第4話 看板のない敵
開店から二週間が経った。
赤字は続いている。けれど、帳簿の数字は少しずつ変わり始めていた。
仕立屋の主人——ギュスターヴさんは、毎朝カヴァ・ノワールを一杯飲んでから仕事場に向かうようになった。「目が覚める」というのが理由らしい。隣の靴修理工のピエールさんは二日に一度。蜂蜜カヴァを頼んで、黙って飲んで、黙って帰る。
三人目の常連は、路地の奥で洗濯屋を営んでいるジャンヌ夫人だった。大柄で声が大きくて、初めて来た日に「あんた、こんな裏通りで商売する度胸だけは認めるよ」と言った人だ。
カヴァ・オ・レとマドレーヌを頼んで、四十分ほど座って帰る。休憩に使ってくれているらしい。
三人。たった三人の常連。
でも、「毎日来る一人」と「たまに来る十人」なら、商売を支えるのは前者だ。前の人生で、それは嫌というほど学んだ。
十四日目の朝、仕込みをしていると、店の扉の鈴が鳴った。
開店前だ。マリーかと思って振り向くと、見知らぬ男が立っていた。
中年。日に焼けた肌。旅慣れた革の上着に、大きな荷袋を二つ。目元に笑い皺が深く刻まれていて、人の良さそうな顔——だけど、目だけは商人の目をしている。値踏みする目。
「失礼。まだ開いていないかな?」
「あと三十分ほどで開店ですが」
「それなら待たせてもらおう。——いや、本題から入るべきか」
男は荷袋の一つを持ち上げて、カウンターの上にどさりと置いた。
「アマリージュ公国から来た。名はベルトラン。豆の卸をやっている」
——カヴァ豆の商人。
私は手を止めた。
カヴァ豆の仕入れは、今のところ綱渡りだった。アマリージュ産の豆は本来、家畜の飼料用として少量が流通しているだけで、飲用として扱う商人はほぼいない。学園時代は知人の伝手で個人輸入していたが、店を開けてからはその手も使えなくなっていた。
在庫はあと十日分。それを過ぎたら——考えたくないが、店を閉めるしかない。
「噂を聞いてね。王都の路地裏で、うちの豆を煎って飲み物にしている店があると」
ベルトランは荷袋の紐を解いて、中から豆を一掴み取り出した。深い緑色。まだ焙煎していない生豆だ。
「飼料用の豆をここまで化けさせるとは思わなかった。正直、興味がある」
「……卸の条件は」
「まあ座って話そう。一杯、飲ませてもらえるかな」
商談は三十分で終わった。
月に一度の定期便で生豆を卸す。最低発注量は五キロ。支払いは月末締め。価格は——飼料用としてはやや高いが、飲用の嗜好品として考えれば破格だった。
ベルトランはカヴァ・ノワールを飲みながら、一度だけ目を丸くした。
「苦いな」
「ええ」
「——悪くない苦さだ」
帰り際、彼は振り向いてこう言った。
「いい店だ。潰すなよ」
潰すつもりはない。——ただ、潰されそうになる予感は、少しだけあった。
異変に気づいたのは、その翌日だった。
朝、いつもの時間に店を開ける。ギュスターヴさんが来て、カヴァを飲んで、出ていく。そこまではいつも通り。
昼を過ぎても、それ以外の客が来なかった。
一人も。
前日は五人来ていた。その前日は四人。少しずつ増えていた客足が、急に止まった。
「……変ね」
カウンターの中で腕を組む。マリーが不安そうにこちらを見ている。
「お嬢さま、もしかして——」
「マリー、ちょっと外を見てきてくれる? 通りの様子を」
マリーが戻ってきたのは十分後だった。
顔が白い。
「お嬢さま。路地の入口の掲示板に——」
「何か貼ってあった?」
「いえ、貼ってはいないんですけど……通りで会った洗濯屋のおかみさんが教えてくれました。中間区の商人の間で噂が回っているそうです」
「どんな噂?」
マリーが唇を噛んだ。
「——『あの店の店主は、卒業式で断罪された悪役令嬢だ。貴族を追い出された危険な女が、平民の街で商売をしている』と」
静かに、息を吐いた。
来た。——来ると思っていた。
断罪は不発に終わった。冤罪は晴れた。けれど「断罪されそうになった悪役令嬢」という事実は残っている。それを使って噂を流せば、平民の間での信用など簡単に崩れる。
「……出所は?」
「わかりません。でも、最初に噂を聞いたのは魚屋のルネさんで、ルネさんに話したのは大通りの布地屋で、布地屋に話したのは——」
マリーが言いよどんだ。
「誰?」
「……見たことのない女性だそうです。上等な服を着た、金髪の」
上等な服。金髪。平民ではない。
頭の中で、可能性を一つずつ潰していく。私に悪意を持っていて、上等な服を着た金髪の女性。
聖女様の取り巻きか、侍女か。——あるいは、聖女様ご本人の指示か。
断罪が不発に終わった以上、聖女様にとって私は「冤罪を晴らされた被害者」になる。それは都合が悪い。私が公の場で声を上げる前に、社会的に潰しておきたい。そういう動きだろう。
「マリー」
「はい」
「今日中にやることが二つあるわ。一つ、噂に対して私たちからは何も言わない。否定も肯定もしない」
「え——でも」
「否定すれば『必死に隠そうとしている』と取られる。肯定すれば終わる。どちらも悪手よ」
マリーが黙った。
「二つ目。明日から、試飲を出す」
「試飲?」
「店の前に小さなテーブルを置いて、通りがかりの人に一口ずつカヴァを配る。無料で」
原価は痛い。でも、噂は「言葉」だ。言葉で覆せないなら、「体験」で上書きするしかない。
味を知ってもらえば、噂の色が変わる。「断罪された悪役令嬢の店」から「あの変わった飲み物の店」に。
一杯の味が、百の噂に勝つとは限らない。でも、少なくとも今の私が持っている武器の中で、これがいちばん確実だ。
「……お嬢さま」
「何?」
「噂を流した人を、探さなくていいんですか」
探す。見つける。証拠を集めて告発する。——それができれば一番早い。
でも今の私には、貴族の人脈も、王宮への伝手も、捜査権もない。路地裏のカフェの店主に過ぎない。使える武器は、カヴァの味と、帳簿の数字と、この店だけだ。
「いずれ向こうから尻尾を出すわ。焦る必要はない」
本当にそう信じているかと聞かれたら——七割くらいは、信じている。
残りの三割は、帳簿の赤字が埋めてくれるだろう。忙しければ不安を考える暇もない。
夕方。客はギュスターヴさんの朝の一杯だけだった。売上、銅貨八枚。
閉店後、帳簿をつける。赤い数字を見つめて、ペンを置いた。
窓の外を見る。
路地に陽は残っていない。薄暗い石畳に、街灯の火がぽつりと灯り始めている。
——と、視界の端を何かが横切った。
黒い軍服の背中。長身。まっすぐな姿勢で路地を歩いていく後ろ姿。
見覚えが——あるような、ないような。
一瞬で角を曲がって消えた。
巡回の騎士だろう。中間区には近衛が回る。それだけのことだ。
帳簿に目を戻す。
明日の仕込みは多めにしよう。試飲の分を合わせると、豆の消費が五割増える。ベルトランとの契約が間に合ってよかった。
カウンターの端に置いた水差しの中で、白い花——あの匿名の花束——がまだ枯れずにいる。誰が置いたのか、結局わからないままだ。
二階に上がって、寝台に腰を下ろす。
「味で黙らせる」と決めた。それは間違っていないと思う。
でも噂の出所が聖女様の周辺だとすれば、これは始まりに過ぎない。次は何が来るかわからない。
——考えても仕方がない。明日の焙煎に集中しよう。
そう思って目を閉じかけた時、マリーの声が階下から聞こえた。
帰ったはずだった。戻ってきたのか。
階段を降りると、マリーが入口の前に立っていた。靴を脱ぎかけた姿勢で固まっている。
「……マリー?」
「あ、お嬢さま——すみません、忘れ物を取りに戻ったんですけど」
「忘れ物?」
「いえ、その、忘れ物は見つかったんですけど——それとは別のことで」
マリーの顔が、昼間に噂を伝えた時とは違う色をしていた。昼間は不安だった。今は——逡巡している。何かを言うべきかどうか、迷っている顔。
「どうしたの」
「……あの噂を広めた女性の話なんですけど。金髪で上等な服を着た人」
「ええ」
マリーが、長い息を吐いた。
「私、あの人を知っているかもしれません。ブランシェ家にいた頃——聖女様のお部屋に出入りしていた侍女に、よく似た人が」
言葉が途切れた。
「——すみません。今はここまでしか。もう少し確かめてから、ちゃんとお話しします」
マリーの目は真剣だった。嘘ではないし、注目を引こうとしているわけでもない。本当に何かを知っていて、でもまだ確信がない。
「わかった。無理に思い出さなくていいわ。確かめてからで構わない」
マリーが頷いて、今度こそ帰っていった。
扉が閉まる。鈴が鳴る。
静かな店内で、私は腕を組んだ。
マリーが知っていること。聖女の侍女。ブランシェ家での記憶。
——繋がりかけている糸がある。今はまだ、引っ張れない。
水差しの白い花が、街灯の光を受けて揺れていた。
明日は、試飲の準備から始めよう。




