DOPEちゅーとりある07
私の名はXiao Loo、魔都上海の闇社会に隠然たる権勢を振るってきた陸家の現当主だ。とはいえ陸家の実権は、老頭会による合議にある。私はあくまで陸の血脈にあるというに過ぎない。
その陸家も、今やただの会社組織だ。非合法部門は縮小され、築き上げてきた華人社会のネットワークを生かした身綺麗な一家になっていた。
私が生まれたのは日本の地だった。中共政府がASEAN諸国との対立を深め、印巴連合による支援を受けたチベット独立の内戦に敗北しつつあった頃、それは起こった。この地球上、史上二度目の核兵器の使用だった。
インド洋に展開していた国籍不明原潜による、ハイデラバードへの先制攻撃が引き金だったと言われている。結局のところそれから15年余りの歳月が流れても、真相は明らかになっていない。
私にとって関わりがあるのは、報復攻撃によって放たれた5発の弾道弾による北京、天津、上海の三都市に対する同時攻撃だった。ヒロシマ、ナガサキという20世紀の出来事を塗り替える惨事。
そのとき、私はまだ──母の胎内にいた。
「これは──初めて見るにゃ。」
DOPE onlineのログインゲートを管轄する高性能AI、ダルタニャンと自称した黒猫は私の姿を見て絶句する。私は身に纏うアオザイの肩から先を破き、刻まれた傷口を覆い隠した。
「他言無用だ。そして私のは高くつく。」
半ばから折れたレイピアを握る黒猫。その剣の技量、それ自体はさほどでもない。ただこの世界はあくまでもゲームだ。現実に猫を一匹捕まえて絞め殺すのも、剣を握った暴漢を制圧するのも容易いが、今の私にはステータスという枷が嵌められている。
残りHP42/70──バッドステータス『出血』状態。毎秒1ずつ流れていくHPを私はどうしようもない。ほんの犬に噛みつかれた程度の浅い傷口から、ちろちろと流れ落ちる血潮を、これほど惜しんだことは無かった。
「お前は、おそらく私たちを試しているんだろう。越えられない程度に強いステータスに、自分自身を調整して遊んでいる。」
私の指摘にダルタニャンは困ったような顔をする。
「それは誤解にゃ……ダルタニャンたちは、時、場所、場合に応じて要求できる出力上限を定められているだけにゃ。このイベントでダルタニャンが発揮できる全力でお相手しているにゃん。」
私は円弧を描くように歩を運び、ダルタニャンとの間合いを測る。伊達者のような気障な装いをする化け猫だ。むざむざやられる理由はない。
私はすでに『鑑定Ⅰ』を獲得していた。眼前の黒猫のHPは240/300──私たちプレイヤーの初期値の6倍という設定だ。丸腰の相手を、一方的に剣でもって痛ぶる上に、そんな安全まで持ち出そうとは。
「恥を知れ。」
私は初めて、自ら攻撃に転じた。扇を開くように、両の腕を頭上から振り下ろす。葉問流の流れを汲む、詠春拳の型だ。ダルタニャンは目を見開くと、人間にはあり得ない柔らかな背骨の動きで身をくねらせる。
空振りした隙に向けて突きだされた細剣を、私は手の甲で受け流した。幼い頃、正臣と一緒に教わった技だ。
「にゃんと!」
外に向けて払われた猫の手を、私は素早く掴み取る。するりと抜けようとする艶やかな毛並みを逃がすまいと、がりりと爪を食いこませた。
「ぎゃあ!」
初めて、ダルタニャンが悲鳴を上げた。しかし決して剣を手離そうとはしない。むしろ下半身のバネを生かして後方に飛びずさり、強引に戒めを解かれてしまった。
私の爪には黒々と輝く猫の毛束と、濁った血の色が残された。
「おい化け猫、その程度か?」
ふーふーと、手負いのダルタニャンはそれまでにない眼差しで私を見ていた。引き絞られた月のような眼だ。
「なんて人にゃ。そもそもおかしいにゃ、『スナップショット』で人間を投げるなんて初めて見たにゃ!」
取り乱した様子で黒猫は指摘する。
【技能】『スナップショット』──非生物を全力で投擲するスキル。
おそらく奴が言いたいのは、なぜ生きている正臣を投げられたのか、ということだろう。
「お姉さんはマサオミをモノとして見ることで、技能の発動判定をすり抜けさせたんだにゃ。そんなの普通の人間にできることじゃないにゃん!狂ってるにゃ!さすがは【狂にして悪】の判定を受けただけのことはあるにゃん!」
簡単なことだ。正臣は出血で死ぬことが確定していた。死ねば人はモノに過ぎない。いや、そんな一般的な唯物主義的視座で私が正臣を見ていた?馬鹿馬鹿しい。
「聞け、猫。あのとき、正臣は自ら進んであの状況を作りだした。いいか?私はあいつの決意を受け入れたに過ぎない。自分を一振りの刀と定義して、その場に投げ出したのは他でもない正臣自身だ。」
私の言葉にダルタニャンは衝撃を受けたように呆然としていた。私の残りHP28/70──残された時間は28秒。動揺の隙をつき、私はステージ上を駆けだした。ダルタニャンはそれを見送っていたが、意図に気づいて追いすがろうとする。だが遅い。
「さあ、これで対等だ。」
私の手には、折れたレイピアの先が握られている。アオザイの絹を巻きつけて簡易の柄とし、滑り抜けぬように手首に結び固定する。諸刃の刃が手のひらに食い込んで出血を加速させ、毎秒2HPが削られていくが勝機には代えられない。青ざめた猫は暗い表情のまま、決意したように向き合った。
無言のまま、私たちは交錯する。刃を合わせれば打ち負ける。剣戟を楽しむつもりなど毛頭ない。猛烈な勢いで減り続ける生命力を燃やして、私は剣舞を踊る。回避し、斬り付ける。ただその一連の動きを流水に弄ばれる花びらの如く繰り返す。己ではない、何かに突き動かされる感触。これが俗に言われるVRゲーム特有の運動補正だろうか。
黒猫のHPは100を切っている。苦し紛れに放たれた単純な突きを円運動で回避し、完璧に敵の側面を捉えた。殺意を刃に乗せ、致命の一撃を加えるべく、体ごと突撃した。
「うん、ちょろいにゃん。」
かりん、と音がした。私が握る刃はいなされ、返す刀が心臓を貫いた。右手にはレイピア、左手には──パリングダガー!
まさに奥の手、最後の最後まで隠し持つ魔猫の爪。
「心臓はちゃんとあるにゃんね──殺せて安心したにゃん。まあ、またすぐに会うことになるにゃん。」
ああ、知ってるさ。もしも次があるのなら、必ず必ず必ず殺す!
でもその前に──私の妖刀がお前を殺す!
「技能──『サイレントキリング』。」
光の粒子になる前に、正臣は帰って来た。光の粒子になりながら、猫の右手を切り飛ばした。しかし、そこには殺意も何もない。純粋で透明な剣閃を目に焼き付けながら、私の意識は霧散した。
§
間に合わなかった。その事実をおれは受け入れた。淡々とシャオが光の粒子へと分解される輝きの中に、己が像を結ぶ地点を合わせた。すれ違う彼女の視界に、おれの太刀筋は残っただろうか。
「そ、それはアハトの技にゃ!あいつそれはやり過ぎにゃ!」
本来なら首を狙うはずだった。シャオに向けて突きだされた剣に反応して、右手を飛ばしたのは失敗だ。片腕を失い狼狽するダルタニャンを意に介さず、おれは左手の盾を前に出して突撃する。剣を握る手は盾の陰へ。ゲヘナの門に向けて体当たりした際に習得した技能を発動する。
「『ロックブレイク』!」
ダルタニャンは突撃の勢いを何とか受け止めようとしたらしかった。だが、スキルの発動とともにおれの蹴り足は地を砕き、『スナップショット』で撃ちだされた以上の速度でダルタニャンに衝突した。
猫の身体は宙に舞い、おれはその着地点で剣を構える。
だがダルタニャンも諦めてはいなかった。ごふと口からは血を噴き出しながらも、奴は空中で身を捩って落下に備えた体勢を整えた。
自由落下による加速を加えた一撃を、直下で待ち受けるおれに加えようと企んでいる。
銀の線を引く、天から降る魔爪はフェイントを交えて不規則に揺れた。奴はまるで心眼とでもいうように、目を閉じてヒゲを震わせる。おれはまだ剣を振らない。ただ盾を掲げ、手もとを隠して交錯の一瞬を待っていた。
その時だった。おれの予想していなかった事態──漆黒のステージに、突如として橙の光が差し込んだ。星々の運行は過たず、巨大な恒星が別の天体の影を脱したのだ。
「知ってるにゃ!この時間には太陽が昇るのにゃ!」
ダルタニャンが目を閉じていたのは、このときのため──眩しさに目がくらんだおれを仕留めるため──だが、おれには、盾がある。盾の影でおれは日の光を遮りながら、その角度を斜めに傾いだ。磨き込まれた丸盾の表面は、美しい来光を受けて輝いた。
「ああ、そうだな。アハトは間違っていなかった。盾がなけりゃ勝てなかった。」
反射する光線はダルタニャンの油断を焼いた。おれを仕留める瞬間を狙い、見開かれた目を焼いた。そのままに怯んだ猫を盾で殴り落とす。地に落ちたダルタニャンは観念したように短剣を捨てた。猫は何か言いかけ口を開こうとするが、それ以上は言われるまでも無い。おれは躊躇いなく鈍らな剣を振りかぶり、断頭台に立つ処刑者の如く振り下ろした。
「殺せ。」
にゃん、という声は、突き立てた剣が首を断つ音に掻き消された。
──【チュートリアル・リバーシ終了しました。】
──【これより評価判定を行います。】
長かったチュートリアルが、ようやく本当に終わった。