死種_Ⅱ
死と言われれば死なのだが、それは肉体的でも精神的でもなく、記憶的で死んでしまったのだ。
頭が完全に覚醒してなかった所為か、起きてすぐには居場所が分からなかった。全身を覆う痛み。それにも覚えがなく、隣にいた涙目の彼を見るまで、自分が生きていることさえ、これは夢なのだと、心の底から思っていたのだ。
体を起こせば、彼がようやく、起きた自分に気付く。
「ひな、」
「――――白夜ッ!!」
泣きそうな声で叫びながら、彼が抱き着いてきた。
今までの記憶を探るが、そうしてこうなったのか、鮮明に覚えていない。覚えているのは。ひなつがどこかから外に連れ去られた後の体に強烈な痛み。近くで悠然に笑っている彼女。外に出た後の周りの驚いた顔。顔にかかった血が鉄の味をしていて。そうだ、殺したんだ、あいつら。死体を覚えていない分、吐き気や嫌悪感はない。それはよかった。
――――それまではいいが、今、彼は、なんと言った?
藤堂白夜は自分の双子の兄の名前であって、自分の名前は藤堂白亜だ。ああ、でも、そう、それは〝女〟である自分の名前であり、〝男〟としての自分の名前じゃない。確かに、男でいる点では白亜という名前は少々不便だろう。元々名前として珍しいものだし、男女で言えば女よりの名前だ。
白夜は死んでいた。それなら、別に自分がその名前を使っても何もおかしくない。だが、――なんだろう、この違和感は。男になったからという違和感ではない。それよりも致命的に何かが違う。
「白夜?」
声をかけられて、我に返る。どうも、思考に溺れる癖がある。
「いや、あー、喉乾いた。何かある?」
自分でも分かりやすく声が裏返っていたが、ひなつは起きたばかりの所為と思ったのか、何も言わず部屋を出て行った。きっと、何か飲む物を持ってきてくれるのだろう。
痛む体を起こし、部屋を出た。トイレ行って、早く鏡を見たい。確か、姿見があったはずだ。この晴れない違和感は不快で堪らない。このままひなつと話していれば、睨んでいるようにも見える。誤解をさせてはいけない。
あの場でのショックが、もう癒えているとも限らないのだから。
トイレにつく。鏡の前で俯いた。どうしても、見たくない現実。それも、今更覆せない、絶対的な希望でもある。顔を上げた。同時に動く鏡の自分。
やはり、と。薄々分かっていたこととはいえ、ショックは大きい。
――――目の前にあるのは、自分の兄そっくりの、〝偽物〟
〝白亜〟を男として作ったならば、双子だから似てしまうのは仕方ない。だが、これは違う。〝白亜〟を男として作ったのではなく、体にそのまま乗っ取ったような感じ。つまり、作り物のような本物。
似ているのではなく、本物と見間違えるそれ。――間違いなく、あの時の死人の体だ。凝視していたら目の前に自分の兄がいる錯覚に襲われて、思わず、鏡を殴って割った。
拳の当たっているところから蜘蛛の巣のような割れ目ができる。手に刺さった小さな破片が甲に降った。痛い、けど、それよりも、うん。――――不愉快極まりないな。
「白夜? こんな時間に何してんだ? ――――本当に何してんだ!?」
襖を開けて入ってきたのはケイさんだった。ケイさんも、当たり前のように、白夜と言っている。それこそ、彼の〝当たり前〟かもしれないが。
「あー、あー、」言い訳、思いつかない。「…………鏡の自分がうざかったんで」
「話したのか」
「話しました」
「…………サイナーか?」
「いや、冗談ッス」
「そうか」
ややこしい上に呆けられなかった。不覚。
鏡から手を放すと割れ目が目立ち、そう言えばこの鏡はケイさんが気に入っていたものだと気付く。気付かなければよかった。部屋に戻って、言い忘れればいいのだ。謝罪をしてしまえば知っていて割ったと言うことになるのだから。かと言って、分かっていて謝罪しないのも失礼だろう。
今までの経緯をどう切り出そうかと思い口を開いた時、ケイさんに遮られる。
「手、は、無事…………じゃ、なさそうだな」
「骨は折れてないだろうし腱は切れてないだろうから、まあ、無事です」
そう答えれば、眉間を手で押さえて難しそうに顔を歪めたが、何も言ってこなかった。鏡の件はどうしようと思いながら、怪我の手当をすると言ったケイさんに着いていく。
ケイさんの部屋に着くまでの距離は、長い。それまで、一言も言葉を交わさなかった。〝二つの槍〟が逃亡に誘拐までされ、日熊家の顔に泥を塗ったと言うのに、何も言わない。事件も、どうやって収拾したか気になるのだろう。自分も、あの後どうやって帰って来たのか、まったく覚えていない。
それなのに何も聞いてこない静かな優しさは、とても心に染みた。
包帯をぐるぐる巻いていくケイさんの処置が的確で、こんなところにも負けてしまっているのだろうと思うと、ネガティブになってしまう。
自分は、〝二つの槍〟として育てられてきたことに、誇りを持っていたのに。
今は誇りも何もない、ただの肩書になってしまった。自分が生まれた理由であり、自分の全てだと言うのに。ケイさんへの劣等感もあるけど、結局子供でしかない自分にイラつくし、それの解消法も知らない。負けることが、こんなに、――屈辱的だったなんて。
ケイさんからの手当が終わると、慣れない体で軋む骨を動かし、痛みに耐えながら自分の部屋に戻って行った。ひなつが飲み物を持って戻っているはずだ。もう、結構な時間を待たせている。どれくらいだろう。――――そう言えば、ケイさんが〝こんな時間〟だと言っていたが、時間も分からないままだ。
部屋に戻れば案の定、不機嫌なひなつがいた。襖を開けた瞬間、ベッドの上に座って待っていただろうひなつの手にあるコップが割れた。ここに笑いながら流石だね、と呑気に言うあの神様がいたら、どれだけ楽だっただろうか。
そして、その割れたコップとその中に入っていた液体は、ひなつの服に染みている。それを気にしない彼は、怒気を隠そうともしない。いや、隠そうとしたところを見たことないが。
「まだ安静にしていなきゃいけないと言うのに、どこに行ってたんですか」
「ちょっと、トイレに」
「新しい怪我までしてきて、本当にトイレだったんですか?」
「ああそうだよ」
「目を逸らさないでください。ちゃんと俺の目を見て、言ってください。そうしたら、信じてあげないこともないです」
嘘、言ってないのに。日頃の行いか。それも酷いけど。
――――結局、目は合わせない。
言葉を発する人間がいなくなった部屋は、妙な空気が流れている。いつもの殺伐とした空気が薄れていって、こちらを睨んだままのひなつの目が、赤くなり始めていることに気付かないままで。
「どれだけ心配したと思ってるんですか」
「しょうがないだろ」
「しょうがなくありません」
「じゃあどうしろってんだ」
知りません、と力無く言った。ひなつが最後に泣いたのはいつだったか。というか、泣いた顔を見たことがなかった気がする。
その後耳朶引っ張られたり、頬を抓られたり、近くに放り出してた制服のネクタイで首絞められたりしたが、泣いていられては反抗できない。されるがままになって、そして、三十分くらい後に、ひなつが言った。
「妹の死体見た時点で気絶しておけばよかったのに」




