冒険の先へ
雨が降っている。講義棟の大窓を、春雨が優しく叩く音がする。雨だれはゆるやかに流れ落ちて、幾本もの細い筋を描いていた。
おれは、ただ自分で選びたかった。春はシャオの季節だから──彼女の誕生日に贈るためのプレゼントくらいは、AIじゃない自分が選んでやりたかった。
おれもシャオもDOPEに浸かりっぱなしで、倍速で進むゲーム内の感覚に慣れていたために、日付も曖昧だった。
ナノマシンを介して現実の肉体を管制していたおれのインフォモーフAIは、おれ以上におれらしく、日々を過ごしていたらしい。
家人の使ひにあらし春雨の/避くれど我を濡らさく思へば──授業用タブレットには万葉の和歌が細い文字で揺れていた。おれは、おれ自身が予習していたらしい知識が流れこんでくるのを感じていた。
ゆっくりと、この二週間足らずの出来事が流れ込んでくる──急速なフィードバックは脳に負担をかけるために、長期間のDOPE後の記憶統合は漸次的に行われていく。
ゲンジは以前よりも周囲と打ち解けているようだった。人当たりが柔らかくなったらしい。シャオは、おれの記憶のなかではDOPE内と何も変わりない。
変わり無い──激痛がこめかみに走る。記録的な事実と並行して、感情がフィードバックされていく。なんだ?おれは何をしていた?
──【バイタルに異常を検知しました。鎮静物質の投与を開始します】
魔導書のシステムメッセージと同じ声が、脳裏に響く。頭痛は心なしか和らぐものの、鈍痛は繰り返し波のように押し寄せる。
おれは振り返った。窓には春雨がぶつかって落ちていく。ゲンジは顔を伏せて寝ている。その後ろに──シャオがいない。頭痛が激しさを増す。おれは断片化された記憶が、頭蓋の内側で荒れ狂うのを感じていた。
おれは走り出していた。何も持たぬまま、教室を飛び出した。背後からはおれを呼び止める講師の声がする。だがおれは止まらなかった。
春雨の中へと走りだす。柔らかな五月の雨が、おれのブレザーに染みをつくる。
おれは、おれのインフォモーフAIは、この感情をどのように処理して日常生活を営んでいたんだ。この名付けることもできないほどの記憶を!
「違う──おれは、ずっとシャオに会っていたじゃないか」
足を止めぬまま、おれは気づく。インフォモーフAIは、DOPE内でのおれの感情をフィードバックしていた。シャオと四六時中一緒にいた、この一か月近い時間の、幸福な感情を。だから相殺できていたのだ。この痛みを。
おれは走り続けた。真昼の雨の中を。
記憶のフィードバックはほとんど終わっていた。痛みは徐々に引いている。冷凍パッキングされた肉が乱雑に解凍されて、そこから赤い血液が染み出る──そんな不快さが残っている。
シャオは上海が核攻撃によって消滅した際、母親の胎内にいた。そして母親は放射能を浴びた影響で日本に渡航する船のなかで亡くなった。それをおれは知らなかったのだ、つい先日まで。
胎児だったシャオは奇跡的に生命を永らえたが、その臓器は3歳までにほとんどの部位が機能不全を起こしていた。最も繊細であるはずの、彼女の脳だけがほとんど無事だったことは、本当に──本当に奇跡だった。
彼女の肉体は8割以上の部位が機械化されていた。最新のナノマシンを数十種類、その体の内側に飼いながら、人工臓器を成長とともに入れ替えて──17歳の誕生日を前に亡くなった。突然倒れ、そのまま人事不省に陥って帰ってこなかった。
おれはシャオの自宅──陸家が所有する高層マンションに辿り着いていた。
おれは彼女が亡くなった日に、陸家の家令である老人からパスワードを受け取っている。存在しないはずの地下五階。
そこには陸家の当主であるシャオの生命を永らえさせるための施設があった。臓器移植は尽く失敗した。機械化を繰り返しながら、激痛を伴う手術を──非合法の軍用サイバネティックまで取り入れて──シャオはその日まで生きていた。
だが、彼女にも、陸家の老人たちにも分かっていたのだ。そんなことが長く続くはずはないことは。だからシャオはDOPEを始めたのだ。そして、そこにおれを引き込んだ。
強烈な冷気が漂う、リノリウムの床をおれは歩いていく。その先に何があるのか、おれは既に見ている。今おれがやろうとしていることは、ただの確認作業だ。
無人の封印区域の先にはガラスチューブの棺があった。透明な膜の向こうに、美しい女が浮いている。
それはDOPEよりも非現実的な、現に見る夢のようだった。液体に漂うシャオの裸体は、美しいと形容する以外に無かった。人工皮膚を一枚めくればナノチューブを束ねた人工筋肉と血管の帯がある。
「起きてるか?」
おれは硝子の棺に向けて声をかける。すると彼女が答えた──シャオは目を閉じたままだ。
彼女の喉は動いていない。ただのおれの幻聴だ。脳死状態の肉体は、保存液の中で揺蕩っている。おれの吐く息は白い。おれは彼女の前に座り込んだ。
美しいシャオの姿が、おれの網膜に映っている。彼女は死なない。インフォモーフAIはクオリアすら内包して、生の実相を象っている。
彼女がおれをDOPEへと誘った理由に、おれは己の鈍感さを笑った。
「私の好きな私──正臣と一緒にいる私を、インフォモーフAIとして残したかったから」
おれは冷たい床に寝そべった。機器の青い照明が点滅し、壁に反射している。
背中からどぷりと落ちていく感覚に、視界の青は無限光年の那由他へと遠ざかる。
必ず──シャオを現実に取り戻す。
おれが望む追加システムは、インフォモーフAIの任意デバイスへのダウンロードだ。今はDOPEのサーバー上にしか存在しないシャオのAIを、代替脳へとダウンロードすることができれば彼女は現実の肉体へと復活する。
ハッターの思惑は関係ない。必要なら使うだけだ。
幾重にも星が走るログインゲートを駆け抜けて、シャオの待つ世界へとDOPEした。
以上で第二章「冒険にでれば」完結です。第三章を現在執筆中です。メリークリスマス!




