スケープゴート
崩壊寸前の社会は「共通の敵」を無意識に求める。
集団のストレスの原因を、少数の人間に背負わせ、排除の儀式を行う。
供物としての「スケープゴート」の選定。
儀式によって、一時的なガス抜きが行われ、疑似的な平穏が訪れる。
あくまでも疑似的な、仮初めの。
実際は、誰も共同体に対する不満の声を上げられなくなっただけに過ぎない。
問題は何ひとつ解決されぬまま、また次なる犠牲の羊を探すこととなる。
初めは少数だった生贄も、段階を経て、数を増やす。
崩壊に近づけば、近づくほど、その数は雪だるま式に増えていく。
かつては、個人が持てる力も、たかが知れていた。
だが、今では、わずかな集団が世界の富の大半を握っている。
富は、力である。
しかし、過ぎたる富は、持つ者を不安にさせる。
近頃、世にいう選民層たちが、また狂いを見せ始めている。
器を超えた恐怖が、選別と排除の思考に至るまで、脳を焼く。
狂人は、他者を狂人と見做す。
自分こそが正常であるのだから「狂っているのは世界の方だ」と。
我々の多くは、第二次世界大戦の空気を知らない。
知る者も、せいぜい幼少期の終戦間際の風景だけだろう。
知らないものは、想像のなかの物語に過ぎない。
だから、一生そんなことは起こり得ない、と信じることもできる。
しかし、状況は非常にナーバスだ。
今は、それを可能とするだけの環境が、この国でも整いつつある。
主体的に、そのつもりはなくとも、巻き込まれるのは容易である。
それでも「巻き込まれただけだから、自分たちには責任はない」と、排除の対象とならなかった側は、口にする。
それを実際に口にできるだけの「人間性の欠落」の匂いは、すでにこの国の社会においても、漂い始めている。
社会のヒステリー化は、崩壊の序曲だ。
不満を持つ側は、常に加害者の側でいられると信じ込んでいる。
そんな精神状態の中、したたかな反撃を受ける。
すると、ヒステリーな集団は、あっさりと雪崩を起こす。
フラクタルなサンプルであれば、そこかしこで見ることが出来る。
炎上。そして、それを楽しむ「匿名の気狂いたち」の姿を。
狂人は、正義の仮面を被り、狂気を振りかざす。
正義という言葉自体が、そもそも狂気であるのに。
正義という言葉は、常に悪とセットである。
自らの正義を主張することにより、他者を悪へと落とし込む。
このような選別は、必ず他者に対する「悪意」から生まれる。
悪意が、膨張し続ける時代。
主体的に踊りたくないのであれば、正義にも、悪にも染まらぬことを心掛けるべきだろう。
踊れば、標的となる。
そんな時代と、なってしまった。
本来、楽観主義者ともいえる筆者であるが、
さすがにシャレにならない状況に、現在は映る。
アメリカとの適切な距離設定が出来ない政権・政党が、圧倒的な衆議院議席数を持ち、リーチのかかった状態。それでも有権者たちの判断は眠り続ける。まるで薬でも盛られているのかのように。




