Prologue_Ⅱ
自分の中に疼き始めたのは、耐えられない孤独感。
足の裏に屋敷の冷たい廊下。もう古いのはギシギシ言っているところもある。いつ建てられたか分からない由緒正しいらしいこの屋敷は、自分を含めて三人しか住んでいない。それを疑問に思ったのは、つい最近の事だ。
本に印刷されている文字の羅刹は、有り得ない光景ばかり描写されていた。
漫画、小説、どちらでも。日常の中での雑学を詰めた本でも、その中の日常は自分にとっての日常とはかけ離れている。
自分は、テーブルで家族と一緒に、ご飯を食べたことがない。
自分は、昔、外で走り回った記憶がない。
自分は、――自分に、兄妹はいるのだろうか。
この日常が普通と思っていただけに、気付いたあとは不気味に震えていた。
〝普通〟ならば、五歳で小説をスラスラ読めるようになるのだろうか。
〝普通〟ならば、八歳で家事を全て出来るようになるのだろうか。
〝普通〟ならば、十一歳で槍を完璧に扱うことが出来るのだろうか。
今までの日常は、周りから見たら異常で。でも、自分にとってはこれが日常で。反抗期に覚えがなく、自分は発育不全なのだろうかと悩んだ時もあった。
幼馴染の彼はとっくの昔に気付いていたようで、打ち明けた時は曖昧に笑っただけだった。
それでも、彼はそのことを不気味に震えたことも、異常に怯えていたこともなかったらしい。むしろ、誇りに思っているらしく、急に饒舌になった。
ああ、始まった。
彼は夢中になっていることや興味が湧いたものには熱狂的だ。語り始めたらいつ終わるかと待ってなければいけない。
語っている彼にはてきとうに返し、思いにふける。
もし、本に載っているあれが日常ならば。この、二つの、歪な両目も、外では日常なのではないか。もしかしたら、常識なのではないか。
赤と青のオッドアイは、もしかしたら――――。
その期待は、いい意味でも悪い意味でも裏切られる。
屋敷が異常だと知ってから一か月がたった、ある日。
稽古のために槍を持って広場に行こうとした時。
自分の部屋から広場に行くには、まず二つの部屋と一つの居間と茶室を後にし、中庭を通らなければいけない。冬の冷たい風を浴びたくないが、その道しかない。
時代に流されずに、なんて言っているが、この寒さなら上着を着ても怒られないだろう。
中庭には真ん中にある小池を囲む木々が華々と、そして砂利が敷き詰められている程度だが、綺麗に手入れされているその花々を程度と侮るのは失礼だ。
一色の白い花が、降っている雪にまた一段と白くなる。
今日は、そこにイレギュラーがいたのだ。
橙色の長髪に、金の目。樋代愛佳と名乗る少女が、そこにいた。
今まで幼馴染と教育係の人にしか会わなかったため、人がいたのは驚いたが、〝二つの槍〟の名に泥を塗るなと、簡単に油断を見せるなと散々言われていたのを思い出し、すぐに表情を取り繕う。
「誰」
「通りすがりさ」
嘘だろ。
通りすがりで人の家に入る人はただの変人だ。もし通りすがりでも、不法侵入には変わりない。それは通りすがりでなくても同じ話だが。
「いやぁ、それにしても、この家に君みたいな可愛い女の子がいるなんてねえ」
「文句あっか」
「いや? 別にそういうことを言っているわけではないよ。ただ、やっぱり男ばかりの華のない家もつまらないだろうと思って来てやったんだけどねえ」
不法侵入しているところを見つかったのに、彼女は悠然に笑っているだけだ。名前を忘れた、白い花を愛でる彼女を見ていると、そのところだけ絵がはめ込まれている錯覚に陥る。
彼女の橙色の髪を見ながら、自分の腰まである銀髪をつまんでみた。彼女の髪は鮮やかで綺麗だが、自分の髪はまるで女の品の欠片もない。手入れなんてしてないし、手櫛で終わらせているためか、傷んでもいる。
「――――ねえ」
彼女が話しかけてきた。
「君は、今の生活に満足しているかい?」
なんとも言えない気持ちになった。
図星ではあるが、立場的にそれを悟られるようではいけない。だが、理解してくれるのではないかと言う期待も出てきて、これまで抑えてきた〝異常〟によるあの時の不気味な震えが出てきた。
(なんで分かったんだろ……)
自分が、未熟ゆえに悟られたのか。でも、目の前にいる彼女も、年齢はさほど変わりない。一つか二つ、下なだけだろう。
彼女は小池の傍に立つと、懐から小さな何かを出した。見えるが、小さくて捉えにくいそれを、理解するのには数秒かかった。
――――薄い青色の、ピアス。
空色にも似たその綺麗な色のピアスを、彼女は自分に投げた。勿体ないと思い、手を伸ばしてそれを受け取る。捨てるつもりだったのか、くれるつもりだったのか。
怪訝な表情で彼女を見ると、一言自分に言った後、その場からいなくなった。
突如現れ、突如いなくなった彼女が使ったのは、サイナーだったか。なんのサイナーだったか。空間変化。そこらへんだろう。瞬間移動が出来るのはかなり高位のサイナーだ。きっと性質も何か逃げるためのものか、怪我しても安心なものだったのだろう。
でなければ、人の家に堂々と入ってくるものだろうか。
ただ、最後の言葉は気になる。
耳について離れない、意味深な言葉。逃げるための策だったのかもしれないが、あんな下手な策を、彼女はしないだろう。不敵に笑っている彼女に、そんなのは似合わない。
――――それは、いつだろうか。
脳裏に刻んだ言葉に、心の中で悩んだ。そんな時は来るのだろか。
それを身に着けておきなさい。助けてほしかったら、強く念じて、握れるように。
彼女の言葉はじくじくと胸の中に侵入していき、馴染んでいく。彼女が愛でていた白い花は、見れば握りつぶされていた。
幼馴染に見つかる前に、その花を摘んでおく。原因を聞かれれば、下手に誤魔化しきれない相手だと分かっているから。
侵入者にうまく対応できなかったのと、彼女のことを心のどこかで秘密にしておきたいと思ったのもあった。それでも何より、ピアスを取られたくなかった。警戒心の強い彼なら、取ってから返してくれなくなるだろう。最悪、捨ててしまう。
空色のピアスを服のポケットに入れ、彼の声が聞こえた広場へ急いだ。




