた人格で身を立てるという正攻法で立身した男。見事すぎて手本にならない成功例が身近にあると冷飯どもはたまったものではない。
だがこれでも町外れの小さな剣術道場で師範代を勤めている。けちょんけちょんだが、鶏口牛後、大軍団の末尾よりも、小さいながらも一国一城の主たれというではないか。もっとも平森が牛の尻尾というより角で、数馬も鶏のとさかといかず顎にぶら下がった肉瘤ぐらいのものだ。
それもまだ道場が出来立ての頃に入門したのが縁で一番弟子というだけだ。しかし師範代は師範代だ。悲しいかな、道場の師範代も暇と力を持て余している冷飯の肩書きとしてはありふれたものだ。
武芸十八般と呼ばれるように戦闘技能は武士を代表する表芸。それなりの賞賛を受け、敬意は払われる。ただ、残念なことに出世に直接結びつくような評価はされない。兄嫁にしてみても、名誉こそあれどさほど身入りのあるものであると知っている。
なにしろ時代が違う。生き残るため武芸を磨き、心身を研ぎ澄ましていた武士。今となっては戦闘の中核を為す者から、平時の人心を束ね模範となる者へと姿を変えていた。多少の諍いはあるにしろ、そのような弓が飛び交い槍が突き出されるような争いが起きることは滅多とない。武辺者の額面は戦国乱世とは比べるべくもない。
「猫とて鼠がおるからありがたがられるのだ。俺にも鼠のごとき輩がおれば爪を立ててやるのだが」
往来がないのを確認してから勇ましきことをいってみる。
「世が世なら、天下に名を轟かせ、名刀を佩き、美姫を侍らせ、美食を頬張る。ああ無用の長物は乱世にこそ輝く。剣を振るって名を馳せる。男児に生まれたからには雲竜の志を遂げたいものよ」
我ながら居酒屋の酔っ払いの大言壮語めいていて滑稽だった。転ぶ間抜けはおるまいが、石をつまむとそっと道の片端へのけた。弁明するように付け加える。
「しかれども乱世となればなったで平森殿のごとき武人がごろごろ現れるのであろうし。石の弁慶殿、痛めつけるのも、痛めつけられるのもやはり勘弁であるなあ。大それたことをいってみたが、しっくりこぬ。俺は血を流して領地を分捕らずとも、あの道場をささやかに守っていけさえすれば満足なんだ」
薄気味悪そうな顔でこちらを見ている通りすがりの町人と目線がぶつかり、数馬は赤面してうつむいた。