36. グレイの変身
「グレイ!?」
私は急に倒れ込んだグレイの元へ、慌てて駆け寄った。
マリスの作ったポーションは失敗作だったのだろうか。
「ッ……ち、近寄るなっ!」
「きゃあっ」
グレイに凄まじく強い力で肩を押され、後ろに倒れ込む。
「なんで……あ!」
肩を押さえながらなんとか起き上がると、目の前のグレイに変化が起こっていた。
私は驚愕に目を見開いた。
なんとグレイの身体から、狼の毛が生え始めていたのだ。
更に手の形も、今や人の手よりも獣のそれに近い形に変化してきており、床には深々と鋭い爪が食い込んで作られた跡ができていた。
そして何よりグレイの身体から、うっすらと紫色のオーラが立ち上っている。
「そんな……瘴気!?」
思い当たる原因などひとつしか無い。マリスのポーションだ。
恐らくマリスは反省したフリをして、まんまとグレイに瘴気で汚染されたポーションを飲ませることに成功したのだ。
グレイのポーションは真っ赤だ……それこそ、血のように。
恐らく、魔術研究所で保管されている、瘴気に侵された魔物の血でも混入させていたのだろう。
私が迂闊だった……!
全身から汗が吹き出る。
このままだとグレイは、グレイが1番恐れていた、理性のない、人を理不尽に、無差別に襲い殺す魔物と成り果てる。
「グレイ、グレイ聞こえますか!?」
グレイは身体中から毛が生えていても、まだ身体の大部分と顔の辺りは人の形を保っている。
私はグレイの理性が残っていることに賭けた。
「う……」
グレイが小さく呻き声をあげた。
その目から、一筋透明な涙が溢れ落ちる。
「ティア……君を、君を傷つけたくない……」
グレイのか細い、震え声が聞こえた。
「頼むから、今すぐ逃げてくれ……」
ぎりり、と酷く不快な音を立ててグレイの爪が床を抉った。
「俺は……俺は、自分をこれ以上抑えられる自信がない……」
次第にグレイの喉が発する音が、人の声ではなく、狼や犬がが怯えている時に出すような、やや高めのクゥー……クゥー……という音に変わっていく。
私は覚悟を決めて……ガバリと腕捲りした。
私の素肌を見てグレイが身じろぎした。
今や人よりも狼に近いその大きな口から、とろりと透明な唾液が溢れ落ちる。
私はグレイに向かって力こぶを作ると、なるべく明るく、見せつけるように、大きな笑顔を作った。
「大丈夫!私を信じて、私のことを噛んでください!」
グレイの黄色い目が驚愕に見開かれ、その瞳孔がキュッと細まった。
何故、どうして。
言葉はなくとも、グレイの困惑と欲が肌に伝わってくる。
その顔は溢れ出る涙に、鼻水に、涎にとビチャビチャだ。
再びグレイの爪が不快な音を立てた。
グレイは、ブンブンと小さい子供がするようにイヤイヤと首を振ったが、意思に反してその口は少しずつ開いていき、中から白く鋭い歯を覗かせている。
「大丈夫ですから。ちゃんとポーションもありますし、遠慮なくがぶっといっちゃってください!」
私は震える身体に鞭打って、グレイの前に剥き出しの腕を差し出した。
グレイは極上の餌を目の前で出された狼のように、その目を歪ませる。しかし一度強く閉じ、次に開いた時には、僅かながらも、理性が再びその目には宿っていた。
「俺は……君を、信じる」
そう絞り出すと、グレイは私の腕に牙を突き立てた。
「あああああああああっ!」
覚悟していた以上の鋭い痛みに大声をあげる。
ただでさえ今も汗でびっしょり濡れているのに、更に全身から汗が吹き出してくるのが分かる。
私の破けた皮膚から血が溢れだし、噛まれた骨がミシリと軋んだ。
痛い痛い痛い痛い痛い
でも!!!
私は震える無傷の方の腕で、ガバリとグレイの身体を抱え込んで、精一杯抱きしめた。
「私の、血!血!飲んで!!!」
止めたいのに、泣きたくなんかないのに、目から涙がぼろぼろと零れ落ちるのを止められない。
出血が酷く、腕からどんどん感覚がなくなっていく、身体が冷えていく……。
ジュルリ、ジュッ……ゴクリ
やけにはっきりと、私の血を飲むグレイの喉の音が聞こえた。
目の前は、私から流れ出た血で真っ赤に染まっている。
きっとこれだけ飲めば、グレイは大丈夫……。
私はホッと安堵すると、目を閉じた。
――――――
「ティア!ティア!」
必死に叫ぶグレイの声に、私は薄く目を開けた。
一体どうしたのだろう、何故そんなに泣きそうな声で私を呼んでいるのだろう……そう考えて、ハッと先程の出来事を思い出す。
私はガバリと飛び起きた。
「グレイ!グレイ、理性は、理性は戻ってる?身体の調子は?痛いところとかない?」
グレイの頬を両手で挟み、その顔を覗き込む。
グレイは美しい人の顔に戻っていた。
パチリ、とグレイが面食らったようにゆっくりと瞬きした。
その顔が、ゆっくりと蕩けるように、今にも再び泣き出してしまいそうな,されど安堵を感じている笑みへと変化していく。
「俺よりも先に自分の心配しなよ……」
そう言って、グレイは私の肩に自分の額を乗せかけ、ピタリと止めた。
「あ、今ダメだ……」
見ればグレイの顔はびしょびしょのぐちゃぐちゃだ。それでもまだ美しいってどういうこと!?と怒ってしまいそうだが、恐らくグレイが気にしているのは自らの体液についてだろう。
私はふっと笑って片手を持ち上げると、グレイの涙を拭った。
グレイは驚きに目を見開き、私の方を見た。
「私にはグレイの体液は毒じゃないみたいです」
私はそう言いながら、ハンカチを探し、自分の血でずぶ濡れになっているのを発見し、結局袖でグレイの顔についた汗と涙と血、その他色々を拭っていく。
グレイは反省している大型犬のように大人しい。
じっと動きを止めたまま、信じられない、という顔で私を見続けている。
「グレイ、ポーション飲ませてくれたんですね」
グレイの顔を拭き終わり、今は洋服だけがぼろぼろな自分腕をふるふる振って動かしてみる。
全く痛くない。
さっきまで大怪我をしていたのが嘘のようだ。
グレイはハッと我にかえると、首を振った。
「当然のことをしたまでだ。それよりも、君の腕を思い切り噛んでしまった。本当に申し訳ない」
ガバリと頭を下げる。
「も、もしティアが嫌だというなら、もう近づかない」
頭を下げたまま、グレイは震える声で言った。
今度は私が目を見開いた。
「痛いし、こ、怖かっただろう……」
「そうですね!」
少し怒気を孕んだ声音で同意する。
グレイの肩がビクリと揺れた。
「……けど、グレイはそれでいいんですか?」
私はそっとグレイの手を取った。色々なことのあとに、離れるという選択肢を出してきたグレイに腹が立つ。
グレイが私の手をギュッと握り返してきた。
「俺は、ティアと離れなくない……」
「私もグレイと離れたくありません。なのでグレイが心配しなくとも、一緒にいます」
拗ねました!とツンとした表情でしっかり伝える。
グレイはせっかく拭いたのに、また泣き出しそうな顔で「すまなかった」と謝った。
この人は、自分の体液が毒だからという理由で必死で耐えてきただけで、もしかしたら素は泣き虫なのかもしれないな、と思う。
私はまだペタリと後頭部にくっついたままの狼耳があるグレイの後頭部を、優しく撫でた。
「そういえば、ティアの血で助けられた。ありがとう」
「ああ、効いて良かったです」
「その……以前俺以外の魔物に噛まれたことが?」
聞かれ、マリスのことを思い出し、沸々と怒りが湧いてくる。
しかし今はその怒りのことは置いておいて、グレイにきちんと説明した。
グレイが竜を倒しに行っている間にあった事故で瘴気に侵された魔物に噛まれたこと。そしてその時魔物が私の血で通常に戻ったこと。
「恐らく私の血の中に浄化の魔力が流れてるのだと思います」
水やポーションならぬ、浄化の魔力付与された血である。
「いや、血というか、私全部に流れてるのかな?」
私はハンカチを持ち上げた。
「だから、グレイに触れるし、グレイがまた瘴気に侵されちゃっても私は正気に戻してあげられます!」
グッと力こぶを作る。
グレイは顔を歪めるだけで、返事しない。
恐らくそうなった場合、また私を噛まなければいけないし、とか色々考えているのだろう。
「いいですかグレイ!」
私はガバリとグレイの顔を両手で包み込んだ。
そしてその額に自分の額を押し付ける。
至近距離で不安に揺れる黄色い目と、目が合った。
「私が共に在る限り、あなたは人として生きられる。人じゃなくなるなんて、私が許さない。
私と共に在る限り、あなたのことは必ず、私が人として歩かせて行きます」
「ティア……」
グレイの顔が私の間にあった僅かな隙間を、埋めた。
初めて口と口を合わせ、無我夢中でお互いを求め合う。
「ッ、俺から離れないで、好き、好きだティア」
グレイがぐりぐりと頭を押し付けてくる。
「大丈夫、ずっと一緒にいますよ」
この人、愛情表現が狼みたいだ。溢れてくる愛おしさを感じながら、私はグレイを抱きしめた。
「私もグレイが好きです」




