第2話 円満退社と新しい朝
学園の寮で迎える、最後の朝だった。
窓の外は白み始めたばかりで、鐘はまだ五つしか鳴っていない。廊下に人の気配はなく、私の部屋だけが起きている。
昨夜の騒ぎが嘘みたいに、世界は静かだ。
荷造りは、ほとんど終わっている。
もともと寮に大した物は置いていなかった。六年間、持ち込むものは最小限にしてきた。いつでも出ていけるように。いつ断罪されてもいいように。
旅行鞄の中身を確認する。
替えの衣服が三着。洗面道具。筆記具。そして——机の二重底から取り出した封書と、教科書の間に挟んでいた小さな鍵。
封書の表書きには、「貴族籍離脱および市民権申請に関する宣言書」。
鍵は、中間区画の路地裏にある空き物件のもの。
どちらも、六年間ずっとここにあった。
署名と魔力印は、十八歳の誕生日の夜に済ませてある。あとは市民管理局の窓口に出すだけ。提出した瞬間に効力が生じる。家の同意は、要らない。
鞄の蓋を閉じて、部屋を見渡す。
六年間過ごした部屋。壁の染み一つまで覚えている。けれど、ここは「私の部屋」であって「私の場所」ではなかった。
——行こう。
寮を出ると、冬の朝の空気が肺の奥まで染み込んだ。息が白い。石畳はうっすらと霜が降りて、足元がきらきらしている。
市民管理局は王都の中心、商業区画の端にある石造りの役所だ。
早朝から開いていることは、下調べ済み。
受付の老年の職員に封書を渡すと、彼は中身を確認し、私の顔をちらりと見た。
「ブランシェ男爵家のご息女ですかな」
「はい」
「……自立宣言の提出は、ご本人の意思でよろしいか」
「はい。私の意思です」
職員はもう一度書類を見て、魔力印の照合装置に押し当てた。淡い光が一瞬灯って、消える。
「照合完了。受理いたしました。本日付けで貴族籍の離脱が成立し、王都市民権が付与されます。——なお、ブランシェ男爵家への通知は本局より三日以内に発送されますが」
「その前に、自分で伝えに参ります」
職員が少し驚いた顔をして、それからかすかに頷いた。
「そうですか。——どうぞ、お気をつけて」
その言葉に、不思議と胸が詰まった。
知らない人の、事務的だけれど嘘のない言葉。「気をつけて」と言ってもらえたのは、いつぶりだろう。
「ありがとうございます」
頭を下げて、管理局を出た。書類の控えを鞄にしまう指先が、かすかに震えていた。寒さのせいだと思いたい。
ブランシェ邸は、王都近郊の低い丘の上にある。
男爵家の屋敷としては標準的な——つまり、上位の貴族から見れば慎ましい佇まい。門柱の紋章だけが、かろうじて貴族の邸宅であることを主張している。
使用人に取り次ぎを頼むと、応接間に通された。
お父様とお母様が揃って待っていた。
昨夜の卒業パーティーの一件は、もう伝わっているはずだ。社交界の噂は速い。
「ノエル」
お父様の声は硬かった。椅子に深く腰掛け、組んだ手の指先が白い。
「とりあえず大人しくしていなさい。今は騒ぎが落ち着くのを待つ時だ。——次の縁談は、こちらで」
「お父様」
「聞きなさい。お前の名誉はまだ完全には——」
「自立宣言を提出しました。今朝、市民管理局で受理されています」
応接間の空気が、凍った。
お母様のティーカップが、受け皿の上で小さく鳴った。お父様の目が見開かれ、それから細くなる。
「——何を、言っている」
「本日付けで、私はブランシェ男爵家の籍を離れました。法的手続きは完了しています」
お父様が立ち上がった。椅子が軋む。
「馬鹿なことを。撤回しなさい。お前がいなくなれば、うちの直系は——」
「存じております。傍系に継承権が移ることも、調べてあります」
お父様の顔が赤くなった。怒りだ。けれどその怒りの中に、焦りが透けて見える。
家のために婚約させた娘。その婚約が崩れて、次の手を打とうとした矢先に——娘の方が先に手を打っていた。しかも六年も前から。
お母様が、声を絞り出すように言った。
「どうして……相談もなく……」
目元が赤い。涙が頬を伝っている。
あの涙が、娘を失う悲しみなのか、計画が狂った動揺なのか——正直、私にはわからなかった。どちらでもあるのかもしれない。
でも、今の私に、それを見極めている余裕はない。
「申し訳ございません、お母様」
頭を下げた。これは本心だった。
「お前は——」
お父様が何かを言いかけ、止まった。口を閉じて、長い沈黙の後、窓の外を見た。
「……勝手にしなさい」
突き放す声だった。
もう少し何か言われるかと思っていた。怒鳴られるか、泣きつかれるか。でも、お父様は最後に残った矜持でそれだけ言って、私から目を逸らした。
荷物を取りに二階の自室へ上がる。
幼い頃から使っていた部屋。ここもまた「私の部屋」であって「私の場所」ではなかった。
棚から下ろしたのは、焙煎記録ノートと、レシピ帳と、六年間貯めた小さな革の財布。それだけ。
——あと、一つ。
棚の奥に、丸い銀のブローチがあった。
十歳の誕生日に、お母様がくれたもの。小さな白い花の意匠。家の紋章ではない、ただの花。
手に取ろうとして、少し迷った。
これは「家のもの」だろうか。それとも「私のもの」だろうか。
階段の下から、お母様の声が聞こえた。小さくて、途切れ途切れだった。
「——あの銀のブローチ、持っていきなさい」
……私のもの、らしい。
ブローチを握って、階段を降りる。
玄関でお母様と目が合った。お父様はもう応接間に戻っている。
お母様は何も言わなかった。ただ、頷いた。
私も頷いた。
それだけが、十八年間のブランシェ家での、最後のやりとりだった。
夕暮れの鐘が鳴る頃、中間区画の路地裏に立っていた。
大通りから一本入った細い道。石畳は少しでこぼこで、壁には蔦が絡んでいる。通りに面した窓が二つ。木の扉。二階建て。
六年前に初めて見つけた時から、ここだと思っていた。
元はパン屋だったらしい。閉店して三年。家主は隣街に引っ越して、格安で貸しに出していた。下見は何度もした。間取りは頭に入っている。
ポケットから鍵を出す。
冬の空気で冷えた真鍮が、指に馴染む。
鍵穴に差し込んで——回す。
かちり、と小さな音がした。
扉を押し開けると、埃の匂いがした。
夕日が窓から差し込んで、室内を琥珀色に染めている。床は木張り。天井は高い。カウンターの痕跡が壁際に残っていて、奥には厨房につながる通路。
埃だらけ。蜘蛛の巣もある。壁の漆喰は一部剥がれている。
それでも。
窓からの光が床に四角い模様を作っていて、それがなんだか——ずっと昔に知っていた光景に似ていた。
思い出せない名前の店。思い出せない自分の名前。でも、カウンターの形と、午後の光の角度だけは、手が覚えている。
「——前の店より、広いじゃない」
声に出したら、おかしくて、少し泣きそうになった。
泣かなかった。代わりに、エプロンを——まだ持っていない。明日買おう。
鞄を床に置いて、窓を開ける。冬の風が埃を連れ出していく。
冷たい空気と一緒に、路地裏の生活音が聞こえてきた。遠くで子供が笑っている。どこかの家で夕食の支度が始まったらしい、鍋の音。
ここが、私の場所になる。
まだ何もない。テーブルもない、椅子もない、カヴァ豆もない。
でも、鍵はもう私の手の中にある。
明日から、始めよう。




