DOPEちゅーとりある03
若い女の子特有の匂い──きらきらと輝く純潔の汗──。
「なんで、こんなの連れてきた!?ああ!?」
大猪に追われてさえいなければ、おれもシャオの美しさとやらを讃えてやるところだが、状況がそれを許さない。
「ワイルドボアというのか。危険度は星二つ──雑魚ね?」
全力疾走でおれと併走しながら、シャオは魔導書から情報を引き出している。チュートリアルをパスしたせいで、シャオは魔導書の出し方を知らなかったらしい。逃走しながら教えてみれば、面白がって魔導書と睨みあいを始めだした。ポンコツかよ──脳裏で悪態をついた瞬間、真横から鋭い蹴りが飛び込み、おれは吹き飛ばされた。
「ぐえええ!?」
何をする、と言いたいところだったが、それまでおれがいた場所に、大猪が猛烈な勢いで突進を仕掛けていた。急激な加速による薙ぎ払いが、地面を抉る。大猪は勢い余って、樹木に衝突していたが、すぐに立ち直っておれ達に向き直った。
「技能──クラッシュか。」
なるほど、と頷くシャオは魔導書を霧散させ、おれに向かって呼びかける。
「撤収!!」
§
おれ達は森林を走り回り、やがて小川に行き当たった。飛び石の要領で対岸に渡ったおれ達に対して、大猪は見事に川に突撃し──流されていった。
「さっき、なんであいつが突撃してくると分かった?」
息を整えながらシャオに問えば、彼女は魔導書を手に取り、ある頁を開いてみせた。そこには【UI設定】の文字がある。読み進めてみれば、様々な項目が表示される。
「HP表示?」
おれも同じ頁を開いて、その項目を指でなぞってONに設定する。すると、隣のシャオの頭の上に50/50の数字が表示され──消えた。視界の片隅には自分のHPらしい49/50の数字が表示され、意識を外してみれば消えた。
「視線を合せると表示されるらしいわね、興味無い相手のは見えないってこと。」
シャオが先ほど大猪の【技能】の使用を見抜いたのも、この設定項目の中にある【技能アラート】をONにしたためだ。どうやら相手が【技能】を使用しようとすれば、アラートが点滅して注意を喚起する仕組みらしい。
「随分と親切設計だな……。」
おれ達は探索の足を止めて、一度魔導書の内容を精査することにした。既知の情報以外にも膨大な情報が含まれているのではないかと考えたからだ。そして分かったことがある。
「ほとんど白紙──あるいは開けない頁だ。」
分厚い魔導書の大部分は糊付けされたように固められていた。シャオは考え込んでいたが、何かを思いついたらしい。そして、急に魔導書の頁を破いたのだ。おれは呆気に取られて彼女の行動を見ていたが、すぐにその真意が分かった。
「魔導書は自動修復される。そして破いた頁は魔導書を閉じても表示されたまま。」
確かにシャオが破き取ったはずの地図は、魔導書に新たに生成されているし、破かれた側の頁は半透明の窓のようにシャオの側面に浮遊している。これなら手を塞がれることなく内容を参照できる。
「そして、こいつは『問いかけないと答えない』。」
シャオは魔導書に向けて【技能】『クラッシュ』の情報を開示するように要求した。すると、先ほどまで白紙だった頁に【技能】の内容が記されているではないか。
「さっきもそうだ。私が猪の情報を要求したらワイルドボアの頁が開示された。こいつは私たちの『思いつかないことは教えない』。」
おれはそのシャオの言葉を聞いて、魔導書に呼びかける。
「近場の集落まで安全な道を案内してくれ。」
OK,Doodleとでも言うように、魔導書は霧に包まれて虫食い状態の森林の地図に、曲がりくねった線を引いてくれた。この線を辿れば、問題なく村に辿り着くことができるだろう。要するに、こいつは極めて高性能な情報端末なのだな。
時間にして15分ほど歩き、おれ達は初めての村に到着した。途中、獣の気配などはしたが『安全な道』という要求に魔導書は的確に答えてくれたらしく、襲われることはなかった。
簡易な木造の柵に囲まれた集落には、入り口らしきものが一つしかない。その門には見るからにやる気の無さそうなヒゲ面の男が二人立っている。番兵のつもりだろうか。
「どうするよ?行ってみるか?」
おれは森林の境界にある茂みから、村の様子を伺いながらシャオに問いかける。
「行ってどうするわけ?私たちはカネも物資も持ってない──まさか仕事をくれとでも言うつもりか?」
シャオは呆れたように言い捨てる。仮に働くとしても、おれを働かせるぞ、という態度である。
そうだった、こいつは勤労精神の欠片もないお姫様だ。もちろん資産家の娘であり、自身もその一部を運用して莫大な利益をあげているが、基本的に他人の上前をハネるのがシャオの得意分野だ。
「しかし──あての無いのも事実だな。正臣、空腹感はある?」
言われてみれば空腹だ。喉の渇きも感じる。
「ある──不思議だな。昼飯は食って来たばかりだが。」
シャオの開いた魔導書の【UI設定】には先程まで無かった【空腹】、【渇水】の値を表示する項目が追加されていた。現在の値は二人とも70/100と50/100だ。走った距離が長かったからか、喉の渇きが強い。
「サバイバル要素も完備ってわけ。あんまりのんびりしてると、お腹が空いて動けなくなりそうね。」
おれは、ふと魔導書に問う。
「空腹値が0に達したらどうなる?」
魔導書は【空腹】の頁を開いてみせ、時間に応じてHPが減少することを示した。
「HPが0に達したら?」
回答は──無かった。魔導書はうんともすんとも答えず、沈黙を守る。意外だ。死、デスペナルティ、ゲームオーバー……そんな答えを予想していたのだが。
「答えられない内容も、あるってことよねえ?」
シャオは悪辣な表情で魔導書の表紙を撫でる。答えられないことへの答えを表すように、魔導書は閉じられた状態の頁束の一枚を発光させた。今は開示できない情報だ、ということか。
「死んでからのお楽しみ──かしら。」
くつくつと笑うシャオとは対照的に、おれは言い知れぬ不安感を抱く。臆病?いや、おれは慎重なんだ。
「で、結局どうするの?やる?やっちゃう?」
きらきらと瞳を輝かせながら、シャオは笑う。やる──こいつは殺る気満々だ。村で依頼をこなして対価を得て、そのカネで買い物をして……そんな発想がシャオにはない。山賊を懲らしめるくらいなら、山賊になった方が楽で稼ぎがいい。それも別に悪ぶりたいわけじゃない。山賊よりも村人の方が、弱くてカネを持っているだろう──ただ合理的な判断を下しているに過ぎない。
「いや、待て。あの村人は他のプレイヤーかもしれないだろ?」
おれは暴走気味のシャオの思考を落ち着かせようと、水を向ける。だがすでにシャオは収奪を計画し始めていた。
「さっき正臣を蹴り飛ばしたとき、少ないけどダメージが入ってた。チュートリアルの間はPKは制限されてたけど、今は解禁されてる。格上のプレイヤーだったら不味いけど──ああ、もちろん下見は十分に行いましょう。」
そういうことじゃねえんだがな、とおれは頭を抱える。そのとき、ちょうど集落の入り口から集団が出ていくのが見えた。
「いや、待て。なんか出てきたぞ。」
遠目にも分かる。さっきおれ達が追われていたのと同種の大猪──それが鞍と轡を取り付けられ、騎乗生物として馴致されている。跨っているのは、人間ではない。暗緑色の肌に、獣の毛皮をまとった巨体──いわゆるゴブリンやオーガと呼ばれる亜人種だ。門番らは膝を付き、巨体の亜人が出かけていくのを見送っている。
「あー、さっきの無し。無しね。」
シャオは手を振ると、さっさと森の方へと戻っていく。苦戦して逃げ回った大猪をペット扱いする相手だ。勝ち目はないのはすぐに分かった。判断と切り替えの速さは彼女の美徳だ。手のひら返しが鮮やか過ぎて涙が出る。
「とりあえず──サバイバルしましょう。森で。」
太陽が中天に差し掛かっていた。見つからぬように腰を曲げ、息を潜めてその場を去る。おれ達は肩を落としながら、平穏な森へと帰って行った。