第3話 路地裏に灯をともす
石窯の煤を落とすのに三日かかった。
壁の漆喰を塗り直すのに二日。棚を磨いて、椅子の脚のがたつきを木片で直して、窓硝子の曇りを酢で拭いて——さらに二日。
十日間、朝から晩まで手を動かし続けて、元パン屋はようやく「人を迎えられる場所」の形になった。
開店初日の朝。鐘は三つ目がまだ鳴っていない。
私はカウンターの奥で、焙煎したカヴァ豆を銅のミルに入れて取っ手を回していた。乾いた音がして、深い茶色の粉が受け皿に落ちる。
この香りだけは、前の人生から変わらない。
苦くて、少し土の匂いがして、鼻の奥をくすぐるような。六年間、学園の自室でこっそり焙煎を繰り返した。最初は煙を出しすぎて寮監に叱られた。そこから百回以上は失敗している。
沸かした湯を細く注いで、布で濾す。黒に近い液体が白磁のカップに落ちていく。
一口。
「——うん。及第点」
窓の外はまだ薄暗い。中間区の路地に人通りはなく、遠くで荷馬車の轍の音がするだけだ。
看板は昨夜のうちに掛けた。黒い板に白い文字で一語。
ノワール。
カウンターに小さな黒板を立てる。本日のメニュー。カヴァ・ノワール、カヴァ・オ・レ、蜂蜜カヴァ。焼き菓子はガレットとマドレーヌの二種。
材料費と一杯あたりの原価は、帳簿にまとめてある。——六年分の焙煎ノートの最後のページに書き込んだ数字が、今日からようやく「計画」ではなく「実績」に変わる。
三つ目の鐘が鳴る。
開店の時間だ。
扉の鍵を開けて、一歩下がった。
——ここからは、お客様が来る場所になる。
しばらく誰も来なかった。
当たり前だ。路地裏の、看板も出したばかりの、何の店かもわからない場所に、朝一番で飛び込んでくる人間はそういない。
カウンターの中でカヴァを淹れ直しながら、窓の外を見る。通りを猫が横切っていった。それだけ。
——大丈夫。初日から客が押し寄せるほど、商売は甘くない。
そう自分に言い聞かせた三十分後、扉の鈴が鳴った。
「ノエルお嬢さま!」
息を切らせて飛び込んできたのは、栗色の三つ編みの娘だった。白い前掛けに旅装の上着。背中に布の荷袋。頬が真っ赤で、明らかに走ってきている。
マリーズ・デュヴァル。ブランシェ家で台所の下働きをしていた、私より二つ下の娘。
「……マリー?」
「お屋敷を出られたって聞いて、市民管理局に行かれたって聞いて、中間区の路地裏でお店を開くって——」
「落ち着いて。座りなさい」
「座りません!」
マリーは荷袋を床に落として、まっすぐ私を見た。目が潤んでいる。
「私も辞めてきました。ブランシェ家を」
「——は?」
「お嬢さまが一人でお店をなさるなら、私、手伝います。洗い物と仕込みならできます。接客は不慣れですけど覚えます。雇ってください」
雇う。
その言葉が、不思議に重かった。前の人生でも、今の人生でも、誰かを「雇う」側に立ったことがない。
「給金は最低賃金からよ。売上が安定するまで現物支給が混ざるかもしれない」
「構いません」
「朝は第二鐘に起きて仕込み。休みは七日に一日。まかないは出す」
「はい!」
——こうして「ノワール」は、店主一名、従業員一名の体制になった。
予定より一人多い。帳簿の人件費の欄を、頭の中で書き換える。
最初の客が来たのは、昼を過ぎてからだった。
向かいの仕立屋の主人と、隣の靴修理工。二人とも看板を見に来たというよりは、路地に漂う匂いに首を傾げてやってきた顔をしている。
「何だい、この匂い。薬でも煮てるのかい?」
「飲み物です。カヴァと申します」
カップを差し出す。仕立屋の主人は恐る恐る口をつけて、一口で顔を歪めた。
「にっが……!」
「蜂蜜を入れると飲みやすくなりますわ」
「いや——待て、もう一口……」
靴修理工の方は黙って飲み干して、カップをカウンターに置いた。
「変わった味だな。もう一杯」
——二杯目。「もう一杯」は、「また飲みたい」と同じだ。
カウンターの中で、そっと拳を握った。顔には出さない。
午後、ぽつぽつと客が来た。計五人。全員が中間区の職人か商人で、貴族は一人もいない。
上等だ。ここは路地裏の店で、社交界のサロンではない。
四人目の客にカヴァ・オ・レを出す時、受け皿を持つ手が滑った。カップが傾いて、卓上に茶色い輪染みが広がる。
「——っ、申し訳ございません」
「いいよいいよ。熱くなかったから」
客は笑ってくれた。マリーが奥から布巾を持って走ってきて、私より先にテーブルを拭いた。
「お嬢さま、大丈夫ですか」
「……ええ」
大丈夫、ではなかった。耳が熱い。前の人生では、こういう失敗をしても笑って流せた。何年も接客をしていたから。
でも今は——自分の店だ。自分の名前で開けた場所だ。受け皿ひとつで、こんなに悔しくなる。
夕刻。
陽が傾いて、路地に影が伸び始めた頃、カウンターの奥でカヴァ豆を量っていた。明日の仕込み分。マリーにはガレットの生地を任せている。
路地に足音が聞こえた。
硬い音。軍靴だ。一人分の、規則正しい歩調。
中間区は近衛騎士の巡回路に含まれている。通り過ぎるだけだろう。
——足音が、店の前で止まった。
数秒。
何の音もしない数秒。
それから、足音が再び動き出して、遠ざかっていった。
私は豆を量る手を止めなかった。止める理由がなかった。
閉店は夕暮れの鐘とともに。
マリーが帰ったあとの店内で、私は帳簿を開いた。
本日の売上。カヴァ・ノワール三杯、カヴァ・オ・レ二杯、蜂蜜カヴァ一杯。ガレット三枚、マドレーヌ二個。合計、銀貨一枚と銅貨十四枚。
仕入れと光熱費を引く。——赤字だ。
想定内、ではある。初日で黒字になるなら六年も準備しない。
帳簿の余白に、小さく書き添えた。
『初日。客五名。明日はもう一杯多く出す。』
ペンを置く。インクが乾くのを待ちながら、窓の外を見た。
路地に人影はない。屋根の隙間から、夕焼けの残りが細く見えた。その光がカウンターの白磁を染めて、一瞬だけ、店内が琥珀色になった。
——十日前、初めてこの扉を開けた時と同じ色だ。
疲れている。足が痛い。腰も。
でも、この疲れは誰かに強いられたものではない。自分で選んだ場所で、自分の判断で動いた一日の結果だ。
灯りを落として、二階に上がる。
寝台に腰を下ろした瞬間、不意に——あの夜のことが頭をよぎった。
壇上で書類を読み上げた、低い声。黒い髪。鉄みたいな表情。私の方を一度も見なかった人が、「困りましたわ」の一言で、ほんの一瞬だけこちらを見た。
カシウス・ヴァランティーヌ。
ゲームの中では、台詞が少なくて印象の薄い攻略対象だった。けれどあの夜の彼は——データでも立ち絵でもなく、確かにあの場に立っていた一人の人間だった。
なぜ、私の冤罪を晴らしたのか。
考えても答えは出ない。今の私に必要なのは、明日の焙煎の火加減の方だ。
目を閉じる。
路地裏のカフェの、最初の夜が更けていく。
* * *
翌朝。第二鐘で目を覚まして階下に降りると、店の入口の前に何かが置かれていた。
小さな花束。白い野花が数本、麻紐で丁寧に束ねてある。
添えられた紙片に、一言。
『開店おめでとう。』
署名はない。筆跡は硬くて、几帳面だった。
仕立屋の主人だろうか。靴修理工だろうか。
——それとも。
「……変なの」
花束を水差しに挿して、カウンターの端に置いた。白い花弁が朝の光を受けている。
それだけのことで、店が少しだけ明るく見えた。
さて。今日も焙煎から始めよう。




