DOPEちゅーとりある01
季節は春だ。建て替えられたばかりの講義舎の壁は、大胆なガラス張りで、温かな日差しとともに眠気を運んでくる。
春眠不覚暁──おれの手元のタブレットが振動し、画面には減点のアラートが点灯していた。微睡みから覚めて視線をあげれば、電子黒板の前に立つ女講師が、鋭い睨みを投げ掛けている。
「今時、漢詩ねえ……。」
西暦21XX年──今でも古典文学は高校生の必修科目に設定されている。おれの呟きは、骨伝導式のマイクロフォンで拾われていたらしい。タブレットに二つの窓がポップアップした。開いてみれば、馴れ馴れしい口調のメッセージが画面内を跳ね回る。
「うらやましい。」
メッセージの主はゲンジ。おれの座席の二つ後ろに座っている悪友だ。奴はこの講座の担当者──あのきつい目つきの女講師が大好きなんだそうだ。事実として、すでに告白して何度か校外で逢引をした後、見事に振られたらしい。おれには理解しかねる趣味だ。
そして、もう一つ。こっちは正直、開けるのを躊躇う。意を決して開けば、重々しい書体のメッセージが浮かび上がってきた。
「祖国の文化を嗤ったね?」
ゲンジの更に後ろに座る女子──そこから飛んできた気配に、おれは首筋に氷を当てられたような悪寒を覚えた。
彼女の名前はシャオ。色白で細面、腰まで伸ばされた艶めく黒髪に、潤んだ瞳──エキゾチックな魅力を湛えた中国系美女である。付け加えるなら胸も豊かだ。
しかし、おれはどうにもシャオが苦手だ。普段の彼女は人当たりも柔らかで、親切心に満ちており、周囲からの評価は高潔な慈母のように扱われている。だが、どうにもおれに対しては手厳しい。というよりも、何かにつけて面倒な絡み方をしてくると言うのが適当だろうか。
「放課後、付き合え。」
追加で送られてきたシャオからのメッセージに、おれは拒否権を持たない。
§
校門の前には、黒塗りの乗用車が三台並んで止まっていた。
シャオは華僑系の富豪の息女だ。パキスタンからの核攻撃で上海が消滅した後、一族郎党で日本に移住してきたらしい。車の周囲には黒スーツの男達がたむろし、威圧的な空気を醸し出している。
頬に破裂痕のある、執事然とした老人が後部座席のドアを開く。
「乗れ。」
シャオは当然のように車に乗り込み、おれに乗るように促した。こうやって、シャオに拉致されるのは初めてのことではない。ただ、毎度ろくでもないことに巻き込まれるのだ。
「今度は何があったんだ。」
滑るように走り出した無音の車内には、高級感を感じさせる革の匂いが充満している。シャオは端末を弄り、何らかのチャートのようなものを操作している。
「新しい玩具が手に入った。一緒に遊べ。」
そう、シャオはおれを遊び相手だと思っている。前回は無人島を丸ごと借りきって、火薬式の銃を使ったサバイバルゲームに駆り出された──シャオ自身は島の中央にある高級ロッジから、黒服に追われるおれの様子を見て笑っており、ラスボスとして降臨しておれを蹂躙した。
「お前の遊戯はろくでもないと相場が──」
言い終わる前に、おれの眼前に、ほっそりとした手のひらが差し出された。そこには一錠のピルが乗せられている。
「呑め。」
否応ない命令形だが、おれにも越えてはいけない一線というものがある。
「いや──さすがに薬物は勘弁してくれよ。」
おれの拒絶の言葉を耳にして、端正なシャオの眉間に皺が寄る。つまらん男だ、とでも言いたげな顔だ。
「安心しろ、違法な薬物じゃない。最新式のナノマシンだ──それとも、呑ませて欲しいのか?」
シャオは蠱惑的な表情を浮かべながら唇を舐め、おれを挑発してくる。
ナノマシン──おれも三歳児検診の際にナノマシンを投与されているが、経口式の物は初めて見る。彼女は傲慢だが、おれに嘘をついたり騙したりはしない。
差し出された水とともに、おれは赤いカプセルを嚥下した。
「三十分程度で定着する。私もすでに呑んでいる。」
おれは彼女の言葉に驚いた。大抵の場合、彼女は対価をぶら下げて遊戯に巻き込み、おれがプレイする姿を見て楽しむのだ。
「珍しいな?今回は本当に一緒にプレイするのか。」
問えば、シャオは心外なと言いたげに鼻を鳴らした。
「そろそろ分かるはずだ──まあ、何が起こるか、今回は私も詳細は知らない。」
運転手を務めていた老執事が、バックミラー越しに声をかける。
「小公主、よい旅を。」
うむ、とシャオが頷いた瞬間──おれの視界がひび割れた。卵の殻に入った亀裂のように、ひび割れは広がり、おれが見ている世界が崩壊していく。
「狼狽えるな、ただのオープニングムービーだ。」
オープニング?ムービー?すでにおれの視界は現実の破片が舞い散る状態だ。一皮剥けた先にあったのは、数多の光が飛び交う宇宙空間のような場所だった。
おれが座っていた車の座席が弾け、下半身が脱落する感覚が襲いかかる。
「チュートリアルの前に種明かししてあげよう。さっき飲んだのは最新式のVRデバイスだ。侵襲型を何倍も強くしたような高性能タイプだ。」
侵襲型──VR──おれはシャオに初めて巻き込まれた遊戯を思い出した。開発中のナノマシンVRデバイスのαテスターとして強制的に参加させられたのだ。
体内にとりこんだナノマシンにより脳に直接情報刺激を送り込む侵襲型VRは、製品化されると瞬く間に評判となり、ヘッドギア型やポッド型のような感覚器に刺激を与える旧世代型VRを駆逐した。
ただ睡眠剤との併用によって快感が倍増することに気づいたハードユーザが、オーバードーズによる死亡事故を起こしたことで、現在は医師の処方無しには扱えない規制品になってしまっていた。
実際、おれも当時は二週間ほど入院する羽目になっている。
「大丈夫。こいつは、まるで別物だから。」
確かに一切の違和感がないまま、おれは過剰に装飾された宇宙空間を浮遊している。重力から解き放たれて遊泳する感覚は、実に過剰だと言わざるを得ない。
漆黒はどこまでも続き、そのなかを光点が尾を引いて走っていく。交錯する星々の光芒が、無意味な幾何学的模様を描き、遥か彼方には恒星が終焉を迎えて弾けている。
過剰──過剰な現実感を味わわせる非現実こそ、VRコンテンツの真骨頂だ。その意味で、確かにこのデバイスは従来の機器よりも数世代先を行っているように感じる。
「なるほどな。同時に挿入したプレイヤーは同期したロビーに案内されるわけね。」
浮遊感はほどなく終わり、仄暗く光る円形のステージにおれは着地した。納得したようなシャオの声に視線を向ければ、そこには一糸纏わぬ彼女の姿があった。
豊かな胸は上向きに主張し、優美な曲線が腰から臀部へと流れている。局所にあたる部分にちょうど黒髪がかかって配慮するという奇跡まで起こっている。眼福である。
シャオは顔色一つ変えぬまま、油断しきったおれの顎を裏拳で打ち抜くと、よろめいた顔面に容赦なく目潰しを突き刺した。
「ぎゃあああいでえええええお前、流石にやりすぎ──ん、痛くない?」
確かにおれの眼は潰され、一瞬視界が暗転したものの、すぐに光が戻って来た。
「PK判定はオフにされてるらしいな、ちっ。」
いや、チュートリアルが始まる前からPKできるか試そうとするとか殺意が高すぎるでしょう。
そんなことを呟くおれを無視するかのように、暗がりを裂いて一匹の猫が転がり出てきた。ビロードを思わせる光沢を帯びた毛並みの黒猫である。器用に二足歩行する猫は呆れたように溜息をつく。
「チュートリアル前からPvPしようとか、殺意が高すぎるにゃん……。」
おれはどうやら、この猫とは気が合いそうだ。気づくと、シャオはぶつぶつと呟きながら、空中に描かれたシートを埋めている。しかもいつの間にか、純白のアオザイのような衣服を身に纏っているではないか。
「にゃ!にゃーを無視してチュートリアルを進めるとはひどいにゃん……別にいいけどにゃ……。」
猫は拗ねたように床に「の」の字を書き始めた。デフォルメされた動きは、なんとも愛嬌があって可愛らしい。
「私は先に行くぞ、さっさと終わせて来い──あと、そのご立派なものをさっさと仕舞え。」
言うと、シャオの姿は光の粒子に分解されて消えていった。嵐のような女だ。そして言われてから気づいたが、おれ自身も全裸だった。さっきまでは学校の制服を着ていたはずだったが、どの段階で脱がされたんだろう。
「にゃー、君はまともにチュートリアルするかにゃ……?」
黒猫は肩を落として話しかけてくる。不憫に思って、おれは説明を希望した。
「まずは、君の名前を教えて欲しいにゃん!」
名前──そう、そういえば自己紹介がまだだったな。
「おれの名前は柳生──柳生正臣だ。」
眼前に浮き出たキャラクターシートの【真名】の欄に、柳生正臣の文字が刻まれた。
「マサオミ!にゃーの名前はダルタニャン。このDOPE onlineのログインゲートを担当しているにゃん。」
おい、待て。もしかして、だが。
おれは本名をオンラインゲームのキャラクターに登録してしまったのか──?
プロローグ8話分を2016年12月4日16時より、一時間刻みで予約投稿しています。