第8話 閉じた扉の前で
ベルトランが二度目の定期便で王都に来たのは、冬の終わりが近い頃だった。
豆の納品を済ませたあと、いつものように一杯飲んでいくかと思ったら、カウンターに肘をついて声を落とした。
「一つ、面白い話がある」
「面白い話」
「面白いというか——きな臭い話だ」
ベルトランはカヴァ・ノワールをひと口飲んで、カップを置いた。
「聖遺物の修繕費。知ってるか?」
「名前だけは。神殿が管理する聖遺物の維持費用ですよね」
「そうだ。聖女様が祭事で使う宝具やら祭壇やらの修繕に、毎年かなりの額が計上されている。——で、うちの商会はアマリージュ経由で宝石類の卸もやってるんだが」
ベルトランが指を一本立てた。
「修繕費に見合うだけの発注が、どの宝石商にも来ていない」
「……つまり」
「帳簿の上では金が出ている。だが、モノが動いていない。差額がどこに消えているのか、俺の知り合いの商人も首を傾げている」
聖遺物の修繕費。帳簿上は支出。実態は不明。
マリーが聞いた「帳簿の写し」「原本は神殿に」という断片と、繋がる。
「ベルトランさん、その情報はどこまで確かですか」
「商人の肌感覚だ。帳簿を見たわけじゃない。だから証拠にはならん」
証拠にはならない。肌感覚と噂では、何も動かせない。
必要なのは帳簿そのものだ。神殿の会計帳簿。聖遺物の修繕費の支出明細。それを見れば、数字が全部語ってくれる。
「……ありがとうございます。頭に入れておきます」
「深入りするなよ。相手は神殿だ」
ベルトランは立ち上がって、代金を置いた。
「あんたは商売人だ。商売人の仕事は、店を守ることだ。——忘れるなよ」
忘れない。忘れるつもりもない。
でも、店を守るためにこそ、あの帳簿が要る。噂を流され、審査をかけられ、これから先も何が来るかわからない。聖女の周辺が私を潰しにかかる理由の根っこを掴まなければ、守りようがない。
問題は——方法だ。
神殿の会計帳簿は、一般には非公開。閲覧できるのは神殿の上層部、王族、そして監査権限を持つ一部の公的機関。
私には、そのどれにも手が届かない。
午後の営業を終えて、帳簿をつけていた。
赤字はようやく消えかけている。先週、初めて一日の収支が黒字になった日があった。たった銅貨三枚の黒字だったけれど、帳簿に黒い数字を書き込んだ時の手応えは、まだ指に残っている。
客は増えた。常連のギュスターヴさん、ピエールさん、ジャンヌ夫人に加えて、大通りの仕立屋の弟子や、鍛冶屋の親方まで来るようになった。試飲で味を覚えた人たちが、少しずつ「自分の席」を見つけ始めている。
この店は、育っている。
——だからこそ、潰されるわけにはいかない。
帳簿から目を上げると、窓の外が暮れかけていた。最後の客が帰って、マリーを送り出して、一人の時間。
扉の鈴が鳴った。
閉店の札を出し忘れたか、と思って顔を上げた。
黒い軍服。長身。まっすぐな姿勢。
カシウス・ヴァランティーヌが、ノワールの入口に立っていた。
灰色の瞳が、店内をゆっくりと見回した。カウンター、椅子、窓際の席、壁の棚、そして——カウンターの端の水差しに活けられた白い花。
視線が、花のところで一瞬だけ止まった。
「いらっしゃいませ」
声が出た。震えていない。前の人生の接客経験に感謝する。
「……カヴァを」
三語。いや、助詞を入れて二語か。
「カヴァ・ノワールでよろしいですか」
小さく頷いた。
カップを淹れる。湯を注ぐ。布で濾す。手順はいつも通りだ。いつも通りなのに、背中に視線を感じるだけで、指先の温度が変わる。
——落ち着け。お客様だ。ただのお客様。
カップを窓際の席に運ぶ。カシウスは背筋を伸ばしたまま座っていて、席が小さく見えた。軍人の体格に、カフェの椅子は少し窮屈なのかもしれない。
カップを受け取る時、彼は両手で持った。
大きな手だった。剣を握るための手。その手が白磁のカップを壊さないように、少し指を浮かせている。
——不器用だ。
そう思ったら、少しだけおかしくて、少しだけ胸の奥が温かくなった。
カシウスがカヴァを一口飲んだ。眉は動かなかった。顔を歪めもしなかった。
「……苦いですか」
「いや」
一語。
それきり、沈黙が落ちた。
私はカウンターに戻って、洗い物を始めた。皿を洗う。カップを拭く。棚に戻す。いつもの閉店作業。
違うのは、窓際に人がいるということだけだ。
黙っている。二人とも。でも、不快ではなかった。沈黙が重くない。店の中にカヴァの香りが漂っていて、外の路地から夕暮れの生活音が聞こえていて、その中に彼の存在がある。
ただ、それだけのことが——不思議と、悪くなかった。
「繁盛しているか」
声が聞こえて、皿を拭く手が止まった。
振り向くと、カシウスはカップに視線を落としたまま、こちらを見ていなかった。
「……おかげさまで、少しずつ。先週初めて黒字の日がありました」
「そうか」
沈黙。
「帳簿の数字は正直です。赤字の時は正直に赤いし、黒字の時は正直に黒い。嘘をつかないから、信用できます」
何を言っているのだろう、私は。客に向かって帳簿の話をするカフェの店主がどこにいる。
けれど——カシウスの表情が、動いた。
動いた、と言っても、鉄の仮面にほんの小さなひびが入った程度だ。眉が微かに寄って、瞳の色が一段だけ深くなった。
何かに反応している。「帳簿」という言葉か、「嘘をつかない」という言葉か。
「……ああ」
一語。でも、さっきまでの一語とは響きが違った。相槌ではなく、同意のような。
この人も——帳簿の中に何かを探しているのだろうか。
それ以上は聞けなかった。聞く根拠がない。路地裏のカフェの店主が、近衛騎士団長に「あなたも帳簿を追っていますか」と聞ける道理はない。
カシウスがカップを置いた。空だった。全部飲んでくれた。
立ち上がる。椅子を静かに戻す。
「ごちそうさま」
——ごちそうさま。
この人の口から、その言葉が出るとは思わなかった。軍人の礼でもなく、貴族の社交辞令でもなく。ただの「ごちそうさま」。
「ありがとうございます」
カシウスが入口に向かう。扉に手をかける。
そして、振り向いた。
「近衛は年に一度、神殿の会計監査に立ち会う」
唐突だった。脈絡がなかった。私が帳簿の話をしたから——それだけが、繋がりといえば繋がりだった。
「次の監査は、来月だ」
それだけ言って、扉を開けた。鈴が鳴った。
「お待ちく——」
言いかけた時には、もう背中が路地に消えていた。軍靴の音が遠ざかる。
私は入口の前に立ったまま、数秒間、何も考えられなかった。
来月。神殿の会計監査。近衛が立ち会う。
それは——教えてくれたのか。手を貸すと言ったのか。
いや。彼は事実を述べただけだ。「手を貸す」とは一言も言っていない。制度の話をしただけ。独り言のように。
でも、あのタイミングで、あの話を。
扉を閉めようとして、カウンターに目が行った。
窓際の席に、代金が置かれている。銅貨。カヴァ・ノワール一杯分。
そして、銅貨の横に小さな紙片があった。
折り畳まれた紙を開く。
『傘の件、気にするな。』
筆跡は硬くて、几帳面だった。
——この字を、前にも見たことがある。
カウンターの端の水差しを見た。白い花。開店の翌朝に置かれていた、匿名の花束。あの時の紙片に書かれていた「開店おめでとう」の字。
似ている。
いや——同じだ。
花束を置いたのは、この人だったのか。
確信はない。筆跡が似ているだけだ。だけだけれど。
紙片を、帳簿の間に挟んだ。花束の時の紙片は——捨てずに取ってある。棚の奥に。あとで並べて見よう。
帳簿を閉じる。灯りを落とす。
二階に上がって、寝台に座った。
来月。監査。
そこに何があるのか。帳簿の中に、何が書かれているのか。
手を伸ばせば届くかもしれない場所に、証拠がある。
あの人が、扉を少しだけ開けてくれた。
——いや、違う。扉の場所を教えてくれただけだ。開けるのは、私だ。
目を閉じる。
指先が温かかった。カヴァを淹れた余熱か、それとも——。
「……気のせいだ」
三度目の、その言葉。
さすがにもう、自分でも信じていなかった。




