プロローグ
そのことがいつ起こったことだったか、自分はよく記憶しておりません。ほんの十分前だったような気も、はるか五十年前だったような気もするのでございます。
ただ一つ、確信を持って言えることは、ご主人は常に優しく、自分のような小童の小間使いにも、時折頭を撫でてから飴玉を二ツ三ツ下さるような、気前の良い性格であった、ということだけでございます。
その飴玉は、飴玉自体が貴重な当時においても、特に上等な物でしたから、自分のような貧乏育ちの者においては、その香りを嗅ぐだけでも腹の膨れる思いがいたしました。ですから、ある時あんまり嗅ぎすぎて、うっかり手から滑らせて、縁側から落っことして、蟻の餌にくれてやったことさえあるほどでした。
その時も、自分はご主人に飴玉を頂きましたので、庭掃除を中断して、五、六分ほど豚のように鼻の穴を膨らましながら、その甘い香りを堪能しておりました。
すると、不意に屋敷のある高台の方へ上ってくる人があるではありませんか。齢は六十、七十と言ったところでございましょうか、身を茶色のスーツで包み、ステッキを持って、白髪頭にハットがよく似合う、まさに老紳士という言葉が相応しい男でありました。いつの間にか上りきって庭先に立っていた老紳士は、小間使いの自分に気付き、少しばかり笑みを浮かべて見せました。
「やあ、いつ来てもここは高いところにあるねえ。景色はよいが、これじゃ上るたびに膝が痛くてかなわん」
そうは言いますが、老紳士は少しも息を乱さず自分に話しかけます。
先程この屋敷は高台にあると申しましたが、ここは瀬戸内海を眼下に見下ろす四国の先っぽでございました。自分は平らな田舎に生まれましたので、それまでその高さに足がすくまぬ者などいない、と疑いませんでした。
「ヘェ、ようこそ、いらっしゃいました。ご主人に、ご用でしょうか」
「ああ、そうだ。応接間に通ってもよいかな」
「ハァ、構いません。ご主人を呼んで参りますので、応接間でお待ちください」
老紳士は屋敷をよく知っているようで、私が紅茶を運んだ時などには「壁の絵が替わったね」などと言って、にっこりと笑うのでした。
ご主人は別棟の書斎にいらっしゃいました。客人が来た旨を伝えると、すぐに行く、と言って、書きかけの手紙のようなものを残して、応接間に向かって行かれました。
その間、紅茶のお代わりを注ぎに行った以外は自分は応接間に立ち入りませんでしたので、何が話し合われているのかは分かりませんでしたが、日の暮れる頃になって、夕飯のために庭の畑で茄子を採っている時に、老紳士が帰って行くのが見えました。
彼はこちらに気付きませんでしたが、来た時の笑顔からは想像もつかぬような、怯えたようにも怒ったようにも見られる表情をしており、自分は何か言い知れぬ不安を自覚したのを憶えております。
まるで冬のように冷たい、秋の中頃のことでした。